何度でも君に恋に落ちよう

 何度読み返したか分からない。プロデューサーからミュージカルの仕事が決まったことを聞かされたその帰り道、本屋で当たり前のように買った原作小説。役のすべてを理解しようと何度も何度もページをめくった。重要な場面は勿論、ミュージカルでは削られたシーンも変更されたセリフも、そのすべてを知り尽くつもりで文字を追った。時には台本と比べながら自分なりに解釈し練習もある程度重ねた今、闇医者を理解し彼は自分の中で息づいているとまで自信を持てるほどには、妥協せず自分なりに役と向き合ったつもりだ。だからこそ彼の言葉が理解できなかった。
「闇医者はね、革命家を愛していたんだよ」
「……はあ」
「もちろん恋愛感情って言う意味の愛ね」
 僕が繰り返し読んだ小説にはそんな記述は無かったし、僕なりに読み説いた彼の感情の中にもそんなものは微塵も無い。ビルの合間を抜けてきた風は僕の頬と髪を一瞬撫でて何処かへ去って行った。原作者が稽古を見に来ると聞いた時、生まれた感情は喜びと少しの恐怖だった。外の空気に当たりに来た僕を追いかけてきた彼は、僕の演技に肯定も否定もしなかった。
「驚くのも無理は無いと思うよ。僕は彼の愛を一切書かなかったからね。正確には書けなかったんだ」
 夕陽を背負った原作者は逆光のせいで僕の目には随分と黒く映っている。そして彼と繋がったさらに黒い影は僕の足元まで伸びていた。
「分からなかったんだよ。いつ、どこで、どうして恋に落ちたのか」
「産みの親ですら分からないのですか」
 なら僕にはなおさら分からないでしょう。続けて飛び出そうとした言葉は僕の理性が押し戻してくれた。
「でも恋愛の話なんて、親より友人相手の方がよっぽど語りやすいだろう? なんなら、闇医者本人も気づいていないのかもしれないね。話す以前の問題かもしれない。それでもさ、見てる側が先に気づくこともあるだろう? 本人は鈍感で気づいてないけど、傍からみたら好きなのまる分かり、なんてそんなに珍しいとも思わない」
「だから君なら分かると思ったんだよ。まあ、僕の勘違いかもしれないけどね」
 勘違いとは一体どこにかかっているのか。闇医者の愛のことなのか、僕を買い被り過ぎているという意味なのか、問いただすための言葉を探す僕より先に原作者は歩き出していた。
「初日と千秋楽は必ず見に行くよ」
 そう呟いて彼は僕の隣を通り過ぎていった。暫くの間小さくなる彼の背中を無心で眺めていたが、溜息とともに前を向き直すと真っ赤な夕陽が恐ろしいほどに僕を照らしていた。遮っていた彼が居なくなったせいだった。

 もし、時を遡ることができるなら。五日前に戻りたい。そして「役作りは十分だ」などと得意げにインタビューに応えていたあの馬鹿な自分を殴りたい。
 がしがしと頭を掻く監督から思わず目を背ける。稽古を始めたばかりのころの恐ろしいほど厳しいダメだしから一転、先日の時点では良いものをより良くするため、という状態まで完成度は高まっていた。あくまで先日までの話である。言うまでも無くそれを壊したのは僕だった。監督の機嫌は初期よりさらに悪くなっていた。当たり前の話だ。歌詞は飛ぶ、セリフは間違える。そのうえしょっちゅう他の役者とぶつかるのだ。例の一件から闇医者として演技することが出来なくなった。彼が歌いあげたい心境が、このセリフで伝えたい事が、この動きの根源となる心理が、この解釈で本当にいいのかと頭の中で何かが足を引っ張ってくる。そしてその戸惑いは演技と言う形で全て露わになっていた。
「……いったん休憩だ」
 監督は低い声で言い放ち扉の向こうへと消えていった。問題は何一つ解決していないが、目の前の威圧感から逃れたことに安堵しその場に座り込む。溜息をつく僕の後ろから刺さる、天道と柏木の明らかに心配を含んだ視線が煩わしくてしかたがない。あえて反応せずにいると、そっと二人の足音が近づいてきた。
