やはりこいつには別に女がいるのではないか。涅が再度そう疑いだしたのは瀞霊廷が落ち着きを取り戻し、そこから暫く経ってのことである。愛染惣右介を首謀者として繰り広げられた破面との戦いは護廷十三隊側が勝利を収め、その後始末も落ち着いたころ、急に一つの噂が流布しだした。更木剣八が見知らぬ女を連れて歩いていた、との目撃情報がいくつも上がったのだ。それも一度ではない。先日見た、いや俺は先週見た、私は半月前に見た、と複数回に渡って目撃されているらしい。
それに対して、涅はわりと憤っていた。向こうが戦闘を得意とする十一番隊であることはもちろん理解している。よって戦いが終わればその後に任される仕事もそう多くはないだろう。それに対して十二番隊は技術開発局を内包している。救護を担当している四番隊と並んで、後始末に最も奔走した隊と言っても過言ではないだろう。
こちらが多忙を極めていた中、隣の隊長は女を連れてふらふら遊んでいました、などと言われてはたとえ涅でなくとも憤るのが道理である。まあ百歩譲って遊び呆けているのは許そう。しかし本当に気に食わないのは更木の態度である。これで普段通りだったら涅だってこうも怒っていなかっただろう。結論から言うと、まさしく典型的な浮気中の男ムーブとしか表現のしようがない。元より、交際しているのかと問われたら首を傾げるような関係だ。唐突に花束なんか持参してきたこともあるが、基本的には夜中にふらっと来て朝になったら帰るのがかつての更木の行動パターンであった。それが今となってはどうだろうか。なんか欲しいもんはあるか、行きてえ場所とかないのか、たまには外で飯でも食うか。
男は浮気をしている最中は罪悪感で優しくなる、なんて話は昔からの定番だが、まさかこんなにも明快だとは流石の涅も思っていなかった。いい歳したジジイが、それも歴代最強と謳われる剣豪剣八が、小物みたいな動きをしやがって。という思いが涅が抱いている怒りの大半を占めていた。なのに誘いを断らず大人しくついて行くのはひとえに尻尾を掴むためである。今のところ、噂からある程度の情報を掴んでいるのみである。小柄で細身、ずいぶんと色が白くて病弱そうな印象の若者らしい。着衣は常に死覇装らしいので死神説が濃厚だが、貴族が身分を偽りたいときに死覇装を着て出歩くことは多々あるのでまだ決め打つのは早い、というのが涅の見解である。
そして今日もまた夜に、化粧も落として自室でくつろいでいた涅の元に更木がやってきた。二つ返事でついていった先は十二番隊の隊舎からそう遠くない。こぢんまりとした入り口をくぐると内装はずいぶんと洗練されていた。小さなカウンター席と、テーブル席が二つ。しかし店員はそこではなく二階へ上がった先の個室へと二人を案内した。
座敷に上がるなり更木が「飯はもう食ったのか」と尋ねてくるので、涅は「ああ」と頷いた。そのままお品書き片手に店員と話し出す更木に注文を任せて、涅は座敷内を見回す。
広さはないが調度品の類いは全て格式高く、畳や座布団にもほころび一つ見当たらない。そしてなにより天井四隅に擬態させて設置してある器具を涅が見落とすわけもなかった。技術開発局で製造と販売をしている遮音器である。ずいぶんと「いい店」だネ、と涅は内心で評価をしたが口には出さないでおくことにした。
店員の退室後、向かいに腰を下ろしている更木は「大分落ち着いてきたか」などと白々しく聞いてきた。こちらの都合など気にせず散々誘い出しているのはそちらだろう、と思いつつ、修繕や設備の構築は大方終わったヨ、と涅は答える。
「ただ虚圏の調査もあるからネ。やることなんていくらでもあるヨ」
それに対して、更木は相づちの一つも打たない。なにやらじっと考え込むように押し黙った後、ぽつりと「迷惑か?」などと零した。なにが、と涅が追うと「忙しいんだろ」と返ってくる。
涅は声のトーンを抑えて、感情が極力乗らないように努めながら「ああ、そう」と答えた。
自身は関係を続ける努力をした。だけどそっちが忙しいから身を引きます。つまりはそういう筋書きにしたいわけだ。巫山戯るなよ、と涅は素直に思った。終わりにしたいのはそちら側だろう。にもかかわらずこちらの都合、こちらが悪いかのように仕立て上げようとしているその神経がとにかく気に食わない。しかしここで大声でわめきでもしたら、まるでこちらが執着していて終わらせたくないかのように映ってしまう。それはそれでとにかく気に食わない、というのが涅の心境である。
意外にも今まで尻尾を出さなかったせいで、相手がどこの小娘なのかも涅はつかめていない。それでもあれだけの噂と目撃情報が出回っているのだ。しらばっくれるのも無理だろう。自身が非を被るつもりなど、涅は一切なかった。終わらせたいなら勝手にすればいい。しかしあくまでそちら側の都合だと、そこだけは釘を刺さねば気が済まない。
「忙しいのは貴様のほうだろうに」
「は?」
「終わりにしたいなら貴様が誘いにこなければいいだけだヨ。私からわざわざそちらに出向いたことがあったかネ?」
