悪い虫を払うものは

 いつも以上にゆっくりと丁寧にカップを置くプロデューサーの手つきを、天道はじっと見ていた。日はすでに沈んでいる。事務所には天道とプロデューサーの二人しかいなかった。パーテーションを挟んだ奥に天道は座っていた。入口からすぐのソファやホワイトボードが置かれた側にも、もう誰も残っていなかった。ローテーブルにぽつんと一つ本が残されているだけだ。
「おまたせしてすみません」
 向かいのソファに腰を下ろしたプロデューサーは机の上で指を組んだ。
 話があるから時間を作って欲しいと言ったのは天道の方だった。担当アイドルからそんなことを言われては不安に思うのが普通だろう。それでも天道が話しやすい空気を作ろうとしてくれている。彼はそういう人物であることを、天道は今までの付き合いからよく分かっていた。だからこそ、プロデューサーの口元の笑みに天道の良心が痛んだ。天道に話があると言われてから、おそらく色々な想像が脳内を飛び交っただろう。その中でも一番最悪なものを天道は今、彼に伝えようとしていた。
「辞めようと思ってる」
 天道はコーヒーカップに手を伸ばした。プロデューサーの指が視界に入る。落ち着かないと言わんばかりに中指が揺れていた。
 それは、と言ってプロデューサーは一度口をつぐんだ。しかし意を決した顔で天道を見た。
「ドラスタをですか。事務所をですか。それともアイドルを、ですか」
「アイドルを、だな」
 天道は内心、質問に驚いた。315プロダクション以外で、DRAMATIC STARS以外でアイドルを続けるという選択肢など考えてもみなかったからだ。それでも即答した。一切浮かばなかった程度には、ありえない選択肢だった。
「理由を聞いても?」
「……言わなきゃダメか?」
「さすがにそこは」
 ハイ分かりましたとは言えませんので、と続けるプロデューサーがあまりにもまっすぐ視線を向けてくるので、天道は身じろいだ。聞かれることは当然想定していた。
「一身上の都合で……」
 と呟いてみたものの反応一つ示してくれない。流石に通用しなかった。
 プロデューサー視野が広く、人の感情を見通すのが上手い人だ。天道は彼をそう認識していた。そのうえ人当たりがよく穏やかだ。一歩間違えばものすごく胡散臭くなるのだろう。そうならないのは、まるで優しさと誠意を煮詰めたような心が彼の芯となっているからだ。
 天道にとってマイナスになる選択肢は絶対にとってこない。数年間の付き合いからそれは分かりきっていた。それでもなんとか誤魔化すことができないだろうかと、天道は今でも考えている。
「仕事の内容に不満が?」
「いや」
「ではプロデュース方針ですか」
「いや、違う」
「スケジュールですか? 今すぐは無理ですが、今後はオフを増やすことも」
「違うんだよ、プロデューサー。アンタは何も悪くない」
「なら、私に何ができるんですか」
「……なにも」
 プロデューサーが何とかできる問題なら、最初から辞めるなどと天道は言わないのだ。相談がある、と言って解決に向けて話し合っている。それが出来ないからこうしていきなり辞職を告げるはめになっている。
 彼らしくなく矢継ぎ早に言葉を紡ぐ姿を見て、天道は更に良心が痛んだ。本当は墓場にまで持っていきたい。だけど彼に何も知らせず去れるほどの冷徹さを天道は持ち合わせていなかった。
「人間関係だよ」
 プロデューサーは眉間にシワを寄せたま首をかしげた。思い当たるフシがないのだろう。
「好きな人ができた。だから、アイドルは辞める」
「うちは恋愛禁止を謳ってませんよ。理解ある相手なら世間にも隠し通せます」
「付き合ってるわけじゃないんだ」
 プロデューサーの顔が見る見ると青ざめていく。まさか気づかれてたのか、と天道は思った。
「まさか妊娠させ」
「違う!」
「ではなぜ!」
「桜庭なんだよ」
「なにが……えっ?」
 プロデューサーは露骨に目を見開いた。気づいていなかったらしい。普段の天道と桜庭の様子を考えれば当然のことだろう。頻度こそ結成当初より下がったものの、未だに言い争うことも多いのだ。
「だからアイドルを辞めたいと」
「ああ」
「なるほど、微塵も理解できないな」
 パーテーションの向こう側から予想外の声が飛んでくる。天道はゆっくりと顔を向けた。桜庭はよく知る表情をしていた。眉間にシワを寄せ、顎が少し上がっている。天道は恐る恐る口を開いた。
「お前、なんでここに」
「僕は忘れた本を取りに寄っただけだ。それがまさか、こんな不快な会話を聞かされるとはな。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
天道は、桜庭の登場で頭が真っ白になっていたが、すぐに自分がカッとなったのが分かった。反射的に大きな声が出る。
「お前なあ!」
 生半可な気持ちで言っているとでも思われたのだろうか。だとしたら心外にも程がある。アイドルになってから数年間、天道は至極真面目に仕事をこなしてきた。ユニットとして活動してきた以上、自分が抜けることの重大さも理解している。そのうえで真剣に考えて、今日プロデューサーに打ち明けたのだ。
 桜庭はひどく冷たい目をしたまま「そんなことで悩むくらいならMCでも考えたらどうだ」と言った。そしてプロデューサーのほうへ向き直り「君もこんなくだらない話に付き合う必要はない」と言ってさっさと事務所から出ていった。
 扉が閉まる音にすっと頭が冷静になっていく。天道は椅子に座り直して頭を抱えた。
向かい側からプロデューサーの困惑した声が聞こえてくる。
「……今すぐ、というわけでは無いんですよね」
「ああ、ツアーライブも決まってるし」
 そこまではちゃんとやり遂げるつもりだ、と天道は続けた。
「とりあえずこちらにも考える時間をください」
「……悪かったな」
「いえ」
 天道は退席するべき立ち上がった。プロデューサーは見るからに疲弊していた。その顔に申し訳無さがこみ上げてくる。しかし原因は自分なのだからどうすることも出来ない。天道はさっさと事務所を出た。歩きなれた階段を降りているとポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を確認する。意外な人物からの連絡に天道は目を見開いた。

 いつから桜庭が好きなのか。天道は正確に把握していない。しかし自覚した日のことははっきりと覚えていた。
 その日天道は事務所についたばかりで、待ち人であるドラスタの二人とプロデューサーはまだ到着していなかった。事務所の奥から他ユニットのアイドルの談笑が聞こえる。混ざろうかと思ったときローテーブルに置かれた雑誌が目に入った。届いたのか、と天道はソファに座って雑誌を手に取る。それはまだ発売前のもので、先日行われたDRAMATIC STARSのインタビューが掲載されているはずだ。
 3人の午前スケジュールは把握していた。桜庭はダンスレッスン、柏木が街ブラロケでプロデューサーも同行している。天道は壁にかけられた時計を見た。集合時間までまだ十五分以上ある。インタビューだけなら到着前に目を通し終わるだろう。天道は雑誌を捲って目当てのページをすぐに探し当てた。右ページの上部にスリーショットの写真があり、インタビュー文はその下から始まっている。内容は近々発売する新譜についてである。写真もジャケット写真と同じ衣装を着用していた。
 この曲は近々、音楽番組で披露する予定になっている。それに備えてレッスンを入れたいと桜庭がプロデューサーに頼んだ結果、今日の午前に行われているらしい。
 それなりに仕事が貰えるようになってきた今、デビュー当時のように三人揃ってレッスンをする機会はぐんと減った。レッスンだけではない。仕事もバラバラですることのほうが断然多くなった。新曲のPV撮影、そしてこのインタビューは久々に三人が揃った現場だった。
 天道は三人で写っているページをそっと撫でた。自分の口元が緩むのが分かる。柏木に関してはしょっちゅう連絡を取っていたが、桜庭は最低限しか返事をしてくれない。スケジュールこそ大抵把握していたが、ここ最近はメディアを通して仕事の様子を知ることが多かった。だからこそ、先日の仕事は掛け値なしに楽しかったのだ。案の定言い争いはあったが、それでも彼らが自分の隣りにいて、いいものにするべく同じ仕事に向き合うのは楽しい。音楽番組の撮影までに一度集まって練習できないだろうか。プロデューサーに相談してもいいかもしれない。天道は文字を追った。ページを捲ったところで事務所のドアが開く音がする。天道は雑誌から顔を上げた。桜庭だった。
「おつかれ」
「もう来ていたのか」
 桜庭はドアを閉めると天道のもとまで歩いてくる。隣まで来て「届いたのか」と言った。
「ああ。バッチリ載ってるぜ」
 天道は膝の上の雑誌を軽く叩く。すると桜庭は、天道の隣へ座った。ソファの右側が沈み、同時に清潔感のただよう匂いを隣から感じる。レッスン終わりにシャワーを浴びてからきたのだろう。天道の横から桜庭が雑誌を覗き込んでくる。
「見るか?」
「このままでいい」
 桜庭は横髪を耳にかけて、天道の隣から覗き込む。その口角が僅かに上がっていた。その顔を見たとき、天道は初めて自分が桜庭に惚れていることに気がついたのだ。その後の会話を天道は覚えていない。本当に些細な日常の一瞬で自分の認識がひっくり返ったという事実にただ驚いたことだけは、よく覚えていた。
 そして衝撃とは裏腹に、自分が桜庭が好きだという事実はあっさりと腹落ちした。あまりにも納得できる点が多すぎたのだ。例えばそれは、桜庭のきつい言葉にやたらと腹を立ててしまうことだったり、逆に珍しく褒められたときは素直に受け止めきれず茶化してしまうところだったり。しっかりした大人だと分かっているのに必要以上に気にかけるのも、結成当初から言われているのに未だに辞められていない。そして何より桜庭の、眩しいほど実直に仕事へ打ち込む姿が好きだった。

