口寂しいを口実に

 普段なら自宅で平気に吸っているが、人が来ているなら話は別だ。しかも居るのは数日前から禁煙しだした桜庭だ。風呂から上がったら部屋中に煙草の匂いが満たされていたら、とてもじゃないが気分のいいものでは無いだろう。せっかく恋人が来ているのに、わざわざ不機嫌になどさせたくない。天道は煙草と携帯灰皿を持って、既に暗いベランダへ出た。風呂の湯とドライヤーの熱風に暖められた身体に夜風が気持ち良い、とはならなかった。むしろ冷房の効いた部屋の方がよっぽど涼しい。日が落ちていても十分に蒸し暑い。季節はとっくに夏だった。
「……美味い」
 煙を吐き出したあとに思わず声が出る。禁煙しているやつの隣で吸うのはどうにも気が引けて、何時間も吸えずにいたのだ。辞められる気がしないと同時に、辞めようと我慢している桜庭に素直に感心する。
 吸えなかった分を取り返そうと、二本目に手を伸ばす。少しくどいかもしれないが、また暫く吸えないのだから丁度いいだろう。自分にそう言い聞かせて火を付ける。ベランダの床に直接座りながら、頭を空にしてだらだらと吸い続けていた。
 二本目も半分ほどの短さになった頃、唐突に背後のガラス戸が開いた。天道が音に驚いて振り返ると同時に、エアコンで冷やされた空気が流れ出てくる。戸を開けたのはもちろん桜庭で、そのままベランダへ出ると戸を閉め、肩や足が当たるほど詰めて天道の左隣りに座り込んだ。頭にはスポーツタオルを被っていて、その下の髪はどうやら濡れたままのようだ。桜庭自分から引っ付いてくるのも珍しい。
「急にどうしたんだよ」
 驚きを隠さず聞いてみると、左肩が少し重くなる。
「別に……。ただ君がいなかったから」
 天道にもたれ掛かったまま、桜庭は続けて呟く。
「そもそも何で外にいるんだ。中で吸えばいいだろう」
 拗ねた声色を心の中で噛み締めながら、左腕を回して桜庭の頭を抱え込むようにして顔を寄せる。自分と同じシャンプーの匂いがくすぐったい。
「これ吸い終わったらすぐ入るから。先に髪乾かしてろ」
「……後でいい」
 返事と同時に服の背中をぎゅっと掴まれる。天道はそれに応えて、髪を拭くようにタオル越しに頭を撫でてやる。
「横にいたら吸いたくなるだろ」
 返事の代わりに、更に天道に擦り寄ってくる。もしかしたら桜庭は、吸えない苛立ちを甘えることで解消しようとしているのではないだろうか。そう考えると禁煙されるのも悪くはないなと思いながら、天道は温もりを享受していた。
 暫く身を寄せ合ったまま頭を撫でていると、桜庭は顔を上げて天道をじっと見つめてきた。長い睫毛に縁取られた、切れ長の瞳をレンズ越しに見つめ返す。
「どうした? 吸いてーの?」
 そう問うと桜庭は少しむくれた顔をして、視線を逸らしてしまう。天道は思わず口元が緩みそうになるのをぐっとこらえる。ここでにやけてしまえば、桜庭は本格的に拗ねてしまう。逸らされてしまった眼を見つめたまま、撫でていた手を後頭部に回してそっと引き寄せると、応えるように桜庭の視線が天道へ戻ってくる。再度視線が交わったあと、なんだ? と言わんばかりに桜庭の頭が少し傾く。その子供じみた仕草が可愛くて、先ほどより強くもう一度引き寄せながら、顔を近づける。桜庭は一瞬気が抜けたようにふわりと笑った。見つめ合ったまま鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せると、ゆっくりと瞼が閉じられていく。そのまま天道も目を閉じながら、唇を重ね合わせる。風呂上がりで温かいその唇を何度か啄ばむ。薄く開いている隙間にそっと舌を伸ばすと受け入れるように広がり、その先で待っていた舌がゆるりと絡みついてくる。後頭部に添えていた天道の手に、はらりとタオルが落ちる。桜庭の気が散らないように慎重に引き抜いて床に落とした。左手は再度、濡れた髪に差し込んで引き寄せる。そのままただゆっくりと、お互いの感触を味わうために舌を柔らかく広げたまま撫であい、纏わりつかせる。桜庭の舌だけ少し堪能したところで引っ込めて、一瞬唇だけ触れ合わせてさっと離れる。おそらく同じタイミングで開いたであろう桜庭の瞳が、天道の眼をかっちりと捉えていた。それから逃げるように顔を逸らして、殆ど燃え尽きてしまった煙草を再び吸い直す。
「煙草の代わりに輝さんのチューで我慢な」
 照れ隠しも兼ねて天道は茶化すように言ってみる。桜庭は聞いているのかいないのか、じっと天道の顔を見つめたまま口を開く。
「天道」
 名前を呼ばれて天道は思わず口から煙草を離して桜庭へ向き直る。数秒見つめ合った後、桜庭は先ほどまで触れ合っていたその唇を一瞬だけ開いたが、すぐに言い淀むようにぎゅっと閉ざして顔を逸らしてしまった。天道はもう一度フィルターを咥えて吸い込み、煙草をベランダの床に押し付ける。ゆっくり吐き出しながら吸殻を携帯灰皿へ仕舞うと、やっと自由になった両手で桜庭の顔を包み込む。手に導かれるようにこちらを見返してくれる事が嬉しくもあり、少し恥ずかしくもある。付き合い始めたばかりのころは目を合わせてもすぐに逸らされて寂しかった。最近は慣れてきたのかむしろ向こうが見つめてくることが多いが、いざ綺麗な顔で見つめられるようになるとこっちが照れてしまう。悟られないように堪えているが、慣れる気は一向にしない。左手の甲にそっと桜庭の手が重なる。数秒遅れてゆっくり開かれた唇から、小さな声をそっと発する。
「……もう一回」
 慣れとは本当に恐ろしいものである。桜庭が慣れて心を開いていくたびに、こちらの心臓にどんどん負荷がかかっていく。爆発したときはまあ、桜庭に助けてもらえばいい。うるさい心臓を無視して噛みつくようにキスをする。今度は舌だけででなく、歯列をなぞり裏顎をゆっくりとなめると、先ほどの言葉通り甘えてねだるかのように舌先を吸われて甘噛みされる。そんな仕草一つ一つがかわいらしい。にやけそうな口をさらに押し付けるように、桜庭の顔をさらに引き寄せた。