「……大丈夫か?」
「大丈夫に見えたのか?」
「……何かあったんですか?」
「何も無しにこんな風になるとでも?」
 腫れものに触れるかのごとく掛けられる言葉に苛立ちを覚える。そして実際腫れものと化した自分自身に嫌気がさす。苛立ちを隠さない僕の両脇にそっと天道と柏木が座りこんだ。
「思ってないから聞いてるんだろ」
「だったら最初から断定して聞けばいいだろう。何があったんだ、って」
「……何があったんだ?」
「君たちには関係ない」
「はあ!? 何だよそれ!!」
「薫さん、さすがに今のはちょっと……」
 あまりにもひどい僕の物言いに左からは怒りの声が、右側からは苦笑いを押し殺した声が飛んでくる。自分でも正直酷いと言わざるをえない。それでも無言を貫いていると、怒りと苦笑いは少しずつ離散してしまったらしい。先ほどのような心配する視線が左右の至近距離から刺さるようになってしまった。天道も柏木も口を開かない。その視線に耐えきれず僕は小さく口を開いた。
「原作の先生と話をして、闇医者というキャラクターが分からなくなっただけだ」
 出てきた声は自分でも驚くほど小さく弱弱しかったが、身を寄せるように隣に座っている二人にはきちんと届いたようだ。
「いや……そっくりだろ。お前と」
「輝さんと革命家もですけどね」
「……僕もそう思っていた」
 あの一件から時間があるたびに原作の小説を捲っていた。そのうえで僕は二人の言うとおり闇医者と僕は良く似ていると思っている。そして天道と革命家も良く似通っている。その考えは初めて小説を読んだときから変わっていない。だからこそ原作者の言葉が恐ろしいほど理解できない。革命家自体は魅力あふれるキャラクターに間違いない。しかし闇医者が、原作者本人に「愛していた」と言わしめる要素は何度読んでも見つからなかった。彼は闇医者の愛を書かなかったと言っていたのだから、原作を読んでも見つからないのは当たり前なのかもしれない。それでも何度読んでも僕は革命家には惚れないのだから、闇医者もきっと惚れてはいないのだろう。だけど闇医者は革命家を愛している。つまりそれは僕と闇医者は本当は似ていないのではないだろうか。ここ数日、そんな考えばかりが僕の頭を支配していた。
「天道、君は革命家と自分自身が似ていると思うか?」
「似てるってよりは俺の理想に近いと思ってる。俺がこう為りたい、こう有りたいって思い描いてる理想に限りなく近い。だからまあ、似てるって言われるのはすげー嬉しい」
 物語の主人公と比べるのは可哀そうだが、確かに似ているとはいえ言葉選びやカリスマ性は天道より革命家の方が圧倒的に上だろう。しかしそんなことより、今の僕には別の言葉が引っ掛かった。
「限りなく近い? 完全ではないのか?」
「そりゃ完全な理想じゃねーよ。演じようと真剣に向き合うと、やっぱ革命家に対する小さな不満は出てくるしな。例え創作上の人間でもさ、他人を完全に理解するなんて無理だろ」
 真剣な表情でそう話す天道の姿に僕は素直に驚いた。舞台上で演技をしながら歌うことに対する難しさを嘆くことはあれど、今まで革命家に関してはプラスな感情以外を溢す姿は僕の記憶に無い。
「そっくりって言ってもさ、お前と闇医者だって大なり小なり違う部分もあるだろうよ。共感できるところはお前も合わせて何割増しにもしてやってさ、分からない所はまあ、自分なりに最低限尊重してやればいいんじゃねーかな」
「オレなんて共感できないことだらけですよ、この役。それでもオレなりに彼のことを理解して、オレみたいに共感できない人にも、彼のことが少しでもオレを通して伝わればなって思ってます」
