水たまりにうつる星

 少し遅れると連絡が入ったのは今から十五分ほど前だ。創作和食が売りの居酒屋チェーン店で俺は一人、お通しをちまちま食べながら店員が置いていったメニューとスマートフォンを交互に眺めていた。たまに個室と通路を仕切っている障子風の引き戸に目をやる。桜庭のメッセージには二十分から三十分ほど遅れると書いてあった。二十分で着くならそろそろ注文をしてもいいだろうか。しかし三十分かかるのであれば頼むのは少し速そうだ。食べたいものの目星はすでに付けてしまったが、手持ち無沙汰に何度もメニュー表を捲る。無意味にデザートの部分を眺めていたところでようやく光ったスマートフォンには桜庭薫と表示された。
「もしもし」
「すまない。撮影が押してしまった。今駅前に着いたところだ」
「いいよ別に。場所分かる?」
「大丈夫だ。すぐに向かう」
「じゃあ適当に注文しとくから。ビールでいいよな?」
「ああ、頼んだ」
「はいよ」
 話し方が変わった気がすると前回あった時も思ったが、電話越しに聴くとなおさらよく分かる。口調が変化したわけではないが、声の出し方やスピード、語順が変わったんだと思う。テレビモニター越しでは今まで気付かなかったのは何故だろう。同僚からアイドルに変化してしまった彼が、今また身近な存在に降りてくるかもしれない状況だからだろうか。通話を切ってスマートフォンをテーブルへ置く。その画面を無視して店員を呼ぶボタンを押したところで思い直して再度スマートフォンをを手に取った。さすがに壁紙は変えるべきだろうか。シルバーの衣装を身にまとった彼が映る画面が、何かの拍子に見られてしまうかもしれない。写真フォルダから適当に画像を探しているところで障子が開く。
「お待たせしました」
「生ビール二つ。あと海鮮サラダと揚げ出し豆腐のトマトあんかけ」
「かしこまりました」
 注文品を復唱してから店員は去っていった。少し開けられただけの障子の向こうから冷たい空気が流れ込んでくる。今朝見た天気予報によると日付を回ったころから雨が降るらしい。場合によっては雪になるかもしれないとはきはきとした声で喋っていたはずだ。寒さのなか足早に俺の元へ向かう姿を想像して思わず口元がゆるむ。
 桜庭と会うのは一ヵ月半前に行われた医大の同期の大きな飲み会以来だ。正直あの場に彼が来るとは思っていなかった。幹事が誘っていたらしいが桜庭の返事は「行けるか分からない」という曖昧なものだったため、他の参加者をぬか喜びさせないためにわざと黙っていたそうだ。案の定忙しかったらしく桜庭が到着したころにはすっかり皆出来あがっていた。酔っ払い集団の中に芸能人になった同期が唐突に表れたものだから、それはもう大層盛り上がった。そんな中で俺一人だけがどんな顔をしたらいいのか分からなかった。それでも同期たちが作り出した大歓迎ムードと体内のアルコールが、スマートフォンから消えたはずの桜庭の連絡先をいつの間にか取り戻してくれていた。そして俺が勇気を出して送ったしょうもないメッセージが、桜庭のぽつぽつとした返事と繋がって、今日の約束に辿り着いた。酒が入っちまえば大丈夫だろうと思う反面、やっぱりどんな顔をすればいいのか分からない自分がいる。だけどそんな自分をよそに、桜庭はこの店まで辿り着いてしまうのだ。
「すまない。またせたな」
「気にすんなよ。誘ったの俺だし」
 そっと開いた障子から桜庭が顔を出す。すまないなんて言いつつもあまり表情は普段と変わらず涼しげに見える。過去の桜庭はそのせいで反感を買うことも多かった。けれども急いでマフラーを外しコートを壁のハンガーに掛ける桜庭の息が少しだけ上がっているのを見れば、彼が急いで来たことは明白だ。人間関係を円滑にするためのちょっとした演技と言うものを桜庭は知らない。覚えることが出来たならもっと生きやすいだろうにと思いつつ、そんなことを覚えてしまえば桜庭の周りにはもっと人が増えてしまうのだろうと考えると、今のままでいてほしいとも思ってしまう。
「失礼します」
 桜庭が座って一息つくと同時に店員の声がして障子が開く。ビールと料理を手際よく置き、一笑して戻っていった。
「適当に頼んじゃったけど」