 プロデューサーと話をしてから三日後の夜、天道は駅から少し離れたバーに来ていた。カウンター席に一人で座ってスマートフォンを触る。暖色系の光に包まれた店内はまだ席に余裕があった。奥のテーブル席にはスーツ姿の三人の客が談笑している。カウンター席には天道しか座っていない。先程注文したばかりの杯を傾けながら天道はLINKを見ていた。
『お久しぶりです。少し話したいことがあるのですか、時間を作ってもらえませんか』
 あの日事務所から出た後、このメッセージを見て天道は驚愕した。そもそも彼とLINKを交換していたことすら忘れていたのだ。案の定それより前のやりとりは一切ない。法律事務所に勤めていたころの同僚だった。無口で馴れ合いを好まず、同僚にすら敬語で喋るやつだった。しかし仕事には心底真面目に取り組んでいたことをよく覚えている。桜庭に似ていた、とドラスタやFRAMEの前で話したこともあった。
 杯を半分ほど空けた頃、バーのドアが開く。天道より十センチほど背の低い男はすぐに隣へ座った。
「おまたせしました」
「いや、来たばっかりだよ」
 時計は二十時五十分を指している。男は手短に酒を注文して天道に向き直った。
「お久しぶりですね」
「ほんとにな。お前からLINKがきてびっくりしたぜ」
 二人はそのまま軽い雑談を続けた。久しぶりにあった元同僚の見た目は少し変わっていた。短くて黒かった髪は茶色く染まり天道と同じ程の長さになっていた。服装は昔と変わらず仕立てのいい無難な色のスーツだが、左手の薬指にはシンプルな指輪がつけられていた。天道が事務所を辞めてからは一切の交流は無く、連絡が来た時点である程度調べはしたが、結婚したことまでは指輪を見るまで当然知るよしもなかった。仕事中の姿しか見たことが無いせいか、彼が女性と並んで歩く姿を天道は全く想像できない。指輪を話題に上げるべきか、天道は少し悩んで別のことを口にした。
「そういえば見たぜ。独立したんだってな」
「ああ、知っているんですね」
 なら話は早い、と彼はグラスをカウンターに置いた。
「売れっ子のアイドルにこんなこと言うのは憚られるんですけれども、うちの事務所に来ませんか」
「それは弁護士として、ってことか?」
「当たり前でしょう。うちの事務所にアイドルはいりませんよ」
「だよなあ」
 天道は誤魔化すように視線を反らした。しかし彼はお構いなしにこちらの横顔を凝視してくる。正直、想像はしていた。メッセージを見たときこそ分からなかったが、彼の名前を検索して独立したことを知ってからは、そういった話なのではないかと予測を立てていた。他にわざわざ自分を呼び出す理由が思い当たらない、というのが主な理由だ。分かった上で今日天道はここに来ていた。アイドルを辞めようとしているのだ。それ以外で自分ができる仕事となれば法律関係にほかならない。遅かれ早かれ昔のツテをたどることになる。向こうから声をかけてくれたのだから渡りに船だ。
 しかしそれとは別に驚きもある。彼がわざわざ自分を引き抜こうとする理由は思い当たらないからだ。一度干されてるうえにブランクもある。彼ならいくらでも候補がいるだろう。なぜ自分に? という疑問はどうしても天道の中にあった。「なんで?」と問うと「依頼が増えてきたので人手が欲しいんです」と返ってくる。
「いや、そうじゃなくて。なんで俺?」
「実力は分かってますから。それに……」
 と彼は少し言い淀んだ。
「事務や経理のスタッフに、どうも怖がられているようなんですよ、私。事務所も常に静かでして。それが原因で辞めてしまったスタッフも居るんです。あなたが入れば少しはマシになるでしょう?」
 煩過ぎるのは困りますけれど、と彼は付け加えた。そういうところが桜庭と似ている。天道は笑いそうになった。それと同時に喜びも湧き出てくる。たしかに仕事中に雑談をする彼の姿は想像ができない。そしてその空気を重いと感じる人もいるだろう。まさかこいつに必要とされる日が来るとは、天道は思いもしなかった。
 弱みを見せるようで気恥ずかしいのだろう。彼はグラスを見つめてうつむいていた。その横顔を盗み見ながら、天道はぽつぽつと今の自分の状況を話し始めた。流石に辞めようとしている理由までは伝えられない。そこは「人間関係」といってごまかした。
「では来てもらえるのですか」
「流石に今日返事はできねーよ。それに今すぐにとはいかない。早くてもツアーライブが終わってからになる」
 でも前向きに検討させてもらうよ、と天道は返事をした。表情の乏しい彼が明らかにホッとして眉を下げた。初めて見る顔だった。
 そのままポツポツと彼は自分の法律事務所の現状を語ってくれる。天道はグラスを甜めながら適度に相槌を打った。彼と酒を飲みながら穏やかに話す日が来るなんて弁護士時代には想像もできなかったはずだ。もしかしたら一度離れたからこそなのかもしれない。いつの間にか店の席はほぼ埋まっていた。カウンターの内側ではバーテンダーがシェイカーを振っている。仕立てのいい服を着た客ばかりで、大声で騒ぐものもいない。みな和やかに談笑しており、店内にかかる音楽と混ざって心地いい賑やかさを保っている。いいバーだな、と天道は思った。ここを指定したのは彼だった。
 以外にも話題が途切れることはなく、二人とも三杯目が空になりかけたあたりで彼のスマホが震えた。取り出した彼は「ああ、もうこんな時間ですね」と言った。
「長々と悪かったなあ」
「いえ、こちらこそ」
 帰りがけに彼はカバンから封筒を一つ取り出した。時間を作っていただいてありがとうございます、と天道に差し出す。断ろうとする天道に、大したものではないと言って彼は押し付けて帰っていった。

 平然としたふりをして桜庭にLINKを送り、平然としたふりで待ち合わせ場所に向かうと、平然とした桜庭がいた。天道はほっとした。結成当初なら蛙を零コンマ三秒で殺すような目つきで立っていたに違いない。これは何度も喧嘩と和解を繰り返した賜だ。きちんと和解しなければいけない、という意識がいつからか桜庭に芽生えているようだった。天道がそれに気がついたのはずいぶんと前のことだ。桜庭との言い合いに罪悪感や恐怖が消えたのはその後だった。それでも今回は流石の天道も怖かった。安心したのと同時にまた別の不安も襲ってくる。桜庭が平然としているということは、今回の喧嘩は桜庭にとって普段のものと大差ないということでもある。
 先日天道がもらった封筒の中身は映画館のチケットだった。最近できたばかりの会場らしい。道中桜庭に行ったことがあるかと尋ねると、案の定「無い」と返ってきた。チケットが貰い物であることは事前に伝えていた。それでもロビーや劇場内で物珍しそうにしている桜庭を見て、天道はなぜか誇らしい感情が湧き出てきた。高級路線を売りにしているこの映画館はロビーも重厚だが、なによりシートが豪華だった。一般的な映画館用の椅子では無く、広々としたソファ状の空間が並んでいる。座席についた天道は仕事で行ったプラネタリウムを思い出した。あのときの桜庭はなぜかJupiterの翔太と一緒に座っていた気がする。席についた桜庭はさっさと備え付けのクッションを抱えていた。客席を見回すとすでに八割以上の席が埋まっていた。
 この邦画は先日上映が始まったばかりだ。すでに知名度の高い小説を映像化した作品であり、天道も以前に原作の小説を読んだことがある。見る前にもう一度天道はこの小説を読み直した。当日映画の内容が頭に入ってくるか不安だったからだ。そしてその嫌な予感は的中した。さっぱり集中できなかった。観終わった二人は早めの昼食を兼ねて上階のレストランに来ていた。珍しく桜庭のほうがよく喋り、天道が相槌を打つかたちになっている。桜庭の話題の中心はもっぱら演技についてだった。主人公の上司役をしていた俳優の名前ばかりが上る。桜庭は今ちょうど彼とドラマで共演していた。綺麗に食事をする桜庭を見ながら、天道はぼんやりと話を聞いていた。
 天道が高校生の頃、彼は若手イケメン俳優としてテレビによく出演していた。女性人気も非常に高く、クラスメイトの女子たちも持ち上げていた記憶がある。しかしそれは一時的なものだった。彼が再度テレビや映画に出るようになったのはここ数年のことだ。その間は舞台の仕事をメインにしていたらしい。最近は実力派として様々な映像作品の助演を努めている。十二年ほど前に放送された、彼が主演の高校生恋愛ドラマは当時大流行で、天道も当然見ていた。しかし当時は特別に演技がうまいとは思わなかった。実際にそうだったのだろう。だからこそ映像メディアに帰ってきた際の彼の実力にはたいへん驚いた。俳優として生き残るための覚悟と年単位の努力を天道は、そして天道以外の人も感じ取っていた。
 しかしそれとは別に悪い噂もある。実力と人となりは比例しない。桜庭は今回のドラマでずいぶんと交流を深めているようだが、噂について知っているのだろうか。彼のことを桜庭が口にするたびに、天道は自分の中に暗い感情が湧いてくるのを感じていた。しかしそれを言葉にするのは堪えた。そもそも噂は噂でしかなく、天道自身もちらっと耳にしただけだった。真実かも分からないうえにそれが桜庭に影響を与えるかも分からない。それが杞憂だとしたら、今の状況は桜庭にとって何も悪くない。話を聞くに撮影中にたくさんのアドバイスを貰っているらしい。実力のある他事務所の俳優と交流することはむしろプラスなのだ。噂の真相も分からないのに「あまり関わるのは辞めてほしい」と思うのは、純粋に心配しているからだ。それでも仕事仲間に向けるには過剰だと天道は感じている。それに嫌だと思う理由の十割がそれなのかと言われたら天道は首を横に振るしか無い。三割は桜庭に好意的に思われている俳優に対する嫉妬だった。
 桜庭の、眩しいほど実直に仕事へ打ち込む姿が好きだった。要するに邪魔なのだ。天道の持つ桜庭に対する恋愛感情は、桜庭がトップアイドルを目指す過程で障害にしかならない。天道がアイドルを辞めようと思った一番の原因がこれであった。
 食後のコーヒーを飲みながら、桜庭は先程買った映画のパンフレットを捲っている。時刻は一二時を過ぎた。店の席は全て埋まり、あちこちから賑やかな談笑が聞こえる。トレンチを持った店員がテーブルの間をせわしなく動いていた。
 天道が物静かなことに何かを悟ったのか、もしくは店が混み合い出したことに気がついたのか、桜庭はパンフレットを閉じた。一つ咳払いをして、先日の話だが、と澄ました顔で言い始める。
「リーダーの脱退はマイナスにしかならない」
「流石に分かってるよ。申し訳ないとも思ってる」
 それは間違いなく本音だった。桜庭に対してだけではない。柏木にもプロデューサーにも、当然ファンにも申し訳ないと天道は思っている。
「理由についてははっきり言って微塵も理解できない。だが……、先日はカッとなってああ言ったが、君が簡単に捨て去るほど軽い気持ちでアイドルをしていたわけでは無いことくらいは分かっている。それに、仕事自体が嫌になったわけでは無いのだろう?」
「ああ。大変なことも沢山あるけど、アイドル自体が嫌だと思ったことは無いぜ。楽しいよ」
「なら、辞める以外の解決策を先に試すべきだ」
「……あるのかよ、そんなのが」
「ある。嫌われればいいのだろう、君に」
 仲が悪くても同じユニットとして活動している人たちも、他の事務所にはいくらでもいる。と桜庭は続けた。なるほど理屈としては正しい。DRAMATIC STARSより売れていても、不仲で有名なユニットはある。しかし桜庭の案はあまりにも力技が過ぎる。かと言って頭ごなしに否定してはまた喧嘩になるだけだ。天道はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。
「……具体的には?」
「高圧的な態度を取る」
「いつもだろ」
「では君が自信を持っているものを貶すのはどうだ」
「ああ、ギャグとか」
「暴力を振るうのはどうだ」
「事務所の屋上行くか?」
「……関わりそのものを減らす。会話や連絡は必要最小限に抑える」
「俺とのLINK見返してみろよ」
「……そもそもなぜ君は僕が好きなんだ」
「お前まともに恋愛したことないだろ」
 桜庭は露骨に顔をしかめた。それを見てかわいいなと思ってしまうのだから、桜庭の案を実現するのは難しいのだろう。ぶつぶつと呟きながら別の案を考える桜庭の姿に天道の頬が緩む。桜庭がアイドル活動を最善の形で続ける方法を一生懸命考えているにも関わらず、天道は自分を引き止めてくれていることに喜びを感じてしまっている。だからこそ自分は辞めるしか無いのだと再確認した。
「ごめんな、お前の邪魔してさ」
「なら辞めなければいいだろう」
 居ても邪魔なんだよ、と天道は返した。桜庭は納得いかないと言わんばかりの顔で首を傾げていた。

 柏木のテンションの高さにはその場にいる全員が気づいていただろう。ライブ来場者に向けたメッセージ動画の撮影の為、久しぶりにDRAMATIC STARSの三人揃っての仕事だった。事務所のテラススペースには大型のスタンドライトが複数持ち込まれている。撮影スタッフと打ち合わせをしているプロデューサーを横目に、天道と柏木は台本を捲っていた。すでに衣装を身に着けて、ヘアメイクも完了している。前の仕事が押した桜庭は二人より支度が遅れた。ドアから桜庭の姿が見えた瞬間に、柏木が嬉しそうに駆け寄っていく。天道はその後ろをついていった。天道を見た桜庭は少し不安げな顔をした。そして話しかけるのを躊躇うように見えた。天道は笑顔を作って「似合ってるな」と話しかけた。桜庭はホッとした顔で「PV撮影のときにも見ただろう」と返事をした。
 動画は一人ずつのパートと三人揃ってのパートに分けられる。程なくして柏木が最初に呼ばれた。天道と桜庭は並んで、カメラの更に奥から柏木が話しているところを見守っていた。柏木は滞りなく話を進めている。桜庭は真剣な顔でずっと柏木を見ていたが、終わりがけにちらりと天道を見た。その顔はやはり最初のときのように不安げだった。柏木が話し終わり、スタッフが天道の名を呼ぶ。天道は「大丈夫」と呟いて桜庭の肩を叩いた。質問の内容は事前に聞かされていて返答も考えてある。だから大丈夫だと、天道は思っていた。実際に一人で喋るシーンは大丈夫だったのだ。問題は最後の三人のシーンだ。三人並んでカメラの前に立った瞬間から、天道自信もダメだと分かってしまった。天道は自分の頬に触れた。ぎこちなさは緩和されなかった。上手く笑えない。二人の会話が耳に入ってこない。そして上手く返答できない。撮影は一時中断された。「外の空気を吸ってくる」と言って、天道は逃げ出すように屋上へ向かった。ちらりと見えた柏木には不安が全面的に出ており、あまりの申し訳無さに天道は消えてしまいたくなった。

