泡沫人にあらず

 桜庭が唐突に、桜の木の間をすり抜けるように立ち去っていくのが見えた。特別目で追っていたつもりはない。しかし偶然目についたその姿に何故か俺は不安を覚えた。手に持った缶を置いて追いかける。ひしめくようにそびえ立っている桜の木の間を早足で進んでいく。
 この公園にこんな場所があっただろうか。人気の無さを不思議に思いながら桜庭を探していた。勘だけを頼りに周囲を見回しながら進むとやはり見覚えのない開けた場所に出た。その中央に堂々と座している桜の前に、探し人は立っていた。見惚れているのだろうか。上を向いているのが後ろ姿からもよく分かる。
「何やってんだよ」
 大きめの声で話しかけたが桜庭は振り向こうとしなかった。仕方がないので側へ向かって歩いていく。
「いきなり居なくなるなよ」
 背後まで近づいた。声と足音で分かるだろうに、やはり桜庭は振り向きもしなければ返事もしない。
  それでも不安は消えていた。姿が見えているおかげだろうか。吹き抜けていく風が冷たい。そろそろ帰るべきだろう。ひたすら桜を見上げている後ろ姿の桜庭を俺は抱きしめた。
「桜に攫われたかと思った」
「そんなわけないだろう」
 俺は驚いて反射的に振り返った。後ろから声が聞こえてきたからだ。俺の後ろに居た男は桜ばそっくりだった。いや、顔だけならどう見ても桜庭だった。しかし服装が違う。彼は桜の花びららしき模様をあしらった紺色の着物を着ていた。
「なぜ人など攫わなければいけないんだ。勝手に誘拐犯のように扱うな」
「……すみません」
 明らかに機嫌の悪そうな顔に、俺はとっさに謝ってしまった。
「近頃の男色のやつらはいつもそうだ。流行りなのか知らないが、不愉快だからやめてくれ」
「……はあ」
 俺の適当な相槌を受けながら、桜庭みたいな男はひたすらに愚痴らしきものを言い続ける。やれ死体を埋めるのはうんぬんだとか、こう見えて繊細だから扱いにはかんたらとか、その内容は酔っ払いの俺にはいまいちよく分からなかった。
「あの」
 眉間にシワを寄せたまま喋り続ける男を制止する。
「そもそもどちら様ですか」
「桜の精だ」
「さくらのせい」
 復唱してみたがいまいちピンとこない。せい、は妖精の精だろうか。桜にまつわる妖精的な何か、ということでいいのだろうか。なぜそれが桜庭そっくりなのか分からないが。
 そういえば桜庭本人はどうしたのだろう。一瞬振り返ったが大木の前には誰も居なかった。つまり桜庭が消えて代わりにこの男が現れたことになる。ということはもしやこいつは桜庭なのではないだろうか。理由はさっぱり分からないが、俺を驚かせるためのドッキリかも知れない。服装が変わったことについてはまあ、お得意の手品だろう。
 桜庭が大真面目に桜の精だと名乗ってなりきっている、と思ったらなんだか面白くなってきた。他人行儀ではなくいつもどおりに話したらボロが出るかも知れない。それならギャグかくだらないことがいいだろう。
「じゃあムーンナイトのせいもいるのか?」
「ムーンナイト? ……月のことか? もちろんいるぞ。あいつも君のような輩には怒っていた」
 不発だった。がっかりする俺のことなど気にもとめず、やれ覗き魔じゃなくてそっちが露出狂だとか言っている。仕方がないので俺はよくわからない話にひたすら相槌を続けることにした。

 どれだけ経ったか分からない。ひたすらに肯定の相槌をする俺に自称桜の精はひたすらに愚痴を言い続けた。コレが演技だとしたらとんでもない用意周到さだ。アドリブでこんなにもポンポンと桜視点の愚痴を喋り続けるのはどう考えても無理だろう。もしかしたらこいつは本当に桜庭とは別人なのかもしれない。吹き抜ける風が冷たくなってきたせいだろうか。そんな不安が俺の中に湧き上がってきた。まだまだ話し続けようとする男の言葉を俺は遮った。
「お前は桜の精なんだよな?」
「そうだ」
「じゃあ桜庭はどこに行ったんだよ」
「僕が来てすぐ、来た道を引き返していっただろう」
 見ていなかったのか? と男は平然と言った。嘘だ。こいつが出てきた瞬間、桜庭は消えるように居なくなったじゃないか。
 怪しんでいるのが顔に出たのだろう。男は眉間に皺を寄せた。
「何を考えているのか知らないが、僕が攫った訳ではないぞ。始めから言っているとおりにな」
 そう言い張る男の顔はやはり桜庭にしか見えなかった。
「なあ、なんでお前は桜庭にそっくりなんだ?」
「見た目の話か? 僕たちは特定の姿を持たない。見ている者が思う桜の精としての形を映すだけだ」
「じゃあ桜庭の体を乗っ取った、てわけでもないんだな」
「当たり前だろう。そもそも僕はあの男は好かない。気が強くて神経質そうだ。乗っ取る気も攫う気も起きない」
 桜庭の顔で桜庭のことをそう言っているのは見ていてなんだか面白い。そしてなぜかこいつが嘘をついているようには思えなくなってきた。俺がこいつと話している間に桜庭は帰ったのだろう。気がつけば先程から吹いている風は更に冷たさを増し、日は前よりも地面へと近づいている。恋人を放っておいて違う男とこんなに話し込んでいるわけにはいかない。
「悪いけど、俺はそろそろ帰るよ」
「……もう少しいればいい」
「いや、もう大分寒いし」
「……月の精にも合せてやる」