 と言いつつ桜庭に視線を向ける。表情を見る限りどちらの料理も大丈夫そうだ。
「とりあえず飲むか」
 桜庭がジョッキを持ってこちらを見た瞬間、なんだかほっと肩の力が抜けたのを感じた。今日は楽しく飲める気がする。「おう」と一言返事をして、俺もジョッキを持ち上げた。
「乾杯」
「乾杯」
 二人だけの掛け声とともにガラスのぶつかる音がする。ぐいっと飲んでテーブルに置いて前を見ると、さっそく桜庭が取り皿片手に海鮮サラダへ手を伸ばしていた。
「他に食べたいものあれば頼めよ?」
 机の空いているところへメニュー表を開いてやる。桜庭は少食だから事前にたくさん頼んでしまうのは気が引けた。せっかく誘いに乗ってくれたのだから、せめて好きな物を食べてほしかった。
「俺腹減ってるから今日はそれなりに食うし」
「ん? そうだな」
 美味しそうにサラダを口に運びながらメニューへ視線を落とす桜庭を見ながら、俺は手持ち無沙汰にまたビールへ口を付け始めた。

 梅しそとチーズの鶏天ぷらを齧る桜庭を正面から見据えている。こいつこんなに食べたっけ?というのが正直な感想だ。アイドルになる前の桜庭は食事をおろそかにしていることも多かった。飲み会の時も酒ばかり口にしていたし、大学や病院にいたころも昼食を取る時間すら惜しんで勉強や研究に裂いているのを何度も見た。余ったら俺が食べればいいと考えていたにもかかわらず、頼んだ料理はほぼ均等に二人の腹に収まっている。以前なら俺の方が五割増しくらいで食べてたはずなのに、随分な変わりようだ。再開した飲み会でも「前より健康的に見える」などと言われていじられていた。こうして観察してみると体型だけではなく顔色や肌も目に見えてよくなっている。髪はもとから綺麗だったけど、それでもここまでの艶はなかった。それこそ栄養不足でもう少し細くてパサついていた気がする。他人の病気ばかりを気にしていた彼はもういない。そう考えると寂しくなった。けれども変わったところばかりではない。量が増えても食べ方が相変わらず綺麗なところ、会話の返事を考えるときに少し目を伏せるところなんかは昔と同じだ。それから服の趣味も殆ど変わってない。医者時代に来ていたブランドと同じものだ。ということはどうやら彼女は出来てなさそうだと思って先ほど冗談交じりに聞いてみたところ、「当り前だろう。僕はアイドルだぞ」と怒られてしまった。恋人作ってるアイドルなんてごまんといるだろうに、真面目なところも変わっていない。結局その話題はすぐに流れてしまった。他人からの変な勘ぐりも含めて自分の恋愛話は極力避けるところも、やっぱり変わっていなかった。
「そのとき天道がな、急に滑り台にものすごい速さで上りだしたんだ」
「うん」
「そしていきなり叫び出すんだ。まわりには子供連れやジョギングしている人が沢山いるにも関わらずだ」
 それでも変わったところばかり気になってしまうのは仕方がない。なかでも一番の変化は会話の内容だろう。同じ医大で学び、同じ病院に勤めていたころの会話に出てくる人物は共通の知り合いばかりだった。交友関係の狭かった桜庭と、人並みにコネや友人を作っていた俺ではそうなるのが当たり前だ。そして共通の友人であれば会話に出てくる情報はお互い既に友人から直接聞いていたり噂で耳にした後だったり、何にせよ「ああ、あの話か」と知っていて当然の会話ばかり繰り広げられていた。あいつが高校時代から付き合っていた彼女についに振られた。あいつがどこどこに移動になるらしい。今日俺が桜庭に言うたびに、桜庭は初めてそれを知り驚いていた。俺が日常的に知る当たり前は、とっくの昔に桜庭にとっての当り前ではなくなってしまったらしい。
 逆に今日桜庭の口から聞く名前の殆どはもちろん知っている。しかしどれもテレビや雑誌を通して一方的に知っている人ばかりだ。たまに出てくる表舞台に出てこない人の名前なんかは聞いてもぱっと分からない。桜庭にとっての日常的に知る当たり前は、やはり俺にとっての当り前ではなくなってしまった。
 桜庭の話を聞きながら相槌を打ったり笑ったりしていたところ、ユニットメンバーの愚痴を洩らす桜庭がふいに話を止めた。