 屋上の金網に額を押し付けながら天道は大きなため息をついた。正午を過ぎたばかりの太陽はまだ頭上高くに輝いており、衣装のジャケット姿ではじんわり汗ばむくらいに暑い。事務所のビルの下はたくさんの人が行き交っている。昼食の弁当を買うためだろう。下のたまこ屋の前には人が集まっていた。
 天道にも予想外だった。原因はおそらく罪悪感だろう。あの動画を見てくれるファンは三人揃って行われるライブを楽しみにしてくれているはずだ。それが自分のせいで、今回が最後になるかもしれない。辞めた方がいいという考えは前からあった。それでも仕事に影響は無かったはずだ。口に出してしまったのが不味かったのだろう。どちらにせよライブにはきちんと出演するつもりだった。しかしファンに向けた動画ですらこの体たらくだ。ファンの前に直接三人で出て、自分はアイドルを全うできるのか。天道は金網を強く握った。ぎしりと嫌な音が鳴った。
 天道が日差しに焼かれながらしばらく金網に額を押し付けていると、背後のドアが開く音がした。どうせ文句を言いにきた桜庭だろう、と天道は振り返らなかった。振り返れなかった、のほうが正しいのかもしれない。合わせる顔がなかった。そっと締まる音の後にコツコツと天道に向かって歩いてくる。隣に立った人影が想像より大きいことに天道は気がついた。ゆっくり視線を向けると、悲しげな顔をした柏木が天道を覗き込んでいた。
「薫さんとなにかあったんですか?」
「……桜庭と?」
「はい。薫さんも様子がおかしいので」
「桜庭、怒ってるだろ?」
「怒ってるというか……。怒り半分悲しさ半分、って感じです」
 いつもならめちゃくちゃ怒りそうなのに、と柏木は続けた。
「本当にどうしちゃったんですか? 大丈夫です?」
「ぶっちゃけ大丈夫じゃない。でも、なんとかしないとなあ」
「喋ること全部決めちゃって、文字に起こしちゃいましょうか。プロデューサーにカンペ持ってもらいましょう」
「……そうだな。そうするしかないか」
 未だ不安げな顔をする柏木の背を、天道は軽く叩いた。
「ちゃんとやるよ、ちゃんとな」
 天道は金網に背を向けて歩きだす。後ろから柏木が「ねえ、輝さん」と呼び止めた。
「ライブ、楽しみですね」
「……そうだな」
 天道は振り返ることができなかった。
 テラススペースに戻った天道はプロデューサーと桜庭に頭を下げた。三人で話す部分に関しては全てセリフを決めてほしいことを伝える。桜庭は苦い顔で「そこまでしなければできないのか」と言った。天道はうなだれてうなずくしか無かった。あのとき桜庭に聞かれなければまだマシだったのだろうか。それとももっと早く、きっぱりと辞めるべきだったのだろうか。プロデューサーのもつカンペを読み上げながら、天道はそんなことばかり考えていた。
 なんとか撮影を乗り切ったその晩、天道は元同僚にLINKを一本送った。

 
 テレビ越しでは広くて立派に見えるバラエティのセットも引いて見るとハリボテ感が拭えない。だだっ広い空間にL字に壁が作られ、その間には椅子やらモニターやらが豪華に並んでいる。周りにはカメラやらマイクやらライトやらの無骨な機材がいくつも置かれていて、そのそばで地味な格好をしたスタッフたちがあれこれ仕事をしていた。
 準レギュラーとして何度も出演しているバラエティ番組のセットを、天道は何気なしに見つめていた。撮影は先程終わったばかりで、スタッフだけでなく出演陣もまだ何人も残っている。
「天道くんおつかれ。今日も良かったよ、ギャグ以外は!」
 ひな壇レギュラーのお笑い芸人がぽんと天道の背を叩く。天道はとっさに笑顔を作った。
「いや、ギャクも冴えてましたよ!」
「どこがよ」
 わははと笑う彼の顔を見て天道は胸をなでおろした。先日の動画撮影のこともあり、プロデューサーは現場に同行しようかと持ちかけてきていた。しかし天道はそれを断った。「予定通り翼の地方ロケに行ってあげてくれ。……たぶん、ソロの仕事なら大丈夫だ」と伝えると、プロデューサーは不安げな顔をしながらも引き下がってくれた。声をかけてくれた彼は、テレビで見せているキャラクターと違って意外と仕事にストイックである。彼が笑って声をかけてくれたのだから今日は本当に大丈夫だったのだろう。
「天道くんこれから暇? 飲み行こうよ。今朝カミさんの機嫌サイアクでさあ。帰りたくないんだよねえ」
「俺はいいですけど、あんまり遅く帰ると余計に機嫌悪くなるんじゃないですか?」
「それはそうなんだけどさあ」
 などと言いつつ彼は家庭の愚痴を少しこぼした。その後、他の人も誘ってくると言ってその場を後にする。天道は荷物を取りに楽屋へ戻ることにした。

 楽屋に戻った天道はさっと着替えてテレビ用のメイクを落とし、自分のカバンを手に取った。癖でスマホを取り出してロックボタンを押す。そこにはおびただしい数の通知が来ていた。ぎょっとして確認する。その全てがプロデューサーだった。メッセージと不在通知がいくつも折り重なっている。天道はスマホを開いた。慌ててLINKを確認する。
『撮影終わりましたか?』
『終わったらすぐ連絡ください』
『桜庭さんが非常事態みたいなんです』
『事務所もすぐに動ける人がいなくて』
『まだかかりそうですか』
 天道は再度通知を見返した。最後の電話は三分前だった。慌ててプロデューサーに電話をかける。ワンコールもかからず繋がった。
「仕事終わりましたか?!」
「終わったけど、何があったんだ」
「……正直、杞憂であって欲しいのですが」
「うん」
「酒になにか盛られたみたいです」
 天道はカバンをひっつかんですぐに楽屋から出た。スマホを耳に当てたまま早足に歩く。そのままプロデューサーから店の場所を聞いた。ここからならそう遠くない。天道はエレベーターのボタンを押した。上部の階層表示を見て思わず舌打ちする。すると後ろから「あれ」と声が聞こえてきた。さきほど約束したばかりの芸人だった。
「天道くん」
「すみません急用です! また来週誘ってください!」
 一向に変わらない階層表示に再度舌打ちをして、天道は階段を駆け下りることにした。
 天道とすれ違う全員が驚いて振り返る。しかしそれに「お疲れ様です」と声だけかけて天道は階段を駆け下りた。そのままテレビ局を飛び出し、駐車場にいるタクシーの一つに乗り込む。運転手に店の名前を告げて、天道は一息ついた。タクシーはゆっくりと走り出す。天道は手に持ったままのスマホで桜庭の名前を探す。『プロデューサーから聞いた。大丈夫か? 今向かってるから』と手短に打ち込んだ。天道は外を見た。窓ガラスには眉を寄せた自分の顔がはっきりと映り込んでいる。日はとっくに沈んでいた。大量に走る車のヘッドライトと建物から漏れる光が夜闇を照らしている。桜庭が主演を務めているドラマは今日がクランクアップのはずだ。今日のこの時間に店で飲んでいるなら、それの打ち上げに間違いないだろう。
 天道は握りしめたスマホを何度も見た。しばらくしてやっと既読がつく。それを見た天道は通話ボタンを押したが向こうから切られてしまった。再度『大丈夫か?』とメッセージを送る。返信を待つ数十秒が酷く長く感じられた。
『お手洗いにこも』
『こもってる。どあのそとにだれいる』
 桜庭の誤字を見るのは初めてではないだろうか。天道はスマホを握る手に力が入った。『絶対に出るなよ』と返す。送ると同時に既読がついた。天道は財布から五千円札を取り出して握った。もう五分もあれば到着するだろう。車は着実に進んでいく。天道はひたすら窓の外を眺めていた。そして予定通りの五分後にタクシーは店からひとつ横の大通りに到着する。天道は握っていた五千円を運転手に渡してすぐに飛び出した。飲食店の並ぶ通りまで走れば、一人でいる人などほとんど居ない。似たような格好をした人が固まって楽しそうに談笑しながら歩いている。その隙間を縫って天道は走った。店はすぐそこだった。遠目に見える看板に向かって進む。店の入口が目視できる位置までついた。そこには見知った丸い頭がある。出るなって言っただろ。天道はさらに足を早める。桜庭は支えられていた。短髪で程よく筋肉がついた、桜庭より少し背の高いその男の背中を天道は知っていた。スクリーンで見たばかりだったからだ。
「桜庭!」
 大きな声で叫ぶと周囲の人まで振り返る。当然男も振り返った。その瞬間の冷たい眼差しを天道は見逃さなかった。駆け寄っていき、男が肩を貸しているのとは反対側から桜庭の手首を握る。桜庭は青白い顔をしていた。
「すみません。うちのが迷惑かけて」
「おどろいたな。不仲って聞いてたのに」
 天道は男を見据えた。人がよさそうな笑顔でふわりと笑っている。
「大丈夫だよ。悪酔いしただけだ。俺のマンションが近いから、そこでちょっと休ませるよ」
「結構です。こっちで連れて帰るので」
 男の笑顔がすっと消える。その瞬間に桜庭を引き剥がした。軽く頭だけ下げてさっさと背を向けた。桜庭の手を引いて歩き出したが、後ろから舌打ちが聞こえて天道は一瞬硬直した。
「アイドル風情が。顔だけのくせに」
 天道は振り返らずに、桜庭の腰に手を回してしっかりと支えた。
 来た道を半分以下のスピードで戻っていく。すれ違う人の中には顔をしかめながら避けていく者もいる。桜庭を酔っ払いと勘違いしているのだろう。避けてくれるなら好都合だ。桜庭の左腕が天道のシャツの背を掴んでいる。その弱々しさは服越しでも伝わってきた。なんとか大通りまで戻ってタクシーを探す。さっきの運転手に待ってもらうように頼んでおけばよかった。自分の手際の悪さに天道は苛立ちを覚えた。大量のヘッドライトの眩しさに顔をしかめていると、右手側からクラクションが鳴る。すぐそばに見慣れたバンが停まった。
「すまない、遅くなった!」
 開けられた助手席の窓から見えたのは斎藤社長だった。
「乗りたまえ!」
 天道は後部座席のドアを開けて桜庭とともに乗り込んだ。社長の姿と嗅ぎ慣れた車内の匂いで、自分の緊張が解れていくのを感じる。
「とりあえず事務所に」と天道が言いかけたところで桜庭が袖を引く。
「いや、ここに」とスマホの画面を見せてきた。その住所はここからそう遠くない。
「大学の同期の家がやっている個人病院だ。連絡はしてある」
 天道は社長の顔を見た。うなずいたのを確認して住所を読み上げる。手早くナビに入力した社長は車を発進させた。
 天道はやっと桜庭の顔を見た。「大丈夫か?」と声をかけると、桜庭は小さく首を振った。俯いているせいで顔に髪がかかり、表情はよく見えない。天道はそっと手を伸ばして桜庭の前髪を掬った。瞳が潤んで今にも泣き出しそうだった。桜庭は小さな声で「虫が」と言った。
「虫?」
「入ってくる」
 桜庭はしきりに左右の手を払っている。当然そこには何もいない。天道は桜庭の両手を握った。手は酷く冷たく、小刻みにふるえていた。
「おちつけ、虫なんかいない」
「分かってる」
 そう言いながらも桜庭はさらに俯いて「気持ち悪い」と小さく声を漏らした。天道は片手を離して、桜庭の頭を抱き寄せる。
「大丈夫だから。目、瞑っとけ」
 肩越しにうなずいたのが伝わった。震える桜庭をあやすように、小さく頭をとんとんと指の腹で叩き続ける。すがるように握ってくる手が気の毒で仕方がなかった。天道はシート越しにナビを見る。目的地までまだ十分以上はかかるようだ。早く、早くとただ祈ることしかできなかった。どうして桜庭がこんな目に合わなければならないのか。天道は先日の、彼のことを話す桜庭の様子を思い出していた。桜庭は実力主義だ。努力でそれを身に着けた彼を間違いなく尊敬していた。たとえ嫉妬だとバレようとも、鬱陶しく思われようとも、あの日に忠告しておけばよかった。多少の噂を聞いていた天道も流石に彼がここまでのことを仕出かすとは思っても見なかったのだ。
「目的地付近に到着しました。案内を終了します」
 やっと聞こえたその音声に天道はほっと息を吐いた。社長が揺らさないようにゆっくりと車を止める。建物から駆け寄ってくる人の姿が窓の外に見えた。天道はそっと桜庭から体を離した。