 原作者は闇医者の愛を一切書かなかったと言った。彼の愛が描かれていないその物語は、決してつまらないものではない。闇医者の信念を貫く姿勢に、助けられない人々を悲しむ心に、仲間と同じ場所を目指す思い。読みたびにそれらに共感し、感動を覚えたことをどうして僕は失念していたんだろう。
 へたり込んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなり、大きく息を吐き出してからその場で立ち上がる。つられて上がった天道と柏木の視線には、もう心配の色は含まれていなかった。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないように見えるか?」
「大丈夫そうですね」
 大きな音を立ててドアが開く。僕はその先にいる監督の顔をしっかりと見据えた。
 僕が表現したいのは闇医者の恋心では無い。僕が見せたい彼の気高さを、僕が伝えたい彼の信念を、僕を通じで観客に見せる。それが新人の僕にできる、仕事に対する精一杯の誠意である。

 ミュージカルは観客が居て初めて完成する。初めて会ったときに監督がこぼしたその言葉の意味を、僕はやっと理解することが出来た。
 観客の見守る舞台に立ったその瞬間、闇医者は僕の中にいた。袖に捌ければ彼も消え、舞台へ上がればまた現れる。稽古中もリハーサルも、ここにいない彼の代わりにと、ずっと思っていた。どうやら杞憂だったようだ。
 スピリチュアル的な現象や心理はあまり好かない。それでも舞台で僕に寄り添うように、僕に教えてくれるように感情を動かす闇医者の存在を否定することはしたくなかった。役者にもいろんなタイプがいると聞く。自我が消え役そのものに成り切る者、限りなく自分自身が役に近付く者。そして僕は、自分と役が舞台で共存するタイプらしい。彼の心を僕が聞いて、僕が僕の体を使って目の前の観客たちに彼を伝える。ミュージカルの舞台の上は想像していたよりずっと楽しい。それこそアイドルのステージに匹敵するほどだ。
『文句なら後でいくらでも聞いてやるよ!』
 そう叫びながら天道が演じる革命家は高台を模した舞台装置へ上がっていく。闇医者がまだ革命軍に属する前、革命家と初めて出会ったにも関わらず彼の活動に巻き込まれるシーンである。
『なんて奴だ……』
 闇医者に代わって僕が呟く。彼の心は想像していたより穏やかだ。もっと怒っていると思っていた。僕が想像していたよりずっと、闇医者は初めから革命家に嫌悪感を抱いていなかったらしい。ここ数十分で初めて知ったことだった。
 
 最終決戦前夜。決意溢れる顔の革命軍たちと、それを鼓舞する革命家の姿を僕は舞台袖から見守っていた。闇医者は主要人物だが、正式に革命軍になるのは随分と遅い。医療技術の高さと人を救いたいという思いを見抜かれ、革命家に巻き込まれる形でほぼ仲間同然の立場にいるものの、あくまで闇医者本人は協力者であり、革命家とは医者と患者という姿勢と貫いてきた。
 最後の宴を歌とダンスで表現している中、革命家はそっとその輪から抜け出す。
『どこに行くんだい?』
 目ざとく見つけたパイロットに革命家は困ったように笑いながら人差指を口に押し付けて見せた。歩みを止めず部屋を抜け出したところで歌が終わり、観客の拍手とともに照明が落ちる。たくさんの革命軍役の役者とともに戻ってきた柏木に小さく肩を叩かれる。
「いってらっしゃい」
「ああ、いってくる」
