白(R-18 医者時代)

 夜の壁を沿うように桜庭薫は足を進める。長時間に渡る手術を終え一段落ついたと思ったところで、受け持ちの患者の容態が急変した。内科医との相談の上、明後日行う予定だった彼女の手術は一週間以降に延び、また桜庭の今日の就業時間も随分と延びてしまった。もとより体力に自信のない桜庭は家に帰るのを諦め仮眠室へと足を伸ばしたのだった。
 安眠の妨害を防ぐためできるだけ音を立てずにドアを開けると、ベッドに横になっている同僚が酷く驚いた顔をして桜庭の方へ振り向いた。
「すまない。起こしたか?」
「いや、まだ寝る前」
 桜庭が小声で話しかけたにも関わらず、彼は普通の声量で返事をした。
「桜庭はまだ仕事してたのか」
「まあな、今日は君しかいないのか。珍しいな」
「俺普段ここ使わないから珍しいとか言われても分かんないよ。むしろ普段の状況把握してる方が異常だと思うよ」
「そうかもな」
 桜庭はそう返事をしながら部屋の隅に壁に背をつけて設置された小さな冷蔵庫へと足を延ばす。
「ところで桜庭さあ、精液飲んだことある?」
 飲み物を取り出そうと少し屈んで冷蔵庫のドアに手をかけたところで、3,4メートルほど離れた背後のベッドから奇妙な疑問が投げかけられた。
「……あるわけないだろ。何の話だ」
 相手からの返事はなく、代わりに床に降りる音が聞こえてくる。不穏に思い振り返れば、同僚がゆっくりと桜庭の方へと近づいてきていた。肩のあたりまで持ち上げられた右手の指先には白色の液体が付着している。
「君は仮眠室で何をしてたんだ」
「いやあ、誰も来なかったからさ」
 悪びれる様子もないさわやかな声色といつもどおりのやさしい笑顔は、桜庭にはひどく不快かつ奇妙に映った。
「で、もう一回聞くけど」
 右手の指を練り合わせるように動かしながら、同僚はいつもの笑顔で桜庭に近づいていく。
「桜庭さあ、精液飲んだことある?」
 体が反射的に引き下がっていこうとするが、半歩下がった時点で冷蔵庫に阻まれてしまう。より距離を取ろうと左後ろへさらに下がるが、壁との距離があるはずもなく、部屋の角と冷蔵庫の間の1メートルほどの隙間に入り込む形になってしまう。逃げられない、と桜庭が思った時にはすでに同僚は目の前まで迫ってきていた。
「……何を考えているんだ」
 怯える桜庭を見ても同僚は眉一つ動かさず、さらに距離を詰めてくる。触れられる距離まで近づいた瞬間、左手が伸びてきた。思わず身を縮こませ目をつぶり、両手が顔をかばうように上がる。その両の手首を同僚は片手で力強く拘束してきた。
「やめろ、はなせ」
 恐怖からか、絞り出したような小さな声しか出てこない。
「飲んだことないんだよね? 味知らないんだよね?」
 言い終わると同時に足を払われ、尻餅をつく。壁に打った背が痛い。掴まれていた両腕は吊上がったが、ゆっくりと屈んでくる同僚と同じスピードで下がっていく。
「飲んでよ、俺の」
 座りこんだ桜庭を覆うように、膝をついた同僚の顔がぐっと近づいてくる。見知った顔が、まるで知らない人のように見えた。拘束された腕は力を込めているのに一向に外れる気配がない。
「口開けて」
 声を発するために唇を開くことすら怖ろしく、無言のまま顔をそむける。同僚はあからさまな溜息をついて、右手で桜庭の顎を上げた。驚いて同僚の顔を見るが、彼は真顔のまま親指で桜庭の唇になでるように精液を塗りつけた。独特のにおいが鼻をついてうめき声が漏れる。気持ちの悪い触感に、全身に鳥肌が立つのが分かった。唇の端から端まで塗り終わると、同僚は満足げな笑みを浮かべた。愛おしむような視線に吐き気がする。
「それ舐めて。舐めてくれたら終わりにするから」
 終わりにする、という言葉に桜庭は少し心が揺らぐが、口を開く気には到底なれない。しかし文句を言う気力も無く、震えたまま口を噤んでいるのが精一杯だった。
「頼むよ、ちゃんと終わりにするから」
 同僚は人差し指の甲で下唇を掬い上げるように拭い取り、そのまま口を割るように押し付ける。
「ちょっとだけでいいから。そしたら手も離すし、もう何にもしない」
 本当かと問いかけたいが、言うために口を開けばそのまま指を押し込まれるだろう。桜庭は悩んだ末、おそるおそる舌を伸ばした。触れた瞬間、口に広がる臭い胃酸込み上げてくる。粘膜で触れたことでより強く伝わる生温さが、これが体液である事を嫌という程伝えてくる。独特な触感は、唇に塗られたときとは比べ物にならないほどの恐怖と嫌悪感をもたらした。一瞬舌先で触れただけで、顔が歪み視界が潤む。これ以上は無理だと直感しすぐ舌を引っ込めた。
「もう無理?」
 目を瞑りながら小さく頷いた。濡れた上睫毛の根元が冷たい。幸いにも零れ落ちる程の涙はまだ目元に溜まっていなかった。
「そっか、ごめん」
 同僚は悲しそうに少し微笑むと拘束していた手をゆっくりと緩めた。その手で桜庭の髪を整えるようにそっと撫でる。
「本当にごめん。……おやすみ」
 それだけ言うと同僚は何事もなかったように背を向けて、ポケットティッシュで手を拭きながらベッドに向かい、そのまま潜り込んでしまった。膨らんだ掛け布団の中身は人形の方に動かなかった。
 仮眠室はいつも通り、冷蔵庫の小さな稼働音だけが鳴っている。部屋の片隅で震えている自分だけが、まるで異質なもののように思えた。