新しい日常

 桜庭と屋上で殴り合ったのも、もう随分と前になる。肩身の狭い喫煙者のオアシスである屋上で、彼に出会うことはあっても、一緒に訪れることは滅多にない。理由は簡単だ。桜庭が一緒に来たがらないからだ。今日も一人で階段を上がる。レッスンが始まるまでまだ時間があった。突き当たりのドアを開ければ開放的な屋上の隅の柵の前で、小さく煙草を吸う桜庭が居た。
「桜庭ちゃんみっけ」
 天道の声に反応して振り返った顔は、いつも通り険しかった。嫌そうな顔を完全に無視して、煙草を咥えながら隣まで移動する。隣に並んで火をつけると煙と一緒に匂いも広がる。赤いパッケージのこの煙草はずいぶん匂いがきつい。隣の桜庭の手には淡いピンク色の、細身で可愛らしい箱が握られている。女性向けの軽い煙草だ。結成から一年、求められるパフォーマンスのレベルも月日と共に高くなってきた。新曲のダンスが今までと比べ物にならないほどに動く。初期と比べれば随分と桜庭の体力もついているが、元から体を動かすことが得意では無い人間にとっては相当辛いのだろう。一週間前、一度通しただけで息が切れる様子を見たプロデューサーから、ついに減煙指示という名の禁煙命令が出たのだ。それ以来桜庭は匂いの少なさをウリにしているこの煙草を隠れるように吸っている。ピンクのラインが入った細いその煙草を一口吸って、ばつが悪そうに文句をつけてくる。
「僕の隣で吸うな。匂いがうつるだろう。プロデューサーにばれる」
「お前が吸うのやめればいいだけの話だろ」
「最終的にはきちんとやめる。少しずつ減煙してるだけだ」
「あっそう」
 そう呟きながらにやにやと顔とパッケージを交互に見ると、どうやらその視線に気が付いたらしく、また睨み返してくる。前に吸ってた銘柄とはまた違うアンバランスさ、そして天道の視線に気づいて反応を示すこと。以前見惚れたその姿とは全くの正反対だ。結局あのとき見た桜庭の姿は消えなかった。それでも記憶の奥底に隠れてしまっていて、思い出したのはDRAMATIC STARS結成後にこの屋上で煙草を吸う姿を見た時だった。
 文句を言っても無駄だと思ったのだろうか、桜庭は機嫌の悪そうな顔のままそっぽを向いてしまった。それをいいことに、煙草を吸いながら横顔を眺め続ける。最初に見た桜庭が嫌いなわけではない。むしろ白衣姿で美味しそうに煙草を吸う姿は美しかった。それでも、手の届かなそうな危うさがなんだか怖かったのだ。そのせいか、自分の手の届く距離で女物の可愛らしい煙草を吸う姿がとても愛おしく思える。たとえ今、桜庭に触れたとしても、文句は言われど振り解かれはしないのだろう。ぶつかって、理解して、擦り合わせて。そんな距離まで、二人の間は縮まっていた。
 がちゃり、と背後で扉の開く音が聞こえる。振り返れば、嬉しそうな顔をした翼が屋上を覗いていた。
「やっぱりここに居たんですね」
 軽い足取りでこちらに向かってくる翼に、天道と同じように後ろを向いた桜庭が話しかける。
「君もわざわざ来たのか。暑いだろうに」
「レッスン室に二人分の荷物が置いてありましたから。俺一人で待ってても寂しいですし」
 そう言って天道の隣に立ち、煙草サイズの箱から一本取り出そうとしたところで、あっと声を上げる。
「ちょっと溶けてる……」
 翼は珍しく拗ねたような表情をして、紙を少し剥いて食べ出した。年に似合わず子供のような顔でシガレットチョコを咥える様子が面白くて、天道は笑いながら声をかける。
「そろそろラムネに切り替えたほうがいいんじゃねーか?」
「また箱買いしないとですね」
「そもそもまだ売っているのか?最近見た記憶が無いのだが」
「チョコはネットで買えたんで、ラムネも多分売ってると思います」
 チョコを食べながらスマホを取り出し、片手で器用に文字を打つ姿を横目に、柵の先の景色を見渡す。桜庭が禁煙するなら、こうして三人で肩を並べてぼうっとする時間も無くなるのだろうか。そう考えると天道は酷く寂しい気持ちになった。
「桜庭もラムネにしろよ」
「君もラムネにするなら一緒に食べてやらないこともない」
 喫煙者のオアシスで、大の大人が三人で煙草型のラムネをポリポリと食べる姿を頭の中で描いてみる。
「……遠慮しとく」
 流石にちょっとかっこ悪いなと思いながら、煙草を吸い終わるまで、これからも三人でこうしていられるための案を考えてみることにしたのだった。

