白(R18 医者時代)

 夜の壁を沿うように桜庭薫は足を進める。長時間に渡る手術を終え一段落ついたと思ったところで、受け持ちの患者の容態が急変した。内科医との相談の上、明後日行う予定だった彼女の手術は一週間以降に延び、また桜庭の今日の就業時間も随分と延びてしまった。もとより体力に自信のない桜庭は家に帰るのを諦め仮眠室へと足を伸ばしたのだった。
 安眠の妨害を防ぐためできるだけ音を立てずにドアを開けると、ベッドに横になっている同僚が酷く驚いた顔をして桜庭の方へ振り向いた。
「すまない。起こしたか?」
「いや、まだ寝る前」
 桜庭が小声で話しかけたにも関わらず、彼は普通の声量で返事をした。
「桜庭はまだ仕事してたのか」
「まあな、今日は君しかいないのか。珍しいな」
「俺普段ここ使わないから珍しいとか言われても分かんないよ。むしろ普段の状況把握してる方が異常だと思うよ」
「そうかもな」
 桜庭はそう返事をしながら部屋の隅に壁に背をつけて設置された小さな冷蔵庫へと足を延ばす。
「ところで桜庭さあ、精液飲んだことある?」
 飲み物を取り出そうと少し屈んで冷蔵庫のドアに手をかけたところで、3,4メートルほど離れた背後のベッドから奇妙な疑問が投げかけられた。
「……あるわけないだろ。何の話だ」
 相手からの返事はなく、代わりに床に降りる音が聞こえてくる。不穏に思い振り返れば、同僚がゆっくりと桜庭の方へと近づいてきていた。肩のあたりまで持ち上げられた右手の指先には白色の液体が付着している。
「君は仮眠室で何をしてたんだ」
「いやあ、誰も来なかったからさ」
 悪びれる様子もないさわやかな声色といつもどおりのやさしい笑顔は、桜庭にはひどく不快かつ奇妙に映った。
「で、もう一回聞くけど」
 右手の指を練り合わせるように動かしながら、同僚はいつもの笑顔で桜庭に近づいていく。
「桜庭さあ、精液飲んだことある?」
 体が反射的に引き下がっていこうとするが、半歩下がった時点で冷蔵庫に阻まれてしまう。より距離を取ろうと左後ろへさらに下がるが、壁との距離があるはずもなく、部屋の角と冷蔵庫の間の1メートルほどの隙間に入り込む形になってしまう。逃げられない、と桜庭が思った時にはすでに同僚は目の前まで迫ってきていた。
「……何を考えているんだ」
 怯える桜庭を見ても同僚は眉一つ動かさず、さらに距離を詰めてくる。触れられる距離まで近づいた瞬間、左手が伸びてきた。思わず身を縮こませ目をつぶり、両手が顔をかばうように上がる。その両の手首を同僚は片手で力強く拘束してきた。
「やめろ、はなせ」
 恐怖からか、絞り出したような小さな声しか出てこない。
「飲んだことないんだよね? 味知らないんだよね?」
 言い終わると同時に足を払われ、尻餅をつく。壁に打った背が痛い。掴まれていた両腕は吊上がったが、ゆっくりと屈んでくる同僚と同じスピードで下がっていく。
「飲んでよ、俺の」
 座りこんだ桜庭を覆うように、膝をついた同僚の顔がぐっと近づいてくる。見知った顔が、まるで知らない人のように見えた。拘束された腕は力を込めているのに一向に外れる気配がない。
「口開けて」
 声を発するために唇を開くことすら怖ろしく、無言のまま顔をそむける。同僚はあからさまな溜息をついて、右手で桜庭の顎を上げた。驚いて同僚の顔を見るが、彼は真顔のまま親指で桜庭の唇になでるように精液を塗りつけた。独特のにおいが鼻をついてうめき声が漏れる。気持ちの悪い触感に、全身に鳥肌が立つのが分かった。唇の端から端まで塗り終わると、同僚は満足げな笑みを浮かべた。愛おしむような視線に吐き気がする。
「それ舐めて。舐めてくれたら終わりにするから」
 終わりにする、という言葉に桜庭は少し心が揺らぐが、口を開く気には到底なれない。しかし文句を言う気力も無く、震えたまま口を噤んでいるのが精一杯だった。
「頼むよ、ちゃんと終わりにするから」
 同僚は人差し指の甲で下唇を掬い上げるように拭い取り、そのまま口を割るように押し付ける。
「ちょっとだけでいいから。そしたら手も離すし、もう何にもしない」
 本当かと問いかけたいが、言うために口を開けばそのまま指を押し込まれるだろう。桜庭は悩んだ末、おそるおそる舌を伸ばした。触れた瞬間、口に広がる臭い胃酸込み上げてくる。粘膜で触れたことでより強く伝わる生温さが、これが体液である事を嫌という程伝えてくる。独特な触感は、唇に塗られたときとは比べ物にならないほどの恐怖と嫌悪感をもたらした。一瞬舌先で触れただけで、顔が歪み視界が潤む。これ以上は無理だと直感しすぐ舌を引っ込めた。
「もう無理?」
 目を瞑りながら小さく頷いた。濡れた上睫毛の根元が冷たい。幸いにも零れ落ちる程の涙はまだ目元に溜まっていなかった。
「そっか、ごめん」
 同僚は悲しそうに少し微笑むと拘束していた手をゆっくりと緩めた。その手で桜庭の髪を整えるようにそっと撫でる。
「本当にごめん。……おやすみ」
 それだけ言うと同僚は何事もなかったように背を向けて、ポケットティッシュで手を拭きながらベッドに向かい、そのまま潜り込んでしまった。膨らんだ掛け布団の中身は人形の方に動かなかった。
 仮眠室はいつも通り、冷蔵庫の小さな稼働音だけが鳴っている。部屋の片隅で震えている自分だけが、まるで異質なもののように思えた。