ここだろうと思ってた

 形に残るものがいい、という発想は俺のエゴだと理解している。それでも恋心を自覚してしまった今、日用品でも無く消耗品でも無いものを誕生日に贈りたいと思うのは人として当然の欲求だろう。
 ならば本はどうだろうか。二か月前に浮かんでしまったその発想がまさかこんなに自分を苦しめるとは思ってもみなかった。
 先月、桜庭の家へ初めて訪れたことが原因である。そこに置かれた本が想像以上に少なかったからだ。本棚は二つしか置かれておらず、一つは関わった映像作品の原作や桜庭自身が出た雑誌などが納められていた。仕事に関係の無い本の置き場はもう一つの本棚のみだった。綺麗に並べられた本は目に見えて古いものが半分以上を占めている。桜庭が空き時間に読んでいる本は新刊が多い上にしょっちゅう変わる印象だっただけに、これはマズイかも知れないと本棚の前で思ってしまった。しかし決まった訳では無いだろうと望みを託して桜庭に話しかけてみる。
「意外と少ないんだな」
「気に入ったものしか残さないからな」
「これで全部か?」
 何度も読み返したいものはベッドサイドに少し置いてあるが、と前置きした上で「ほぼ全部だな」と返事が返ってくる。
 ですよねーと心の中で溜息をつく。見た時点で察しがついていたが、はっきり言われるといっそ清々しい。もしかしたら「寝室に五倍くらい置いてある」とか言ってくれないだろうか、という俺の期待は数秒で崩れ去った。
 桜庭の家を出てからは案の定プレゼントのことばかり考えていた。本はやめたほうがいいかも知れないと思う傍ら、いや、きちんと気にいるものを選べば問題ないだろうとも思う。しかし桜庭は贈り物を無下にする人間でもない。たとえ気に入らなくても捨てたりはしないだろう。そう考えると、あの手のタイプに気に入らない本を本棚に並べさせることになる。それはそれで申し訳ない。でも本なら俺が選んだものに何時間も向き合ってもらえる。それは間違いなく魅力的なことだ。
 結局その日のうちに答えは出ず、いっそ物の検討をつけてから再度悩もうと決めた。そしてスケジュールに空きができた今日、本屋へ赴いたのだった。