小さな痕跡

 吸っているのかふかしているのか、天道自身もよくわかっていない。
「おそらく肺に入っている」
 呟いてみても反応が返ってくるわけがない。一人暮らしはどうにも独り言が増える。正面のテレビの中では先輩であるJupiterが司会者と軽快なトークを繰り広げていた。
「やっぱすげえな」
 また一人で呟いて、味の濃い煙草を口へ運ぶ。弁護士を辞めたと同時に煙草も変えた。あの煙草は弁護士ある天道輝のものだと思ったからだ。大切にとって置きたかったのか、ただ自分自身が変わりたかったのかは分からない。
 煙草だけでは無い。アイドルになって日常の色々なものが変化していた。長年住んでいるこの部屋も例外ではなく、今まで買ったこともなかったアイドル雑誌やCDが増え、テレビ番組をダビングしたDVD、振付の確認のために買った少し大きな姿見など、時間をかけて弁護士の部屋からアイドルの部屋へと姿を変えている。これらはもちろんすべて天道のものである。数ヶ月前に出来た恋人を何度も部屋に呼んでいるが、彼は物を持ちこまない。歯ブラシが一本増えただけだ。桜庭らしいと思いつつも少しさびしい。
 スタッフロールを眺め終わって、火を消そうと灰皿へ目を向ける。山のような吸殻の中には、ぽつりぽつりとフィルターの色味が違うものが混ざっている。
「片づけねえとまた怒られるな」
 言葉ではそう言ってみるが、片づける気はさらさら無い。ゴミ箱にひっくり返すだけで消えてしまうちっぽけなものでも、恋人の痕跡がひどくうれしかった。
「近々呼ぶか」
 小言を言いながら桜庭が片づけて、また新しい吸殻を押しつけて帰って、また来て文句を言いながら片づけて。その繰り返しでいいんじゃないか。そんなことを考えながら、灰をこぼさないよう気をつけながら吸殻を押しつけた。

結局はただ見とれてただけ

 ストーカーまがいの嫌がらせをされたとか、後ろから突き飛ばされたとか、そんな話はよく聞かされてはいた。でもそれは、弁護士は良くも悪くも他人の人生を変える仕事であることを忘れるなって伝えたいから聞かせるのであって、所詮は教訓みたいなもので身近にあるものとは程遠い話だと勝手に思い込んでいた。それがまさか、自分の事務所の先輩が階段下に突き落とされるとは夢にも思っていなかったのだ。

