対人スキルLv.1

 モルジを引き連れて、アリババは屋敷から海岸への道を全力で駆けていた。ここ最近カシムの様子がおかしい。その事実には二人とも気がついていた。
 持ち前の性格が完全に治ったとは言いがたいが、それでもあの鏡を捨てて以来、カシムは金に物を言わせることをやめた。変な魔法を使う盗賊の宝を売却して得た金は全て、あの盗賊が破壊した町の修繕費に当てたことで周囲からの信頼も少しずつ回復している。使用人も徐々に戻ってきて屋敷もまた活気づいてきた。相談できる鏡を失った代わりに、アリババとモルジで毎晩彼の話を聞くのがあれからの日課となっていた。
 にもかかわらず最近のカシムはまた金遣いが荒くなっていた。しょっちゅう宴を開いては、自室に旅商人を連れ込んであれこれ購入しているらしい。アリババやモルジが部屋に訪ねても追い返されるばかりだ。
 そう、旅商人だ。彼がこの町に、この屋敷に来てからカシムはすっかり元に戻ってしまった。いつか商品の在庫は尽きるだろうし、一生この屋敷に居座るはずもない。しかし長居が続けばそれだけカシムには悪影響だろう。とはいえ屋敷の主はカシムなのだから、いくら弟とはいえアリババが勝手に追いだすわけにもいかない。どうしたものか、と頭を悩ませているアリババの元へ町の人がやってきたのだ。
「カシム様が思い詰めた顔で海に浸かってましたけど、大丈夫ですかね?」
 海? と聞き返すアリババに、その人は強く頷き返した。
「あの、めったなこと言うもんじゃないですけど……」
 入水自殺とかじゃないですよね? いや、すみません。すごく深刻そうな顔をしてたもんで。
 そこまで言ってばつが悪くなったのか、町人は「私は伝えましたからね!」とそそくさと屋敷を後にする。
 教えてくれるだけありがたい話だ。以前のカシムならきっと誰もここに伝えに来なかっただろう。
 そんなわけでアリババは今、モルジとともに海へ向かって全力疾走している。正直に言うと、あの男に自殺を決行する度胸があるとは思えないが、思い詰めているのは確かなのだろう。いらんことを考えてなければいいが、とアリババは内心でため息をついた。もうすぐ日が暮れてしまう。その前には海へたどり着きたいものだ。

 オレンジ色の太陽に照らされて、水平線から垂直に一本、影のような人影が伸びている。顔までは見えない。しかし位置からして、その人物が腰のあたりまで海に浸かっていることは分かった。
「カシムー!」
 アリババが大声で叫ぶと、その人物はやっと動きを見せた。おそらくこちらを振り返ったのだろう。その隙に波打ち際まで到着したアリババは、息を整えながらもう一度話しかけた。
「なにやってるんだよ。もう暗くなるぞ」
「アリババとモルジか? ……お前たちには関係ないだろ!」
「戻りますよカシム様。もうすぐ宴の準備が調います」
 二人して呼ぶも「うるさい! 帰れ!」などと子どものようにカシムは叫び返してくる。困るアリババを余所に、隣に立っていたモルジは躊躇いなくザブザブと海へ、カシムのほうへ向かっていった。
「帰れと言っているだろう! こっちに来るな!」
 カシムはくるりと体の向きを変えた。そのまま逃げるように沖へ向かって進んでいく。それを見たモルジは足を早め、アリババもまたその背を追った。カシムに追いついたころには三人ともすっかり肩まで水に浸かるほどの深さまで到達していた。
「俺に触るな! 放っておいてくれ!」
「いいから一端浜に戻るぞ」
「危ないですから」
 なんとか捕まえようとしているうちに岩にでも足を取られたのか、カシムの体が傾いた。そのまま彼は頭まで水面の中に入ってしまう。ほら言わんこっちゃない、と呆れるアリババを余所にカシムの顔と手はすぐに水面から上に出てきたが、その目は大きく見開いており、手は乱雑にバシバシと水面で暴れている。
 ああこいつ泳げないんだった、とアリババは冷静にその腕を掴む。反対の腕を掴んだモルジが「落ち着いてください。足つきますから」となだめているがカシムの耳には届かないらしい。わあわあと騒いで暴れるカシムを二人がかりで浜まで引き上げたころにはすっかり日が暮れていた。