好きの妥協点

 目が覚めた瞬間、頭に浮かんだのはやばいの三文字だった。慌てて飛び起きてスマートフォンを手に取ると、時刻は11時48分。その下には着信履歴とメッセージアプリのポップアップがずらりとぶら下がっていた。
 桜庭と同じ日にまる一日オフなんてのは本当に久々だ。桜庭の神戸行きが目前に迫っているのもあり、朝からデートしようと誘ったのは紛れもない俺自身だった。にも拘らずこの体たらくである。頭を抱えたところでときが戻るはずもなく、寝起きで回らない頭で謝罪の言葉を必死に考えながらメッセージアプリひらいて確認する。
「着いたぞ」
「天道、今どこだ?」
「近くの喫茶店に入ってる。気づいたら連絡しろ」
「本当にどうした?」
「何かあったのか?」
「今から君の家に向かう。電話は出られるようにしておくから、気づいたらすぐ連絡してくれ」
 最後のメッセージは11時32分。電話に出られるということは恐らくタクシーで向かっているのだろう。待ち合わせ場所から俺の家まで約30分程だろうか。怒って帰られる方がよっぽどマシだとさえ思えてくる。明らかに心配しているであろう後半のメッセージに罪悪感を覚えながら、3回ほど入っている着信履歴から桜庭の携帯へ電話をかけると、数回のコールで繋がった。
「……もしもし?」
「天道か? どうした?」
 普段よりほんの少し高くて早口で、小さく聞き取りづらい声にさらに罪悪感が圧し掛かってくる。桜庭は完全に何か問題が起きたと思っているようだ。いっそ嘘でもついて俺が悪いわけではないことにしてしまおうか。一瞬そんな考えも浮かんだが、変な嘘でさらに桜庭に心配をかけるのは、さすがに俺の正義感が許さなかった。
「……すみませんでした」
「……なぜ謝る」
「完全に寝坊した」
 俺の言葉を聞くや否や、携帯越しに溜息が聞こえてくる。
「本当に寝坊しただけなんだな?」
「まじで今起きたとこだ。本当にごめん」
「……後15分くらいで君の家に着く。身支度だけ整えておけ」
 俺の返事を待たずに電話は切られてしまった。そもそも何故俺は起きられなかったのだろうか。携帯のアラームはきちんと設定したはずだ。アプリを開いてみればきちんと8時に設定されており、9時半の待ち合わせには十分間に合ったはずだろう。現実逃避と言わんばかりに少し携帯を弄ってみれば、何故か音量が最小に設定されていた。ああ、それでさっきの電話は聞きとりにくかったのか、などと一人で納得している間に時刻は11時53分。原因が解明したところで桜庭は家へやってくる。俺はベッドの上で大きな溜息をついて、洗面所へと向かうべく床へ降り立った。

 聞きなれた音に反応してモニターへ向かう。案の定小さな画面には不機嫌ですと言わんばかりの桜庭の顔が映し出されていた。早急に玄関へ向かい扉を開ける。その先に顕われた桜庭はモニターに映し出されたものと全く同じ顔をしていた。
「5分、いや3分だけ待ってくれ! すぐ支度するから!」
「別にゆっくりでいい。襟足が跳ねているぞ」
 桜庭は猫のように扉をすり抜けて、当たり前のごとく靴を脱いで上がっていく。開けたばかりの玄関を閉め、通ったばかりの廊下を桜庭の後ろをついて戻る。一足先にリビングへ入った桜庭はさっさとソファへ座り、取り出した文庫本を開きだす。まるで何事も無かったかのような仕草だが、その表情は決して柔らかくない。桜庭は人一倍時間に厳しい。正直、家に来た瞬間説教をされる覚悟さえあった。予想に反した行動だが、顔を見るに桜庭の感情とも反しているのだろう。桜庭が不満や許せないことはきちんと口に出すタイプであることは嫌と言うほど知っている。普段とあまりにも違う対応に戸惑い、俺は無言でリビングの入口に立ち尽くす。暫く文庫の文字を追う桜庭を見つめていたがところ、桜庭は立ちつきしている俺に気がついたのか、ふいに顔を上げた桜庭と目があった。
「何をしているんだ。まさかその跳ねた襟足で外出するつもりか?」
「いや……。お前さ、怒らないのか?」
「怒っていないと思うか?」
 俺は反射的に首を振る。怒っていない訳が無い。だからこそ、今の桜庭が不思議で仕方がないのだ。
「これが仕事だったら君とは一生口をきかなかったかもしれないな」
 そう言いながら桜庭の視線は本へ戻ってしまう。流石にそんなへまはしないと言い返したいが、盛大に寝坊した直後にその言い訳は気が引ける。
「今日は僕にしか迷惑をかけていないし、君にも悪気があった訳ではないだろう。それに数日後にはツアーのために神戸へ発たなければならない。怒ってはいるが、何もここでケンカすることも無いと思っただけだ」
「……そっか」
 俺の口から洩れた言葉はとても小さかった。
「髪直してくる」
 怒ってはいる。だけど今日は許してやる。つまりそういうことなのだろう。遅刻を咎めることよりも、俺と楽しく過ごすことを優先してくれた。普段からは想像がつかないからこそ、その事実が純粋に嬉しく思う。
 せっかくの好意を無駄にするのが惜しくて、素直に乗っかるように洗面所へ向かう。整髪料を片手に、音量が最小になったスマートフォンで小声で馴染みのレストランへ電話をかける。
「もしもし、今晩予約取れますか?」
 夕飯は俺の家で手料理をふるまおうと考えていたが予定変更だ。多分桜庭は昼食をとっていないから、何処かへ寄って、映画を見て、それからもっとうまいものでも食べに行こう。せっかく許してくれたのだから、最高の気持ちで送り出してやるのが筋ってものだろう。
 電話をかけて3件目、やっと予約が取れたころには俺の襟足も綺麗に直線を描いていた。リビングへ戻って静かに文庫本のページを捲る桜庭へ手を差し伸べた。。
「昼飯まだだろ? なんか食ってから、映画見に行こうぜ」
「ああ」
 何のためらいも無く握り返された手が温かい。繋いでいられるのはいつも通り、マンションを出るまでだ。それ以上は世間が許してくれない。だけどそれで十分だ。桜庭はまたこの家にやってくる。そしてまた、溜息一つで俺を許してくれるのだから。

夢に沈めて

 きっかけはいったい何だっただろうか。天道とこうして肌を重ねるようになってから随分経つ。彼は僕に愛の言葉を紡いだことは一度も無く、僕もまた彼に愛の言葉を紡いだことは一度もない。初めに誘ったのはどちらだったのだろう。
 隣で背を向けて眠る天道を眺めながら思い出そうとしてみるが、出てくるのは自分も天道も酷く酔っ払っていたということだけだ。しかし2回目以降は、誘うのはいつも天道の方だ。そして自分も当たり前のように着いて行く。僕たちはいったい何をしているのだろう。そっと天道の赤い髪に触れてみた。短くて硬い、水分の少なそうな感触は、間違いなく触り慣れていない男の髪だった。すぐに触るのを止め、後ろから寄り添うようにして眼を閉じる。先に起きるのはいつだって僕なのだから、どんな体勢で寝ようが天道には関係ない。自分よりほんの少し高い体温が、なぜか心地よく感じる。不思議と目を瞑った先で、天道と逢いたかった。夢で逢えたら、君は僕にだけ笑いかけてくれるだろうか。僕は、君に好きだと伝えられるだろうか。