 喫煙所を目指して病院の廊下を歩く。白を基調としたその建物の中は、清潔や潔白という言葉がよく似合う。そこで働く人たちもやはり白を身にまとっていて、その姿に患者や天道のような見舞い客は勝手に厳かな印象を抱くのだ。さっきまでいた先輩の病室もやはり真っ白で、足を釣り上げてベッドに寝かされている先輩にはなんだか似合わない部屋に感じた。患者のための部屋なのに患者に似合わないというのも変だが、単純な話、天道が病院という施設に苦手意識を持っているだけである。
 居心地の悪さから逃げ出すようにガラス張りの大きな玄関口から抜けて、先輩に教えてもらった方へと進む。このご時世にこんな大きな病院に喫煙所があるのは珍しいと驚いたが、せっかくあるものは利用するに限る。教えてくれた張本人は歩けないから吸いに行けないと嘆いていた。
 目的の場所は病棟の陰になるようにひっそりとあった。女性が座っている木製のベンチの隣にはよくある縦長の灰皿が立っていて、その周りにはぽつりぽつりと距離を開けて四人ほどが立っている。その中に溶け込むように、病棟を背に立ち煙草に火を付ける。オイルライターの蓋が閉まる音と、慣れ親しんだ煙の味に先ほどまで残っていた圧迫感が心から消えていく気がした。穏やかな気持ちで握ったままのパッケージに視線を落とす。上部の赤が女性の唇を模したものだと知った時は自分の似合わなさに渇いた笑いが出たが、最初の一口が一番美味いところは何より気に入っていた。
 視界の端で白が舞う。つい気になって目で追うと、白衣の男が二人、斜め向かいに立ち止まったところだった。人当たりの良さそうな柔らかな雰囲気の男と、整った容姿のせいか随分と冷たい印象の、対照的な二人だ。明るく話題を振る茶髪の医者の言葉に相槌を入れながら、黒髪の細身の医者は白衣から少し潰れたソフトケースを取り出した。細く少し筋張った長い指で一本抜き取って咥えた時、隣の医者が彼の前にオイルライターと差し出す。気付いたその男は差出人の顔を見上げながら、小さく微笑んで受け取った。先ほどまでの冷たい印象が嘘のような、可愛らしいという表現の似合う表情だった。やはり同じように話を聞き流しながら火をつけて、吐き出す。もう一度咥え直し、レンズの奥の目を細めながらゆっくりと吸い込んでいった。そして、ため息をつくように煙も吐き出す。赤の他人を凝視することが失礼だとは分かっていながら、天道はその一連の動きから目が離せなかった。
 既に白衣のポケットに仕舞われた白地のソフトケースには赤い丸が描かれていた。天国に一番近い煙草、と呼ばれているものだ。体に一番悪いからというデマから生まれた俗称に過ぎないが、目の前の男とは随分イメージとかけ離れているように思えた。天道は彼を知らない。彼がどんな風に患者に接し、どんな思いで患者を救っているのか、そんなことももちろん知らない。整った容姿からも、染み一つ無い白衣からも、同僚らしき隣の男に対する態度からも、誠実さしか汲み取ることが出来なかった。初めて煙草を吸った時、彼は何を思ったのか。今何を考えて、美味しそうにその煙草を吸っているのか。彼自身が持つ印象と、その煙草が持つイメージの間に一体なにが埋まっているのか。そしてなぜイメージにそぐわない煙草を吸うその男の姿がこんなにも絵になるのか。ずっと眺めていたところで、天道が見つけられるはずもなかった。
 目の前の灰皿に煙草が二本放り込まれる。天道の視線なんて気付かなかったのか、二人は当たり前のように来た道を帰っていった。ろくに吸ってもいないのに、手元の煙草はもう短かった。投げ捨てるように灰皿に放り込んで、新しいものを咥え直す。火をつければきっと、彼は自分の頭から消えるのだろう。
 天道たちがアイドルになる三カ月ほど前の、そして二人が恋人になる半年ほど前の出来事だった。