「……すまない。面白くないだろう。知らない人の話ばかりで」
 突然桜庭がそう言って謝りだした。やはり寂しさという負の感情がにじみ出たらしい。環境の変化が寂しいだけであって別に話がつまらない訳ではないのだが、桜庭にはそうは映らなかったようだ。
「そんなことないよ。芸能人の裏話面白いし。あのひと特撮好きってよく言ってるし、あの仕事決まった時喜んだだろうなあとは思ってたけどそこまでとはなあ」
「天道が特撮好きなこと知っているのか」
「あれ? 結構いろんなところで言ってるよな?」
「そうではなくて、君が知っていることに驚いているんだ。君の口からアイドルの話題なんて聞いたことないぞ」
「ああ、そういうこと」
 確かに桜庭にアイドルの話しなどしたことはなかっただろう。俺が男性アイドルを意識しだしたのはそもそも桜庭が原因だ。そしてそのきっかけとなった桜庭がテレビに出だした頃、すでに俺のスマートフォンからは桜庭の連絡先は消えてしまっていた。
「お前がきっかけでちょっとハマってるんだよ。といってもライブなんかは行ったことないけど」
「そうだったのか。それにしても意外だな」
「本当になあ。俺もまさかこの歳でアイドルにハマるなんて思わなかったよ。しかも男性アイドル」
「ライブにも行けばいいだろう。多分ほかのユニットのライブでも男性ファンが見に来ているはずだぞ?」
「忙しいっつーの!」
 とっさに出た嘘は桜庭に気づかれなかったらしい。不審に思われないまま315プロのアイドルの仕事の話題へ移って言った。桜庭がきっかけなのは嘘ではない。多分そのへんの男より男性アイドルに相当詳しい自信もある。だけど別に俺はアイドルにはまっているわけではない。DRAMATIC STARSを中心に我が家に大量に増えた雑誌やCD、ブルーレイは決して他のファンが集めている理由とは全く別の感情が原因だった。そしてその理由は桜庭薫だけには絶対言えないことでもある。
 結局桜庭には男性アイドルにハマったという体で話を進めた。315プロダクションの面々の話題から桜庭の共演した別事務所のアイドルの話へと移っていく。彼らはテレビでは個人での活動が目立つアイドルグループだが、ライブでは激しいにも関わらず綺麗に揃ったダンスと凝った演出をウリにしている。去年行われたライブツアーのブルーレイの感想を語ったところ、随分と桜庭の興味を引いてしまったらしい。「他におすすめのユニットはないのか?」と喰いつかれたのでアルコールに任せて語っている間に気が付けば桜庭は我が家に来る気満々になっていた。
「うちのプロダクションのアイドルの仕事はいくらでも耳に入ってくるが、よそのアイドルまでは中々手が回らない。相当詳しい君のオススメなら見て損はないだろう」
 というのが桜庭の言い分らしい。会計をさっさと済ませて外に出た俺たちに吹き付ける風は随分と冷たかった。マフラーに口元をうずめた桜庭が温かい声で言った。
「君の家に行くのは久々だな」
「そうだなあ」
 返事をしながら必死で家の状況を思い出す。桜庭がよく来てたときほど綺麗ではない。五分だけ外で待っていてもらうことになるかもしれない。せめてそれまでは降らないでほしいと願いながら見上げた空はどんよりと雲が覆いかぶさっていた。
 
 ビールの空き缶、コンビニ弁当のプラスチック容器、それからシンクの傍に積まれているカップ麺の容器。これらを慌ててゴミ袋に放り込み、その袋をクローゼットに無理やり押し込む。
「五分! 五分だけ待っててくれ!」
 マンションの扉の前でそう頼み込むと桜庭は怪訝そうな顔をした。
「まあ、構わないが……」
 多分桜庭は俺の家が汚いなどとは微塵も思ってないのだろう。当たり前だ。そんなところ彼は見たことがないのだから仕方がない。逆にいえば見せるわけにもいかなかった。そして今でも見せるわけにはいかない。
「ごめん、おまたせ」
「もういいのか?」
「うん。寒かっただろ。ごめん」
「君は大袈裟だな。三分くらいしか待ってないぞ」
 そう言っている桜庭は鼻の頭が少しだけ赤い。可哀想な事をしてしまった。汚くて驚かれてもいいからさっさと入れてあげるべきだった。
