くだらない奇跡はいつだって人が引き起こす

 アイドルのバレンタイン関係の仕事なんてものは、バレンタイン当日より前にとっくに終わっている。ライブや生放送の番組に出るアイドル以外は、卒業や入学関係の仕事が混ざるアイドル活動に従事しながら、事務所に届くチョコレートをメインとしたたくさんの贈り物を待つだけとなる。
 そんなことは分かっていても世間様はバレンタイン一色で、その空気に当てられたのかなんなのか、ネット通販でちょっとお高いチョコレートをひたすら調べていたのが一週間前。自宅に届いたのが三日前。鞄に忍ばせて仕事へ向かったのが十時間前。番組スタッフから貰ったチョコが入っている紙袋へ、鞄から移し替えたのが六時間前。楽屋から翼と桜庭がいなくなった隙を見て、桜庭の鞄にねじ込んだのが三時間前。そして俺と翼が飯に誘ったにも関わらず、不機嫌オーラ全開で桜庭が帰っていったのは、今から二時間ほど前のことだ。

「薫さんめちゃくちゃ機嫌悪かったですね」
「言っておくけど今日は喧嘩してないぞ」
「じゃあなんであんなに怒ってたんですか?」
「さあ?」
 いつものファミレスで食後のコーヒーを啜りながら、翼と二人で時間を持て余していた。桜庭が機嫌を損ねた理由は本当に分かっていない。少なくとも朝の時点ではいつも通りだった。にも関わらず途中から、カメラの前では出さなかったが、唐突に眉間にシワを寄せ出し、驚く程に口数が減った。
「まあガキでもないんだし、単に機嫌が悪いだけなら首突っ込まなくてもいいと思うぜ。何日も引きずるようならあれだけどな」
「明日にはなおってるといいですねえ」
 そうつぶやきながら翼が翼が手元のスマートフォンを一瞬付ける。表示された時間は自分の想像していたものよりずっと遅い。
「そろそろ出るか?」
「あ、じゃあ俺トイレだけ行ってきます」
 翼が店の奥へ消えていったので、自分の携帯を探してカバンを漁る。翼にはああ言ったが、桜庭に一本くらい連絡を入れてもいいかも知れない。あいつは文句を我慢しないから、機嫌を損ねた理由はおそらく俺ではない。それでもせっかくのバレンタインが、不機嫌な恋人を黙って見送って終わり、なんて結末は余りにも寂しい。
「あれ?」
 鞄から先に見つけたのはスマートフォンよりも少し細長い、そして余りにも見覚えのあるものだった。よく知った包装紙に包まれた手のひらサイズの四角い箱。自分の鞄から出てきたそれは、俺が桜庭の鞄にねじ込んだチョコにそっくりだ。
 不審に思いながら包装紙を破れば、出てきたのはやっぱり同じ箱。蓋を開ければ、やっぱり俺が選んだはずの星型のチョコレートが三つ鎮座していた。
「戻された?」
 予想外のできごとにため息すら出てこない。固まることしかできない俺の頭上から、ふわついた声が降ってくる。
「お待たせしました! 事務所行きましょうか。チョコいっぱい来てますかね?」
 見上げた先の翼は随分嬉しそうで、多分コイツは今たらふく飯を食ったことなど忘れてしまっているのだろう。
「悪い、翼。俺明日取りに行くわ」
「え!? 輝さんチョコいらないんですか!?」
「明日行くって。ちょこっと用事ができた。チョコだけに」
「分かりました! 全部食べておきます!」
「だから明日行くってば!」
「冗談ですよ?」
「ホントかよ……」
 多分ダジャレがいけなかったのか、思わぬ反撃を喰らいながらファミレスを出てタクシーを捕まえる。向かう先をもちろん桜庭の家だ。せっかくのバレンタインが、不機嫌な恋人を黙って見送って終わりどころかチョコまで突っ返された、では余りにも寂しすぎるではないか。