 真っ暗なステージの中、置かれた椅子に腰をかける。このシーンで闇医者はやっと革命軍に正式に所属し、そのまま舞台の照明は消えることなく舞台装置を一気に反転させ、一番の盛り上がりを見せる決選へと入っていく。その後は息をつく暇もなくキャスト全員でクライマックスまで駆け上がっていくことになる。あれほど頑なに所属を拒否していた闇医者が、正式に仲間になることで大一番の盛り上がりの火蓋を切ることになる大切な場面だ。そのシーンを映し出すべく、暗闇の部屋が今、照明で照らされた。
 そしてその後起こったことを、僕は殆ど覚えていない。

 劇場の裏側にある野外喫煙スペースは、関係者用として利用するために一般客は立ち入れないようになっている。喜び騒がしい楽屋をこっそり抜け出した僕以外には勿論僕誰もいない。煙草の煙には当たりたくない。かえって好都合だった。壁の傍で蹲るように座りこむと、劇場の表側の雑踏からであろう楽しそうな大量の話し声たちが膜を張ったように不鮮明に僕の耳に届いていく。
「お疲れ様」
 近くから鮮明な声が聞こえて驚いて顔を上げる。真っ赤な夕陽を背負って立つ原作者はゆっくりと僕の隣にしゃがみこんだ。
「いいもの見せてもらったよ」
 紡がれる声はあの日聞いたものと明らかに同じはずだ。当時異質なノイズのように聞こえていた声は、今は不思議なほど穏やかに聞こえる。
 革命軍のエンブレムを付けられ数え切れないほど聞いたセリフを呟かれた瞬間、観客の視線が全て消え去った。視線どころか完璧に覚えたセリフも振りも全て消え去り、ただ穏やかに笑う革命家の顔だけが熱い照明に照らされていた。
 今から約四十分前のことだ。何百人の観客の中、僕を通して一人の男が恋に落ちた。そしてそれに気づいたのは僕と、今僕の隣に座っている男の二人だけだろう。 
「あの瞬間まで、僕はあなたの言ったことが全く理解できなかった」
 懺悔でもするような気持ちで呟くと、原作者は小さく息を漏らして僕に笑いかけた。
「あたりまえじゃないか。だって彼が革命家に惚れたのは、ついさっきの出来事なんだから」
 原作者はそう言い切ると鞄から手帳を取り出して悩み事をするように顎に手を当てて眺め出した。
「何してるんですか?」
「いや、最低でも後五回は見に来たいなあって思ってね」
 手帳をにらめっこを始めた原作者は逆光のせいで僕の目には随分と黒く映る。それでも近くにいるおかげで優しげな表情はしっかりと見て取れた。
 暫く二人で風に当たっていると少し離れた出入り口から僕を呼ぶ声がする。
「お迎えが来たね。じゃあ僕はこれで」
 また見に来るねと呟いて去っていく原作者と入れ違うように天道が僕の元へ走ってくる。
「こんなところで何やってんだよ! みんな探してたんだぞ!」
 不満そうに口をとがらせる顔は随分と幼く見え、思わず笑いそうになる。革命家はこんな表情は絶対にしないのだろう。
「悪かった」
 そう断って立ちあがった僕の目を天道はしばらく見つめていた。天道は何か伝えたいとき普通の人の数倍目を見つめてくる。ここ数カ月、DRAMATIC STARSを結成して気が付いた彼の癖の一つだ。
「なんだ?」
 促すように声をかけると天道は喜びを噛み締めるように顔を綻ばせた。
「すげー楽しかったな」
「そうだな」
「監督もめちゃくちゃ喜んで褒めてくれてたぜ」
 DRAMATIC STARSの三人が演じる初めてのミュージカルは主役も監督も、そして帰りゆく観客も満足させることが出来たようだ。
「まだ初日だぞ。明日もある」
「明後日も明々後日も、その後もだ」
 原作者は闇医者の愛を一切書かなかった。そして僕の演技は彼の愛を伝えなかった。ミュージカルでも小説でも彼の愛は意味を成さない。だから天道も革命家も、小説の読者も観客たちも彼の愛を微塵も知ることは無い。
 それでも公演が続く限り、舞台の幕は上がり続け、ストーリーは進行を続ける。
 そして彼がほほ笑むたび、何百人の観客の前で一人の男は恋に落ち続けるのだろう。