 朝陽がカーテンに遮られているせいで室内は随分薄暗い。自然と開いた眼を再び閉じようとして、ふと違和感を覚えた。数秒間そのまま考えたが、違和感の正体が呼吸だと気付いた瞬間、反射的に短い襟足を力強く引っ張った。
「痛ってえ!」
 そう叫んで襟足を押さえる天道からそっと身体を離して、ベッドの反対側へ寄る。
「医師免許持ちの隣で狸寝入りか。 度胸があるのか馬鹿なのか」
「別に狸寝入りじゃねえよ。動いたら起こしちまいそうだったから二度寝しようとしてただけだろ」
 そういいながら天道はごろりと体ごとこちらを向く。その表情は、昨日僕が夢で見たいと願ったものにそっくりだった。そのままゆっくりと伸びてきた手が僕の頭を撫でる。その事実が耐えきれなくて、思わず天道の顔から視線を逸らした。
「ちゃんと眠れたか?」
「君には関係ない」
「あっそう。……朝飯なにがいい?」
「なんでもいい」
 ぶっきらぼうな僕の返事は気にも止めず、分かったと小さく返事をして天道はベッドを降りていった。僕はシーツを頭の上まで引き上げて再び眼を閉じる。結局夢で天道に逢うことは出来なかった。けれども、普段の天道は僕より先に起きないし、あんな顔で笑いかけることも、僕の頭を撫でることもない。だから僕も、普段しない二度寝をしよう。天道はきっと何も言ってはこないのだろう。だから眠ってさえしまえば、再び眼が覚めた時、全ては夢のようなものへと変わっているに違いないのだから。

くだらない奇跡はいつだって人が引き起こす

 アイドルのバレンタイン関係の仕事なんてものは、バレンタイン当日より前にとっくに終わっている。ライブや生放送の番組に出るアイドル以外は、卒業や入学関係の仕事が混ざるアイドル活動に従事しながら、事務所に届くチョコレートをメインとしたたくさんの贈り物を待つだけとなる。
 そんなことは分かっていても世間様はバレンタイン一色で、その空気に当てられたのかなんなのか、ネット通販でちょっとお高いチョコレートをひたすら調べていたのが一週間前。自宅に届いたのが三日前。鞄に忍ばせて仕事へ向かったのが十時間前。番組スタッフから貰ったチョコが入っている紙袋へ、鞄から移し替えたのが六時間前。楽屋から翼と桜庭がいなくなった隙を見て、桜庭の鞄にねじ込んだのが三時間前。そして俺と翼が飯に誘ったにも関わらず、不機嫌オーラ全開で桜庭が帰っていったのは、今から二時間ほど前のことだ。

「薫さんめちゃくちゃ機嫌悪かったですね」
「言っておくけど今日は喧嘩してないぞ」
「じゃあなんであんなに怒ってたんですか?」
「さあ?」
 いつものファミレスで食後のコーヒーを啜りながら、翼と二人で時間を持て余していた。桜庭が機嫌を損ねた理由は本当に分かっていない。少なくとも朝の時点ではいつも通りだった。にも関わらず途中から、カメラの前では出さなかったが、唐突に眉間にシワを寄せ出し、驚く程に口数が減った。
「まあガキでもないんだし、単に機嫌が悪いだけなら首突っ込まなくてもいいと思うぜ。何日も引きずるようならあれだけどな」
「明日にはなおってるといいですねえ」
 そうつぶやきながら翼が翼が手元のスマートフォンを一瞬付ける。表示された時間は自分の想像していたものよりずっと遅い。
「そろそろ出るか?」
「あ、じゃあ俺トイレだけ行ってきます」
 翼が店の奥へ消えていったので、自分の携帯を探してカバンを漁る。翼にはああ言ったが、桜庭に一本くらい連絡を入れてもいいかも知れない。あいつは文句を我慢しないから、機嫌を損ねた理由はおそらく俺ではない。それでもせっかくのバレンタインが、不機嫌な恋人を黙って見送って終わり、なんて結末は余りにも寂しい。
「あれ?」
 鞄から先に見つけたのはスマートフォンよりも少し細長い、そして余りにも見覚えのあるものだった。よく知った包装紙に包まれた手のひらサイズの四角い箱。自分の鞄から出てきたそれは、俺が桜庭の鞄にねじ込んだチョコにそっくりだ。
 不審に思いながら包装紙を破れば、出てきたのはやっぱり同じ箱。蓋を開ければ、やっぱり俺が選んだはずの星型のチョコレートが三つ鎮座していた。
「戻された?」
 予想外のできごとにため息すら出てこない。固まることしかできない俺の頭上から、ふわついた声が降ってくる。
「お待たせしました! 事務所行きましょうか。チョコいっぱい来てますかね?」
 見上げた先の翼は随分嬉しそうで、多分コイツは今たらふく飯を食ったことなど忘れてしまっているのだろう。
「悪い、翼。俺明日取りに行くわ」
「え!? 輝さんチョコいらないんですか!?」
「明日行くって。ちょこっと用事ができた。チョコだけに」
「分かりました! 全部食べておきます!」
「だから明日行くってば!」
「冗談ですよ?」
「ホントかよ……」
 多分ダジャレがいけなかったのか、思わぬ反撃を喰らいながらファミレスを出てタクシーを捕まえる。向かう先をもちろん桜庭の家だ。せっかくのバレンタインが、不機嫌な恋人を黙って見送って終わりどころかチョコまで突っ返された、では余りにも寂しすぎるではないか。