 天道は階段を上る。早めに事務所に到着した天道に「桜庭さんももう来てますよ」とプロデューサーは微笑んで言った。屋上だと思います、と続けた彼にお礼を言って、すぐにミーティングルームを後にした。天道はシャツの襟元を緩めた。空調の効いていないここはうっすらと汗ばむくらいに暑い。
 医者に託した後の顛末を、天道はプロデューサーから聞いていた。やはり非合法の薬物であったこと。幸いにも効果が切れた後は体調に問題が無かったこと。そして後遺症らしきものも見当たらないこと。あのドラマ関係の仕事はまだ少し残っていて、桜庭はバラエティに番宣で出演する予定だが、例の俳優は出ないらしい。顔を合わせる機会も無い。それを狙っての犯行だったのだろう。天道としては今すぐにでも訴えてやりたいところだが、彼がやった証拠を叩きつけるのは難しいだろう。今回は泣き寝入りをする他無い。俳優に関してはうちの事務所のブラックリストに載った。二度とうちのアイドルには近づけさせません、とつぶやくプロデューサーの目は見たことも無いほどに恐ろしかったが、天道としては頼もしい限りである。
 最上段についた天道はそっと目の前のドアを開けた。隙間から外を覗く。そこからまっすぐ先のフェンスの前に桜庭の後ろ姿があった。いつも通りしゃんと伸びた背筋の上の頭は、空を見上げていた。天道はドアを抜けて外へ出る。日差しの暑さを感じるよりも先に、爽やかな風が頬をさらった。桜庭の髪も風にさらわれてかすかに靡いている。そっと近寄って、後ろから名前を呼ぶ。桜庭はすぐに振り返った。先日とは比べ物にならないほど血色のいい顔をしていた。話は聞いていたとはいえ、あの事件後に顔を合わせるのは今日が初めてだった。天道はほっと胸をなでおろす。
「もう大丈夫なんだよな」
「ああ、薬さえ抜ければ問題は無いようだ」
 桜庭の表情は明るい。天道はつられて微笑んだ。あんな目にあったにも関わらず数日で切り替えられる桜庭の強さに安心した。
「先日は悪かった。君が来てくれなかったら、もっとひどい目にあっていただろうな」
「たいしたことしてねえよ。社長もすぐそこまで来てくれてたしな」
 桜庭は首を振った。そのまま真っ直ぐ天道を見つめてくる。
「……あのとき君の姿を見て本当に安心した。来てくれて助かった」
 珍しいこともあるものだと、天道は頭を掻いた。桜庭にここまではっきり礼を言われたのは初めてかもしれない。天道はあの晩の桜庭の姿を思い出す。なんの力にもなれなかったと思っていた。飛んでいった意味はあったのか、と素直に嬉しかった。
「それでだ、天道。あれから考えた」
「何を?」
「やはりDRAMATIC STARSは3人であるべきだと思う。僕には君が必要なのだろう」
 天道は一瞬面食らったがすぐに相槌を打った。正直な話、ここ数日は桜庭の心配ばかりをしていてその話を忘れていたからだ。確かにあれから何の進捗も無かった。
「しかし君に心理的負担をかけた状態で続けるのは良くない。そしてその負担は、僕に片思いしている状況が原因なのだろう?」
「……ああ」
「ならば先日言ったもの以外にもう一つ、解決策がある」
「無いだろ」
「ある」
 言い切った桜庭は一拍置いて再度口を開いた。
「君が、僕のことを口説き落とせばいい」
 両思いなら問題ないのだろう? と桜庭は得意げに眉を上げる。なるほど理屈としては正しい。
「お前、たまにめちゃくちゃなこと言うよな」
 ユニットメンバーに向かってそんなことを言ってくるやつはこの世に桜庭くらいしか居ないだろう。とんでもないやつに惚れたな、と天道は改めて思った。なぜそんな堂々とした顔ができるのか、天道には理解できない。それと同時に、お前はそれで本当にいいのか、とも思った。でも言い出したのは桜庭本人なのだから、「いい」と捉えるほか無いのだろう。
「……できるかなあ」
「やれ。ライブまでに」
「期限付きかよ」
「とりあえず戻るぞ。そろそろ柏木も来てるだろう」
 話は終わったと言わんばかりに、桜庭は天道の横を抜けて歩いていく。その背中を天道は呼び止めた。
「言ったからにはお前、オフの日全部空けとけよ!」
「望むところだ」
 鼻を鳴らす表情はあまりにも可愛くない。さっさと屋上を去る桜庭を見送ってから、天道はスマホを取り出した。さっさと文字を打ち込んで、すぐにその背中を追いかけた。
『もうちょっと頑張ってみることにするよ。せっかく誘ってくれたのに悪かったな』

『お前の第二ボタンを欲しがるやつがいませんように』

 中途半端なものほど触りたくなるのは人間の性だ、と宮城は思っている。一ミリだけ立っている逆剥けはついつい別の指の腹で逆撫でてしまうし、端がすこしだけめくれたセロテープは爪で引っ掻いてしまう。ちぎれかけた消しゴムはわざわざ割れ目を開いてみるし、取れかかった学ランのボタンは意味もなく指で弄んでしまう。

 気がついたのは朝練を終えて着替えたときだ。学ランの上から二つ目のボタンを止めている糸が、ずいぶんと緩んでいた。どこかに引っ掛けたのだろうか。宮城は少しつまんで引いた。今すぐ取れるほどではないが、手を離すと一つだけ首をもたげたように下を向く。それがどうにも中途半端で格好が悪い。

 触らずにいればいいのだ。残したまま家に帰って、母になおして貰えばいい。頭では理解しているのに、授業中もつい手が伸びてしまう。かといって完全に引きちぎるわけでもない。糸はいたずらに伸び続けた。結局それが取れたのは昼の屋上、それも予鈴の五分前だった。

 手からボタンがこぼれ落ちると同時に、「あっ」と小さな声が出た。スラックスの上で跳ねて、アスファルトへ転がっていく。隣の三井はとくに驚くでもなく「弄るからだろ」とつぶやいた。取れかかっていることにはとうに気がついていたらしい。

「なんか触っちゃうんすよね、こういうの」

「まあ、分かるけどよ」

 逆剥けとか引っ張っちまうんだよなあ、と気が抜けた声で三井が続けるから、宮城は笑った。ボタンを拾い上げて、手のひらに載せる。表面に施された模様をまじまじと見るのは初めてだった。学ランのボタンってこんなだっけ、と宮城は首を傾げた。別に深い意味はない。いつも着ているのに気にしたことすらなかったことが、なんだか不思議に思えただけだ。

 隣の三井が静かなので、宮城は顔を上げた。先程までの宮城と同様、三井もじっと取れたボタンを見つめていた。

「なんすか」

「……つけてやるよ」

 宮城は目を瞬かせている間に、三井はさっさと立ち上がって歩きだす。「ほら、行くぞ」と三井は宮城を振り返った。

 もう授業始まるんすけど。行くってどこに。アンタ裁縫なんてできるんですか。言葉はいくつも思いつくのに、一つも喉から出てこなかった。

「一緒に入ってたと思ったんだけどよ」

 部室の床にしゃがみ込みながら、三井は救急箱を漁っている。宮城はベンチに座ってその背を眺めていた。五限はとうに始まっている。どこかのクラスが体育でサッカーをしているのだろう。宮城はその音をぼんやりと聞いていた。三井が一向に裁縫セットを見つけられないので、宮城は前身頃に残った糸くずを手持ち無沙汰に取り除いた。

「おー、あったぞ」

 やっと振り向いた三井が手にしているそれは、おもちゃみたいに小さくて安っぽい。似合わないな、と宮城は素直に思った。三井は眼の前で膝立ちになって、針に糸を通している。三井の頭が自分よりもちょっと下にある。なんでそこに座っているのだろうか。まさか、と思ったところで三井に服を掴まれた。

「動くなよ」

 ああ、この人まじで裁縫できないんだな、と宮城は悟った。普通、着せたまま縫わないんだよ。教えてあげるべきなのだろうが、眉間にシワを寄せた顔を見るに、話しかけると怒られそうなので黙っていることにした。三井はそのままおぼつかない手で、針を刺していった。

 普段はくだらない話ばかり飛び交うのに、稀にこうしてお互いの口数が減ることがある。そんなとき三井は決まって、宮城を見ない。それがわざとなのか無意識なのか、宮城は知る由もない。しかしこれ幸いと、宮城はいつも三井を眺めていた。

 初めてあった日に見た、兄の面影は殆ど消え失せていた。改めて向かい合えば顔も中身も似ていないのだ。しかし後ろ姿だけは違った。眺めるたびに、生きていればきっとこのくらいの背格好だったのだろう、と思わずにいられない。しかし振り向けば、口を開けば、その幻想は離散する。それが悲しいわけではない。ただ、中途半端なのだ。色々あったが、三井自身のことは好ましく思っている。その一方で、あの日見た幻想を捨てさることも出来ないでいた。自分が彼に何を求めているのか、宮城ははっきりとした答えが出せないでいる。

 いっそ引っ張ってしまえばいい。髪でも顎でもひっつかんで、こちらを向かせてしまえばいいのだ。そんな衝動を宮城はぐっとこらえた。逆剥けは痛みを増し、ボタンはちぎれて転がっていく。そっとしておけ、触るんじゃない。ろくなことにならないのだから、と言い聞かせた。三井にバレないように手の汗をスラックスで拭う。

 それでも中途半端なものほど触りたくなるのが人間の性だ。未だ目の前にある真剣な顔に、少しだけ、と言い訳をして手を伸ばす。顎の傷に指先がほんの少し触れた瞬間、三井の肩がびくりと跳ねた。

「痛った」

 三井の指の腹から、小さな赤い玉がぷくりと浮き出る。宮城は慌てて立ち上がろうとしたが、三井に学ランを引ひかれて制止された。

「もう終わるから、座ってろ」

 血がつかないように人差し指を反らせながら、三井は糸を切った。そのまま指を咥えて、なれないことするもんじゃねーな、と呟きながら三井は救急箱を漁りだす。宮城はついたばかりの第二ボタンにそっと触れた。意外とまともに縫われていた。

「最後の方、縫っててイヤになったからよ。呪っといてやったぜ」

「はあ?」

 絆創膏を巻いた指で宮城を指しながら、三井はにやりと笑った。

「もう取るなよ!」

「いや、好きで取ったんじゃないっすよ」

 さっきまでロクに目も合わせなかったくせに、いつもの調子で話しかけてくる。

 この人のこういうとこ、よく分かんねーんだよな、と宮城はため息をつきそうになった。

「ところでお前六限なに? 出るの?」

 平然と話しかけてくる三井に、数学だった気がする、と返事をした。

 振り回されっぱなしで癪に障るが、どうせ自分では中途半端で決められないのだ。だったら三井に合わせてやればいい。三井の望みに乗っかっていれば、悪い方向には動かないだろう。では三井の望みとは、三井が己に望むこととは、あとさっきの呪いってなに、と頭を捻らす宮城のことなどつゆ知らず、三井は「じゃあサボれよ」と言った。

