寝室での一コマ

 夕飯を取り風呂も済ませ、あとはやることやって眠るだけ。という状況で手を繋ぎながらいちゃいちゃしつつ桜庭の家の寝室のドアを慣れた手つきで開けたところ、二週間前まではなかったはずの見知らぬ機械がベッドのそばに鎮座していた。脳内が疑問符で埋め尽くされたまま桜庭を見ると、いっそ清々しいまでに得意げな顔をしている。
「なんだこれ」
「よくぞ聞いてくれた」
 もともとベッドサイドに置いてあったチェストの上に新しく備え付けられた黒い機械に手を置いて、桜庭は顔の通り得意げに話し始める。
「見ての通りコーヒーメーカーだ」
 やっぱりそうかと再度機械に視線を移す。メーカーや機種によって差はあれど、形状で察しはついていた。しかしこれが桜庭の家にあるのは正直不自然である。
「専用のカプセルを使うタイプのものだから、味は豆を挽いたものと比べるとどうしても劣りはする。だが彼にはそれを補うだけの素晴らさを兼ね備えている」
 機械の事を「彼」と擬人化して呼ぶあたり相当気に入っているのだろう。半月足らずで桜庭の心をそれほど掴むとは、機械の癖に随分と出来る奴だ。
「で? その素晴らしさってなんなんだよ」
「聞いて驚け、タイマー機能付きだ」
 ベッドの傍にタイマー機能付きコーヒーメーカ。なるほど、と納得せざるを得ない。寝起きの桜庭を知っている人間なら誰しも感動すら覚える代物だろう。
「夜の内にカプセルとカップを設置して時間を合わせておくだけで朝には軽快な音を鳴らしながらコーヒーを淹れてくれる。これはもはや僕のために開発されたといっても過言ではない」
 どう考えても過言であるが、朝の弱い桜庭にとっては本当に画期的に感じられるのだろう。いわゆる家電、それもキッチン用品ともなれば桜庭が詳しい知識を持っているとは到底思えない。どこで見つけたのかは知らないが、いつも通りクールな顔をしながら内心大喜びで持ち帰る姿を思わず想像してしまった。そして俺にこうも得意げに自慢するあたり、このコーヒーメーカーは相当桜庭の朝の手助けをしているのだろう。
 百歩譲って桜庭がコーヒーメーカーにご執心なことは許すとしよう。しかしこのタイミングで俺に得意げに自慢するのはいただけない。ここ二週間プライベートで会う機会は皆無だったのだ。久々に二人きりになれる今日を俺はそれなりに楽しみにしていた。言葉には出してくれないが、桜庭だって同じなはずだ。寝室のドアを開ける前まではいい感じだったじゃないか。ソファで隣に座る桜庭の洗いたての髪を撫でながら寝室へ促したら、珍しく照れ隠しの言葉すらなく素直に俺の手を握りながらついてきてくれたじゃないか。それなのにドアを開けた瞬間から甘い空気は見事に吹き飛んでしまった。さすがはコーヒーメーカーである。苦みを与えることと目を覚まさせることに関しては、こいつの右に出る者はいないだろう。
 機械相手に結構な怒りを覚えている俺になど気付きもしない桜庭は、慣れた手つきでチェストの引き出しを開けてカプセルを機械にはめ込んでからパネルを見つつボタンを操作している。指の動きに合わせて「ピッピッ」と鳴る機械音さえ癇に障る始末だ。やることやって眠るだけじゃなかったのか。その音は今本当に必要なのだろうか。
「と、まあこんな具合にセットをしておけば朝には淹れたてのコーヒーがベッドサイドに出来上がっているわけだが……」
 得意げだった桜庭の声が急にしぼんでいった。やっと俺の不機嫌具合に気づいてくれたのか。正直な話、相当可愛く謝ってもらわなくては許す気になれない。という事実を眼力のみで伝えるため、ベッドに腰かけた俺は下から桜庭を睨みつけたが、
「カップを忘れた。取ってくる」
 と言って桜庭はドアの向こうへ消えていった。眼力に込めた俺の想いは一ミクロンすら伝わることはなく寝室のドアに阻まれる結果となったのだ。