 とにかく桜庭をリビングへ通すと、さっそくテレビ横の棚を興味深そうに眺め出した。この収納棚は最近買ったものだ。ついに増えすぎたアイドル関係のものをどこに置くかで大分悩んだ。結局テレビの横が一番だろうという結論に至った。リビングに堂々と置くのは正直気が引けたが、まあいいかと諦めた最大の理由は、見栄を張りたい相手がいなくなったことだ。
 その収納棚の一角を桜庭はじっと見つめている。上から二段目の右隅はDRAMATIC STARSのものが収められたスペースだ。
 そんな姿を尻目に俺は冷蔵庫の中身のせいで苦い顔をしていた。すっかり料理をしなくなったせいでろくなものが入っていない。最近ではカップ麺を晩飯兼つまみにしていた。散々食べた後だから簡単なつまみだけでいいはずだが、やはり居酒屋で聞いた話がどうしても頭を過る。俺だって料理は上手かったんだ。少なくとも桜庭の中では、今もその認識なのだろう。
 桜庭が棚に集注しているのをいいことに冷蔵庫や戸棚から食材を掘りだす。見つかった賞味期限以内かつ未開封品は瓶詰パスタソースとクラッカー。それと冷凍庫から細切りチーズが見つかった。クラッカーにソースとチーズを乗せてオーブンで1分半ほど焼く。トマトやベーコン、バジルでもあれば様になっただろうが、生憎今の俺の冷蔵庫にはそんなものは入ってなかった。
 なんとか作り上げたつまみの乗った皿と缶ビール二本を持ってソファまで行く。ローテーブルに置いた音を聞いた桜庭はハッとして、自分たちのCDの背を撫でるのを辞めて視線を棚全体へ巡らせた。
「さっき言ってたのはこれのことか」
 キッチンに立つ俺に向かって桜庭が紺色を基調としたライブブルーレイのケースを見せる。先ほど居酒屋で話した、去年のライブツアーのものだ。
「それそれ。本当は古い順に見ていくのがいいんだけどなあ」
 そもそもそのツアーの映像ですら一晩で見終わるのは無理だ。桜庭はスリーブケースのデザインや後ろのクレジットを数秒眺めてから中身を取り出し、同封されているブックレットをぱらぱらと眺め出す。ディスクを受け取って再生できるようにセットし、二人並んでソファへ腰をかける。
「スタートしていい?」
「ああ」
 返事と一緒にプシュっとプルタブが開く音がする。俺もリモコンを置いて缶ビールを持ちなおした。

 ライブ円盤っていうのはもっとこう、楽しそうに見るものだと思う。横から盗み見た桜庭の顔は真剣そのものだ。同時に懐かしくも思う、医学書や論文を見ていた表情となんら変わらない。当時と変わらず周囲も時間も気にならなくなってしまうのだろう。
「お前さ、どこまで見るの?」
 俺の質問に首を傾げて返してきたので時計を指差してやる。テレビの斜め上に掛けられた時計は23時を過ぎていた。
「あとどのくらいあるんだ?」
「2時間ちょっとくらい」
 残り時間を聞かされた桜庭は、顎に手を当てて無言で時計を見たままだ。最後まで見る、借りて帰る、また来る。恐らく頭に浮かんでいる選択肢はこの三つだろう。
「……泊ってく?」
「……いいのか?」
「俺はいいよ。休みだし」
 いいのかなんて聞かれたのは何年振りだろう。少なくとも医者を辞める直前の桜庭は当たり前のように泊っていた。その当たり前は既に桜庭の中から消えてしまったらしい。
「君には甘えてばかりだな」
「別にいいだろ。一応年上だしな」
 そんなことを言われたのは初めてだ。当たり前のように俺に甘やかされていた桜庭はもういない。優しく笑ってくれたにもかかわらず、その事実がとにかく寂しかった。

 洗面所で稼働しているドライヤーの音だけが聞こえる。桜庭が風呂に向かったときにライブ映像を止めたからだ。入浴によってもたらされた脱力感と、変化のない微量な音は俺の眠気をゆっくり誘っている。急に疲れていることを実感した。いつも以上に忙しかった上に、桜庭に会うために普段では考えられない早さで仕事をこなしたせいだろう。
 突然肩を叩かれて自分の瞼が跳ねあがる。いつの間にか完全に閉じてしまっていたようだ。ドライヤーの音が止んだことも、桜庭がリビングに戻ってきたことにも気付かなかった。
「君まで付き合ってくれる必要はない。眠いんだろう?」