 悪い方向にも種類があるよな、と思いながらも、すでに授業へ出る気は失せていた。

当たれば悲劇、掠めれば奇跡

 ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドは目に見えてそわそわしていた。

 戴冠してから約一年、責務に追われる姿にはまさに救国王と呼ばれるにふさわしい威厳が身に付きつつあったはずだが、残念なことに今はその影もない。

 執務室で顔の前に書類を掲げてはいるものの、明らかに隻眼は文章を追っていなかった。たまにハッとしたように目を見開くも、またすぐに彼の思考は他所へ飛んでいく。時折、ソファの上の布づつみに視線をやり、民に見せられないほど緩んだ表情をした。

 仕事にならない。ドアの前に立つドゥドゥーは君主に聞こえないよう小さくため息を付いた。

 皇帝を倒しました。戦争は終わりました。世界は平和になりました。寓話のように綺麗に終われたらどんなに楽だろうか。残念なことに、この世はそんな単純にできていなかった。

 エーデルガルトの思想を未だ盲信する残党。戦争で賊に身を落とした者。そしてその裏に見え隠れする不穏な者たち。守るために誰かが剣を振るわねばならぬ日々が、未だ続いていた。

 先日も、ガラテアの領地に居座っていた山賊が流石に手に負えなくなってきたと、王都に救援の依頼が来たばかりだ。イングリットに騎士団を一つ率いらせ、さらにフラルダリウスからも兵を出すこととなった。

 さてその兵を出してくれたフラルダリウス公爵様はと言えば、兵と一緒になって意気揚々と出陣したらしい。お前にいけとは言っていない。使者を前にディミトリは苦言を漏らしたが、決して怒ってはいなかった。むしろ山賊側に同情さえした。イングリットでさえ必要ないのではと迷ったほどだ。そこにフェリクスまで投入してしまっては、過剰戦力もいいところである。

 どうせさっさと蹴散らして返ってくるだろう。この件に関してはさほど気に留めていなかった。そもそも山賊退治に乗り込む暇があるのならば王都に顔を出してほしい。というか自分のところに来てほしいというのがディミトリの本音だった。民を思えば戦時中より今のほうが百億倍マシだ。だが、恋人と共に居られる時間はガルグ=マクにいた頃のほうがよっぽど長かった。なにせ寝室が隣だったのだ。王都奪還直後に告白してからの数カ月は、不謹慎を承知で言えば、忙しいながらも幸せでもあった。

 だからイングリットが天馬で一人いち早く帰ってきたとき、彼はたいへん驚いた。そして彼女の言葉を聞いて、さらに驚くことになった。

「フェリクスの見た目が若返りました」

 ディミトリは自分の後頭部をぐしゃぐしゃと混ぜた。

「……順を追って話してくれないか。意味が分からない」

 イングリットの話を要約すると、「山賊の中に妙な魔法を使うやつが混ざっており、その魔法を避けきれず掠めたフェリクスの容姿が若返ってしまった」ということらしい。

「他に異常は無いのか?」

「はい。どうやら見た目が変わっただけで、怪我や不調もなければ記憶に問題もありません。騎士団の中にいた魔法に詳しい者によれば、一、二週間もあればもとに戻るであろうとの話でしたが」

 念のため魔道学院の学者にでも見せたほうがよろしいかと思います。とイングリットは続けた。

「どのくらい若返ったんだ?」

「ざっと六年か七年。ちょうど士官学校に通っていた頃くらい、でしょうか」

「そもそもなぜ敵はそんな魔法を?」

「掠めただけでこれですから。直撃してたら今ごろ胎児並の小ささでしょうね」

 ディミトリは自分の頬が引き攣るのを感じた。もしかしなくてもめちゃくちゃ危なかったのではないだろうか。

 その後フェリクスには直接魔道学院へ向かってもらい、その後はもとに戻るまで王城で待機するように指示を出した。それが四日前の話だ。そしてもう一つ、大急ぎで作らせたものが今、執務室のソファの上に、布で包まれて置かれていた。

 作らせた本人は執務机に座りながらも、一向に仕事が進んでいなかった。イングリットからの報告を受けた直後はまだそれなりに働いていた。問題は例のものが届いてからである。その中身を確認してからの救国王はそれはもうひどい有様だ。ろくに仕事が進まない。いつもの十分の一程度の遅さである。

「なあ、ドゥドゥー。フェリクスはまだ来ないのか」

「昨日、魔道学院が『以上無し』と正式に言ってきましたから、じきに参るでしょう」

「そうか」

 ディミトリは書類を放り投げて、椅子に深く背を預ける。茶でも入れますか、とドゥドゥーが訪ねようとすると同時に、控えめなノックが部屋に響く。ディミトリは椅子から跳ねるように立つと「入れ!」と叫んだ。数秒後、部屋の中を伺うように、そっとドアが開く。ディミトリは口角が上がりそうになるのを必死にこらえた。ご丁寧に髪まで伸びたらしい。後頭部には小さなお団子が乗っている。バツが悪そうにうつむきがちな顔は、今ではすっかり消えたはずの少年らしさを残していた。しかし服装は公爵らしくいつもの立派なマントを付けているものだから、なんだかアンバランスだ。

「ずいぶんな姿だな。フラルダリウス公」

 ディミトリはわざと高圧的な物言いをする。するとフェリクスは一瞬目を見開いたあと、露骨に顰め面をしてズカズカと執務室に入ってきた。それと入れ違うように、ドゥドゥーが音も立てずに外へ出る。もはや慣れたものである。

「笑いたければ笑えばいいだろう」

 真正面に立って下から睨みつけてくる顔はずいぶんと幼い。ディミトリは別に、笑うつもりは微塵もなかった。ただニヤけるのを我慢しているだけだ。

「イングリットから話は聞いている。危うく死にかけたそうだな。いや、生まれ直しそうだったと言うべきか?」

 フェリクスは舌打ちをして目をそらした。下手を打った自覚はあるらしい。ディミトリはついに我慢できなくなった。自分の口角がこれでもかと上がるのを自覚しながら、口元を手で覆い隠して言葉を続けた。

「その姿であちこち動き回るわけにもいかないだろう。戻るまでは俺の机仕事でも手伝ってもらうぞ」

「……分かった」

 とは言え執務室に監禁するわけにもいかない。城内くらいは自由に歩けるべきである。しかしフラルダリウス公が小さくなったなどと噂されるのはあまり良くない。見られた程度ではフェリクスとバレない格好をさせるべきだ。

「公爵は怪我で二週間ほど療養すると周囲には伝えてある。なに、服装さえ変えればあまり気づかれはしないだろう」

 ピッタリのものを用意してやったぞ。と、ディミトリはソファの上を指さした。

 白いシャツの上に、金色の模様とボタンを施した黒いベスト。黒いズボンの左腿にはベルトが一つ巻かれている。足元は当然、白いブーツだ。どこからどう見ても士官学校の生徒にしか見えない。そんな姿のフェリクスを左腿の上に座らせて、救国王は満円の笑みを浮かべていた。フェリクスの両足は己の足の間に落とし、左腕で腰を抱き寄せている。そして目の前にあるフェリクスの顔へグリグリと頭を寄せると、案の定「おい」とドスの利いた声が降ってきた。

「仕事を手伝わせるのでは無かったのか」

「そんなもの、手につくわけないだろう」

「そもそもなんだ、この格好は」

「ぴったりだろう。大急ぎで作らせたんだ」

「士官学校はまだ再開してない。今制服を着ているものなどこの世に一人も存在しない。こんな格好で歩いていたら不審がられるだろう」

「そうだな」とディミトリは平然と言う。

「俺が着せたかっただけだ」

 フェリクスはこれみよがしに大きなため息を付いた。「なんなんだ、お前は」

 そう呟くフェリクスの瞳を、ディミトリは至近距離で眺めていた。顔こそ当時のままだが、瞳には優しさが混じっている。当時では考えられなかったことだ。

「この姿の頃のお前は、俺にずいぶんと冷たかっただろう」

 ディミトリは再度、フェリクスに頬を寄せた。

「結構寂しかったんだぞ」

 腰に添えた手に力を込めて、より抱き寄せる。フェリクスの手が右肩に添えられた。しかし抵抗するように強く押されることはない。顔を離して顔を覗くと、バツが悪そうに視線がさまよっていた。何か言いたげだが、言葉が出ないのだろう。口も小さく開いたり閉じたりを繰り返している。結局彼は困惑した顔のまま、小さく「ディミトリ」とつぶやいた。

 その可愛らしさにディミトリは目を細める。そもそもこの姿のフェリクスが自分に抱き寄せられていること、そして名を呼んでくれること。ディミトリにとってそれは起こり得なかった過去のはずだった。そのはずだったものが、奇妙な形かつ少しの時間ではあるが、手に入れる機会が今と未来に現れたのだ。

「たかが一、二週間程度、可愛がってもバチは当たらないだろう」

 前髪をなでつけるように撫でると、「勝手にしろ」と顔を背けられる。その耳はずいぶんと赤かった。

今日はあの子の誕生日

 まんまるな頭のフォルムに、癖のないつややかな黒髪。子供らしかった頬の丸みは取れてしまったが、涼し気な目元は変わっていない。
 二十年ぶりくらいだろうか。初恋のあの子が店に初めて入ってきたとき、思わず拭いていたグラスを落とすところだった。子供の頃の面影を残したままの彼は値踏みするように店内を見渡す。そして厭味ったらしく鼻で笑った。
「しけた店だな」
 自身の手から滑り落ちたグラスが、ガシャンと足元で割れた。他人の空似かもしれない。そうであってほしい。そんなことを言う子ではなかった。そんな表情をする子ではなかったんだ。
 バーテンダーの気など知る由もない彼は、ヅカヅカと真正面までやってきてカウンター椅子に乱暴に腰掛けた。
「酒」
「……ウイスキーかビールしかないけど」
「どっちでもいい」
 彼は頬杖を付きながらつまらなそうな顔をした。バーテンダーは後ろの棚へ振り返る。少し迷って、二番目に上等なウイスキーの瓶を手に取った。グラスに注いで出してやる。彼は無愛想なまま口をつけた。その目が一瞬だけ見開いて、ほんの少しだけほころんだ。
 酒の味は悪くない。そうつぶやく姿に、やはりあの子だと認めざるを得なかった。

 家族ぐるみの付き合いだった。気難しそうな父親と、聡明そうな母親、そして優しげな雰囲気をまとった姉。そしてその後ろに隠れているあの子。仕事絡みの付き合いだったのだろう。いつもすぐに父親二人は席を外した。残った母親二人と彼の姉に見守られながら、二人で遊ぶのが常だった。
 遊びに行こうと駆け出すと、細くてどんくさい彼はすぐに転ぶ。そのたびに泣きそうな顔をするから、いつも慌てて起こしてやった。木登りも下手だった。怖がって登れないから、上から引き上げてやる。そうすると今度は「降りられない」と怖がった。
 地面に絵を描いて遊ぶこともあった。それは彼のほうが上手かった。歌もそうだ。彼はきれいな歌を教えてくれた。真似をしても、ちっともきれいには歌えなかった。
 次はいつ来るの? と、帰ってしまうたびに母に尋ねた。二ヶ月後よ、と母はいつだって答えた。なのにある日、彼らは来なかった。どうして来ないの、次はいつ? と母に聞いた。無言で頭を撫でられるだけだった。
 ずっと昔の記憶だ。子供の頃の、もう思い出すことすらめったにない記憶。結局父の仕事ではなく、祖父の店を継いだ。仕事にも生きていくのにも関係のない思い出が、あの日一瞬で引きずり出された。
 あれ以来彼はこの店にやってくる。人相の悪い男を後ろにずらずらと連ねながら、金をちらつかれる。機嫌が悪い日はカウンターに足を乗せた。
 聞きたいことが山ほどあった。どうして急に来なくなったんだ。姉さんはどうした。ときおり咳き込んでいただろう。どうしてそんな仕事をしている。家族はどうした。
 バーテンダーの口からその問いが出ることはない。情報を売る側だった。じゃあ金を払えば彼は教えてくれるのか? と思ったときもある。答えはNoだろう。彼が別の店へ行くようになるだけだ。
 彼が来店するたびに、バーテンダーは嬉しかった。面影が残るその姿を見ると心が踊った。そして彼に話しかけられるたびに悲しかった。忘れられたこと、変わってしまったこと、彼の善性が知らないところで失われたことが辛かった。しかし彼を攻める気にはならなかった。再開するまで自分だって忘れていたのだ。善性を失っていく過程に、自分はそばにいることもできずに忘れていたのだから。
 だから店員と客としての距離を縮める気にもならなかった。人間関係は一方通行にはならない。片方が忘れてしまったのなら、それはもう無かったことになる。そう思っていた。

