それは病弱で美しい少女だったはずだ

 天道は顔を顰めた。それは窓から差し込む西日のせいでもあり、隣に座る桜庭のせいでもある。見るからに噛み締めた口から数秒前に発せられた言葉はあまりにも恐ろしいものだった。沈黙を破ろうと口を開いても何の音も紡げない。それどころか息が漏れていくばかりで、吸うことすらままならない。しかし天道以上に、桜庭の顔は苦悶の表情を浮かべていた。
 桜庭は天道に厳しかった。褒めることは滅多にせず、非難の声は人一倍多かった。プライベートでは自らかかわろうともせず、電話やメールも仕事関係で最低限の往復をするのみだった。
 それでもレッスンや仕事を通じて作り上げていたつもりの二人の関係は全く形を成していなかったらしい。天道が仲間として見つめていたとき、桜庭の胸にあったのは愚かな愛情だったらしい。天道が仲間として肩を抱いていたとき、桜庭の胸にあったのは醜い劣情だったらしい。天道が数年間渡し続けた信頼と愛情は桜庭が欲しかったものとは全く異なるものであり、また天道が数年間受け取り続けていた桜庭からの感情は、勝手に想像していたものとは全く別のものだった。天道だけが一方的にそれを知らず、切磋琢磨しあえる信頼のおける仲間だと勘違いし続けていた。愚かで醜いのはどちらの方なのか、天道には分からなかった。
 窓の外で西日に照らされた木が揺れる。薄紅色の花はとっくに散り、青々と茂って風に身を任せていた。桜の季節はとっくに終わりを告げている。背後から西日に照らされた桜庭の姿はあまりにも痛々しかった。天道が恐るおそる桜庭の手を掴む。桜庭の手は五月とは思えないほど冷たかった。
「……やめろ」
 桜庭から零れる声も、手と同じほど冷たい。天道は引いてもびくともしない腕に小さくため息をついた。桜庭は一向に顔を上げない。天道は諦めるようにもう一度息を吐くと、凭れかかるように桜庭を抱きしめた。
「……たのむからやめてくれ」
 水に落とせば一瞬で消え入りそうなほど桜庭の声は小さく震えていた。天道は桜庭のような劣情も感情も持ち合わせていない。思いを伝えられた今でも、湧きあがってくる気配は無い。
「だって、こうしないとかわいそうだろ」
 あれは病弱で美しい少女だったはずだ。頬に触れる髪はかたく、握った手は筋張り、肩から背中へまわした天道の腕から柔らかな感触が伝わるわけもない。
「お前の手が、指が、髪が、かわいそうだろ」
 それでも天道はまわした腕に力を込めるほかなかった。天道の耳に桜庭が息を飲む音が聞こえる。
「君は本気で言っているのか」
 天道の背中の布が引かれる。桜庭の手によって驚くほど、恐ろしいほどに握りしめられる。
「なら、僕は君を諦めないぞ」
 天道の視界の片隅で何かの影が揺れる。
 口笛はいつまでたっても聞こえてこなかった。