 玄関のドアから顔をのぞかせた桜庭は帰り際の五割増しで不機嫌そうに見える。多分実際は三割増程度で、残り二割は怒りのせいで悪く捉えているのだろう。
「連絡もなしに突撃してくるな。常識ってものを考えろ」
「何回も電話したのに出なかったのはお前だろ」
「近所迷惑だからとりあえず入れ」
 背を向けて引っ込む桜庭について家に上がる。服装はいつもより簡素で、髪は目に見えて湿っている。風呂に入っていてタクシーからかけた俺の電話には気づいてすらいなかったのだろう。それでも出なかったことを攻めた先ほどの発言に対して、撤回して謝る気にはなれなかった。
 リビングに通されて、桜庭が俺より先にソファのど真ん中に足を組んで座り込む。茶の一つも出す気は無くて、隣に座られるのも嫌なようだ。その態度に余計苛立ちながら、俺も向かいのソファに座り込む。
「で、なんだ? 説教でもしに来たのか?」
「は? 説教?」
 予想外の言葉に出鼻を挫かれる。説教ってなんだ? 怒らせた自覚はあるみたいだが、ここで説教という言葉は違う。
「確かに軽率だったと思う。でも咎めるなら同じ行動で返すのはおかしいだろう。そもそもこうして訪ねてくるなら今返せばよかっただろう。君が何をしたいのかまったく理解できない」
 理解できないのは俺のほうだ。軽率だった、はチョコを突っ返したことだとしても、同じ行動で返すってなんだ。今返せばよかったってなにをだ。抱えていた怒りが宙吊りにされて、底からぽこぽこと疑問ばかりが湧いてくる。
「お前が何を言っているのかまったく理解できないんだけど」
「は?」
「突っ返したのはお前だろ?」
「僕が突っ返した? 何を?」
「そりゃチョコだろ」
「……君は何を言っているんだ」
 ずっと視線を逸らしていた桜庭の顔が、やっと俺のほうを向く。その表情は怒っているような、困惑しているような、はたまた軽蔑しているような、端的に言えば「なんだこいつは」とでも言いたげな顔をしていた。
「突っ返したのは君の方だろう」
 ぽつりと桜庭が呟いたが、やっぱり意味が分からない。そもそも言葉の抜けが多すぎる。こいつは俺に伝える気が無いのではないかとさえ思えてきた。しかし伝えてもらわなくては始まらない。とにかく足りない部分を補うように湧いてきた疑問をそのままぶつける。
「俺が? 何を?」
「だからチョコをだ」
 どうやら俺はチョコを突っ返したらしい。
「……チョコを? 俺が? 誰に?」
「だから僕に!」
 ということはつまり、俺が桜庭にチョコを突っ返したから桜庭は怒っている、という訳だ。
「なんで!?」
「なんでってなんだ!!」
「そもそも貰ってねーよ!!」
「渡しただろう! それを君が突っ返したんじゃないか!」
「だから突っ返してないって……」
 あまりに理解できないせいで怒りがどんどんしぼんでいく。怒鳴り合いは想定していたが、まさか謎解きをする羽目になるとは思わなかった。バカみたいに大きなため息をつきながら自分の髪を掻き回す。
「とりあえずお前の言い分は、俺にチョコを渡したのに突っ返されて怒ってる、ってことでいいんだよな?」
「だからそう言っているだろう」
「いつ渡した?」
「撮影の合間に君の鞄に入れた」
「なんで突っ返されたと思った?」
「撮影が終わったあとに僕の鞄に戻ってたから」
「……なんで今俺がお前の部屋に押しかけてきたと思ってる?」
「誰かに知られる可能性がある渡し方をしたことを咎めるため、だと思っているが……。そのことについて怒るなら、同じ方法で返してきた意味が分からないし、そもそもこの場でチョコを返せばよかったのではないかと思う。このあたりがイマイチ理解できていない」
 鞄に入れたチョコが自分の元に戻されたから怒っている。これはまったく自分と同じ理由だ。なぜか俺がしたはずのことが、桜庭の中で桜庭がしたことになっている。後半はまあ、桜庭の推測に過ぎないし、そもそも理由からして間違っているから理解できなくて当たり前だ。
「俺がお前の渡し方を咎めに来たわけでも説教しに来たわけでもないぜ」
「じゃあ何をしに来たんだ」
「お前の鞄に入れたチョコが、帰りには俺の鞄に入ってたから突っ返されたと思って怒りに来た」
「やはり意味が分からない」
「俺も分からない。でも俺はお前からチョコを貰ってないし、突っ返してもいない。これだけは確かだ」
 俺がそう言い切ると、桜庭はため息をついてソファの脇に置いてある鞄を手に取る。それは間違いなく今日桜庭が使っていたものだ。
「じゃあこの鞄に入っているチョコは何なんだ」
 桜庭が鞄から取り出してローテーブルに小さな箱を置く。その箱は間違いなく、ファミレスを出る瞬間まで俺の鞄に入っていたものだ。
「えっ!? なんで!?」
 驚いて自分の鞄を漁る。中で見つけたのは台本、携帯、スケジュール帳、その他諸々、そしてやっぱり机に置かれているものと同じ、小さな箱だった。
「……やっと分かった」
 すれ違いの原因はあまりに単純で、だけと確率的には奇跡に少し近い。
「お前の鞄に入ってたのは、俺がお前にあげたやつだよ」
 俺がローテーブルの箱を指差して伝えると、やはり桜庭は怪訝な顔をする。
「では僕が君にあげたやつは?」
「それは俺の鞄に入ってる」
 そっと小箱を鞄から取り出して机に置く。色も形もデザインも、まったく同じものが二つ、机の上に存在している。
「包装まで同じだったんだが」
「通販限定の包のやつだろ?」
「サイズ展開も豊富だったぞ」
「あんまり大きいと気合入ってるみたいで恥ずかしいよな」
「チョコの形も四種ほどあったが……。まあ、そこは被っても可笑しくないな」
「星だよなあ、三つ入りだし」
 バカみたいなことに、買ったチョコが偶然同じで、渡し方も偶然同じだった。そのせいで相手からもらったものを、自分が渡したものを突っ返されたと勘違いした。ただそれだけの話。
「被るか? 普通」
「被らないだろうな、普通は」
 怒り損だと分かった途端に一気に疲れが襲ってくる。こんなに疲れたバレンタインは生まれて初めてかも知れない。とりあえず目の前のチョコに手を伸ばす。疲れた時には糖分だと、目の前の男から嫌というほど聞かされたせいだ。口に含んで噛み砕いた瞬間、広がる豊かな香りと甘さ控えめの上品な味が、桜庭が選びそうなチョコではある。視界に入った壁掛時計に視線を移せば、示された時間は自分の想像していたものよりずっと遅い。
「……風呂借りていい?」
「……勝手にしろ」
 終わりよければなんとや。余りにも寂しいバレンタインは残り一時間と少しを残してその姿を消した。結局この場に残っているのは上機嫌な俺と、顔を覆った手にも隠れず赤い耳をチラつかせている桜庭だけだ。
 アイドルのバレンタイン関係の仕事なんてものは、バレンタイン当日より前にとっくに終わっている。だけど恋人のバレンタインは、あと一時間以上も残っていた。