 霧雨の夜だった。常連客も早々と帰ってしまい、いつもより早く店じまいにしようとモップを取り出したところで静かにドアが開いた。
 濡れたのだろう。黒髪はいつもより艶が出ていた。彼の後ろには誰もいない。ゆっくりと、だけどまっすぐにカウンターへ向かってくる。バーテンダーはモップをしまって、カウンター内へ戻った。
「いつものやつでいいか?」
「ああ」
 彼は静かに、ゆっくりと座った。後ろの棚から瓶を取り出し、グラスに注いでだしてやる。今日はもう来ないと思っていた。彼は視線を落としたまま、グラスをちびちびと舐めた。
 なんかあったのか。聞こうとして、やめた。彼は何も言わない。ただ、机の傷や棚の瓶を眺めながら無言で飲むばかりだった。
 バーテンダーはそっとカウンター下の戸棚を開けた。別に大したものではない。親が子に出すような、シンプルな焼き菓子だ。それをそっと彼の前に置く。
「なんだこれは」
「アンタ今日、誕生日だろ」
 彼は目を見開いた。そしていつものように顰める。
「なぜ知っている」
「これでも街イチバンの情報通なんで」
 おちゃらけてウインクをしてみせると、顰め面は露骨ににらみ顔へと変わった。不機嫌なまま彼は菓子を口に運ぶ。文句は飛んでこなかった。お気に召したらしい。当然だった。これは祖父ではなく、母のレシピだ。あの子も美味しいと言っていつも食べていた。
 無言で食べ終わった彼は、グラスに残った酒を一気に煽ってから立ち上がった。懐に手を入れたのを見て、「金ならいらねえよ」と制す。
「バーテンダーごときの施しなど受けない」
 言い方は厭味ったらしいのに、顔はすねた子供のようだった。バーテンダーは思わず笑った。そして思考を巡らせる。
「じゃあ、お代替わりに歌でも歌ってもらうかな」
 思い出から引っ張り出してきた旋律を口ずさんで見せると、「下手くそ」とやじが飛んできた。

白(R-18 医者時代)

 夜の壁を沿うように桜庭薫は足を進める。長時間に渡る手術を終え一段落ついたと思ったところで、受け持ちの患者の容態が急変した。内科医との相談の上、明後日行う予定だった彼女の手術は一週間以降に延び、また桜庭の今日の就業時間も随分と延びてしまった。もとより体力に自信のない桜庭は家に帰るのを諦め仮眠室へと足を伸ばしたのだった。
 安眠の妨害を防ぐためできるだけ音を立てずにドアを開けると、ベッドに横になっている同僚が酷く驚いた顔をして桜庭の方へ振り向いた。
「すまない。起こしたか?」
「いや、まだ寝る前」
 桜庭が小声で話しかけたにも関わらず、彼は普通の声量で返事をした。
「桜庭はまだ仕事してたのか」
「まあな、今日は君しかいないのか。珍しいな」
「俺普段ここ使わないから珍しいとか言われても分かんないよ。むしろ普段の状況把握してる方が異常だと思うよ」
「そうかもな」
 桜庭はそう返事をしながら部屋の隅に壁に背をつけて設置された小さな冷蔵庫へと足を延ばす。
「ところで桜庭さあ、精液飲んだことある?」
 飲み物を取り出そうと少し屈んで冷蔵庫のドアに手をかけたところで、3,4メートルほど離れた背後のベッドから奇妙な疑問が投げかけられた。
「……あるわけないだろ。何の話だ」
 相手からの返事はなく、代わりに床に降りる音が聞こえてくる。不穏に思い振り返れば、同僚がゆっくりと桜庭の方へと近づいてきていた。肩のあたりまで持ち上げられた右手の指先には白色の液体が付着している。
「君は仮眠室で何をしてたんだ」
「いやあ、誰も来なかったからさ」
 悪びれる様子もないさわやかな声色といつもどおりのやさしい笑顔は、桜庭にはひどく不快かつ奇妙に映った。
「で、もう一回聞くけど」
 右手の指を練り合わせるように動かしながら、同僚はいつもの笑顔で桜庭に近づいていく。
「桜庭さあ、精液飲んだことある?」
 体が反射的に引き下がっていこうとするが、半歩下がった時点で冷蔵庫に阻まれてしまう。より距離を取ろうと左後ろへさらに下がるが、壁との距離があるはずもなく、部屋の角と冷蔵庫の間の1メートルほどの隙間に入り込む形になってしまう。逃げられない、と桜庭が思った時にはすでに同僚は目の前まで迫ってきていた。
「……何を考えているんだ」
 怯える桜庭を見ても同僚は眉一つ動かさず、さらに距離を詰めてくる。触れられる距離まで近づいた瞬間、左手が伸びてきた。思わず身を縮こませ目をつぶり、両手が顔をかばうように上がる。その両の手首を同僚は片手で力強く拘束してきた。
「やめろ、はなせ」
 恐怖からか、絞り出したような小さな声しか出てこない。
「飲んだことないんだよね? 味知らないんだよね?」
 言い終わると同時に足を払われ、尻餅をつく。壁に打った背が痛い。掴まれていた両腕は吊上がったが、ゆっくりと屈んでくる同僚と同じスピードで下がっていく。
「飲んでよ、俺の」
 座りこんだ桜庭を覆うように、膝をついた同僚の顔がぐっと近づいてくる。見知った顔が、まるで知らない人のように見えた。拘束された腕は力を込めているのに一向に外れる気配がない。
「口開けて」
 声を発するために唇を開くことすら怖ろしく、無言のまま顔をそむける。同僚はあからさまな溜息をついて、右手で桜庭の顎を上げた。驚いて同僚の顔を見るが、彼は真顔のまま親指で桜庭の唇になでるように精液を塗りつけた。独特のにおいが鼻をついてうめき声が漏れる。気持ちの悪い触感に、全身に鳥肌が立つのが分かった。唇の端から端まで塗り終わると、同僚は満足げな笑みを浮かべた。愛おしむような視線に吐き気がする。
「それ舐めて。舐めてくれたら終わりにするから」
 終わりにする、という言葉に桜庭は少し心が揺らぐが、口を開く気には到底なれない。しかし文句を言う気力も無く、震えたまま口を噤んでいるのが精一杯だった。
「頼むよ、ちゃんと終わりにするから」
 同僚は人差し指の甲で下唇を掬い上げるように拭い取り、そのまま口を割るように押し付ける。
「ちょっとだけでいいから。そしたら手も離すし、もう何にもしない」
 本当かと問いかけたいが、言うために口を開けばそのまま指を押し込まれるだろう。桜庭は悩んだ末、おそるおそる舌を伸ばした。触れた瞬間、口に広がる臭い胃酸込み上げてくる。粘膜で触れたことでより強く伝わる生温さが、これが体液である事を嫌という程伝えてくる。独特な触感は、唇に塗られたときとは比べ物にならないほどの恐怖と嫌悪感をもたらした。一瞬舌先で触れただけで、顔が歪み視界が潤む。これ以上は無理だと直感しすぐ舌を引っ込めた。
「もう無理?」
 目を瞑りながら小さく頷いた。濡れた上睫毛の根元が冷たい。幸いにも零れ落ちる程の涙はまだ目元に溜まっていなかった。
「そっか、ごめん」
 同僚は悲しそうに少し微笑むと拘束していた手をゆっくりと緩めた。その手で桜庭の髪を整えるようにそっと撫でる。
「本当にごめん。……おやすみ」
 それだけ言うと同僚は何事もなかったように背を向けて、ポケットティッシュで手を拭きながらベッドに向かい、そのまま潜り込んでしまった。膨らんだ掛け布団の中身は人形の方に動かなかった。
 仮眠室はいつも通り、冷蔵庫の小さな稼働音だけが鳴っている。部屋の片隅で震えている自分だけが、まるで異質なもののように思えた。

好きの妥協点

 目が覚めた瞬間、頭に浮かんだのはやばいの三文字だった。慌てて飛び起きてスマートフォンを手に取ると、時刻は11時48分。その下には着信履歴とメッセージアプリのポップアップがずらりとぶら下がっていた。
 桜庭と同じ日にまる一日オフなんてのは本当に久々だ。桜庭の神戸行きが目前に迫っているのもあり、朝からデートしようと誘ったのは紛れもない俺自身だった。にも拘らずこの体たらくである。頭を抱えたところでときが戻るはずもなく、寝起きで回らない頭で謝罪の言葉を必死に考えながらメッセージアプリひらいて確認する。
「着いたぞ」
「天道、今どこだ?」
「近くの喫茶店に入ってる。気づいたら連絡しろ」
「本当にどうした?」
「何かあったのか?」
「今から君の家に向かう。電話は出られるようにしておくから、気づいたらすぐ連絡してくれ」
 最後のメッセージは11時32分。電話に出られるということは恐らくタクシーで向かっているのだろう。待ち合わせ場所から俺の家まで約30分程だろうか。怒って帰られる方がよっぽどマシだとさえ思えてくる。明らかに心配しているであろう後半のメッセージに罪悪感を覚えながら、3回ほど入っている着信履歴から桜庭の携帯へ電話をかけると、数回のコールで繋がった。
「……もしもし?」
「天道か? どうした?」
 普段よりほんの少し高くて早口で、小さく聞き取りづらい声にさらに罪悪感が圧し掛かってくる。桜庭は完全に何か問題が起きたと思っているようだ。いっそ嘘でもついて俺が悪いわけではないことにしてしまおうか。一瞬そんな考えも浮かんだが、変な嘘でさらに桜庭に心配をかけるのは、さすがに俺の正義感が許さなかった。
「……すみませんでした」
「……なぜ謝る」
「完全に寝坊した」
 俺の言葉を聞くや否や、携帯越しに溜息が聞こえてくる。
「本当に寝坊しただけなんだな?」
「まじで今起きたとこだ。本当にごめん」
「……後15分くらいで君の家に着く。身支度だけ整えておけ」
 俺の返事を待たずに電話は切られてしまった。そもそも何故俺は起きられなかったのだろうか。携帯のアラームはきちんと設定したはずだ。アプリを開いてみればきちんと8時に設定されており、9時半の待ち合わせには十分間に合ったはずだろう。現実逃避と言わんばかりに少し携帯を弄ってみれば、何故か音量が最小に設定されていた。ああ、それでさっきの電話は聞きとりにくかったのか、などと一人で納得している間に時刻は11時53分。原因が解明したところで桜庭は家へやってくる。俺はベッドの上で大きな溜息をついて、洗面所へと向かうべく床へ降り立った。