 玄関のドアから顔をのぞかせた桜庭は帰り際の五割増しで不機嫌そうに見える。多分実際は三割増程度で、残り二割は怒りのせいで悪く捉えているのだろう。
「連絡もなしに突撃してくるな。常識ってものを考えろ」
「何回も電話したのに出なかったのはお前だろ」
「近所迷惑だからとりあえず入れ」
 背を向けて引っ込む桜庭について家に上がる。服装はいつもより簡素で、髪は目に見えて湿っている。風呂にはいっていてタクシーからかけた俺の電話には気づいてすらいなかったのだろう。それでも出なかったことを攻めた先ほどの発言に対して、撤回して謝る気にはなれなかった。
 リビングに通されて、桜庭が俺より先にソファのど真ん中に足を組んで座り込む。茶の一つも出す気は無くて、隣に座られるのも嫌なようだ。その態度に余計苛立ちながら、俺も向かいのソファに座り込む。
「で、なんだ? 説教でもしに来たのか?」
「は? 説教?」
 予想外の言葉に出鼻を挫かれる。説教ってなんだ?怒らせた自覚はあるみたいだが、ここで説教という言葉は違う。
「確かに軽率だったと思う。でも咎めるなら同じ行動で返すのはおかしいだろう。そもそもこうして訪ねてくるなら今返せばよかっただろう。君が何をしたいのかまったく理解できない」
 理解できないのは俺のほうだ。軽率だった、はチョコを突っ返したことだとしても、同じ行動で返すってなんだ。今返せばよかったってなにをだ。抱えていた怒りが宙吊りにされて、底からぽこぽこと疑問ばかりが湧いてくる。
「お前が何を言っているのかまったく理解できないんだけど」
「は?」
「突っ返したのはお前だろ?」
「僕が突っ返した? 何を?」
「そりゃチョコだろ」
「……君は何を言っているんだ」
 ずっと視線を逸らしていた桜庭の顔が、やっと俺のほうを向く。その表情は怒っているような、困惑しているような、はたまた軽蔑しているような、端的に言えば「なんだこいつは」とでも言いたげな顔をしていた。
「突っ返したのは君の方だろ」
 ぽつりと桜庭が呟いたが、やっぱり意味がわからない。そもそも言葉の抜けが多すぎる。こいつは俺に伝える気がなのではないかとさえ思えてきた。が、伝えてもらわなくては始まらない。とにかく足りない部分を補うように湧いてきた疑問をそのままぶつける。
「俺が? 何を?」
「だからチョコをだ」
 どうやら俺はチョコを突っ返したらしい。
「……チョコを? 俺が? 誰に?」
「だから僕に!」
 ということはつまり、俺が桜庭にチョコを突っ返したから桜庭は怒っている、という訳だ。
「なんで!?」
「なんでってなんだ!!」
「そもそも貰ってねーよ!!」
「渡しただろう! それを君が突っ返したんじゃないか!」
「だから突っ返してないって……」
 あまりに理解できないせいで怒りがどんどんしぼんでいく。怒鳴り合いは想定していたが、まさか謎解きをする羽目になるとは思わなかった。バカみたいに大きなため息をつきながら自分の髪を掻き回す。
「とりあえずお前の言い分は、俺にチョコを渡したのに突っ返されて怒ってる、ってことでいいんだよな?」
「だからそう言っているだろう」
「いつ渡した?」
「撮影の合間に君の鞄に入れた」
「なんで突っ返されたと思った?」
「撮影が終わったあとに僕の鞄に戻ってたから」
「……なんで今俺がお前の部屋に押しかけてきたと思ってる?」
「誰かに知られる可能性がある私方をしたことを咎めるため、だと思っているが……。そのことについて怒るなら、同じ方法で返してきた意味が分からないし、そもそもこの場でチョコを返せばよかったのではないかと思う。このあたりがイマイチ理解できていない」
 鞄に入れたチョコが自分の元に戻されたから怒っている。これはまったく自分と同じ理由だ。なぜか俺がしたはずのことが、桜庭の中で桜庭がしたことになっている。後半はまあ、桜庭の推測に過ぎないし、そもそも理由からして間違っているから理解できなくて当たり前だ。
「俺がお前の渡し方を咎めに来たわけでも説教しに来たわけでもないぜ」
「じゃあ何をしに来たんだ」
「お前の鞄に入れたチョコが、帰りには俺の鞄に入ってたから突っ返されたと思って怒りに来た」
「やっぱり意味がわからない」
「俺も分からない。でも俺はお前からチョコを貰ってないし、突っ返してもいない。これだけは確かだ」
 俺がそう言い切ると、桜庭はため息をついてソファの脇に置いてある鞄を手に取る。それは間違いなく今日桜庭が使っていたものだ。
「じゃあこの鞄に入っているチョコは何なんだ」
 桜庭が鞄から取り出してローテーブルに小さな箱を置く。その箱は間違いなく、ファミレスを出る瞬間まで俺の鞄に入っていたものだ。
「えっ!? なんで!?」
 驚いて自分の鞄を漁る。中で見つけたのは台本、携帯、スケジュール帳、その他諸々、そしてやっぱり机に置かれているものと同じ、小さな箱だった 
「……やっと分かった」
 すれ違いの原因はあまりに単純で、だけと確率的には奇跡に少し近い。
「お前の鞄に入ってたのは、俺がお前にあげたやつだよ」
 俺がローテーブルの箱を指差して伝えると、やはり桜庭は怪訝な顔をする。
「じゃあ僕が君にあげたやつは?」
「それは俺の鞄に入ってる」
 そっと小箱を鞄から取り出して机に置く。色も形もデザインも、まったく同じものが二つ、机の上に存在している。
「包装まで同じだったんだが」
「通販限定の包のやつだろ?」
「サイズ展開も豊富だったぞ」
「あんまり大きいと気合入ってるみたいで恥ずかしいよな」
「チョコの形も四種ほどあったが……まあ、そこはかぶっても可笑しくないな」
「星だよなあ、三つ入りだし」
 バカみたいなことに、買ったチョコが偶然同じで、渡し方も偶然同じだった。そのせいで相手からもらったものを、自分が渡したものを突っ返されたと勘違いした。ただそれだけの話。
「被るか? 普通」
「被らないだろうな、普通は」
 怒り損だと分かった途端に一気に疲れが襲ってくる。こんなに疲れたバレンタインは生まれて初めてかも知れない。とりあえず目の前のチョコに手を伸ばす。疲れた時には糖分だと、目の前の男から嫌というほど聞かされたせいだ。口に含んで噛み砕いた瞬間、広がる豊かな香りと甘さ控えめの上品な味が、桜庭が選びそうなチョコではある。視界に入った壁掛時計に視線を移せば、示された時間は自分の想像していたものよりずっと遅い。
「……風呂借りていい?」
「……勝手にしろ」
 終わりよければなんとや。余りにも寂しいバレンタインは残り一時間と少しを残してその姿を消した。結局この場に残っているのは上機嫌な俺と、顔を覆った手にも隠れず赤い耳をチラつかせている桜庭だけだ。
 アイドルのバレンタイン関係の仕事なんてものは、バレンタイン当日より前にとっくに終わっている。だけど恋人のバレンタインは、あと一時間以上も残っていた。