 星空の下の砂浜で三人、静かに座ってたき火に当たっていた。アリババが薪を集め、モルジが火をつけたのだ。ちなみにカシムは何もしていない。ひたすら座ってうなだれていた男は小さくくしゃみをしたのち、ぼそりと呟き出す。
「ずぶ濡れで寒い」
「それは私たちもです」
「カシムのせいだからな」
 反論ができないのだろう。ぶすっとした顔でたき火を眺めるカシムに向かって、アリババは諭すように口を開いた。
「海なんか入って、何をしてたんだ?」
「関係ないと言っているだろう」
「そうはいきませんよ。屋敷の主はあなたなんですから。突然いなくなられては困ります」
 で、何をしてたんですか? とカシムを見るモルジの目はやたらと鋭い。それに負けたのか、カシムはもごもごと「鏡を……」と零した。
「探そうと思った」
 予想はついていた。この男が自ら海に入るのであれば、よほどの用か人に頼みづらいかのどちらかしかあり得ない。そもそも泳げないくせに、海底の鏡など探せるはずもない。しかしアリババたちには言えなかったのだろう。そして怒られるのも分かっているのだろう。カシムはより深くうつむいた。
「あれは捨てただろ? もういらないって、お前だって分かってるだろ?」
「今更どうしたんですか? 町の人たちとも、少しずつですがうまくやれるようになったじゃないですか」
「町の人たちには使わない。うまくやれてると思ってる。アリババの言うとおりに、困ってるところを助けて、あとはちゃんと挨拶をする。それはやってる。……できてるだろう?」
 うん、とアリババとモルジは揃って頷いた。ぎこちなくはあるが、確かに町人たちを相手取る際のカシムの態度は改善していた。お礼と称して料理や花を持ってきてくれる人もいる。このまま行けば、問題なく人々から頼られる存在になれるとアリババは思っている。
「だけどあの人は、この町の住人じゃない」
 あの人、と言われてアリババは真っ先に一人の顔を思い浮かべる。カシムが元に戻ってしまった原因、数週間前にこの町へやってきた旅商人だ。
「困ってもいない。……だから、どうやったら好きになってもらえるのか、分からなかったんだ。商人だから、品物が売れたら喜ぶかと思って」
「それでバカスカ宝飾品を買ったわけか」
「その土地の音楽や食べ物を楽しむのが旅の醍醐味だと言っていたから」
「それで毎晩宴を開いてたんですか」
 なるほどなあ、と最近のカシムの行動にやっと納得がいく。そして当のカシムは顔を隠すように、三角に立てた両膝へ額をつけて「だけど」と呟く。
「これじゃあ、今までの俺がやってたことと同じだって気づいたんだ。人に嫌われてたときと俺は同じことをあの人にしてる。だから、だから……。あの人はもう、俺のことが嫌いなんだ」
「なんでそうなるんですか」
「短絡的すぎるだろ」
「別に嫌われいてるのはいいんだ。いや、悲しいけど、仕方がない。鏡に聞こうと思ったのはそれじゃなくて、嫌われててもいいから、あの人がずっとここにいてくれる方法がないか知りたかったんだ」
 カシムの声は震えていた。そのうち鼻をぐずぐずと鳴らしながら、途切れ途切れに言葉をつないでいく。
「行かないでほしいんだ。贋の笑顔かもしれないけど、あの人がありがとうって笑ってくれるとうれしい。俺の知らない町の話を面白く話してくれるんだ。ずっとそうしていたい。ずっといてほしい」
 本格的に泣き出したカシムの姿に驚きつつも、アリババは嬉しかった。嫌われたくない、誰でもいいから自分を好きになってほしい。そんな子どものような渇望に喘いでいた兄が、自ら人を好いたのだ。それが成就するかは分からないが、これは間違いなく前進だろう。
 アリババは少しばかり腰を浮かせて、隣へ座るカシムとの距離を詰めた。うつむいて泣くカシムの背にそっと手を当てる。
「あのな、カシム。前と同じって言ってたけど、そんなことないぞ。確かに行動だけ羅列したら同じに見えるかもしれない。だけど以前のお前は自分自身のために、財力を誇示して人を従わせるためにやっていただろう? でも今のは違う。人に喜んでほしくてやっているんだ。ちゃんと伝わってると思うよ」
 カシムは顔を上げた。真っ赤な目でアリババを凝視しながら「本当か?」と呟く。
「旅商人はやめられないけど、拠点をこの町に移したいって相談されましたよ。丁度いい建物がないか聞かれました」
「……それも本当か!?」
「それから、カシム様の好きなものはなにか、とも聞かれました。とてもよくして貰っているから喜ばせたい、と。音楽が好きだと伝えたら楽器の練習をしていましたよ。今日の宴で披露すると張り切っていましたが……。肝心のカシム様がいないから今ごろきっと悲しんで」
「帰る!!!!」
 ものすごい勢いで立ち上がったカシムは一目散に駆けていく。その背を眺めて苦笑するアリババの傍らで、モルジは手際よくたき火を消した。
「俺たちも帰るか」
「はい」
 と二人が立ち上がったところでカシムが走り去った方向から音がする。慌てて視線を向けるとカシムの姿が地に伏していた。
「……転んだ?」
「っぽいですね」
 全く世話の焼ける兄貴だなあ、と呟いて、アリババはモルジとともに駆け足でカシムの元へ向かった。