あえて小馬鹿にするような表情と物言いをしながら、涅は目の前の更木をしっかりと見据える。なぜだか怪訝な顔つきをしているが、それを無視しながら続けてまくし立てる。
「嫌だと言って泣きわめいてやる気なんて一切ないヨ。だけどね、まるでこちらの都合のせい、なんて格好を呑んでやるつもりもない」
馬鹿にするのも大概に、と涅が言いかけたところで廊下から「失礼いたします」と声が掛かる。一秒と待たずに襖が開き、その先では正座をした給仕が頭を下げていた。それに対して、向かい合った両者とも碌に反応を示さない。しかしこんな店であるからして、給仕も慣れたものだろう。彼女も平然とした顔で淡々と配膳をこなし、澄ました顔でもう一度頭を下げて退室していった。
さてその襖が閉まると同時に、つまりは先に口を開いたのは更木であった。
「なんで俺が忙しいんだよ」
「……はあ? 流石にそこをしらばっくれるのは無理があるヨ。で、どこの小娘だね? ああ、言っておくけど別に知ったからと言ってどうこうするつもりはないヨ? どうでもいいからネ」
六倍くらいの長さで涅が反論してやるとまた更木が黙り込む。無いに等しい脳みそで必死に考えているらしい、と思いながら涅は殊勝にも待ってやることにした。そのまま追い詰めても構わないが、まあ言い分くらいは聞いてやろう、と実に寛大な心持ちで口を閉じている。そもそも更木相手に口げんかで負けるつもりなど露ほどもない。今回など、完全に勝ち戦なのだ。誰に聞いても、いや別に誰にも言いふらしたりなどする気など一切ないが、なんにせよ世間一般の常識から見ても更木が悪いの一択だろう。むしろここは反論を聞いた上で完膚なきまでに叩きのめしてやろう、と内心で意気込む涅の耳に届いた言葉はあまりにも予想外であった。
「お前、いつからそんなに頭悪くなったんだよ」
「……貴様にだけは死んでも言われたくない台詞だネ」
立ち回りを考慮していたはずなのに、あまりの言葉に涅は素でそう返してしまった。まさか更木にそんなことを言われる日が来るなど想像すらしたことがなかったからだ。とはいえ現状、涅が把握している範囲ではまだ更木に非がある。追求をやめるつもりはない。
「どれだけの噂と目撃情報が流れてるのか知らないのかネ」
「あれだろ? 夜中に俺が女連れて歩いてるってやつだ」
「そうだヨ」と涅が頷く。肯定を受けた更木は噂されている特徴を一つずつ挙げていった。細身で、小柄で、やたらと色が白くて、死神で、と羅列する更木の言葉に涅は「うん」と首を縦に振っていく。青い髪を一つに纏めてて、と更木が続けるのでまた頷こうとして、涅は止まった。
「なんか爪が一本だけ異様に長い」
今度は涅が黙る番であった。そこから浮かび上がる人物像は涅の視点から完全に抜け落ちていた者であり、それが本当だとしたらあまりにも己は間抜けすぎる。なにか否定する材料はないものか、と涅は疑問点を口にした。
「……小柄? いや女性の平均と比べたら流石に上背は」
「まあ、俺と並んでりゃあそう見えるだろうな」
「……貴様と並んで大柄に見える奴なんて、狛村隊長くらいだろうネ」
ましてや自身など、男性隊長格の中でも下から数えて五本の指に入る程度の体格である。髪を伸ばしたことも影響したのだろう。まさか女性に間違われるのは盲点であった。涅は背を丸めてため息をついた。己の推測は根本から間違っていたのだ。となれは更木を責め立てる理由はもう一つも残っていない。
「……なんで急に、私のことあっちこっち連れ回すようになったんだネ?」
「調査とか言ってたな」
こちらの質問を無視された涅は露骨に顔をしかめた。しかし更木はそれに反応することなく「ここから遠隔でやるのか」と続ける。
「まさか。持ち帰った物はこっちで調べるけどね。まずは現地調査だヨ。往来が面倒だから現世に拠点を作るつもりだけどネ」
涅が放った『現世』という単語で更木の表情が曇る。
「じゃあまたあいつのところか」と更木が零したことで、やっと涅は全容を理解した。それはもう、自身の想定から大いにかけ離れており、暫く絶句した後に出てきた言葉は「ダサすぎないかネ、いくらなんでも」であった。
「え? いい歳したジジイが、それも歴代最強と謳われる剣豪剣八が? 先代が帰ってきてなんか色々やってるからって、不安だか嫉妬だか知らないけど」
「うるせえなあ」
涅の言葉を遮るようにそう吐き捨てた更木はやっと卓上の杯を手に取った。一度舌打ちをしたのち、ぐいとそれを煽ってまた卓上に置く。その動作はずいぶんと乱雑であった。
「別に何にもねえならそれでいいんだがよ」
「ないよ」
ダッサいなあ、ともう一度涅が呟くと、それに反応して更木は卓上にまた手を伸ばした。今度は杯ではなく、涅の目の前に置かれた皿を掠っていく。
「食わねえならよこせ」
「何言ってるんだネ食べるヨ」
慌てて取り返した皿はサンマの塩焼が盛り付けられている。大根おろしに醤油がかかり、当然ネギは乗っていなかった。