隣にいるから

 アイドルになったのは金を稼ぐため。そう言い切っていた桜庭が金が必要な理由をぽつりと洩らした。2人掛けのソファで俺の隣へ座っている桜庭へ視線を向けると、桜庭は缶ビールを片手にぼうっと前を向いていた。専門外だから俺には医療のことは詳しくは分からない。でも生半可な気持ちだけでは成し得ない夢であることはなんとなく分かる。結成初期から俺たちにも自分自身にも厳しい桜庭という男の胸の内には、こんな物が眠っていたのか。桜庭の横顔は、決意に満ちている訳でも無く、かと言って喜びに満ちている訳でも無い。アイドルになるよりずっと前からそこにあった想いは、もう桜庭にとって当たり前のものになっているのだろう。
 恐ろしいほどに高い目標を固い決意と共に持ちながら、宣言もせず応援も求めず、でも手は抜かずにストイックにこうも目指せる奴は滅多にいないだろう。きっと今呟いたのも、俺に応援して欲しいからでは無い。多分話の流れとアルコールのせいで本当に洩れ出してしまっただけだ。
 だから俺は桜庭薫が好きなんだ。表面からはっきり見て取れるストイックさ、少し付き合うとそこから顔を出す芯の熱さと人を想う優しさ。そして更に関わると甘さと共にほんの少しだけ開かれる心の内が、人として愛おしくて仕方がない。
 だけど桜庭の好きなところがもう一つある。そして桜庭の語る夢には、それが見えてこなかった。
「お前はどうするんだよ」
 俺の言葉に首をかしげる桜庭から視線を逸らして前を見る。空き缶とつまみが乗ったローテーブルの先には、先程から楽しそうに歌って踊る俺たちが映っている。
 初めて人前で披露した公開収録の番組の録画を家で見たときの衝撃を俺は今でも忘れていない。こんなにも楽しそうな桜庭を見たのはあれが初めてだったからだ。お前はそんなに楽しそうに歌って踊るのか。この場所はお前にとってそんなにも幸せな場所なのかと、放心しながら眺めていた。
「どうするって何がだ」
「だから、費用貯めて、研究して、その病気を無くすんだろ?」
「ああ」
「それで、お前はどうするんだよ」
「……質問の意味が分からない」
「だろうな」
 その夢が叶えば、きっとこの世界から何人もの人が救われるのだろう。患者本人だけじゃない。それこそ過去の桜庭のような人たち、つまり患者の家族や友人を含めた周りの人達もだ。
だけどそこに、今の桜庭が含まれているようには俺には思えなかった。
 目の前の液晶は相変わらず楽しそうな俺たちを映し出している。どうして一緒に観ているのに、この幸せそうな桜庭薫はお前の目に映らないのだろうか。ヒーローになった先には俺の幸せがある。最高の景色の先には翼の幸せがある。なのにどうして大金を稼いで病気の無くした先に、桜庭自身の幸せを見出そうとしないのだろうか。
 315プロダクションに、DRAMATIC STARSに、ステージの上に、桜庭薫の幸せがあるという考えは俺の傲慢なのかもしれない。でも楽しそうに歌うこの表情に、倒れた翼に本気で動揺した姿に、花火を見ながらまた来ようと言ってくれたその言葉に、俺は桜庭薫の幸せを見出したかった。
「お前が見るべきなのは俺の顔じゃないだろ」
 先程から怪訝な顔をしながら何も言わない俺を見ている桜庭にそう呟くと、少し不満げな顔をしながら前へと向き直る。見るべきなのは反省点でも改善点でも無いぞと言いかけてやめた。多分今の桜庭には伝わらないのだろう。
 人生を賭けて叶えようとしている夢の先に自分の幸せが加味されていない。そんな奴は物語に出てくる復讐に燃える悪役くらいだ。だけど桜庭は悪い奴じゃない。あるのは知らない人の幸せだけだ。だけど桜庭からしたら一種の復讐なのかも知れない。この世界には病など山のように存在している。一つ治せるようになっても、病に苦しめられる人が全員居なくなる訳ではない。その中で姉を蝕んだものだけでも消し去ろうとしている。復讐に燃える奴を止めるのはそれこそヒーローの役目だろう。だけどこんなに優しくて美しい復讐を俺は知らない。そして邪魔していいものだとも思わない。ただその先に桜庭の幸せの存在だけが抜け落ちていることが、悲しくて仕方がない。
 目の前の液晶は相変わらず先日のライブを映し出している。生きてきた道も、秘めた想いも、得意なことも全部違う3人が、このDRAMATIC STARSという場所なら支え合って幸せに笑える。
 隣で真剣に改善点を探す男の代わりに、ここが桜庭にとって幸せな場所であることを願おう。
 桜庭がいつか自分自身の幸せと向き合える日まで。

紫を吐く

 コンビニで貰った試供品の煙草は俺が愛煙しているのもと同じ銘柄だ。パッケージのデザインは殆ど変わらない。ただ一目で分かる通り、色だけがガラリと変わっている。購入した赤い箱と貰った青い箱を並べて置いてみると、驚くまでもなくそっくりで、驚くまでもなく正反対な印象を残す。試供品の封を開けようかと少し悩んで、開けずにポケットへしまい込んだ。