 闇雲に探すわけではない。本屋へ来る前に脳内会議は済ませてきた。まず本の種類だが、ほぼ小説で決め打っていいだろう。エッセイや実用書も面白いものは沢山あるが、プレゼントならば読後感が良い素敵なフィクションがいい。そして中身も知らずに贈るわけにはいかないので俺の読んだことがある本に限定される。話題になった本や名作、定番の本はすでに読んでいる可能性が高いのでこれも除外する。そして桜庭の本棚には英語で書かれている本も差してあった。原文で読みたい派の可能性を考慮して、翻訳物も避けるべきだろう。
 という訳で今回探す本は、俺が読んだことのある有名過ぎないハッピーエンドの日本人著者フィクション小説かつ桜庭の好みに合うものだ。ならば向かう先は一択、日本人著者の既刊が差してある棚だろう。
 本屋の真ん中から奥に掛けての棚を順番に見ていく。
 この本は読んでそう、これは好きだけど最後が切なすぎる、この本続きがあったのか等々背表紙を眺めるだけで色々な思考が浮かんでくる。最後に至っては思わず棚から抜いてしまったが、目的を思い出して開かずに戻した。プレゼントが決まったら自分用に一緒に買って帰ろうと脳内にメモを残して再度背表紙を流し見していく。開いては閉じ、立ち止まっては首を振り、二回半ほど往復したところで溜息をついて首を回した。ま行からわ行の作家の棚の向かい側、壁に備え付けられた棚には大判の本が収められていた。
 写真集か、と棚全体を見回す。右から順に人物、動物、建造物、風景。真っ先に風景のへ行って背表紙から夜空の文字を探してしまう。小説ほど好き嫌いもはっきり別れず華やかだし、何度見ても楽しいものだ。時間がない時でもパラパラと捲って楽しめる。これもありだなと思って棚の前をウロウロしていると今度はとなりの絵本の棚が目に入った。平積みにされた絵本の表紙はコミカルなアニメ調のものから色彩豊かで細やかなもの、そして俺が小さな頃からある懐かしいものまで様々だ。
 一つ手にとって捲ってみる。暖かい絵がどのページにも広がっており、添えられた文章はやっぱり優しい。知らない本でも中身をこの場で簡単に吟味できる。難易度は少し高い気がするがうまく選べばこれもありだ。
 脳内会議の結果から見事に脱線してきているが、この選択肢の広がり方は悪いものではない気がする。いっそさらに拡大してみようとおもいたって周りを見渡す。絵本コーナーの先は児童書、さらにその先は学習ドリルだ。
 児童書の棚の前に立ちざっと見回す。児童書コーナーなんて覗くのは何年振りだろうか。懐かしさのあまり知っているタイトルを見つけてはそっと引き抜く。表紙が全く知らない絵に変わっていて驚いたり、こんなにひらがなばかりだっただろうかと首をひねったりを繰り返していると、上から四段目で「あっ」と小さく声を上げてしまった。
 引き抜いて表紙を見る。三頭身の可愛らしいキャラクターは当時と変わっていなかった。たしか読書感想文用に一巻を図書館で適当に借りたのがきっかけだったはずだ。俺に読書の楽しさを教えてくれた最初の本だ。中を開いて文字を追っていくうちに、圧縮されていた記憶がほどけていくのを感じる。あれは何巻だっただろうか。戻しては次を手に取り、また戻しては手に取って開く。そしてまた戻して手に取り開いたところでこれだと分かる。この四巻を読んだ後、どうしても手元に欲しくなって親に全巻ねだったのだ。小学四年生のクリスマスの朝に届いた全十六巻は結局冬休み中にほぼ全てを読み切った。当時外で遊んでばかりだった俺が珍しく家に引きこもった長期休みだった。
 思い出してすぐ、これにしようと思った。すぐに四巻を閉じて左手に持ち、右手で一巻から三、四冊づつ引き抜いていく。全十六冊を抱えたところで別の問題が浮上した。
 重いのである。
 勿論物理的な意味だ。いや、心理的な意味でも十六冊は重いかもしれない。かといって一巻だけという選択肢は無い。最低でも四巻までは読んでほしい。しかしシリーズものなのに途中までというのもどうなのか。
 本を抱えたまま考え込んでいると後ろから声がした。
「お持ちしましょうか?」
 大き過ぎず、でも聞き取とれる音量で男性が微笑み掛けてくる。エプロンには本屋のロゴが印字されていた。一瞬の間を置いて「お願いします」と言ってしまった。
「まだ店内をご覧になりますか?」
「……はい」
「ではレジでお預かりしておきますね」
 まあプレゼントは別にして、児童書は自分用にする手もある、と数秒悩んだ。悩んだ結果レジへ向かう男性を呼び止めた。
「プレゼント用なんですけど、まとめて包んでもらえますか」
 男性は少し驚いた顔をしたが、すぐに「かしこまりました」と言って笑顔に戻った。

 サプライズパーティには他ユニットのアイドル達も参加してくれた。
「どうせ今年もやるんでしょ?」と事前に聞いてきた人たちに至ってはプレゼントまで用意してくれていた。仕事が終わってから駆けつけてくれる人もおり、自分のことじゃ無いのにとても嬉しかった。
 ファンからもプレゼントや手紙がダンボール単位で事務所に届いている。パーティが始まるより早くプロデューサーと賢が仕分けしてくれていた。
 予想以上に賑やかに終わったパーティの後片付けを俺と翼がしている傍らで、桜庭はプレゼントの整理をしていた。ファンから貰ったプレゼントは日を分けて持ち帰るらしい。大きな紙袋を賢から貰って、届いたファンレターとアイドルからのプレゼントを二袋分詰め終わったところで、桜庭はアルコールで少し赤い顔を傾げて顰めていた。目線の先には勿論俺が渡したプレゼントがある。
 本屋の帰りも、今日事務所に持って来るときも、正直やっぱり重いなと思った。他のプレゼントと一緒に持って帰るとするとかなりの重労働だろう。ごめんと心の中で謝っていると桜庭が唐突にこちらを振り返った。
「天道。君、明日オフだろう」
「そうだけど」
「持て」
 言うと同時に俺のプレゼントを指差した。
 驚きと、明日の予定の脳内検索に数秒を要したのち「よろこんで」と返事をした。好きな人の誕生日の夜に二人きりの時間が貰えるのだ。断る男がどこにいる。

