ろうそくに灯る光のごとく

 今となっては掌に収まってしまうほど小さなそれを当時は両手でしっかりと持っていた。木箱の蓋はガラスがはめ込まれており、中には青を基調とした蝶の標本が羽を広げて鎮座している。
「お前、今日誕生日なんだろ?」
 ほら、と笑顔で差し出されたそれを、後に宵闇の王と呼ばれるようになる少年は不思議に思いながら受け取った。確かに今日は少年の八歳の誕生日だ。だからといってなぜこの男が自分にプレゼントを渡してくるのか。彼とは一週間前に知り合ったばかりである。ここファンタスマゴリーという国には暗夜という二つ名がついている。光に見放され闇に支配された土地は文字通り日の当たらぬ者たちが跋扈し平和とはほど遠い。当然町並みも荒れ果て、管理の行き届かず放棄された建造物は数え切れない。不当に占拠され悪の巣窟と化している場も多いが、ここはそういった人物たちからはどうも嫌煙されているらしい。少年たちのほかに人の気配はない。
「お前はいっつもここにいるのか?」
 そう言いながら、先日テッドと名乗った少年はあたりを見回した。並ぶ机と椅子は古びてこそいるものの質のいい木が使われておりずっしりと重厚感が溢れている。入り口付近にあるカウンターは当然無人であった。先へ目を向ければ視界が許す限りびっしりと、彼らでは到底手が届かない高さの本棚が立ち並んでいる。少年が持ち込んだランタンの光だけが周囲を照らしていた。卓上は揺らめき、重厚な天板と少年が開いたままの本、そして今しがた受け取ったばかりの木箱とその中で艶麗さごとピン留めされた蝶へ光を注ぎ、受けたそれらが反対方向へ深い影を落としている。少年はじっと木箱の中を見た。傷一つなく広げられた羽根は青と黄色、そして艶のある黒の三色で複雑かつ艶やかな模様を成している。
「本なんて見ると目が悪くなるぞ」
 机に手をつきながらテッドが言った。少年が机に積み上げた本の背を、目を顰めながら眺めている。この真っ暗な国で文字を追うには手元に明かりを用意するほかない。室内を照らしきるなど夢物語だ。たった一日でも燃料代がとんでもないことになるだろう。そしてそんなことをしようものなら窓から漏れた光を見たアウトローたちが嬉々として乗りこんでくるにちがいない。私は金持ちです、と自らアピールするようなものである。やっているものがいないとは言わない。周囲に怖いものなどいない、そこら一帯を牛耳っているような大悪党どもは自らの威厳を示すかのようにアジトへカンカンと明かりをつけている。そんな情勢が何百年という単位で続いたこの国は案の定識字率が低い。口伝が基本となっており、平民は数字こそ読めるが文字を追えるものは少ない。それもせいぜい自分の名前や身の回りにあるものの単語を読み書きできる程度である。長文、ましてや本を読むものなどほぼいないに等しい。それでも国の施策として識字率を上げようとした次期もあった。この荒廃した図書館はその名残である。
「視力ならすでに手遅れだ」
「そもそもこんなもの見てどうするんだ?」
「あのな、テッド。本は見るものじゃない。読む、と言うんだ」
 ふうん、と実に気の抜けた、興味のなさそうが相づちが返ってくる。テッドは積み上がっている本の一番上を取った。そうしてつまらなそうな顔でパラパラとページをめくる。すぐに彼の眉には皺が寄っていった。
「なんだよこれ、絵が一つもないぞ。なにも分からないじゃないか」
「文章が載っているだろ」
「お前、何が書いてあるか分かるのか?」
