事務所での一コマ

 おぼつかない手で棚から器具を出す桜庭のまるい後頭部から、一房だけが流れに逆らって外側に跳ねている。
 ぴょこぴょこさせながらここまで来たのだろうか。体の動きに合わせて揺れる髪も含めて、見慣れない姿がなんだかとても愛おしい。片思い相手の寝起きに等しい姿を見る機会はなかなか無い。事務所の仮眠室から出てくるところは何度も見ているが、ここまでぼんやりはしていない。きっと朝限定なのだろう。そう考えるとなおさら希少性が増す気がした。
 桜庭がやってきて早々に「コーヒーなら俺が淹れてやろうか?」と申し出てみたが、あっさり却下されてしまった。引き下がったものの、気になって眺めていたら案の定動作がいつもの二倍ほど遅い。そして両手でゆっくり作業しているにもかかわらず、普段の桜庭からは想像できないほどにおぼつかない。
「なんだか手元がおぼつかなくてヒヤヒヤするぜ」
「コーヒー一杯で、なにを大げさな……」と反論しながら桜庭がミネラルウォーターをやかんに注いでいく。はたして今のこいつに熱湯を扱わせていいのだろうか。なんとか座らせて代わりに俺が淹れる方法はないだろうか。そもそもなんでこいつはこの状態で事務所まで来たのだろう。ここに来る前にコンビニも自販機も沢山あったはずだ。缶コーヒーが嫌だとしても、コーヒーチェーン店だってとっくに営業している時間だ。そんなことすら思いつかないレベルで頭が回っていないのだろうか。
 不安でいっぱいになりながら見守っている間に桜庭は水を入れ終えたらしく、やかんを火にかけて、フィルターをゆっくりセットしている。
「なんで君はさっきから僕の周りをうろうろするんだ」
「いやだって……本気で危なっかしいんだよ」
「別に壊したりしないぞ」
 しゃがみこんで棚をごそごそと探しながら桜庭が呟く。確かにここにある器具は初期のころに俺が持ち込んだものだ。高価なものではないし、そもそも器具の心配はしていない。
「豆はそっちじゃなくて上の棚だぞ」
「……分かってる」
 小さく呟いてから桜庭はゆっくり立ち上がって、上の棚をまたごぞごぞと探す。お前絶対分かってなかっただろ、と口に出して言いたいが、どうせ反論が飛んでくるだけなので我慢する。
 やっと見つけた桜庭が計量スプーンでばさばさとフィルターに中細挽きになっている豆を入れていく。
「どう見ても入れすぎじゃないか?」
「どう見ても適量だろう」
 いや、多い。その半分で充分なはずだ。そう口に出す前に桜庭がまたふらふらと何かを探しだした。
「ん、砂糖はどこだ。ああ、これか」
「ちょっと待った! それ、塩だぞ……!」
「ん? なら、こっちか」
 桜庭は平然と塩を離し、隣の容器に持ち替えてカップの横へ置く。そのままコンロの火を止めて、やかんの中の湯をドリップ用のポットへ移し替えようとする。
「大丈夫か? 溢すなよ? 危ないからな?」
「分かってる」
 満たされたポットからフィルターへ少しだけフィルターへ注ぐ。蒸らしている間に桜庭は冷蔵庫の扉を開けて未開封の牛乳を持ってくる。そして開け口の反対側を首を傾げながら引っ張っている。
「反対だから。開け口こっちだぞ」
 横から手を出して牛乳パックを回転させる。すると少し遅れて桜庭の顔も回転してこちらを向く。
「天道」
「なんだよ」
「うるさい。邪魔だ。あっちに行ってろ」
 寝起きでも言葉のキツさは相変わらずらしい。そんなことを考えていて反論の言葉に詰まっている間に、ぐいぐいと肩や背中を押されて応接スペースまで追い出されてしまう。
「だって危ないだろ!」
「危なくない。むしろ周りをうろつかれる方がぶつかる可能性が高まって危ない」