寝室での一コマ

 夕飯を取り風呂も済ませ、あとはやることやって眠るだけ。という状況で手を繋ぎながらいちゃいちゃしつつ桜庭の家の寝室のドアを慣れた手つきで開けたところ、二週間前まではなかったはずの見知らぬ機械がベッドのそばに鎮座していた。脳内が疑問符で埋め尽くされたまま桜庭を見ると、いっそ清々しいまでに得意げな顔をしている。
「なんだこれ」
「よくぞ聞いてくれた」
 もともとベッドサイドに置いてあったチェストの上に新しく備え付けられた黒い機械に手を置いて、桜庭は顔の通り得意げに話し始める。
「見ての通りコーヒーメーカーだ」
 やっぱりそうかと再度機械に視線を移す。メーカーや機種によって差はあれど、形状で察しはついていた。しかしこれが桜庭の家にあるのは正直不自然である。
「専用のカプセルを使うタイプのものだから、味は豆を挽いたものと比べるとどうしても劣りはする。だが彼にはそれを補うだけの素晴らさを兼ね備えている」
 機械の事を「彼」と擬人化して呼ぶあたり相当気に入っているのだろう。半月足らずで桜庭の心をそれほど掴むとは、機械の癖に随分と出来る奴だ。
「で? その素晴らしさってなんなんだよ」
「聞いて驚け、タイマー機能付きだ」
 ベッドの傍にタイマー機能付きコーヒーメーカ。なるほど、と納得せざるを得ない。寝起きの桜庭を知っている人間なら誰しも感動を覚える代物だろう。
「夜の内にカプセルとカップを設置して時間を合わせておくだけで、朝には軽快な音を鳴らしながらコーヒーを淹れてくれる。これはもはや僕のために開発されたといっても過言ではない」
 どう考えても過言であるが、朝の弱い桜庭にとっては本当に画期的に感じられるのだろう。いわゆる家電、それもキッチン用品ともなれば桜庭が詳しい知識を持っているとは到底思えない。どこで見つけたのかは知らないが、いつも通りクールな顔をしながら内心大喜びで持ち帰る姿を思わず想像してしまった。そして俺にこうも得意げに自慢するあたり、このコーヒーメーカーは相当桜庭の朝の手助けをしているのだろう。
 百歩譲って桜庭がコーヒーメーカーにご執心なことは許すとしよう。しかしこのタイミングで俺に得意げに自慢するのはいただけない。ここ二週間プライベートで会う機会は皆無だったのだ。久々に二人きりになれる今日を俺はそれなりに楽しみにしていた。言葉には出してくれないが、桜庭だって同じなはずだ。寝室のドアを開ける前まではいい感じだったじゃないか。ソファで隣に座る桜庭の洗いたての髪を撫でながら寝室へ促したら、珍しく照れ隠しの言葉すらなく素直に俺の手を握りながらついてきてくれたじゃないか。それなのにドアを開けた瞬間から甘い空気は見事に吹き飛んでしまった。さすがはコーヒーメーカーである。苦みを与えることと目を覚まさせることに関しては、こいつの右に出る者はいないだろう。
 機械相手に結構な怒りを覚えている俺になど気付きもしない桜庭は、慣れた手つきでチェストの引き出しを開けてカプセルを機械にはめ込んでからパネルを見つつボタンを操作している。指の動きに合わせて「ピッピッ」と鳴る機械音さえ癇に障る始末だ。やることやって眠るだけじゃなかったのか。その音は今本当に必要なのだろうか。
「と、まあこんな具合にセットをしておけば朝には淹れたてのコーヒーがベッドサイドに出来上がっているわけだが……」
 得意げだった桜庭の声が急にしぼんでいった。やっと俺の不機嫌具合に気づいてくれたのか。正直な話、相当可愛く謝ってもらわなくては許す気になれない。という事実を眼力のみで伝えるため、ベッドに腰かけた俺は下から桜庭を睨みつけたが、
「カップを忘れた。取ってくる」
 と言って桜庭はドアの向こうへ消えていった。眼力に込めた俺の想いは一ミクロンすら伝わることはなく寝室のドアに阻まれる結果となったのだ。

 自分の家のキッチンからカップを持ってくるのに時間がかかる人間はいない。桜庭はさっさと寝室まで戻ってきた。丁重にコーヒーメーカーの下の部分にカップを置いてから、俺の隣にやっと座った。
「こんな感じだ」
「……なるほどな。よく分かった」
 この機械の利便さ、そして桜庭の気に入り具合。どちらにしてもよく理解できた。
「ちょっと待ってろ」
 できた上で俺は立ち上がった。そして桜庭が持ってきたばかりのカップを手に取り、颯爽とキッチンへ向かう。普段ひとりで生活しているときに使う分には一向に構わない。しかし今日ばかりはこいつの出る幕ではない。
 勝手知ったるキッチンの食器棚に場所を迷うこともなく置き、そのまま寝室へと戻る。案の定ぽかんとした顔で突っ立っている桜庭の腕を思いっきり引き、上から俺が圧し掛かる形で二人してベッドに沈み込んだ。
「おまたせ」
「何をするんだ」
 おそらく二重の意味で言っているのだろう。桜庭の髪に顔をうずめて「うるせー」と反論すると、
「うるさくない」
 などとトゲトゲしい声が返ってくる。それを宥めるつもりでこめかみに小さく唇で触れる。
「べつにいいんだよ。便利だろうし、寝起きの状態で一から淹れるほど危なくないしな」
 耳元で囁いていた俺には桜庭の表情は見えない。勝手に怒ってないと判断して耳たぶの輪郭をそっと舐める。俺の肩近くの袖を掴んでいる手がぎゅっと握りしめらたのが、突っ張った服が伝えてくる。
「でも俺がいる日はやめろよ。俺の仕事なんだから」
 朝起きたら隣で桜庭が寝ているという事実が俺にとってどれだけ幸せな事なのか、桜庭にはきっと分からないのだろう。朝一番でその寝顔を眺めることが、二人分のコーヒーを入れることが、それを持っていく先が無防備に寝ている桜庭であることが、必死で手に入れた夢の続きのごとく温かで嬉しい現実だと、桜庭はいつ気が付いてくれるのだろうか。
 唇で触れる位置を首筋、鎖骨と徐々に下ろしていきながら、上まできっちり留まっているボタンを一つずつ外していく。服を掴んでいたはずの桜庭の手がいつのまにか俺の肩を押しているものの、とてもじゃないが成人男性一人を押しのけられる強さでは無い。
「機械に取られるなんて流石に許せないよな」
「なにも機械に嫉妬することないだろう」
 うるせーと再度言い返したくなったが、桜庭の声が予想外に楽しそうだったので止めた。代わりに顔をあげて桜庭の表情を見ようとしたところへ、肩口を押していた手がそっと俺の頬に触れてくる。桜庭の目はこんな色だっただろうか。少なくとも、「僕に構うなんて物好きな男だ」などとのたまっていたころはもう少し暗い色だった。事務所より寝室の方が余程暗いはずなのになあと考えながら、俺は吸いこまれるように顔を近づけながら目を瞑った。