 彼がこくりと頷いた瞬間、テッドの瞳がパッと見開く。「マジで? マジか?」などと年を押したのち感心したような声で「ただのいじめられっ子じゃなかったのか」などとほざいた。確かに傍から見た彼は『いじめられっ子』と呼ばれるにふさわしい。二人が初めて出会った一週間前も、やはりこの少年は同い年の子供ら三人に取り囲まれていた。見ず知らずにもかかわらず彼の前に立ち、暴力と暴言を行使していた三人組を追い払ったのがまさしくこのテッドである。よって彼はテッドに大変感謝をしている、なんてことはなかった。常人なら間違いなく感謝する場面であるが、残念なことにこの少年は少しばかり常識から逸脱していた。自分がいじめられているなど微塵も認識していない。暴言暴力を振るわれていること自体は理解をしているが、それに屈したことも言いなりになったこともないので彼はこれを喧嘩と認識していた。そしてテッドのことはなぜか割って入ってきた変なやつだと思っている。三人を追い払った際、テッドは「大丈夫か?」と満面の笑みで彼を振り返った。それに対する彼の返事は「なんだお前は」であった。助けてやったのにぶっきらぼうにそう言ってくる彼に対してテッドは怒った。人の喧嘩に急に割って入ってきたあげくなぜか切れだしたテッドに対して彼も怒った。それが一週間前の出来事である。
 よってテッドが彼の前に姿を現したのは今日が二度目であり、なぜ誕生日を知っているのかも、なぜ贈り物まで用意して祝いにきたのかも彼には分からなかった。
 しかしそんな疑問は意識の片隅に追いやられている。少年は何度も箱を傾けた。動かすたびに蝶は色と輝きを、そして影を変えていく。彼はただひたすらにそれを眺めた。腹を満たすわけでも知識となるわけでもない。ただ美しいだけのそれに少年は間違いなく視線も心も奪われていた。調度品を人から贈られたのは初めてのことであった。それどころか、自分のものとして手にすることすら初めてである。
「気に入ったか?」
 真向かいから聞こえてくる問いに対して彼は素直に頷いた。未だ蝶から視線を放せない彼にはテッドの表情が分からない。しかしその声色が実に穏やかであることはきちんと認識できていた。
「それじゃあお礼に、教えてくれよ。この本になんて書いてあるか」
「いやだ。面倒くさい」
 少年の辛辣な一言に、テッドは言葉を返してこなかった。それどころか身じろぎ一つする気配がない。おそらく予想外だったのだろう。
「一つ一つ内容を教えていては効率が悪い。自分で読め。……読み方なら教えてやる」
 そういいながら少年はやっと視線を上げた。彼の目の前で、ランタンに照らされたテッドの顔がパッと破顔した。

 古びた木箱に収まる蝶の標本、宝石を模した青いガラスがはめ込まれたピアス、金糸の刺繍が施されたスカーフ、見事な装丁をした革張りの本は遠く離れた国のものらしく書かれた文字を読むことはできない。鮮やかな色の絵の具がふんだんに使われた絵画に、細やかな意匠が施された銀のペン。本物の金にルビーがあしらわれた指輪は彼の指にぴったりとはまる。 一人で使うにはあまりにも広すぎる寝室はオレンジ色の光で満たされていた。天井からのみにあらず四方八方の壁に備え付けられたランプはそれぞれ柔らかな光を放っている。それらを一心に受けながら宵闇の王は大きな戸棚を開けた。そこには上記を含めた十八個の品が等間隔に静座している。彼は一番上の、左隅に置かれた木箱へ手を伸ばした。当時は大きく感じたそれはもう片手に収まってしまう。それでも宵闇の王はそれをわざわざ両手で持った。そして中の蝶を見つめたまま箱を小さく傾ける。
 少年が宵闇の王と呼ばれるようになるまで、ファンタスマゴリーの悪を踏みつけその上に君臨するようになるまでテッドは常に彼の隣にいた。実権を握り身の回りを騎士団で固めてからも彼は休むこと知らず、治安とインフラの向上は当然の責務とした上でさらに先を見据えていた。
「根本的に国力が低すぎるんだ。だから大きな力が、この国の象徴となるようなものが欲しい。しかしゼロから生み出しては時間が掛かる。……そこで一つ考えがある」