 黒いハイネックにジーンズを履いていた桜庭は、俺の貸したスウェットへ着替えていた。
 両手で目を擦りながら、ぼやけた頭で考える。俺が居てもいなくても桜庭はこのまま映像を真剣に見続けるだろう。重要なのは俺の意思のみである。ローテーブルには大量の缶が乱立していた。その殆どは俺が空けたものだ。明日の起床時間と今日の疲労具合、そして飲酒量を考えると、このあたりが限界だろう。
「……先に寝るわ」
「ああ。おやすみ」
 寝室でベッドに倒れ込んだ数秒後、俺は今日の天気予報を思い出した。引っ張り出した毛布を片手にリビングへ戻り桜庭に渡す。
「机は片付けなくていいから」と桜庭に伝えて再度寝室へ戻り、ベッドに倒れ込む。そのまま意識が遠のくまで、一分もかからなかった。

 意識が浮かんですぐに自分の口から「寒い」という声が出た。どう考えても暖房が付いていない。オイルヒーターのスイッチに向かってベッドから必死に手を伸ばす。なんとか中指で触れるとピッと音がした。暗い部屋の中でヒーターの電子パネルだけが光っている。やはり付いていなかったらしい。付けたところで寒さは変わらない。オイルヒーターは安全な変わりに即効性に欠ける。頭痛と胃の気持ち悪さを感じながら窓を見たが、遮光カーテンの隙間からは光は射していない。寝過してはいないようだと安堵しつつも時間を確認するためにスマートフォンを探す。バタバタと枕元や布団の中を叩いてみるがスマホは見つからなかった。俺は諦めてベッドを抜け出し、ドア横のスイッチを押して電気を付ける。それと同時に桜庭と目があった。壁に貼ってあるポスターの中の桜庭とである。その横の時計は3時過ぎを指していた。
 変なポスターだなと見るたびに思う。桜庭がこんなポスターになっていることも、そしてこの寝室に飾られていることも、それを未だにおかしいと感じる俺も、全てが変なのだ。そしてその変な空間であるこの部屋のすぐ近くの居間に、これまた変な事に桜庭薫本人がいる。
 寝室になければリビングだろう。俺はスマートフォンを探すという大義名分のもと、居間へと足を運んだ。
 リビングの電気は付いたままだった。テレビにはライブブルーレイのメニュー画面が映しだされ、その向かいには背を倒したソファベッドに桜庭が毛布にくるまって眠っている。その間のローテーブルの上にはアルミ缶が乱立したままだ。
 その様子が懐かしく思えて、俺はローテーブルとソファベッドの間の床に座り込んだ。片手でテーブル上の空き缶を順番に掴んで軽く振っていく。3つ目で半分ほど残っている缶に当たったので口を付ける。数時間暖房の効いた部屋に置いてあったビールは案の定ぬるい。決して美味しくはないそれを呑みながら桜庭の寝顔を覗き込む。
 桜庭は昔もよくここで身を縮めて眠っていた。可哀想だからと普通のソファからソファベッドにわざわざ買い換えてやったにもかかわらず、彼は何故か縮こまって眠るのだ。俺の家のリビングで桜庭がそうして眠るのは当たり前だった。
「アイドルになる」などと言いだすまでの話である。

 浪人して必死に医大に入った俺が初めて桜庭を見たのは入学式当日、新入生代表として壇上で挨拶をしている姿だった。堂々とした足取りで壇上まで歩いていった桜庭が正面を向いたとき、どこからともなく黄色い歓声が上がったのを覚えている。
 容姿端麗、成績優秀。入学早々桜庭の周りにはたくさんの人が集まった。そして早々に散っていった。サークル勧誘、飲み会の誘い、講義が終わったら遊びに行こうよ――。桜庭はその他諸々全てを断った。それもただ断るだけではない。「君は何のために大学に来たんだ」というニュアンスの含まれた言葉とともにきっぱりと断っていった。
 俺はその様子を横目で見ていた。
 相当真面目だと周囲に認知されたころ、また少し人が集まりだした。不真面目な人間たちだっだ。代返してくれる楯突かない人や優秀なノートのコピーを常に探している人間だ。
 そして「君たちは何をしに大学へ来たんだ」というニュアンスの言葉しか寄越さない桜庭から、その殆どが離れていった。
 やっぱり俺はその様子を横目で見ていた。