 コーヒーの豊かな香りで目が覚めた。桜庭ではない。俺がコーヒーの香りで目が覚めたのだ。
「完全にやられた……」
 俺はベッドの上で上半身を起こして、チェストの上から床にかけて広がるこげ茶色の液体を睨みつけていた。タイマーをセットしてカップだけ片づけたらそうなるよなあ、と昨晩の己の頭の悪さに嫌気がさす。祈るような気持ちで寝具を引き寄せながらベッドの側面および床に接している部分を確認してみると、奇跡的に被害を免れていた。不幸中の幸いである。これなら桜庭が起き出す前に床とチェスト、そしてコーヒーの発生源である憎きあいつを拭くだけでなんとかなりそうだ。昨晩床に脱ぎ捨てたはずの衣服も無事だ。小さな机の上に綺麗に畳んで置いてある。俺が寝た後に桜庭がこっそりベッドから抜け出して畳んだのだろう。いつものことだから珍しい訳ではないが、今日ばかりは桜庭の几帳面さに全力で感謝したい。
 とりあえずこの後の行動を脳内でシミュレーションしてみる。コーヒーを踏まないように気をつけながらベッドから抜け出し、すこし肌寒いのでまずは畳まれた服を着る。そしてタオルでコーヒーを拭きとったのち、タオルに染みが出来ないように流水で洗って洗濯機に放り込む。この段取りを桜庭が起きないよう音を立てずに遂行すれば後はいつも通りにコーヒーを淹れてあげるのみである。こう考えるとそんなに難しいミッションでは無い。しかし朝から面倒だなと思いもう一度ベッドに沈み込むと、半分だけ開いた桜庭の瞳とばっちり目があった。思わず固まったが、桜庭だから大丈夫だと自分に言い聞かせてそっと頭を撫でる。
「もうちょっとだけ寝てていいぜ」
「……ん」
 一瞬の短い返事は一瞬で寝息へと変わっていった。ほっとしながら顔にかかっている髪を避けてやる。ずっとこうしていたいけれど背後のコーヒーが許してくれない。
「片づけるか」
 そう自分に言い聞かせてベッドから抜け出した。もう一度目を覚ました桜庭に、いつも通りの朝を迎えてもらうために。そして俺がいつも通り、幸せな朝を迎えるために。

