好きの妥協点

 目が覚めた瞬間、頭に浮かんだのはやばいの三文字だった。慌てて飛び起きてスマートフォンを手に取ると、時刻は11時48分。その下には着信履歴とメッセージアプリのポップアップがずらりとぶら下がっていた。
 桜庭と同じ日にまる一日オフなんてのは本当に久々だ。桜庭の神戸行きが目前に迫っているのもあり、朝からデートしようと誘ったのは紛れもない俺自身だった。にも拘らずこの体たらくである。頭を抱えたところでときが戻るはずもなく、寝起きで回らない頭で謝罪の言葉を必死に考えながらメッセージアプリひらいて確認する。
「着いたぞ」
「天道、今どこだ?」
「近くの喫茶店に入ってる。気づいたら連絡しろ」
「本当にどうした?」
「何かあったのか?」
「今から君の家に向かう。電話は出られるようにしておくから、気づいたらすぐ連絡してくれ」
 最後のメッセージは11時32分。電話に出られるということは恐らくタクシーで向かっているのだろう。待ち合わせ場所から俺の家まで約30分程だろうか。怒って帰られる方がよっぽどマシだとさえ思えてくる。明らかに心配しているであろう後半のメッセージに罪悪感を覚えながら、3回ほど入っている着信履歴から桜庭の携帯へ電話をかけると、数回のコールで繋がった。
「……もしもし?」
「天道か? どうした?」
 普段よりほんの少し高くて早口で、小さく聞き取りづらい声にさらに罪悪感が圧し掛かってくる。桜庭は完全に何か問題が起きたと思っているようだ。いっそ嘘でもついて俺が悪いわけではないことにしてしまおうか。一瞬そんな考えも浮かんだが、変な嘘でさらに桜庭に心配をかけるのは、さすがに俺の正義感が許さなかった。
「……すみませんでした」
「……なぜ謝る」
「完全に寝坊した」
 俺の言葉を聞くや否や、携帯越しに溜息が聞こえてくる。
「本当に寝坊しただけなんだな?」
「まじで今起きたとこだ。本当にごめん」
「……後15分くらいで君の家に着く。身支度だけ整えておけ」
 俺の返事を待たずに電話は切られてしまった。そもそも何故俺は起きられなかったのだろうか。携帯のアラームはきちんと設定したはずだ。アプリを開いてみればきちんと8時に設定されており、9時半の待ち合わせには十分間に合ったはずだろう。現実逃避と言わんばかりに少し携帯を弄ってみれば、何故か音量が最小に設定されていた。ああ、それでさっきの電話は聞きとりにくかったのか、などと一人で納得している間に時刻は11時53分。原因が解明したところで桜庭は家へやってくる。俺はベッドの上で大きな溜息をついて、洗面所へと向かうべく床へ降り立った。

 聞きなれた音に反応してモニターへ向かう。案の定小さな画面には不機嫌ですと言わんばかりの桜庭の顔が映し出されていた。早急に玄関へ向かい扉を開ける。その先に顕われた桜庭はモニターに映し出されたものと全く同じ顔をしていた。
「5分、いや3分だけ待ってくれ! すぐ支度するから!」
「別にゆっくりでいい。襟足が跳ねているぞ」
 桜庭は猫のように扉をすり抜けて、当たり前のごとく靴を脱いで上がっていく。開けたばかりの玄関を閉め、通ったばかりの廊下を桜庭の後ろをついて戻る。一足先にリビングへ入った桜庭はさっさとソファへ座り、取り出した文庫本を開きだす。まるで何事も無かったかのような仕草だが、その表情は決して柔らかくない。桜庭は人一倍時間に厳しい。正直、家に来た瞬間説教をされる覚悟さえあった。予想に反した行動だが、顔を見るに桜庭の感情とも反しているのだろう。桜庭が不満や許せないことはきちんと口に出すタイプであることは嫌と言うほど知っている。普段とあまりにも違う対応に戸惑い、俺は無言でリビングの入口に立ち尽くす。暫く文庫の文字を追う桜庭を見つめていたがところ、桜庭は立ちつきしている俺に気がついたのか、ふいに顔を上げた桜庭と目があった。
「何をしているんだ。まさかその跳ねた襟足で外出するつもりか?」
「いや……。お前さ、怒らないのか?」
「怒っていないと思うか?」
 俺は反射的に首を振る。怒っていない訳が無い。だからこそ、今の桜庭が不思議で仕方がないのだ。
「これが仕事だったら君とは一生口をきかなかったかもしれないな」
 そう言いながら桜庭の視線は本へ戻ってしまう。流石にそんなへまはしないと言い返したいが、盛大に寝坊した直後にその言い訳は気が引ける。
「今日は僕にしか迷惑をかけていないし、君にも悪気があった訳ではないだろう。それに数日後にはツアーのために神戸へ発たなければならない。怒ってはいるが、何もここでケンカすることも無いと思っただけだ」
「……そっか」
 俺の口から洩れた言葉はとても小さかった。
「髪直してくる」
 怒ってはいる。だけど今日は許してやる。つまりそういうことなのだろう。遅刻を咎めることよりも、俺と楽しく過ごすことを優先してくれた。普段からは想像がつかないからこそ、その事実が純粋に嬉しく思う。
 せっかくの好意を無駄にするのが惜しくて、素直に乗っかるように洗面所へ向かう。整髪料を片手に、音量が最小になったスマートフォンで小声で馴染みのレストランへ電話をかける。
「もしもし、今晩予約取れますか?」
 夕飯は俺の家で手料理をふるまおうと考えていたが予定変更だ。多分桜庭は昼食をとっていないから、何処かへ寄って、映画を見て、それからもっとうまいものでも食べに行こう。せっかく許してくれたのだから、最高の気持ちで送り出してやるのが筋ってものだろう。
 電話をかけて3件目、やっと予約が取れたころには俺の襟足も綺麗に直線を描いていた。リビングへ戻って静かに文庫本のページを捲る桜庭へ手を差し伸べた。。
「昼飯まだだろ? なんか食ってから、映画見に行こうぜ」
「ああ」
 何のためらいも無く握り返された手が温かい。繋いでいられるのはいつも通り、マンションを出るまでだ。それ以上は世間が許してくれない。だけどそれで十分だ。桜庭はまたこの家にやってくる。そしてまた、溜息一つで俺を許してくれるのだから。