 諦めない奴もいた。しつこく絡んでノートのコピーだけでも引き出そうとする奴らだ。それでもキツい言葉しか渡さない桜庭相手に彼らはついに暴力という手段に出ようとした。俺たちが大学で初めての定期試験を迎える少し前のことである。
 俺はその様子を横目で見ているわけにはいかなかった。
 親から貰った高い背と、浪人時代にハマった筋トレが役に立った瞬間である。
 桜庭と親しくなるのは簡単だった。
 危ないから、と理由をつけて隣にいる。後は桜庭の邪魔をしない。そうしているうちに見えてきた生活感の無さを横からちょっと補ってやる。これだけだった。
 一年生の夏季休暇には、当たり前のように泊まりにきていた。ソファを買い換えたのもその頃だったと思う。
 医者になってからも当たり前のように面倒を見てきた。夕食も食べようとせず病院で論文や臨床データと向き合っている桜庭を家へ引っ張って帰ることも珍しくなかった。好みの物さえ作ってやればきちんと食べたし、沸かしてやれば風呂も入った。ただ髪を乾かず行為だけは度々書物に負けていた。そんなときは俺が後ろから乾かしてやった。
「医者は辞める。僕はアイドルになる」
 そう桜庭が言い出したとき、寝言は寝て言えと本気で思った。歌が上手いのは知っていた。だけど何曲も踊れまい。その上笑顔を振りまくなど、天地がひっくり返っても無理だろう。第一芸能界など生き抜けまい。人間関係はどうするつもりだ。おべっかの一つも使えないくせに。同期ですら俺がクッションになっていることを分かっていないのだろうか。
 無理だ、と完全否定する俺の話を桜庭は聞かなかった。辞表も出した、今月いっぱいで辞める、事務所も決めたと言ってきかない。315プロダクションなど聞いたこともない。喧嘩は平行線の一途を辿った。
「やれるもんならやってみろ」
 結局俺のその言葉で喧嘩は打ち切られた。
 桜庭と会わなくなっても、最初のうちはなんとも思わなかった。どうせすぐ帰ってくるだろうと余裕かましていたのだ。
 しかしいつまで経っても帰ってこない。かといってメディアで見かける訳でもない。痺れを切らせてネットで調べてみた。辿り着いたネットニュースに載っていた一枚の写真。ライブ中の物だろう。その写真を見たときの衝撃を俺は今でも忘れられない。何年も一緒にいたにもかかわらず、俺はこんなにも楽しそうな桜庭を初めて見た。俺の知っている桜庭薫はもういない。そして帰ってくることもない。
 一瞬で浮かび上がった考えを肯定することが出来なかった。感情は情報で打ち消せばいい。俺の家には瞬く間にCDやブルーレイを初めとした男性アイドル関係のものが増えた。DRAMATIC STARSだけではなく、比較対象となる新人男性アイドル全般だ。そしてそのどれもが完全なる否定材料にはなり得なかった。
 気づいたところでどうしようもなかった。連絡先は消してしまったし、家に押しかける訳にもいかない。第一、まだ同じところに住んでいるのかすら分からなかった。
 テレビで見かけるようになったのは、それから暫くしてからのことだった。
 未練がましく情報を追いかける俺に、桜庭薫及びDRAMATIC STARSは着実な成長とその伸び代を見せてくれた。否定材料が増えて行くのと比例して、俺の部屋と食生活は悪化していった。そして典型的な「ダメな独身男性」となった辺りで訪れたのが、例の飲み会だったのだ。

 眠っているのをいいことに桜庭薫の髪へ手を伸ばす。明らかに昔より指通りがよくなった髪を数回すくように撫でてから、目尻、頬、顎の輪郭へと手を滑らせていく。
 桜庭がここにいるのも後数時間だ。再度訪れる保証はどこにもない。
 左手に持った缶の中身を煽るように吞み下す。温いビールは喉を通ったのち、胃の中に残ったままのアルコールと混ざり合う。吐き気すら催しそうなほどに不快だ。
 缶を床に置いて両手で首に手をかける。
 握力しかかけていないにも関わらず、俺の指はしっかりと桜庭の首に食い込んでいた。腰を浮かせて真上から覗き込む体勢を取る。上から体重を掛けようとした瞬間、呻き声と共に桜庭の目が薄く開いた。噛み合った視線は俺の握力を抜いた。咳込む姿から顔を逸らす。視線の先には、ローテーブルに置かれた俺のスマートフォンがあった。光る画面は迷惑メールの受信通知と共に、シルバーの衣装を身に纏った桜庭が映し出されていた。そっと手に取って居間から出て行く。