 ぶつかりそうになったら俺がきちんと避けるに決まっている。少なくとも今の桜庭に一人で熱湯を扱わせるより幾分マシだと思うのだが、桜庭本人はそうは考えてくれないらしい。おそらく毎日自宅で同じ作業をしているせいだろう。そこまで思考して、本気でこの男が心配になった。毎朝こんな危なっかしいことをしているのか。
「いいから座っていろ」
 ソファの前まで綺麗に逆戻りさせられたところで桜庭はそう言い放ち、パーテーションの反対側へと姿を消してしまった。仕方なくパーテーションを眺めていると、磨りガラス越しの人影の動きに合わせてポットやカップの音が聞こえる。
 拘束されているわけではない。よってまた桜庭の傍に戻ることは別に容易に出来ることだ。しかし仮に戻ったとして、また怒られるのがオチだろう。
 火傷しませんように。カップを割りませんように。牛乳をぶちまけませんように。
 仕方がないので祈ってみるが、こんな願いに耳を傾けてくれる物好きな神様がいるとは思えない。かといって俺自身ではどうすることもできないので、ひたすらパーテーションの前をうろうろするほか無かった。

 読みかけの文庫本が突っ伏されたローテーブルと無人のソファを背後に不審な動きをすること数分。仕切りの反対側から現れた桜庭の手にはきちんとコーヒーカップが持たれていた。
「ほらみろ。ちゃんと出来ただろう」
 少し得意げな顔をした桜庭は俺を通り越し、ローテーブルに伏せられた文庫本の横に小さな音を立ててカップを置いた。そしてその向かい側にさらにもう一つ、同じカップをことりと置いた。
 桜庭はそのままソファに座りこんで再度カップを持ち上げた。二つ運んでいた先ほどとは違い、両手で包み込むようにして口元へ近付ける。口を付ける前に、驚いて桜庭を凝視している俺に気がついたらしい。こちらを向いた桜庭の顔が、視線が合わさったまま左へ傾いた。
「何だ?」
「いや、なんでもない」
 やかんに入れたミネラルウォーターも、フィルターに入れた豆も、やけに多いとは思っていた。しかし俺の分も淹れてくれる、という発想はなかった。それこそ俺の読みかけの本の隣に置いてくれるまで、何故二つもカップを持っているのかよく分かっていなかった。
 驚いたままソファに座り、上からカップを覗きこむ。普段飲むより少しだけ優しい色をしたそれを見つめていると、また桜庭が話しかけてきた。
「朝からブラックは胃に悪いからな」
「そっか」
 嬉しさを噛み締めながら口に含む。ほんの少しのまろやかさはあれど甘みはなかった。俺がブラック派なのを分かっていて最小限のミルクのみに留めてくれたのだろう。
 俺の分まで用意してくれたうえに体の気づかいまでしてくれている。それだけの思考能力はあるはずなのに、なぜ桜庭の髪は跳ねているんだろうか。
 重力に逆らう一房の髪を揺らしながら、ゆっくりコーヒーを飲む姿は可笑しい半面、それ以上にかわいらしい。
「君、今日はおかしいぞ」
「おかしいのはお前だよ」
 そういいながら俺は後頭部の左側を撫でつける。
「ここ、跳ねてるぞ」
 桜庭は一瞬ぽかんとした顔をしてカップから片手を離す。そのまま俺の真似をして髪を撫でつけながらバツの悪そうな顔をした。
「……飲み終わったら直してくる」
 少し膨れた顔をした好きな人を眺めながら飲む、好きな人の淹れたコーヒーの何と旨いことよ。
 直してやろうかと口に出したらそれこそそっぽを向かれるのだろう。
 いつかドライヤーを片手に桜庭の髪を直してやれる日はくるのだろうか。
 そんな日が来るとするならば、それはきっと事務所で起こった偶然の一コマなんかじゃない。桜庭の家か俺の家で当たり前のようにこの空間が訪れる朝を迎えるために、この想いをどう届ければいいのだろう。
「うまいなあ」
「……そうか」
 特別な事が言えない代わりに、素直に溢した俺の言葉にちいさくはにかんだ桜庭の顔は、今まで向けられたことがないくらいに柔らかい気がした。