 聞きなれた音に反応してモニターへ向かう。案の定小さな画面には不機嫌ですと言わんばかりの桜庭の顔が映し出されていた。早急に玄関へ向かい扉を開ける。その先に顕われた桜庭はモニターに映し出されたものと全く同じ顔をしていた。
「5分、いや3分だけ待ってくれ! すぐ支度するから!」
「別にゆっくりでいい。襟足が跳ねているぞ」
 桜庭は猫のように扉をすり抜けて、当たり前のごとく靴を脱いで上がっていく。開けたばかりの玄関を閉め、通ったばかりの廊下を桜庭の後ろをついて戻る。一足先にリビングへ入った桜庭はさっさとソファへ座り、取り出した文庫本を開きだす。まるで何事も無かったかのような仕草だが、その表情は決して柔らかくない。桜庭は人一倍時間に厳しい。正直、家に来た瞬間説教をされる覚悟さえあった。予想に反した行動だが、顔を見るに桜庭の感情とも反しているのだろう。桜庭が不満や許せないことはきちんと口に出すタイプであることは嫌と言うほど知っている。普段とあまりにも違う対応に戸惑い、俺は無言でリビングの入口に立ち尽くす。暫く文庫の文字を追う桜庭を見つめていたがところ、桜庭は立ちつきしている俺に気がついたのか、ふいに顔を上げた桜庭と目があった。
「何をしているんだ。まさかその跳ねた襟足で外出するつもりか?」
「いや……。お前さ、怒らないのか?」
「怒っていないと思うか?」
 俺は反射的に首を振る。怒っていない訳が無い。だからこそ、今の桜庭が不思議で仕方がないのだ。
「これが仕事だったら君とは一生口をきかなかったかもしれないな」
 そう言いながら桜庭の視線は本へ戻ってしまう。流石にそんなへまはしないと言い返したいが、盛大に寝坊した直後にその言い訳は気が引ける。
「今日は僕にしか迷惑をかけていないし、君にも悪気があった訳ではないだろう。それに数日後にはツアーのために神戸へ発たなければならない。怒ってはいるが、何もここでケンカすることも無いと思っただけだ」
「……そっか」
 俺の口から洩れた言葉はとても小さかった。
「髪直してくる」
 怒ってはいる。だけど今日は許してやる。つまりそういうことなのだろう。遅刻を咎めることよりも、俺と楽しく過ごすことを優先してくれた。普段からは想像がつかないからこそ、その事実が純粋に嬉しく思う。
 せっかくの好意を無駄にするのが惜しくて、素直に乗っかるように洗面所へ向かう。整髪料を片手に、音量が最小になったスマートフォンで小声で馴染みのレストランへ電話をかける。
「もしもし、今晩予約取れますか?」
 夕飯は俺の家で手料理をふるまおうと考えていたが予定変更だ。多分桜庭は昼食をとっていないから、何処かへ寄って、映画を見て、それからもっとうまいものでも食べに行こう。せっかく許してくれたのだから、最高の気持ちで送り出してやるのが筋ってものだろう。
 電話をかけて3件目、やっと予約が取れたころには俺の襟足も綺麗に直線を描いていた。リビングへ戻って静かに文庫本のページを捲る桜庭へ手を差し伸べた。。
「昼飯まだだろ? なんか食ってから、映画見に行こうぜ」
「ああ」
 何のためらいも無く握り返された手が温かい。繋いでいられるのはいつも通り、マンションを出るまでだ。それ以上は世間が許してくれない。だけどそれで十分だ。桜庭はまたこの家にやってくる。そしてまた、溜息一つで俺を許してくれるのだから。

夢に沈めて

 きっかけはいったい何だっただろうか。天道とこうして肌を重ねるようになってから随分経つ。彼は僕に愛の言葉を紡いだことは一度も無く、僕もまた彼に愛の言葉を紡いだことは一度もない。初めに誘ったのはどちらだったのだろう。
 隣で背を向けて眠る天道を眺めながら思い出そうとしてみるが、出てくるのは自分も天道も酷く酔っ払っていたということだけだ。しかし2回目以降は、誘うのはいつも天道の方だ。そして自分も当たり前のように着いて行く。僕たちはいったい何をしているのだろう。そっと天道の赤い髪に触れてみた。短くて硬い、水分の少なそうな感触は、間違いなく触り慣れていない男の髪だった。すぐに触るのを止め、後ろから寄り添うようにして眼を閉じる。先に起きるのはいつだって僕なのだから、どんな体勢で寝ようが天道には関係ない。自分よりほんの少し高い体温が、なぜか心地よく感じる。不思議と目を瞑った先で、天道と逢いたかった。夢で逢えたら、君は僕にだけ笑いかけてくれるだろうか。僕は、君に好きだと伝えられるだろうか。

 朝陽がカーテンに遮られているせいで室内は随分薄暗い。自然と開いた眼を再び閉じようとして、ふと違和感を覚えた。数秒間そのまま考えたが、違和感の正体が呼吸だと気付いた瞬間、反射的に短い襟足を力強く引っ張った。
「痛ってえ!」
 そう叫んで襟足を押さえる天道からそっと身体を離して、ベッドの反対側へ寄る。
「医師免許持ちの隣で狸寝入りか。 度胸があるのか馬鹿なのか」
「別に狸寝入りじゃねえよ。動いたら起こしちまいそうだったから二度寝しようとしてただけだろ」
 そういいながら天道はごろりと体ごとこちらを向く。その表情は、昨日僕が夢で見たいと願ったものにそっくりだった。そのままゆっくりと伸びてきた手が僕の頭を撫でる。その事実が耐えきれなくて、思わず天道の顔から視線を逸らした。
「ちゃんと眠れたか?」
「君には関係ない」
「あっそう。……朝飯なにがいい?」
「なんでもいい」
 ぶっきらぼうな僕の返事は気にも止めず、分かったと小さく返事をして天道はベッドを降りていった。僕はシーツを頭の上まで引き上げて再び眼を閉じる。結局夢で天道に逢うことは出来なかった。けれども、普段の天道は僕より先に起きないし、あんな顔で笑いかけることも、僕の頭を撫でることもない。だから僕も、普段しない二度寝をしよう。天道はきっと何も言ってはこないのだろう。だから眠ってさえしまえば、再び眼が覚めた時、全ては夢のようなものへと変わっているに違いないのだから。

くだらない奇跡はいつだって人が引き起こす

 アイドルのバレンタイン関係の仕事なんてものは、バレンタイン当日より前にとっくに終わっている。ライブや生放送の番組に出るアイドル以外は、卒業や入学関係の仕事が混ざるアイドル活動に従事しながら、事務所に届くチョコレートをメインとしたたくさんの贈り物を待つだけとなる。
 そんなことは分かっていても世間様はバレンタイン一色で、その空気に当てられたのかなんなのか、ネット通販でちょっとお高いチョコレートをひたすら調べていたのが一週間前。自宅に届いたのが三日前。鞄に忍ばせて仕事へ向かったのが十時間前。番組スタッフから貰ったチョコが入っている紙袋へ、鞄から移し替えたのが六時間前。楽屋から翼と桜庭がいなくなった隙を見て、桜庭の鞄にねじ込んだのが三時間前。そして俺と翼が飯に誘ったにも関わらず、不機嫌オーラ全開で桜庭が帰っていったのは、今から二時間ほど前のことだ。

「薫さんめちゃくちゃ機嫌悪かったですね」
「言っておくけど今日は喧嘩してないぞ」
「じゃあなんであんなに怒ってたんですか?」
「さあ?」
 いつものファミレスで食後のコーヒーを啜りながら、翼と二人で時間を持て余していた。桜庭が機嫌を損ねた理由は本当に分かっていない。少なくとも朝の時点ではいつも通りだった。にも関わらず途中から、カメラの前では出さなかったが、唐突に眉間にシワを寄せ出し、驚く程に口数が減った。
「まあガキでもないんだし、単に機嫌が悪いだけなら首突っ込まなくてもいいと思うぜ。何日も引きずるようならあれだけどな」
「明日にはなおってるといいですねえ」
 そうつぶやきながら翼が翼が手元のスマートフォンを一瞬付ける。表示された時間は自分の想像していたものよりずっと遅い。
「そろそろ出るか?」
「あ、じゃあ俺トイレだけ行ってきます」
 翼が店の奥へ消えていったので、自分の携帯を探してカバンを漁る。翼にはああ言ったが、桜庭に一本くらい連絡を入れてもいいかも知れない。あいつは文句を我慢しないから、機嫌を損ねた理由はおそらく俺ではない。それでもせっかくのバレンタインが、不機嫌な恋人を黙って見送って終わり、なんて結末は余りにも寂しい。
「あれ?」
 鞄から先に見つけたのはスマートフォンよりも少し細長い、そして余りにも見覚えのあるものだった。よく知った包装紙に包まれた手のひらサイズの四角い箱。自分の鞄から出てきたそれは、俺が桜庭の鞄にねじ込んだチョコにそっくりだ。
 不審に思いながら包装紙を破れば、出てきたのはやっぱり同じ箱。蓋を開ければ、やっぱり俺が選んだはずの星型のチョコレートが三つ鎮座していた。
「戻された?」
 予想外のできごとにため息すら出てこない。固まることしかできない俺の頭上から、ふわついた声が降ってくる。
「お待たせしました! 事務所行きましょうか。チョコいっぱい来てますかね?」
 見上げた先の翼は随分嬉しそうで、多分コイツは今たらふく飯を食ったことなど忘れてしまっているのだろう。
「悪い、翼。俺明日取りに行くわ」
「え!? 輝さんチョコいらないんですか!?」
「明日行くって。ちょこっと用事ができた。チョコだけに」
「分かりました! 全部食べておきます!」
「だから明日行くってば!」
「冗談ですよ?」
「ホントかよ……」
 多分ダジャレがいけなかったのか、思わぬ反撃を喰らいながらファミレスを出てタクシーを捕まえる。向かう先をもちろん桜庭の家だ。せっかくのバレンタインが、不機嫌な恋人を黙って見送って終わりどころかチョコまで突っ返された、では余りにも寂しすぎるではないか。

