青春は君と俺の間に

 テニスの試合の放送が見たいからと楽しそうに言って柏木は足早に事務所を後にした。プロデューサーも用事があるのか、柏木の後をついて事務所を出ていく。山村は少し前にBiteに誘われて早めの夕食を取りに出かけた。珍しく人気のない事務所の中で、同じソファに天道と桜庭は座っていた。用事は済んだにもかかわらず、二人とも帰る気配はない。
「帰らないのか?」
 いつものように手と足を組んで座っている桜庭の視線は、天道と反対方向の窓に向けられている。
「……帰るけど」
 腿に肘をつき前屈みに腰かける天道の視線は、桜庭と反対方向の床に向けられている。
「お前こそ帰らないのか?」
 ついた方の手で、手持ち無沙汰に髭を触りながら天道が聞き返す。
「いや……帰る」
 窓に視線を向けたまま、桜庭はそっとソファに背を預ける。
「……あっ、そう」
 そこで会話は途切れ、換気扇の音だけが事務所に広がる。数十秒の無言の間を破ったのは天道だった。
「お前、今日飯は?」
「……特に決めてないが」
「なんか食ってく? ちょっといい店行ってもいいし」
 重苦しい空気を振り払うかのようにわざといつも通りの口調で話す天道の心境を知ってか知らずか、桜庭はいつもと変わらぬ様子で返事を返してくる。
「いつものファミレスじゃないのか?」
「まあ、翼もいないし」
「……柏木がいないから?」
「いや、だってあいつ……量多いし」
「まあ、そうだな」
 張り詰めた会話の中に、笑うような息の抜ける音が混ざる。視線は一向に交わらない。
「まあ別に外で食ってかなくても。俺の家来てもいいし」
 空気が張り詰め無いように、軽く抑揚をつけて発する言葉に合わせてソファに背を預け足を組む。正面から見れば桜庭と対になっているだろう。
「何かあるのか?」
 その瞬間、空気が張り詰める音が聞こえた気がした。勿論そんなものは聞こえないし、桜庭に体が無いことも分かっている。天道は動揺と不安を噛み殺すようにして口を開いた。
「……何が?」
「いや、夕食」
「ああ、……別に何でも作るぜ?」
「……和食がいい」
「おう、任せろ」
 張り詰めて、少し緩める。このむず痒い空気を作っているのは自分であることを天道は自覚していた。おそらく、桜庭も気づいているだろう。天道が作り出した空気を理解しながら口にせず、張り詰めすぎないよう通常の口調を心がけてくれている。目も合わせていないのに、よくここまで桜庭のことを読み取れるようになったなと、付き合いの濃さに少しだけ心が温かくなった。普通に会話すればいい。空気を破るように桜庭の方を見る。視線に気づいた桜庭と見つめ合って数秒後、出てきた言葉は何とも情けなかった。
「あ゛ー。なんなんだよ、もう」
 視線から逃げるように桜庭にもたれかかる。
「煩い。重い。なんなんだ君は」
「家くんの?こねぇの?」
「……行く」
「……おう」
 シャツ越しに桜庭の体温を感じながら、あまりの酷さに恥ずかしさが込み上げてくる。自分はこんなに不器用だっただろうか。いや、28歳にもなる男が恋人を家に誘うのにこの惨状は有り得ないだろう。これではまるで初めて彼女が出来た男子中学生だ。
「だから……なんなんだよこの空気……」
「……僕が知るわけないだろう」
 俺だって分からないよと返したかったが、悪いのは自分自身だと自覚があるので諦めることにした。目を瞑って冷蔵庫の中身を思い浮かべる。酒の残りも少なかったはずだ。
「スーパー寄って帰るか」
 天道がそう呟いてドアへ向かったにも拘らず、桜庭は立ち上がる気配を見せない。
「なあ天道」
 背後にあるソファに座ったまま声をかける桜庭の表情は、もちろん天道から見て取ることは出来ない。
「僕たち付き合って大分経つと思うんだが」
「そうだなあ」
「……僕が言えた義理ではないが」
 言い辛そうにしている辺り、先程のバカみたいで遠回りな会話に苦言を申し立てたいのだろう。付き合いたてですら無い大人二人の会話にしてはあまりにも幼稚な事くらい、天道自身も理解していた。
「もっとスマートな奴だと思ってた?」
「そうだな」
「俺もそう思ってた」
 前の彼女のときはそうだったよ。だからこれはお前の所為だ。どちらも口が裂けても言えたことでは無い。
「ほら、帰るぞ」
 貶された割には随分と明るい声と共に天道は振り返った。そのくらい好きなのだから仕方がないという諦めの感情を、天道はとっくの昔に抱いていたからだ。それを知らない桜庭は少しだけ困惑したような表情を浮かべながらも、鞄を片手に天道の隣まで歩いてくる。
 ドアノブを握った反対側の左手で、桜庭の手にそっと触れる。天道が逃げないように遠慮がちに絡め返してくれた指は、階段を降り終わるころには離れてしまうのだろう。誰にも見られない階段で、誰にもバレないようにそっと手を握り合う様はそれこそ中学生のようだなと、天道は心の中で独り言ちた。