青春は君と俺の間に

 テニスの試合の放送が見たいからと楽しそうに言って柏木は足早に事務所を後にした。プロデューサーも用事があるのか、柏木の後をついて事務所を出ていく。山村は少し前にBiteに誘われて早めの夕食を取りに出かけた。珍しく人気のない事務所の中で、同じソファに天道と桜庭は座っていた。用事は済んだにもかかわらず、二人とも帰る気配はない。
「帰らないのか?」
 いつものように手と足を組んで座っている桜庭の視線は、天道と反対方向の窓に向けられている。
「……帰るけど」
 腿に肘をつき前屈みに腰かける天道の視線は、桜庭と反対方向の床に向けられている。
「お前こそ帰らないのか?」
 ついた方の手で、手持ち無沙汰に髭を触りながら天道が聞き返す。
「いや……帰る」
 窓に視線を向けたまま、桜庭はそっとソファに背を預ける。
「……あっ、そう」
 そこで会話は途切れ、換気扇の音だけが事務所に広がる。数十秒の無言の間を破ったのは天道だった。
「お前、今日飯は?」
「……特に決めてないが」
「なんか食ってく? ちょっといい店行ってもいいし」
 重苦しい空気を振り払うかのようにわざといつも通りの口調で話す天道の心境を知ってか知らずか、桜庭はいつもと変わらぬ様子で返事を返してくる。
「いつものファミレスじゃないのか?」
「まあ、翼もいないし」
「……柏木がいないから?」
「いや、だってあいつ……量多いし」
「まあ、そうだな」
 張り詰めた会話の中に、笑うような息の抜ける音が混ざる。視線は一向に交わらない。
「まあ別に外で食ってかなくても。俺の家来てもいいし」
 空気が張り詰め無いように、軽く抑揚をつけて発する言葉に合わせてソファに背を預け足を組む。正面から見れば桜庭と対になっているだろう。
「何かあるのか?」
 その瞬間、空気が張り詰める音が聞こえた気がした。勿論そんなものは聞こえないし、桜庭に体が無いことも分かっている。天道は動揺と不安を噛み殺すようにして口を開いた。
「……何が?」
「いや、夕食」
「ああ、……別に何でも作るぜ?」
「……和食がいい」
「おう、任せろ」
 張り詰めて、少し緩める。このむず痒い空気を作っているのは自分であることを天道は自覚していた。おそらく、桜庭も気づいているだろう。天道が作り出した空気を理解しながら口にせず、張り詰めすぎないよう通常の口調を心がけてくれている。目も合わせていないのに、よくここまで桜庭のことを読み取れるようになったなと、付き合いの濃さに少しだけ心が温かくなった。普通に会話すればいい。空気を破るように桜庭の方を見る。視線に気づいた桜庭と見つめ合って数秒後、出てきた言葉は何とも情けなかった。
「あ゛ー。なんなんだよ、もう」
 視線から逃げるように桜庭にもたれかかる。
「煩い。重い。なんなんだ君は」
「家くんの?こねぇの?」
「……行く」
「……おう」
 シャツ越しに桜庭の体温を感じながら、あまりの酷さに恥ずかしさが込み上げてくる。自分はこんなに不器用だっただろうか。いや、28歳にもなる男が恋人を家に誘うのにこの惨状は有り得ないだろう。これではまるで初めて彼女が出来た男子中学生だ。
「だから……なんなんだよこの空気……」
「……僕が知るわけないだろう」
 俺だって分からないよと返したかったが、悪いのは自分自身だと自覚があるので諦めることにした。目を瞑って冷蔵庫の中身を思い浮かべる。酒の残りも少なかったはずだ。
「スーパー寄って帰るか」
 天道がそう呟いてドアへ向かったにも拘らず、桜庭は立ち上がる気配を見せない。
「なあ天道」
 背後にあるソファに座ったまま声をかける桜庭の表情は、もちろん天道から見て取ることは出来ない。
「僕たち付き合って大分経つと思うんだが」
「そうだなあ」
「……僕が言えた義理ではないが」
 言い辛そうにしている辺り、先程のバカみたいで遠回りな会話に苦言を申し立てたいのだろう。付き合いたてですら無い大人二人の会話にしてはあまりにも幼稚な事くらい、天道自身も理解していた。
「もっとスマートな奴だと思ってた?」
「そうだな」
「俺もそう思ってた」
 前の彼女のときはそうだったよ。だからこれはお前の所為だ。どちらも口が裂けても言えたことでは無い。
「ほら、帰るぞ」
 貶された割には随分と明るい声と共に天道は振り返った。そのくらい好きなのだから仕方がないという諦めの感情を、天道はとっくの昔に抱いていたからだ。それを知らない桜庭は少しだけ困惑したような表情を浮かべながらも、鞄を片手に天道の隣まで歩いてくる。
 ドアノブを握った反対側の左手で、桜庭の手にそっと触れる。天道が逃げないように遠慮がちに絡め返してくれた指は、階段を降り終わるころには離れてしまうのだろう。誰にも見られない階段で、誰にもバレないようにそっと手を握り合う様はそれこそ中学生のようだなと、天道は心の中で独り言ちた。

ねぼすけはサンタクロースになんかなれない

315プロダクションのクリスマスパーティは今年も大成功に終わった。天道はその夜、桜庭の手を引いて帰った。人の集まりは楽しさを作り出すが、同時に体力も奪っていく。
 先に風呂に入った桜庭は、天道が風呂からあがるより少し先に眠りに落ちていた。

