結局はただ見とれてただけ

 ストーカーまがいの嫌がらせをされたとか、後ろから突き飛ばされたとか、そんな話はよく聞かされてはいた。でもそれは、弁護士は良くも悪くも他人の人生を変える仕事であることを忘れるなって伝えたいから聞かせるのであって、所詮は教訓みたいなもので身近にあるものとは程遠い話だと勝手に思い込んでいた。それがまさか、自分の事務所の先輩が階段下に突き落とされるとは夢にも思っていなかったのだ。

 喫煙所を目指して病院の廊下を歩く。白を基調としたその建物の中は、清潔や潔白という言葉がよく似合う。そこで働く人たちもやはり白を身にまとっていて、その姿に患者や天道のような見舞い客は勝手に厳かな印象を抱くのだ。さっきまでいた先輩の病室もやはり真っ白で、足を釣り上げてベッドに寝かされている先輩にはなんだか似合わない部屋に感じた。患者のための部屋なのに患者に似合わないというのも変だが、単純な話、天道が病院という施設に苦手意識を持っているだけである。
 居心地の悪さから逃げ出すようにガラス張りの大きな玄関口から抜けて、先輩に教えてもらった方へと進む。このご時世にこんな大きな病院に喫煙所があるのは珍しいと驚いたが、せっかくあるものは利用するに限る。教えてくれた張本人は歩けないから吸いに行けないと嘆いていた。
 目的の場所は病棟の陰になるようにひっそりとあった。女性が座っている木製のベンチの隣にはよくある縦長の灰皿が立っていて、その周りにはぽつりぽつりと距離を開けて四人ほどが立っている。その中に溶け込むように、病棟を背に立ち煙草に火を付ける。オイルライターの蓋が閉まる音と、慣れ親しんだ煙の味に先ほどまで残っていた圧迫感が心から消えていく気がした。穏やかな気持ちで握ったままのパッケージに視線を落とす。上部の赤が女性の唇を模したものだと知った時は自分の似合わなさに渇いた笑いが出たが、最初の一口が一番美味いところは何より気に入っていた。
 視界の端で白が舞う。つい気になって目で追うと、白衣の男が二人、斜め向かいに立ち止まったところだった。人当たりの良さそうな柔らかな雰囲気の男と、整った容姿のせいか随分と冷たい印象の、対照的な二人だ。明るく話題を振る茶髪の医者の言葉に相槌を入れながら、黒髪の細身の医者は白衣から少し潰れたソフトケースを取り出した。細く少し筋張った長い指で一本抜き取って咥えた時、隣の医者が彼の前にオイルライターと差し出す。気付いたその男は差出人の顔を見上げながら、小さく微笑んで受け取った。先ほどまでの冷たい印象が嘘のような、可愛らしいという表現の似合う表情だった。やはり同じように話を聞き流しながら火をつけて、吐き出す。もう一度咥え直し、レンズの奥の目を細めながらゆっくりと吸い込んでいった。そして、ため息をつくように煙も吐き出す。赤の他人を凝視することが失礼だとは分かっていながら、天道はその一連の動きから目が離せなかった。
 既に白衣のポケットに仕舞われた白地のソフトケースには赤い丸が描かれていた。天国に一番近い煙草、と呼ばれているものだ。体に一番悪いからというデマから生まれた俗称に過ぎないが、目の前の男とは随分イメージとかけ離れているように思えた。天道は彼を知らない。彼がどんな風に患者に接し、どんな思いで患者を救っているのか、そんなことももちろん知らない。整った容姿からも、染み一つ無い白衣からも、同僚らしき隣の男に対する態度からも、誠実さしか汲み取ることが出来なかった。初めて煙草を吸った時、彼は何を思ったのか。今何を考えて、美味しそうにその煙草を吸っているのか。彼自身が持つ印象と、その煙草が持つイメージの間に一体なにが埋まっているのか。そしてなぜイメージにそぐわない煙草を吸うその男の姿がこんなにも絵になるのか。ずっと眺めていたところで、天道が見つけられるはずもなかった。
 目の前の灰皿に煙草が二本放り込まれる。天道の視線なんて気付かなかったのか、二人は当たり前のように来た道を帰っていった。ろくに吸ってもいないのに、手元の煙草はもう短かった。投げ捨てるように灰皿に放り込んで、新しいものを咥え直す。火をつければきっと、彼は自分の頭から消えるのだろう。
 天道たちがアイドルになる三カ月ほど前の、そして二人が恋人になる半年ほど前の出来事だった。