 屋上で直射日光に焼かれながら、煙草から直接煙を吸い込む俺の横で桜庭が時折口の中で乾いた音を鳴らす。副流煙の方が身体に悪いんじゃないのか。そんな言葉が煙と共に出て来そうになるが、ぐっと堪えて溜息に変える。喫煙所は社会人の小さなオアシスでもある。そして喫煙所でシガレット型のラムネを食べてはいけない決まりはどこにも存在しない。
 桜庭は遂に煙草をやめた。女性向けの薄ピンクの箱が握られていた手には、子供向けの駄菓子が握られている。これはこれで別のベクトルにかわいらしいが、俺がアイドルになる前に見た、あの色気をまとった空気は完全に姿を消した。それでも他人同士だったあの頃より、俺について駄菓子を片手に喫煙所に来る桜庭の方が俺はずっと好きだった。
 それにしてもタイミングが悪いなと、ジャケットのポケットにしまい込んだ青い箱を思い浮かべる。パッケージの色で煙草を選ぶ奴なんていない。それでもお揃いでそれぞれのイメージカラーの煙草を吸っているってのも乙なものだろうに、今の桜庭に渡しても、きっと火はつけてくれない。同じ銘柄だから味は大きく変わらないだろうが、かといって自分で吸う気にもならない。煙を吸いながら、宙ぶらりんな煙草の行き先に思いを巡らせてみるも、こうも綺麗な青色だと桜庭が所持する以外の選択肢が見つからない。少し小ぶりな箱も、細い手に良く映えるだろう。やっぱり桜庭が持っているのが一番いい。何ならこいつの家に置いてもらえばいいんだ。桜庭の家でなら、俺も吸う気になるかもしれない。
「これやるよ」
 コンビニで貰ったからさ、と付け加えて差し出すと、桜庭は怪訝そうな顔をしながら受け取った。
「君が吸えばいいだろう」
「うん、だからお前の家に置いといて」
 手のひらで青い箱を転がしている桜庭から視線を外して空を見上げる。すると隣から不意に乾いた音が鳴る。ラムネを噛む音ではなく、銀紙を切り取り線から引き取った音だ。
「……ん」
 驚いて隣をみると、細身の煙草をくわえた桜庭がこちらに先端を向けている。やめたんじゃなかったのかと思いながらも、俺も煙草を咥えなおして先端同士をそっと押しつけてやる。俺の煙草から燃え移る火をじっと見つめていたが、数秒後には着火しそっと離れていく。
 シガーキスはやるより見てる方がずっとドキドキする。煙草一本がだいたい俺の人差指と同じ長さだ。それが二本分。実際やってみると、そんなに近くない。そのうえコントロールの難しい唇で咥えて先端同士を合わせるのは少し神経を使う。着火も早いわけではないから、ライターを使った方がよっぽど早くて便利だ。
 それでも桜庭は、偶にこうして俺から火を貰う。まあ今の場合はライターを持っていないのが一番の理由なんだろう。
 混ざり合う煙名残惜しいが、最後の一口を吐き切って携帯灰皿へ押し付ける。
「……もういい」
 すっと差し出された煙草は半分も減っていない。俺が受け取って咥えると、桜庭が持っていた青い箱はポケットの中の駄菓子の箱と入れ替わった。
 やっぱり味はあんまり変わらないな、と考えている俺の隣で、乾いた音が鳴る。
 吐いた煙は相も変わらず紫色だった。

口寂しいを口実に

 普段なら自宅で平気に吸っているが、人が来ているなら話は別だ。しかも居るのは数日前から禁煙しだした桜庭だ。風呂から上がったら部屋中に煙草の匂いが満たされていたら、とてもじゃないが気分のいいものでは無いだろう。せっかく恋人が来ているのに、わざわざ不機嫌になどさせたくない。天道は煙草と携帯灰皿を持って、既に暗いベランダへ出た。風呂の湯とドライヤーの熱風に暖められた身体に夜風が気持ち良い、とはならなかった。むしろ冷房の効いた部屋の方がよっぽど涼しい。日が落ちていても十分に蒸し暑い。季節はとっくに夏だった。
「……美味い」
 煙を吐き出したあとに思わず声が出る。禁煙しているやつの隣で吸うのはどうにも気が引けて、何時間も吸えずにいたのだ。辞められる気がしないと同時に、辞めようと我慢している桜庭に素直に感心する。
 吸えなかった分を取り返そうと、二本目に手を伸ばす。少しくどいかもしれないが、また暫く吸えないのだから丁度いいだろう。自分にそう言い聞かせて火を付ける。ベランダの床に直接座りながら、頭を空にしてだらだらと吸い続けていた。
 二本目も半分ほどの短さになった頃、唐突に背後のガラス戸が開いた。天道が音に驚いて振り返ると同時に、エアコンで冷やされた空気が流れ出てくる。戸を開けたのはもちろん桜庭で、そのままベランダへ出ると戸を閉め、肩や足が当たるほど詰めて天道の左隣りに座り込んだ。頭にはスポーツタオルを被っていて、その下の髪はどうやら濡れたままのようだ。桜庭自分から引っ付いてくるのも珍しい。
「急にどうしたんだよ」
 驚きを隠さず聞いてみると、左肩が少し重くなる。
「別に……。ただ君がいなかったから」
 天道にもたれ掛かったまま、桜庭は続けて呟く。
「そもそも何で外にいるんだ。中で吸えばいいだろう」
 拗ねた声色を心の中で噛み締めながら、左腕を回して桜庭の頭を抱え込むようにして顔を寄せる。自分と同じシャンプーの匂いがくすぐったい。
「これ吸い終わったらすぐ入るから。先に髪乾かしてろ」
「……後でいい」
 返事と同時に服の背中をぎゅっと掴まれる。天道はそれに応えて、髪を拭くようにタオル越しに頭を撫でてやる。
「横にいたら吸いたくなるだろ」
 返事の代わりに、更に天道に擦り寄ってくる。もしかしたら桜庭は、吸えない苛立ちを甘えることで解消しようとしているのではないだろうか。そう考えると禁煙されるのも悪くはないなと思いながら、天道は温もりを享受していた。
 暫く身を寄せ合ったまま頭を撫でていると、桜庭は顔を上げて天道をじっと見つめてきた。長い睫毛に縁取られた、切れ長の瞳をレンズ越しに見つめ返す。
「どうした? 吸いてーの?」
 そう問うと桜庭は少しむくれた顔をして、視線を逸らしてしまう。天道は思わず口元が緩みそうになるのをぐっとこらえる。ここでにやけてしまえば、桜庭は本格的に拗ねてしまう。逸らされてしまった眼を見つめたまま、撫でていた手を後頭部に回してそっと引き寄せると、応えるように桜庭の視線が天道へ戻ってくる。再度視線が交わったあと、なんだ? と言わんばかりに桜庭の頭が少し傾く。その子供じみた仕草が可愛くて、先ほどより強くもう一度引き寄せながら、顔を近づける。桜庭は一瞬気が抜けたようにふわりと笑った。見つめ合ったまま鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せると、ゆっくりと瞼が閉じられていく。そのまま天道も目を閉じながら、唇を重ね合わせる。風呂上がりで温かいその唇を何度か啄ばむ。薄く開いている隙間にそっと舌を伸ばすと受け入れるように広がり、その先で待っていた舌がゆるりと絡みついてくる。後頭部に添えていた天道の手に、はらりとタオルが落ちる。桜庭の気が散らないように慎重に引き抜いて床に落とした。左手は再度、濡れた髪に差し込んで引き寄せる。そのままただゆっくりと、お互いの感触を味わうために舌を柔らかく広げたまま撫であい、纏わりつかせる。桜庭の舌だけ少し堪能したところで引っ込めて、一瞬唇だけ触れ合わせてさっと離れる。おそらく同じタイミングで開いたであろう桜庭の瞳が、天道の眼をかっちりと捉えていた。それから逃げるように顔を逸らして、殆ど燃え尽きてしまった煙草を再び吸い直す。
「煙草の代わりに輝さんのチューで我慢な」
 照れ隠しも兼ねて天道は茶化すように言ってみる。桜庭は聞いているのかいないのか、じっと天道の顔を見つめたまま口を開く。
「天道」
 名前を呼ばれて天道は思わず口から煙草を離して桜庭へ向き直る。数秒見つめ合った後、桜庭は先ほどまで触れ合っていたその唇を一瞬だけ開いたが、すぐに言い淀むようにぎゅっと閉ざして顔を逸らしてしまった。天道はもう一度フィルターを咥えて吸い込み、煙草をベランダの床に押し付ける。ゆっくり吐き出しながら吸殻を携帯灰皿へ仕舞うと、やっと自由になった両手で桜庭の顔を包み込む。手に導かれるようにこちらを見返してくれる事が嬉しくもあり、少し恥ずかしくもある。付き合い始めたばかりのころは目を合わせてもすぐに逸らされて寂しかった。最近は慣れてきたのかむしろ向こうが見つめてくることが多いが、いざ綺麗な顔で見つめられるようになるとこっちが照れてしまう。悟られないように堪えているが、慣れる気は一向にしない。左手の甲にそっと桜庭の手が重なる。数秒遅れてゆっくり開かれた唇から、小さな声をそっと発する。
「……もう一回」
 慣れとは本当に恐ろしいものである。桜庭が慣れて心を開いていくたびに、こちらの心臓にどんどん負荷がかかっていく。爆発したときはまあ、桜庭に助けてもらえばいい。うるさい心臓を無視して噛みつくようにキスをする。今度は舌だけででなく、歯列をなぞり浦顎をゆっくりとなめると、先ほどの言葉通り甘えてねだるかのように舌先を吸われて甘噛みされる。そんな仕草一つ一つがかわいらしい。にやけそうな口をさらに押し付けるように、桜庭の顔をさらに引き寄せた