 錬金術、および錬金術師。隣国で密やかに噂されるそれは魔術師からも科学者からも受け入れられていない。蔑称であり、日陰者であり、そして身を隠しながら小さく散けて点在している。
「先進国の連中が持っている魔術の信仰も科学の信念も我らには知ったことではない。あれを引き入れて、国を挙げて支援する。上手くいけば何十年、いや、何百年分の時が一瞬で進むだろう。錬金術だけではない。無意味に不当な扱いを受けている有能なものをどんどん引き入れて成長させていく。当然、本当の悪も混ざり込むだろうがそこは見つけ次第きちんと叩き潰す。どうだ? 暗夜の国にふさわしい戦略だと思わないか?」
 静かに聞いていたテッドは「分かった」と言って頷いた。それ以来テッドは彼の隣から姿を、そしてファンタスマゴリーの歴史から名を消した。全ては故郷のため、そして彼の理想のために今は見知らぬ国を渡り歩いている。
 しばらく蝶を眺めていた宵闇の王は壁の時計へ視線を移した。針はもうすぐ二十四の位置で重なろうとしている。他国では十二を二回繰り返すことで一日の時間を把握しているらしい。それでは混乱するだろう、と眉を顰めた彼に「日の光が移り変わるから分かるんだよ」とテッドは笑った。闇に閉ざされた世界にいるものには到底想像のできないことであった。あの日、彼に読み書きを教えて貰っていたはずのテッドは長い時を経て彼にものを教える立場へと変わっていた。もう数年に一度しか顔を合わせていない。それでも彼の元には年に一度、必ず贈り物が届いていた。それには名もなく手紙もない。腹を満たすわけでも知識となるわけでもない。ただ美しいだけの贅沢品をこの日に送りつけてくる人物を王は一人しか知らない。隣にいたころからの習わしだったからである。だから十九個目が今日、目の前の棚に並ぶはずであった。並ぶものだと信じて疑わなかった。遅れたことも届かなかったこともこれまで一度もなかったのだ。
 だからドアを叩く音が聞こえた瞬間、彼はハッとして駆け寄った。標本を持ったまま重厚なドアが開かれるのを待つ。そこに立っていたのは見知った従者であった。片手に銀の盆を持っており、そこには小さな瓶とグラスが載っている。それ以外はなにも持っていなかった。
「一向に明かりが消えないため、寝酒をお持ちしました。……明日のご予定は先ほどお伝えしたはずですが」
 要約するなら「早く寝ろ」である。肩透かしを喰らった彼はぶっきらぼうに「そこに置いておけ」とベッド横のチェストを顎で示す。従者は言われたとおりにそこへ盆を置きさっさと部屋を立ち去った。ドアが完全に閉まったことを確認してから彼はため息をつく。とぼとぼと棚の前に戻り木箱を元の位置に戻した。そのまま重い足取りで壁のランプを一つ一つ消していく。そこには王としての威厳など微塵も感じられない。最後にベッド脇の明かりを消して、彼は眼鏡を外した。そのまま倒れ込むように寝具へと身を沈める。そのままゆっくりと目を閉じた。眠ってしまおうと思った。彼にできることは他に何もなかったからだ。仰向けに身を動かして片腕で目を覆う。彼は意識して体の力を抜いた。意識を手放すために深く呼吸をする彼の体を緩やかな風が撫でていった。ああ、窓を閉めるのを忘れていた。しかしもう起き上がるのも面倒だ、とそのまま再度深い息を吐いた彼の髪がくすぐられる。それは風ではなかった。明確な意思と熱を持っていた。彼はとっさに腕をどけて目を見開いた。幼少期から酷使した目はもはや眼鏡なしでは近距離のものすらろくに輪郭を捉えることができない。それでも一目見た瞬間に分かる。闇夜の中でもよく目立つ燃えるような赤い髪を彼が見間違うはずがなかった。
「悪い、遅くなっちまった」
 誕生日おめでとう。テッドがそう言い終わるより先に、彼の手は大きな背中へとまわっていた。