 ローテーブルに本を置いてソファに沈み込んだ瞬間に瞼が落ちそうになる。
 朝一で事務所にプレゼントを運んで昼の生放送番組のためにテレビ局へ。無事に仕事をこなしたらダッシュで事務所へ戻り、翼と一緒にパーティの準備。開始の音頭を取った後は絡まれている主役の桜庭を眺めながらゆっくりしようと思ったら俺まで巻き込まれて一緒にはしゃぎ、解散後に片づけを済ませて荷物持ち。
 思い返すと結構ハードな一日だった。
「泊まってもいいからシャワーくらい浴びろ」
 ソファに沈み込んだままうんともおうともつかない返事をする。
 誕生日の夜にお泊まりなんて彼氏みたいだなあと至極勝手なことを思う。もちろん彼氏みたいなことは出来ないのだけれども。
「おい、天道」
 顔を覗き込んできた桜庭に「ん、浴びる。ちゃんと浴びるよ」と返事をして立ちあがった。

 シャワーを浴びて風呂場から出ると、脱衣所に質のよさそうなパジャマが綺麗に畳んで置かれていた。パンツは未開封の新品だった。さらに一緒に置かれていたバスタオルも借りて着替える。
 洗面台の前でドライヤーを探すも見つからない。桜庭に聞くのが手っ取り早いだろうと居間へ向かった。
 扉を開けるとローテーブルに積まれた本の青い背表紙が目に入った。すぐ横のソファでは桜庭が一冊開いている。
 本を読んでいる顔は決してつまらなそうではないが、何故か手放しで楽しそうとは言い難い。物語を楽しむ以外の感情、それも悲しさや寂しさのようなものが混ざっているように見える。
「桜庭」
 声をかけても返事はなかった。ソファの傍まで行って少ししゃがみながらもう一度呼ぶ。桜庭はハッとした表情で顔を上げた。
「気に入らなかったか?」
「そんなことはない。……ただ」
 俺の言葉にまるで条件反射のように即答する。しかしそこから続く言葉は何故か詰まったように目を伏せる。
「ただ?」
「なつかしいと思っただけだ」
 そう呟いて桜庭は本を閉じた。そのまま表紙をそっと撫でる。
「姉さんが入院していたフロアの小さな歓談ラウンジに置いてあったんだ。姉さんが眠っているときや診察中はいつもこの本を読んでいた。他は大人向けの本や雑誌ばかりだったからな」
 はにかむように、懐かしむように言う桜庭へ何と返事をすればいいのか分からなかった。ただ、桜庭と本の邪魔だけはしたくなかった。
 俺の顔を見た桜庭は小さくこほんと咳払いをしてローテーブルへ目線をやる。
「まあ、あそこには一巻しか無かったが」
 気を使わせてしまったことを感じながらも、「四巻が最高なんだよ」と話へ乗る。
「小四の俺はすすり泣いてな。飯だって親が読んでるのに恥ずかしくて部屋から出られなかったんだ」
「そうか」と呟いて桜庭は小さく笑う。
「なら四巻は移動中に読まない方がいいな」
「メイクさんに怒られるからな」
 気が緩んだらしい桜庭はいつになく柔らかい雰囲気のまま、手に持った本をローテーブルへ置いた。
「僕もシャワー浴びてくる」
 立ち上がった桜庭におうと声をかけて数秒後にくしゃみが出た。ああ、ドライヤーと思ったときにはもう家主は居間にいなかった。

 この誕生日を境に俺は桜庭の家に行くことが多くなった。
 そのたびに本棚にちらりと目をやるが、桜庭が読みさしを鞄へ入れている間は勿論、移動中の本が別のものへ変わった後も、本棚へ十六冊がきれいに並ぶ日は来なかった。
 足らない一巻と四巻の行方を俺が知ったのはあの誕生日から一年半後、一糸纏わぬ姿のままベッドで眠る恋人の頭を撫でているときだった。