涅マユリはずっと悩んでいた。更木がこの自室を訪ねてきたのは今から半刻ほど前である。そのとき涅はすでに技術開発局の研究室から引き上げており、それどころか夕食や入浴すら済ませた時間帯であった。化粧も整髪料もきれいに洗い流した涅は自室でのんびりと、浦原商店を介して取り寄せた現世の論文に目を通していた。そこにずかずかと更木がやってきたのだ。様子からしてすでに一杯やった後らしい。大方、部下を引き連れて隊舎近くの飲み屋にいたか、京楽と呑んでいたかのどちらかだろう。
約束どころか連絡すらなしに来た更木に対して、涅は特に文句の一つも言わず適当な酒とつまみを出してやった。そのまま論文を置いて隣に座ったのが半刻前のことだ。
それ自体は一向に構わないのだ。更木の来訪自体はいつものことで、忙中でなければ涅も追い返したりはしない。このまま惰性で呑んで、日付を超すごろになったら同衾して、そして朝になったらさっさと帰れと追い立てる。そこにはなんの疑問も不満も、涅は抱いていなかった。いつも通りである。ただ一点を除いては。
杯を片手に普段通りの会話を続けながらも、涅はずっと悩んでいた。平然とした顔で酒を呑みながら、時折涅は視線を部屋の隅へと向ける。つい見てしまう、と表現したほうが正しいだろう。そこそこ値の張る花瓶は、今の今まで収納棚にすっかりしまい込まれていた。何年ぶりかに引っ張り出されたそれには、随分と立派な花束が生けられたばかりである。
半刻前、ああ今日も来たかとあっさり戸を開けた瞬間、涅は硬直した。更木剣八に似合わない物ランキングを作ったら間違いなくトップ3入りを果たすだろう。普段なら酒か肴を提げているその手にあったのは花束であった。驚愕する涅相手に、更木は「ほらよ」とそれを差し出してきたのだ。まず驚いたのはその大きさである。図体のでかい更木が持っていたせいで目測を誤っていたらしい。涅は抱えるように両手でそれを受け取った。視線を落とすとそこに広がるのはまばゆいばかりの白と桃色である。花だけでなくリボンや包装紙までこの二色を使って仕立て上げられており、もはや少女趣味を通り越す勢いだ。これがミニブーケなら、贈られた少女も「わあ、かわいい!」などと歓喜の声を上げるかもしれないが、いかんせん寸法が大きすぎる。少女ですら困惑するだろう。ましてや自身はおっさんの隊長である。まさかこんな物を贈られる日が来るなど想像すらしたことがなかった。
奇妙な事態を引き起こした元凶である更木はといえば、渡してすぐに涅の脇を抜けて入室した。「ほらよ」以外に言うことはないらしい。涅の理解の範疇を全てが超えている。涅は数秒かけて、なんとか冷静さのかけらを取り戻した。とりあえず娘のネムを呼び寄せて、花瓶に生けるよう指示を出す。そうしてネムの手によって少しばかり、リボンと包装紙の分だけピンクの面積が減ったそれは涅の部屋の隅に飾られた。後は普段通りである。
よって涅は自室でひたすら悩んでいた。隣に座って杯を傾けている更木は普段通り、と呼ぶには少しばかり機嫌が良さそうな顔をしている。あれをどこで入手したのか、そしてなぜここへ持参したのか、話す気は一切ないらしい。しかし物が物である。なんとなく、ではありえないだろう。
真っ先に疑うべきは、世間一般で『記念日』と呼ばれるものであり、同時に真っ先に否定すべきものでもある。そもそも交際しているのかと問われれば涅は首を傾げるしかない。いわゆる告白という言質はどちらからもなく、さりとて関係は年単位で続いており、連れたって出かけることはないが涅は更木の他に相手を持っていない。それはおそらく更木も同じなのではないか、と踏んでいた。少なくとも涅視点、他の影が見えたことは一度もなく、また隠すのがうまいとは到底思えなかった。記念日やら行事やらを祝う感性は二人とも持ち合わせていない。少なくとも、関係が始まってから一度も話にすら上がったことがなかった。仮にそれが理由で持参したとしても、思い当たる祝い事が一つもないのだ。涅が忘れているだけ、の可能性は無いに等しい。少なくともこの男に記憶力で負ける気は一切しなかった。
そう考えると横流し説が浮上するが、それもまた考えにくい。こんなものを更木に贈る人などこの世に存在するとは到底思えず、更木に限らず十一番隊隊士の中でも似合うのは草鹿くらいのものだろう。それにしたって大きすぎるし、草鹿がもらった物を更木が横流しにするとは思いがたい。
となると可能性は一つ。今までの己の認識が間違っていたのではないだろうか。
他の人物に贈るつもりだったが、渡せなかったのでここへ持ってきた。
想定しうる事態の中で、これが最も現実的だろう。
つまりは他に相手がいるのである。それもこんな花束が似合うような相手だ。それはもう可愛らしくて若い娘に違いない。
じゃあなんで此奴はここへ、こんなおっさんの元へ年単位で通っているのか。そしてなぜ今現在、上機嫌にしているのか。可能性こそ高いがやはり矛盾が出る説である。よってまた別の可能性を追求するべきなのだが、物事には時間制限が存在するのだ。卓上にあった肴は全て二人の胃の中に収まり、酒瓶の中身はもう底をついている。なにより涅の脳は十二分にアルコールへ浸かってしまった。隣に座る更木が、片付けるようにぐいと杯を煽る姿をぼんやりと眺める。それがコトリと音を立てて卓に置かれたところで涅は白旗を上げた。
「なんだネ、あれは」
あ? と首を傾げて更木はこちらを見た。そのまま涅は部屋の隅を、異質さを放っているそれを指さす。
「だから、あれだヨ」
「なんだ、って言われてもよ」
質問の意味が分からない、と言わんばかりに更木は怪訝な顔をしている。どうやら此奴のなかでは特別おかしいことではないらしい。どんな理屈だ、と思いながら涅はかみ砕いてやるように質問を変える。
「どこで貰った?」
「貰った? 買ってきたんだよ」
「……なんで持ってきたんだネ?」
「逢い引きに行くならたまには花でも持っていってやると喜ぶ、って京楽のやつが言ってからな」
平然と放たれたその言葉を飲み込むのに、涅は三秒かかった。言いたいことはいくらでもある。さっきまで京楽隊長と呑んでたのか、よくこんな遅くまで開いてる花屋を見つけられたネ、貴様はここに来ることを逢い引きだと認識しているのか、贈呈品には理由に合わせた適切な大きさが存在するんだヨ、多分京楽隊長は相手が私だって把握していないよネ。
その全てを飲み込んで涅は「……ああ、そう」と呟いた。そのまま立ち上がろうとした瞬間、それを察したのだろう、隣から伸びてきた手がそっと涅の手首を掴んだ。
「片付けるだけだヨ。それともまだ呑むかネ?」
涅が尋ねても返答はなく、更木はただ無言で涅を見据えたままぐいと手を引いてくる。ああこれは、とんでもないのを捕まえてしまったのかもしれない、などと思いつつ、涅は顔に出さないよう努めるほかなかった。