新しい日常

 桜庭と屋上で殴り合ったのも、もう随分と前になる。肩身の狭い喫煙者のオアシスである屋上で、彼に出会うことはあっても、一緒に訪れることは滅多にない。理由は簡単だ。桜庭が一緒に来たがらないからだ。今日も一人で階段を上がる。レッスンが始まるまでまだ時間があった。突き当たりのドアを開ければ開放的な屋上の隅の柵の前で、小さく煙草を吸う桜庭が居た。
「桜庭ちゃんみっけ」
 天道の声に反応して振り返った顔は、いつも通り険しかった。嫌そうな顔を完全に無視して、煙草を咥えながら隣まで移動する。隣に並んで火をつけると煙と一緒に匂いも広がる。赤いパッケージのこの煙草はずいぶん匂いがきつい。隣の桜庭の手には淡いピンク色の、細身で可愛らしい箱が握られている。女性向けの軽い煙草だ。結成から一年、求められるパフォーマンスのレベルも月日と共に高くなってきた。新曲のダンスが今までと比べ物にならないほどに動く。初期と比べれば随分と桜庭の体力もついているが、元から体を動かすことが得意では無い人間にとっては相当辛いのだろう。一週間前、一度通しただけで息が切れる様子を見たプロデューサーから、ついに減煙指示という名の禁煙命令が出たのだ。それ以来桜庭は匂いの少なさをウリにしているこの煙草を隠れるように吸っている。ピンクのラインが入った細いその煙草を一口吸って、ばつが悪そうに文句をつけてくる。
「僕の隣で吸うな。匂いがうつるだろう。プロデューサーにばれる」
「お前が吸うのやめればいいだけの話だろ」
「最終的にはきちんとやめる。少しずつ減煙してるだけだ」
「あっそう」
 そう呟きながらにやにやと顔とパッケージを交互に見ると、どうやらその視線に気が付いたらしく、また睨み返してくる。前に吸ってた銘柄とはまた違うアンバランスさ、そして天道の視線に気づいて反応を示すこと。以前見惚れたその姿とは全くの正反対だ。結局あのとき見た桜庭の姿は消えなかった。それでも記憶の奥底に隠れてしまっていて、思い出したのはDRAMATIC STARS結成後にこの屋上で煙草を吸う姿を見た時だった。
 文句を言っても無駄だと思ったのだろうか、桜庭は機嫌の悪そうな顔のままそっぽを向いてしまった。それをいいことに、煙草を吸いながら横顔を眺め続ける。最初に見た桜庭が嫌いなわけではない。むしろ白衣姿で美味しそうに煙草を吸う姿は美しかった。それでも、手の届かなそうな危うさがなんだか怖かったのだ。そのせいか、自分の手の届く距離で女物の可愛らしい煙草を吸う姿がとても愛おしく思える。たとえ今、桜庭に触れたとしても、文句は言われど振り解かれはしないのだろう。ぶつかって、理解して、擦り合わせて。そんな距離まで、二人の間は縮まっていた。
 がちゃり、と背後で扉の開く音が聞こえる。振り返れば、嬉しそうな顔をした翼が屋上を覗いていた。
「やっぱりここに居たんですね」
 軽い足取りでこちらに向かってくる翼に、天道と同じように後ろを向いた桜庭が話しかける。
「君もわざわざ来たのか。暑いだろうに」
「レッスン室に二人分の荷物が置いてありましたから。俺一人で待ってても寂しいですし」
 そう言って天道の隣に立ち、煙草サイズの箱から一本取り出そうとしたところで、あっと声を上げる。
「ちょっと溶けてる……」
 翼は珍しく拗ねたような表情をして、紙を少し剥いて食べ出した。年に似合わず子供のような顔でシガレットチョコを咥える様子が面白くて、天道は笑いながら声をかける。
「そろそろラムネに切り替えたほうがいいんじゃねーか?」
「また箱買いしないとですね」
「そもそもまだ売っているのか?最近見た記憶が無いのだが」
「チョコはネットで買えたんで、ラムネも多分売ってると思います」
 チョコを食べながらスマホを取り出し、片手で器用に文字を打つ姿を横目に、柵の先の景色を見渡す。桜庭が禁煙するなら、こうして三人で肩を並べてぼうっとする時間も無くなるのだろうか。そう考えると天道は酷く寂しい気持ちになった。
「桜庭もラムネにしろよ」
「君もラムネにするなら一緒に食べてやらないこともない」
 喫煙者のオアシスで、大の大人が三人で煙草型のラムネをポリポリと食べる姿を頭の中で描いてみる。
「……遠慮しとく」
 流石にちょっとかっこ悪いなと思いながら、煙草を吸い終わるまで、これからも三人でこうしていられるための案を考えてみることにしたのだった。