 星の精だっている。あいつは結構いいやつだ。と彼は続けて言った。星の話はぜひ聞いてみたい。そして何より、星の精がどんなふうに見えるのか興味がある。俺は一体、星の精に誰の姿を重ねるのだろうか。揺らぎそうになったが、彼がひどく寂しそうな顔をしていることに気がついてしまった。思わず一歩近づいて頭を撫でる。
「なんでそんな顔してるんだよ」
「夜は嫌いなんだ」
 素直に撫でられたままこいつは目を閉じた。
「夜は暗くて寒い」
「うん」
「それに太陽も眠ってしまう」
 まぶたがゆっくりと持ち上がった。その下から現れた水色と目が合う。男はまっすぐに俺を見据えてから、桜庭らしからぬ柔らかな表情を見せた。
「君は太陽の精に似ているな。もちろん姿カタチの話じゃない。在り方や存在のことだ」
 そう言って俺の手を握った。頭を撫でているのとは反対の手だ。
「お前は太陽が好きなのか」
「ああ。でもあいつは忙しいんだ。太陽を必要としている者はごまんといる」
 夕日はもう半分以上も沈んでいた。あんなにはっきりと見えていた桜の木も、空に近い先端部分は大分見辛くなってきている。夜桜で有名な公園のはずなのに、ライトはまだ点かないのだろうか。
「俺で良ければまた来てやるよ。それにお前だって人気者だろ? 桜目当てに皆集まってくるだろ。夜桜だって綺麗だし」
「それは今だけだ。花が散ったら誰も僕のことなんか気にしない」
 そんなことない、とは言えなかった。俺だってこの公園にはジョギングで何度か来たことあるが、春以外は桜の木など気にも止めたことがない。
「どうしても帰らなくてはいけないのか?」
「当たり前だろ。皆がいるし」
「皆って誰だ?」
「誰だ? って言われても」
 夕日は完全に沈んでしまった。明かりはまだ点かない。周囲の景色がよく見えない中で、目の前にある桜庭の顔だけがよく見えた。
「だって君は僕のことが好きだろう」
「……それは」
「だったら帰らないほうがいいんじゃないか?」
 握られている手にギュッと力を入れられる。確かに俺は桜庭が好きだ。
「だって君が戻ったところで、待っているのはいつもどおりの日常だろう」
 こいつの言うことは多分間違っていない。帰ったところで桜庭は心から俺を必要としてくれるわけじゃない。いつもどおり俺にだけキツく当たっていつもどおり仕事仲間として接してくるだけだ。
「僕と一緒に来てほしい。一緒に居てほしいんだ」
 いろんな人たちの顔を必死で思い浮かべようとしているのに全く出てこない。目を瞑っても、真っ直ぐにそう言い放った桜庭の顔が脳裏に焼き付いてしまっている。この桜庭となら一緒に居てとても幸せかもしれない。そもそも帰ったところで桜庭はそこに居るのだろうか。だって桜庭は今ここに居るじゃないか。
「……俺は」
 と言いかけたところで空が白み始める。地平線から太陽が顔を出したわけじゃない。もっとずっと上の方から少しずつ光が差し込んできている。
「時間切れか」
 桜庭は悲しそうな声でそういった。
「彼の器にぴったりだと思ったんだが」
 逆光で顔はよく見えなかった。でもなぜか、恐ろしく吊り上がった口角だけははっきりと見えてしまった。
「おい天道! いい加減にしろ!」
 眼の前には完全に怒っている桜庭の顔があった。その後ろにはたくさんの桜の花がある。さらに後ろには綺麗なオレンジ色の空があった。桜庭の髪が俺に向かってくるように変な方向へ垂れ下がっているのを見て、自分が寝そべっていることに気がついた。
「置いて行かれたくなければ今すぐ起きろ、この酔っぱらい」
 言われるがままに身を起こす。見回すと315プロダクションの仲間たちが片付けをしていた。桜の木の下に敷いていたシートの上にある重箱やら紙皿、缶やプラコップなどをまとめているようだ。
 今日は事務所が計画してくれた花見に参加していた、という事実を俺は今やっと思い出した。それだけじゃない。この公園にあんなに大きな桜の木は無いこと。ライトアップは日が沈む少し前から始まること。そしてなにより俺と桜庭は付き合ってもないから後ろから抱きしめたりしないこと。この矛盾の数々と先程までの自分の体勢を鑑みた結果、俺はやっと現状を把握することが出来た。
「めっちゃ怖い夢見た!」
「知るか、そんなものは」
 思わず叫ぶと周囲から笑い声が聞こえる。起こす役こそ桜庭に任せていたものの、俺を気にしてくれている人たちはちゃんといるのだ。それに対して桜庭の返事のなんと冷たいことか。
「お前はさ、もうちょっと俺に優しく出来ないのかよ」
「こうして起こしてやっているだろう。ありがたく思ってほしいくらいだが」
 俺の言う不満など気にも止めないらしい。
 桜庭はシートの上にある黒い物を掴んで「ほら」と渡してきた。俺が着てきたジャケットだった。
「なあ桜庭、急に俺が居なくなったらどうする?」
 ジャケットを羽織りながら試しに桜庭に聞いてみた。桜庭は一瞬顔を顰めたが、すぐに何かを考えるような表情になった。
「メンバーの失踪は活動に大きなダメージを与えるだろうな」
「うん」
「だから地の果てまで追いかけてやる」
 怖い顔でそう言って、桜庭は向こうのシートへ言ってしまった。そっち側ではまだ翼が片付けをしている。
「……だってさ。聞いてたか?」
 俺は背後の桜の木を振り返って言った。もちろん木は返事などしなかった。