 玄関のドアから顔をのぞかせた桜庭は帰り際の五割増しで不機嫌そうに見える。多分実際は三割増程度で、残り二割は怒りのせいで悪く捉えているのだろう。
「連絡もなしに突撃してくるな。常識ってものを考えろ」
「何回も電話したのに出なかったのはお前だろ」
「近所迷惑だからとりあえず入れ」
 背を向けて引っ込む桜庭について家に上がる。服装はいつもより簡素で、髪は目に見えて湿っている。風呂に入っていてタクシーからかけた俺の電話には気づいてすらいなかったのだろう。それでも出なかったことを攻めた先ほどの発言に対して、撤回して謝る気にはなれなかった。
 リビングに通されて、桜庭が俺より先にソファのど真ん中に足を組んで座り込む。茶の一つも出す気は無くて、隣に座られるのも嫌なようだ。その態度に余計苛立ちながら、俺も向かいのソファに座り込む。
「で、なんだ? 説教でもしに来たのか?」
「は? 説教?」
 予想外の言葉に出鼻を挫かれる。説教ってなんだ? 怒らせた自覚はあるみたいだが、ここで説教という言葉は違う。
「確かに軽率だったと思う。でも咎めるなら同じ行動で返すのはおかしいだろう。そもそもこうして訪ねてくるなら今返せばよかっただろう。君が何をしたいのかまったく理解できない」
 理解できないのは俺のほうだ。軽率だった、はチョコを突っ返したことだとしても、同じ行動で返すってなんだ。今返せばよかったってなにをだ。抱えていた怒りが宙吊りにされて、底からぽこぽこと疑問ばかりが湧いてくる。
「お前が何を言っているのかまったく理解できないんだけど」
「は?」
「突っ返したのはお前だろ?」
「僕が突っ返した? 何を?」
「そりゃチョコだろ」
「……君は何を言っているんだ」
 ずっと視線を逸らしていた桜庭の顔が、やっと俺のほうを向く。その表情は怒っているような、困惑しているような、はたまた軽蔑しているような、端的に言えば「なんだこいつは」とでも言いたげな顔をしていた。
「突っ返したのは君の方だろう」
 ぽつりと桜庭が呟いたが、やっぱり意味が分からない。そもそも言葉の抜けが多すぎる。こいつは俺に伝える気が無いのではないかとさえ思えてきた。しかし伝えてもらわなくては始まらない。とにかく足りない部分を補うように湧いてきた疑問をそのままぶつける。
「俺が? 何を?」
「だからチョコをだ」
 どうやら俺はチョコを突っ返したらしい。
「……チョコを? 俺が? 誰に?」
「だから僕に!」
 ということはつまり、俺が桜庭にチョコを突っ返したから桜庭は怒っている、という訳だ。
「なんで!?」
「なんでってなんだ!!」
「そもそも貰ってねーよ!!」
「渡しただろう! それを君が突っ返したんじゃないか!」
「だから突っ返してないって……」
 あまりに理解できないせいで怒りがどんどんしぼんでいく。怒鳴り合いは想定していたが、まさか謎解きをする羽目になるとは思わなかった。バカみたいに大きなため息をつきながら自分の髪を掻き回す。
「とりあえずお前の言い分は、俺にチョコを渡したのに突っ返されて怒ってる、ってことでいいんだよな?」
「だからそう言っているだろう」
「いつ渡した?」
「撮影の合間に君の鞄に入れた」
「なんで突っ返されたと思った?」
「撮影が終わったあとに僕の鞄に戻ってたから」
「……なんで今俺がお前の部屋に押しかけてきたと思ってる?」
「誰かに知られる可能性がある渡し方をしたことを咎めるため、だと思っているが……。そのことについて怒るなら、同じ方法で返してきた意味が分からないし、そもそもこの場でチョコを返せばよかったのではないかと思う。このあたりがイマイチ理解できていない」
 鞄に入れたチョコが自分の元に戻されたから怒っている。これはまったく自分と同じ理由だ。なぜか俺がしたはずのことが、桜庭の中で桜庭がしたことになっている。後半はまあ、桜庭の推測に過ぎないし、そもそも理由からして間違っているから理解できなくて当たり前だ。
「俺がお前の渡し方を咎めに来たわけでも説教しに来たわけでもないぜ」
「じゃあ何をしに来たんだ」
「お前の鞄に入れたチョコが、帰りには俺の鞄に入ってたから突っ返されたと思って怒りに来た」
「やはり意味が分からない」
「俺も分からない。でも俺はお前からチョコを貰ってないし、突っ返してもいない。これだけは確かだ」
 俺がそう言い切ると、桜庭はため息をついてソファの脇に置いてある鞄を手に取る。それは間違いなく今日桜庭が使っていたものだ。
「じゃあこの鞄に入っているチョコは何なんだ」
 桜庭が鞄から取り出してローテーブルに小さな箱を置く。その箱は間違いなく、ファミレスを出る瞬間まで俺の鞄に入っていたものだ。
「えっ!? なんで!?」
 驚いて自分の鞄を漁る。中で見つけたのは台本、携帯、スケジュール帳、その他諸々、そしてやっぱり机に置かれているものと同じ、小さな箱だった。
「……やっと分かった」
 すれ違いの原因はあまりに単純で、だけと確率的には奇跡に少し近い。
「お前の鞄に入ってたのは、俺がお前にあげたやつだよ」
 俺がローテーブルの箱を指差して伝えると、やはり桜庭は怪訝な顔をする。
「では僕が君にあげたやつは?」
「それは俺の鞄に入ってる」
 そっと小箱を鞄から取り出して机に置く。色も形もデザインも、まったく同じものが二つ、机の上に存在している。
「包装まで同じだったんだが」
「通販限定の包のやつだろ?」
「サイズ展開も豊富だったぞ」
「あんまり大きいと気合入ってるみたいで恥ずかしいよな」
「チョコの形も四種ほどあったが……。まあ、そこは被っても可笑しくないな」
「星だよなあ、三つ入りだし」
 バカみたいなことに、買ったチョコが偶然同じで、渡し方も偶然同じだった。そのせいで相手からもらったものを、自分が渡したものを突っ返されたと勘違いした。ただそれだけの話。
「被るか? 普通」
「被らないだろうな、普通は」
 怒り損だと分かった途端に一気に疲れが襲ってくる。こんなに疲れたバレンタインは生まれて初めてかも知れない。とりあえず目の前のチョコに手を伸ばす。疲れた時には糖分だと、目の前の男から嫌というほど聞かされたせいだ。口に含んで噛み砕いた瞬間、広がる豊かな香りと甘さ控えめの上品な味が、桜庭が選びそうなチョコではある。視界に入った壁掛時計に視線を移せば、示された時間は自分の想像していたものよりずっと遅い。
「……風呂借りていい?」
「……勝手にしろ」
 終わりよければなんとや。余りにも寂しいバレンタインは残り一時間と少しを残してその姿を消した。結局この場に残っているのは上機嫌な俺と、顔を覆った手にも隠れず赤い耳をチラつかせている桜庭だけだ。
 アイドルのバレンタイン関係の仕事なんてものは、バレンタイン当日より前にとっくに終わっている。だけど恋人のバレンタインは、あと一時間以上も残っていた。

隣にいるから

 アイドルになったのは金を稼ぐため。そう言い切っていた桜庭が金が必要な理由をぽつりと洩らした。2人掛けのソファで俺の隣へ座っている桜庭へ視線を向けると、桜庭は缶ビールを片手にぼうっと前を向いていた。専門外だから俺には医療のことは詳しくは分からない。でも生半可な気持ちだけでは成し得ない夢であることはなんとなく分かる。結成初期から俺たちにも自分自身にも厳しい桜庭という男の胸の内には、こんな物が眠っていたのか。桜庭の横顔は、決意に満ちている訳でも無く、かと言って喜びに満ちている訳でも無い。アイドルになるよりずっと前からそこにあった想いは、もう桜庭にとって当たり前のものになっているのだろう。
 恐ろしいほどに高い目標を固い決意と共に持ちながら、宣言もせず応援も求めず、でも手は抜かずにストイックにこうも目指せる奴は滅多にいないだろう。きっと今呟いたのも、俺に応援して欲しいからでは無い。多分話の流れとアルコールのせいで本当に洩れ出してしまっただけだ。
 だから俺は桜庭薫が好きなんだ。表面からはっきり見て取れるストイックさ、少し付き合うとそこから顔を出す芯の熱さと人を想う優しさ。そして更に関わると甘さと共にほんの少しだけ開かれる心の内が、人として愛おしくて仕方がない。
 だけど桜庭の好きなところがもう一つある。そして桜庭の語る夢には、それが見えてこなかった。
「お前はどうするんだよ」
 俺の言葉に首をかしげる桜庭から視線を逸らして前を見る。空き缶とつまみが乗ったローテーブルの先には、先程から楽しそうに歌って踊る俺たちが映っている。
 初めて人前で披露した公開収録の番組の録画を家で見たときの衝撃を俺は今でも忘れていない。こんなにも楽しそうな桜庭を見たのはあれが初めてだったからだ。お前はそんなに楽しそうに歌って踊るのか。この場所はお前にとってそんなにも幸せな場所なのかと、放心しながら眺めていた。
「どうするって何がだ」
「だから、費用貯めて、研究して、その病気を無くすんだろ?」
「ああ」
「それで、お前はどうするんだよ」
「……質問の意味が分からない」
「だろうな」
 その夢が叶えば、きっとこの世界から何人もの人が救われるのだろう。患者本人だけじゃない。それこそ過去の桜庭のような人たち、つまり患者の家族や友人を含めた周りの人達もだ。
だけどそこに、今の桜庭が含まれているようには俺には思えなかった。
 目の前の液晶は相変わらず楽しそうな俺たちを映し出している。どうして一緒に観ているのに、この幸せそうな桜庭薫はお前の目に映らないのだろうか。ヒーローになった先には俺の幸せがある。最高の景色の先には翼の幸せがある。なのにどうして大金を稼いで病気の無くした先に、桜庭自身の幸せを見出そうとしないのだろうか。
 315プロダクションに、DRAMATIC STARSに、ステージの上に、桜庭薫の幸せがあるという考えは俺の傲慢なのかもしれない。でも楽しそうに歌うこの表情に、倒れた翼に本気で動揺した姿に、花火を見ながらまた来ようと言ってくれたその言葉に、俺は桜庭薫の幸せを見出したかった。
「お前が見るべきなのは俺の顔じゃないだろ」
 先程から怪訝な顔をしながら何も言わない俺を見ている桜庭にそう呟くと、少し不満げな顔をしながら前へと向き直る。見るべきなのは反省点でも改善点でも無いぞと言いかけてやめた。多分今の桜庭には伝わらないのだろう。
 人生を賭けて叶えようとしている夢の先に自分の幸せが加味されていない。そんな奴は物語に出てくる復讐に燃える悪役くらいだ。だけど桜庭は悪い奴じゃない。あるのは知らない人の幸せだけだ。だけど桜庭からしたら一種の復讐なのかも知れない。この世界には病など山のように存在している。一つ治せるようになっても、病に苦しめられる人が全員居なくなる訳ではない。その中で姉を蝕んだものだけでも消し去ろうとしている。復讐に燃える奴を止めるのはそれこそヒーローの役目だろう。だけどこんなに優しくて美しい復讐を俺は知らない。そして邪魔していいものだとも思わない。ただその先に桜庭の幸せの存在だけが抜け落ちていることが、悲しくて仕方がない。
 目の前の液晶は相変わらず先日のライブを映し出している。生きてきた道も、秘めた想いも、得意なことも全部違う3人が、このDRAMATIC STARSという場所なら支え合って幸せに笑える。
 隣で真剣に改善点を探す男の代わりに、ここが桜庭にとって幸せな場所であることを願おう。
 桜庭がいつか自分自身の幸せと向き合える日まで。

紫を吐く

 コンビニで貰った試供品の煙草は俺が愛煙しているのもと同じ銘柄だ。パッケージのデザインは殆ど変わらない。ただ一目で分かる通り、色だけがガラリと変わっている。購入した赤い箱と貰った青い箱を並べて置いてみると、驚くまでもなくそっくりで、驚くまでもなく正反対な印象を残す。試供品の封を開けようかと少し悩んで、開けずにポケットへしまい込んだ。

 屋上で直射日光に焼かれながら、煙草から直接煙を吸い込む俺の横で桜庭が時折口の中で乾いた音を鳴らす。副流煙の方が身体に悪いんじゃないのか。そんな言葉が煙と共に出て来そうになるが、ぐっと堪えて溜息に変える。喫煙所は社会人の小さなオアシスでもある。そして喫煙所でシガレット型のラムネを食べてはいけない決まりはどこにも存在しない。
 桜庭は遂に煙草をやめた。女性向けの薄ピンクの箱が握られていた手には、子供向けの駄菓子が握られている。これはこれで別のベクトルにかわいらしいが、俺がアイドルになる前に見た、あの色気をまとった空気は完全に姿を消した。それでも他人同士だったあの頃より、俺について駄菓子を片手に喫煙所に来る桜庭の方が俺はずっと好きだった。
 それにしてもタイミングが悪いなと、ジャケットのポケットにしまい込んだ青い箱を思い浮かべる。パッケージの色で煙草を選ぶ奴なんていない。それでもお揃いでそれぞれのイメージカラーの煙草を吸っているってのも乙なものだろうに、今の桜庭に渡しても、きっと火はつけてくれない。同じ銘柄だから味は大きく変わらないだろうが、かといって自分で吸う気にもならない。煙を吸いながら、宙ぶらりんな煙草の行き先に思いを巡らせてみるも、こうも綺麗な青色だと桜庭が所持する以外の選択肢が見つからない。少し小ぶりな箱も、細い手に良く映えるだろう。やっぱり桜庭が持っているのが一番いい。何ならこいつの家に置いてもらえばいいんだ。桜庭の家でなら、俺も吸う気になるかもしれない。
「これやるよ」
 コンビニで貰ったからさ、と付け加えて差し出すと、桜庭は怪訝そうな顔をしながら受け取った。
「君が吸えばいいだろう」
「うん、だからお前の家に置いといて」
 手のひらで青い箱を転がしている桜庭から視線を外して空を見上げる。すると隣から不意に乾いた音が鳴る。ラムネを噛む音ではなく、銀紙を切り取り線から引き取った音だ。
「……ん」
 驚いて隣をみると、細身の煙草をくわえた桜庭がこちらに先端を向けている。やめたんじゃなかったのかと思いながらも、俺も煙草を咥えなおして先端同士をそっと押しつけてやる。俺の煙草から燃え移る火をじっと見つめていたが、数秒後には着火しそっと離れていく。
 シガーキスはやるより見てる方がずっとドキドキする。煙草一本がだいたい俺の人差指と同じ長さだ。それが二本分。実際やってみると、そんなに近くない。そのうえコントロールの難しい唇で咥えて先端同士を合わせるのは少し神経を使う。着火も早いわけではないから、ライターを使った方がよっぽど早くて便利だ。
 それでも桜庭は、偶にこうして俺から火を貰う。まあ今の場合はライターを持っていないのが一番の理由なんだろう。
 混ざり合う煙名残惜しいが、最後の一口を吐き切って携帯灰皿へ押し付ける。
「……もういい」
 すっと差し出された煙草は半分も減っていない。俺が受け取って咥えると、桜庭が持っていた青い箱はポケットの中の駄菓子の箱と入れ替わった。
 やっぱり味はあんまり変わらないな、と考えている俺の隣で、乾いた音が鳴る。
 吐いた煙は相も変わらず紫色だった。