小さな痕跡

 吸っているのかふかしているのか、天道自身もよくわかっていない。
「おそらく肺に入っている」
 呟いてみても反応が返ってくるわけがない。一人暮らしはどうにも独り言が増える。正面のテレビの中では先輩であるJupiterが司会者と軽快なトークを繰り広げていた。
「やっぱすげえな」
 また一人で呟いて、味の濃い煙草を口へ運ぶ。弁護士を辞めたと同時に煙草も変えた。あの煙草は弁護士ある天道輝のものだと思ったからだ。大切にとって置きたかったのか、ただ自分自身が変わりたかったのかは分からない。
 煙草だけでは無い。アイドルになって日常の色々なものが変化していた。長年住んでいるこの部屋も例外ではなく、今まで買ったこともなかったアイドル雑誌やCDが増え、テレビ番組をダビングしたDVD、振付の確認のために買った少し大きな姿見など、時間をかけて弁護士の部屋からアイドルの部屋へと姿を変えている。これらはもちろんすべて天道のものである。数ヶ月前に出来た恋人を何度も部屋に呼んでいるが、彼は物を持ちこまない。歯ブラシが一本増えただけだ。桜庭らしいと思いつつも少しさびしい。
 スタッフロールを眺め終わって、火を消そうと灰皿へ目を向ける。山のような吸殻の中には、ぽつりぽつりとフィルターの色味が違うものが混ざっている。
「片づけねえとまた怒られるな」
 言葉ではそう言ってみるが、片づける気はさらさら無い。ゴミ箱にひっくり返すだけで消えてしまうちっぽけなものでも、恋人の痕跡がひどくうれしかった。
「近々呼ぶか」
 小言を言いながら桜庭が片づけて、また新しい吸殻を押しつけて帰って、また来て文句を言いながら片づけて。その繰り返しでいいんじゃないか。そんなことを考えながら、灰をこぼさないよう気をつけながら吸殻を押しつけた。

結局はただ見とれてただけ

 ストーカーまがいの嫌がらせをされたとか、後ろから突き飛ばされたとか、そんな話はよく聞かされてはいた。でもそれは、弁護士は良くも悪くも人の人生を変える仕事であることを忘れるなって伝えたいから聞かせるのであって、所詮は教訓みたいなもので身近にあるものとは程遠い話だと勝手に思い込んでいた。それがまさか、自分の事務所の先輩が階段下に突き落とされるとは夢にも思っていなかったのだ。

 喫煙所を目指して病院の廊下を歩く。白を基調としたその建物の中は、清潔や潔白という言葉がよく似合う。そこで働く人たちもやはり白を身にまとっていて、その姿に患者や天道のような見舞い客は勝手に厳かな印象を抱くのだ。さっきまでいた先輩の病室もやはり真っ白で、足を釣り上げてベッドに寝かされている先輩にはなんだか似合わない部屋に感じた。患者のための部屋なのに患者に似合わないというのも変だが、単純な話、天道が病院という施設に苦手意識を持っているだけである。
 居心地の悪さから逃げ出すようにガラス張りの大きな玄関口から抜けて、先輩に教えてもらった方へと進む。このご時世にこんな大きな病院に喫煙所があるのは珍しいと驚いたが、せっかくあるものは利用するに限る。教えてくれた張本人は歩けないから吸いに行けないと嘆いていた。
 目的の場所は病棟の陰になるようにひっそりとあった、女性が座っている木製のベンチの隣にはよくある縦長の灰皿が立っていて、その周りにはぽつりぽつりと距離を開けて四人ほどが立っている。その中に溶け込むように、病棟を背に立ち煙草に火を付ける。オイルライターの蓋が閉まる音と、慣れ親しんだ煙の味に先ほどまで残っていた圧迫感が心から消えていく気がした。穏やかな気持ちで握ったままのパッケージに視線を落とす。上部の赤が女性の唇を模したものだと知った時は自分の似合わなさに渇いた笑いが出たが、最初の一口が一番美味いところは何より気に入っていた。
 視界の端で白が舞う。つい気になって目で追うと、白衣の男が二人、斜め向かいに立ち止まったところだった。人当たりの良さそうな柔らかな雰囲気の男と、整った容姿のせいか随分と冷たい印象の、対照的な二人だ。明るく話題を振る茶髪の医者の言葉に相槌を入れながら、黒髪の細身の医者は白衣から少し潰れたソフトケースを取り出した。細く少し筋張った長い指で1本抜き取って咥えた時、隣の医者が彼の前にオイルライターと差し出す。気付いたその男は差出人の顔を見上げながら、小さく微笑んで受け取った。先ほどまでの冷たい印象が嘘のような、可愛らしいという表現の似合う表情だった。やはり同じように話を聞き流しながら火を付けて、吐き出す。もう一度咥え直し、レンズの奥の目を細めながらゆっくりと吸い込んでいった。そして、ため息をつくように煙も吐き出す。赤の他人を凝視することが失礼なことは分かっていながら、天道はその一連の動きから目が離せなかった。
 既に白衣のポケットに仕舞われた白地のソフトケースには赤い丸が描かれていた。天国に一番近い煙草、と呼ばれているものだ。体に一番悪いからというデマから生まれた俗称に過ぎないが、目の前の男とは随分イメージとかけ離れているように思えた。天道は彼を知らない。彼がどんな風に患者に接し、どんな思いで患者を救っているのか、そんなことももちろん知らない。整った容姿からも、染み一つ無い白衣からも、同僚らしき隣の男に対する態度からも、誠実さしか汲み取ることが出来なかった。初めて煙草を吸った時、彼は何を思ったのか。今何を考えて、美味しそうにその煙草を吸っているのか。彼自身が持つ印象と、その煙草が持つイメージの間に一体なにが埋まっているのか。そしてなぜイメージにそぐわない煙草を吸うその男の姿がこんなにも絵になるのか。ずっと眺めていたところで、天道が見つけられるはずもなかった。
 目の前の灰皿に煙草が二本放り込まれる。天道の視線なんて気付かなかったのか、二人は当たり前のように来た道を帰っていった。ろくに吸ってもいないのに、手元の煙草はもう短かった。投げ捨てるように灰皿に放り込んで、新しいものを咥え直す。火をつければきっと彼は、自分の頭から消えるのだろう。
 天道たちがアイドルになる三カ月ほど前の、そして二人が恋人になる半年ほど前の出来事だった。