 玄関の扉を閉めるまで、咳込む声は消えなかった。

 壁、扉、床、天井。全てが白を基調としているこの空間を、白い白衣を着て歩く。入院室ばかりが並んでいるため廊下には人が少なく、外来のある階と比べてとても静かだ。故に突きあたりを曲った先にいるであろう人物の声が微かに聞こえてくる。
「……ってもう……いでしょ」
「……らばせんせいが……」
 桜庭先生という名前が聞こえて足を止める。忍び足で曲がり角まで歩いていき、耳を欹てる。
「でもさあ」
「あんたの気持ちは分かるよ。でも居ないものは居ないんだから」
「そうだけどさ」
 会話を聞きながら思わず眉を顰める。未だにそんなことを言っている奴がいるのか。桜庭などとっくの昔に出ていったじゃないか。
「なにも絞め殺すことないでしょ」
「はあ?」
 盗み聞きしていたことも忘れて口から声が漏れる。絞め殺したとは何だ。誰が? 俺が。いや、俺は殺してない。
 唐突に全身に不快感を覚える。まるで冷や汗で全ての衣服が貼りついたみたいだ。同時にやって来た寒気に足が震えるのが分かる。
「ちょっと!! お兄さん!!」
 声とともに左肩が掴まれて揺すられる。その衝撃が思考と感覚から俺の意識を現実へ引き戻した。
 全身ずぶぬれで背中が固い。何故か仰向けで寝そべる俺の真上から、黒い布地と細い金属を背景に知らない男が覗き込んでいる。
「意識あるね。起きられるかい?」
 真上から覗きこんでいた男が少し左へとずれると、俺の顔面に大量の水が降り注ぐと同時に、雲に覆われた暗い空が現れる。俺は手を着いて起き上がろうとしたが、左右にそんなスペースはなかった。何度か空振りしつつもぞもぞと上半身だけ起き上がる。降り注ぐ雨は冷たく、周りは暗い。そして頭が割れるように痛い。状況から察するに俺が寝ていたのは屋外のベンチだろう。
「体に異常はない?」
「……はい」
「ただの酔っ払いかな」
「……たぶん」
 男と会話しながらベンチへきちんと座り直す。凍えるように寒いにもかかわらず胃のあたりが熱と不快感を主張してくる。
「とりあえず身分証明書ある?」
 ごそごそとズボンのポケットを漁る。スマートフォン以外には何も入っていなかった。
「ないの? お兄さん名前は? あと住所も」
「……ここどこですか?」
「いいから名前は? 何してたの?」
 先ほどからの疑問を口にするも男は答えてくれなかった。どうしたらいいかよく分からず目をぎゅっと瞑って考えてみようとしたが、胃の不快感と寒さと頭痛で頭が上手く回らない。さらに額に手を当てたところで少し遠くから声が聞こえた。
「すみません」
 男の後ろから傘を差した桜庭が駆け寄ってくる。声と足音に気付いた男は振り返った。
「はい」
「彼は僕の友人です。不審者ではありません」
 不審者、という単語が不透明な頭に引っ掛かる。男は俺を置いて桜庭と会話をし出した。そっちの方がよほど話が通じると判断して切り替えたのだろう。雨音のせいで二人の会話は意識しないと聞きとれそうもない。聞く気も起きないので俺は足元にあった白いビニール袋の中を覗いた。大量の空き缶は全て酒だった。明らかに俺が一晩で飲める量を超えている。再度二人に視線を移してやっと気付いた。特徴的なぼうしにかっちりとしたシルエットの服。そしてその両方がこの暗闇に解けそうな濃紺。どう見ても警察である。
 警察は暫く桜庭と話した後、ちらりと俺の方を見た。そしてまた桜庭に向き直ると何かを言って去っていった。
 警察を見送った桜庭は俺の正面まで来た。右手で傘を差しており、反対の手には閉じられた傘と、白い布と黒い布が掛けられている。
 目の前で中腰になった桜庭が傘を開いて差し出して来たので無言で受け取る。白い布を頭から掛けられた。大判のタオルだった。黒い布が掛けれたままの左手でがしがしと頭を拭かれる。
「立てるか?」
「……ああ」
 俯いたまま立ち上がった俺に今度は黒い布を差し出して来た。広げてみると俺のコートだった。少し迷ったがびしょ濡れの袖を通すのが嫌で肩から掛けるだけにした。桜庭はその一部始終をじっと見ていた。