 自分の家のキッチンからカップを持ってくるのに時間がかかる人間はいない。桜庭はさっさと寝室まで戻ってきた。丁重にコーヒーメーカーの下の部分にカップを置いてから、俺の隣にやっと座った。
「こんな感じだ」
「……なるほどな。よく分かった」
 この機械の利便さ、そして桜庭の気に入り具合。どちらにしてもよく理解できた。
「ちょっと待ってろ」
 できた上で俺は立ち上がった。そして桜庭が持ってきたばかりのカップを手に取り、颯爽とキッチンへ向かう。普段ひとりで生活しているときに使う分には一向に構わない。しかし今日ばかりはこいつの出る幕ではない。
 勝手知ったるキッチンの食器棚に場所を迷うこともなく置き、そのまま寝室へと戻る。案の定ぽかんとした顔で突っ立っている桜庭の腕を思いっきり引き、上から俺が圧し掛かる形で二人してベッドに沈み込んだ。
「おまたせ」
「何をするんだ」
 おそらく二重の意味で言っているのだろう。桜庭の髪に顔をうずめて「うるせー」と反論すると、
「うるさくない」
 などとトゲトゲしい声が返ってくる。それを宥めるつもりでこめかみに小さく唇で触れる。
「べつにいいんだよ。便利だろうし、寝起きの状態で一から淹れるほど危なくないしな」
 耳元で囁いていた俺には桜庭の表情は見えない。勝手に怒ってないと判断して耳たぶの輪郭をそっと舐める。俺の肩近くの袖を掴んでいる手がぎゅっと握りしめらたのが、突っ張った服が伝えてくる。
「でも俺がいる日はやめろよ。俺の仕事なんだから」
 朝起きたら隣で桜庭が寝ているという事実が俺にとってどれだけ幸せな事なのか、桜庭にはきっと分からないのだろう。朝一番でその寝顔を眺めることが、二人分のコーヒーを入れることが、それを持っていく先が無防備に寝ている桜庭であることが、必死で手に入れた夢の続きのごとく温かで嬉しい現実だと、桜庭はいつ気が付いてくれるのだろうか。
 唇で触れる位置を首筋、鎖骨と徐々に下ろしていきながら、上まできっちり留まっているボタンを一つずつ外していく。服を掴んでいたはずの桜庭の手がいつのまにか俺の肩を押しているものの、とてもじゃないが成人男性一人を押しのけられる強さでは無い。
「機械に取られるなんて流石に許せないよな」
「なにも機械に嫉妬することないだろう」
 うるせーと再度言い返したくなったが、桜庭の声が予想外に楽しそうだったので止めた。代わりに顔をあげて桜庭の表情を見ようとしたところへ、肩口を押していた手がそっと俺の頬に触れてくる。桜庭の目はこんな色だっただろうか。少なくとも、「僕に構うなんて物好きな男だ」などとのたまっていたころはもう少し暗い色だった。事務所より寝室の方が余程暗いはずなのになあと考えながら、俺は吸いこまれるように顔を近づけながら目を瞑った。

 コーヒーの豊かな香りで目が覚めた。桜庭ではない。俺がコーヒーの香りで目が覚めたのだ。
「完全にやられた……」
 俺はベッドの上で上半身を起こして、チェストの上から床にかけて広がるこげ茶色の液体を睨みつけていた。タイマーをセットしてカップだけ片づけたらそうなるよなあ、と昨晩の己の頭の悪さに嫌気がさす。祈るような気持ちで寝具を引き寄せながらベッドの側面および床に接している部分を確認してみると、奇跡的に被害を免れていた。不幸中の幸いである。これなら桜庭が起き出す前に床とチェスト、そしてコーヒーの発生源である憎きあいつを拭くだけでなんとかなりそうだ。昨晩床に脱ぎ捨てたはずの衣服も無事だ。小さな机の上に綺麗に畳んで置いてある。俺が寝た後に桜庭がこっそりベッドから抜け出して畳んだのだろう。いつものことだから珍しい訳ではないが、今日ばかりは桜庭の几帳面さに全力で感謝したい。
 とりあえずこの後の行動を脳内でシミュレーションしてみる。コーヒーを踏まないように気をつけながらベッドから抜け出し、すこし肌寒いのでまずは畳まれた服を着る。そしてタオルでコーヒーを拭きとったのち、タオルに染みが出来ないように流水で洗って洗濯機に放り込む。この段取りを桜庭が起きないよう音を立てずに遂行すれば後はいつも通りにコーヒーを淹れてあげるのみである。こう考えるとそんなに難しいミッションでは無い。しかし朝から面倒だなと思いもう一度ベッドに沈み込むと、半分だけ開いた桜庭の瞳とばっちり目があった。思わず固まったが、桜庭だから大丈夫だと自分に言い聞かせてそっと頭を撫でる。
「もうちょっとだけ寝てていいぜ」
「……ん」
 一瞬の短い返事は一瞬で寝息へと変わっていった。ほっとしながら顔にかかっている髪を避けてやる。ずっとこうしていたいけれど背後のコーヒーが許してくれない。
「片づけるか」
 そう自分に言い聞かせてベッドから抜け出した。もう一度目を覚ました桜庭に、いつも通りの朝を迎えてもらうために。そして俺がいつも通り、幸せな朝を迎えるために。