「帰るぞ」
「……」
 俯いたまま無言でいた。向かいから小さな溜息が聴こえる。そっと伸びてきた左手が俺の手首をつかむ。跡なんか絶対残らないほど優しかった。
「帰ろう」
 そのまま桜庭に手を引かれる形で俺たち二人は歩き出した。ずぶ濡れの服とその上に掛けたコートが重かった。前を歩く桜庭はベージュのコートの上にきっちりとマフラーを巻いていた。

「風邪をひくぞ」と到着早々脱衣場へ押し込まれた。張り付いた衣服を引き剥がして洗濯機に放り込む。洗濯機の上にスウェットが畳んで置かれている。桜庭に貸したやつだろう。風呂場へ移動して蛇口を回し、シャワーの温度が上がるのを少し待つ。温かくなったのを確認して頭から浴びると生き返った心地がした。目覚めてから今まで心も身体もまるでゾンビのような感覚だった。体温が上がって行くとともに「戻ってきた」という感覚が広がっていく。家に、日常に、少しずつ戻っていく。桜庭はここに来るまで何も言わなかった。
 体温が完全に戻りきったところでシャワーを止めて脱衣場へ出る。棚からタオルとスウェットを取り出して、体を拭いて着る。そしていつもより丹念に髪を拭いた。桜庭はまだ居るのだろう。家主に無言で帰るような奴じゃない。外へ出るのが怖かった。それでもあまり待たせるのは悪いのでドライヤーをかけるのは諦めた。

 居間に戻るとローテーブルの上におにぎりとパン、そしてインスタントのカップスープが置かれていた。その横には向かいのコンビニの袋が置かれていた。
「食べられるか?」
「スープだけ貰うわ」
 桜庭がコーヒーカップを両手にキッチンから歩いて来る。ローテーブルにカップを置いて再度キッチンに戻り、電気ケトルを持ってきた。コーヒーも朝食も俺が用意していた。豆から挽いていたし朝食は勿論手作りだった。今となってはもう昔の話だ。
「今日も仕事だろう」
「いつも通り7時からだな」
「なら長居すると悪いな」
 隣の桜庭がパンを食べながらそう言った。服装は黒のハイネックに戻っている。正面のテレビではライブブルーレイの再生画面が表示されたままだった。

 玄関で桜庭と向かい合うのは初めてかもしれない。少なくとも俺の記憶には無い。一緒に家を出るのが当たり前だった。
「きちんと仕事に行くんだぞ」
「分かってるよ」
 返事をしながら俺は自称気味に笑ってみせた。サボる気は無かった。せっかく桜庭が連れ戻してくれたのだ。
「ああ、服は洗濯機の上に置いておいた」
「知ってる」
 暫く無言で向かい合う。桜庭も察しているのだろう。何か言いたげに口を開いては、言葉にならずに噤んでいる。
「お前も仕事だろ? 遅刻するぞ?」
「……そうだな」
 その言葉に背中を押されるように桜庭は玄関のドアを開けた。
「じゃあな」
「おう」
 桜庭がドアの外に消えていく。ガチャリと完全に閉まったのを確認してからポケットの中のスマホを取り出した。ロックボタンを押すと何故か電子マネーの利用通知が表示されている。アプリを立ち上げて時間と店を見る限り、公園に行く前に買ったのだろう。足元の空き缶の出所はこれかと納得する。そういえば財布は持ってなかった。
 こんなしょうもないことはどうでもいい。直ぐに連絡先を開いて桜庭薫の項目を消した。桜庭は「またな」とは言わなかった。俺も言わなかった。つまりはそういうことだ。
 居間に戻ってブルーレイディスクを入れ替える。家を出るまでまだ少し時間があった。
 太陽に近づきすぎた英雄は蝋で固めた翼をもがれ地に落とさせる。
 では星に近づきすぎた凡人は? そもそも羽根も無いのにどうして側に近づけたのか?
 多分奇跡だったのだ。俺の隣という場所に居たこと自体が奇跡で、本来いるべき場所は最初から手の届かない場所だった。
 もう隣には居ないけれど、迷子の夜には光で道を正してくれる。それだけでもう十分なのではないだろうか。
 液晶画面の中で桜庭が笑う。実物はとっくに帰っていった。俺ももうすぐ着替えて出なければならない。
 ありがとうと呟いて画面を消した。
 次のソファは何色にしようかと考えながら。