 翌日の朝、天道が隣で眠る桜庭を揺さぶっていた、
「桜庭いいかげん起きろよー」
 桜庭は小さなうめき声を上げながら、瞼をかろうじて上げたり下げたりしている。
「サンタ来てるぞ、サンタ!」
「……さんた?」
 桜庭の瞼が先ほどより2mm持ちあがる。それでも全開には程遠い。
「青だからお前宛てだろ?」
 仰向けで横たわったままの桜の顔の上で、天道が水色の包装紙に包まれた箱を振る。十字にかかり真上で飾り結びになっているリボンは綺麗な青色だ。
 顔の真上で揺れる箱を眺めていた桜庭は、ゆっくりと掛け布団から腕を抜く。両手で受け取ると、やはりぼうっとしたまま眺めていた。
「あけないのか?」
「何だこれは」
「だからプレゼントだろ?サンタからの」
 俺が起きたら枕元に置いてあったぞ、と天道が笑った。
 掛け布団ごしにぽすりと腹の上に箱を置いて、桜庭は上半身を持ち上げだした。
「もう26だぞ」
 上半身が完全に起き上がる直前で、箱は少しだけ転がって桜庭の腿へ落ちた。気にする様子も無くそのままゆっくりとリボンを解き始める。包装紙を剥がす手つきはおぼつかないが、それでも元の几帳面さがにじみ出ていた。
 時間をかけて現れた白い箱の蓋が開かれた。赤と青のマグカップ綺麗に二つ並んで収められている。桜庭は青い方を手にとって、回しながら数秒眺めたのちに、それを天道へ差し出した。
「コーヒー」
「……俺も飲みたいんですけど」
 天道が受け取りながら呟く。
「仕方がない。貸してやる」
「何だよそれ」
「両方とも僕のものだろう。サンタから僕への贈り物なのだから」
 天道は小さくため息をついて適当な返事をしながらベッドから抜け出した。
 桜庭は天道が部屋の外へ出ていったのを見届けると、1分もしないうちに座ったまま舟を漕ぎだした。

 戻ってきた天道は笑いながらカップをヘッドボードへ置いた。そして15分前のようにまた桜庭を揺すった。
 先ほどよりは簡単に目を覚ました桜庭へ青いカップを持たせてやる。
「今日なにする?」
 ベッドへ腰かけた天道も赤いカップを手にとって飲みだした。
「……何って、買い物だろう」
「何買うんだよ」
「別に何でもいい」
 桜庭は両手でしっかり持ったカップから、砂糖入りのコーヒーをちびちびと飲んでいる。
「サンタからプレゼントを貰えなかった可哀想な中年がいるからな」
「買ってくれるのか?」
「今年だけだ」
 反射的に天道は桜庭を見たが、桜庭は顔も上げずにカップを眺めたままだった。
「来年からはサンタに貰えるよう努めることだ」
 はいはい、と適当に返事をして天道は笑う。
 どうせ来年もサンタなんか来ないだろうと思いながら。

ここだろうと思ってた

 形に残るものがいい、という発想は俺のエゴだと理解している。それでも恋心を自覚してしまった今、日用品でも無く消耗品でも無いものを誕生日に贈りたいと思うのは人として当然の欲求だろう。
 ならば本はどうだろうか。二か月前に浮かんでしまったその発想がまさかこんなに自分を苦しめるとは思ってもみなかった。
 先月、桜庭の家へ初めて訪れたことが原因である。そこに置かれた本が想像以上に少なかったからだ。本棚は二つしか置かれておらず、一つは関わった映像作品の原作や桜庭自身が出た雑誌などが納められていた。仕事に関係の無い本の置き場はもう一つの本棚のみだった。綺麗に並べられた本は目に見えて古いものが半分以上を占めている。桜庭が空き時間に読んでいる本は新刊が多い上にしょっちゅう変わる印象だっただけに、これはマズイかも知れないと本棚の前で思ってしまった。しかし決まった訳では無いだろうと望みを託して桜庭に話しかけてみる。
「意外と少ないんだな」
「気に入ったものしか残さないからな」
「これで全部か?」
 何度も読み返したいものはベッドサイドに少し置いてあるが、と前置きした上で「ほぼ全部だな」と返事が返ってくる。
 ですよねーと心の中で溜息をつく。見た時点で察しがついていたが、はっきり言われるといっそ清々しい。もしかしたら「寝室に五倍くらい置いてある」とか言ってくれないだろうか、という俺の期待は数秒で崩れ去った。
 桜庭の家を出てからは案の定プレゼントのことばかり考えていた。本はやめたほうがいいかも知れないと思う傍ら、いや、きちんと気にいるものを選べば問題ないだろうとも思う。しかし桜庭は贈り物を無下にする人間でもない。たとえ気に入らなくても捨てたりはしないだろう。そう考えると、あの手のタイプに気に入らない本を本棚に並べさせることになる。それはそれで申し訳ない。でも本なら俺が選んだものに何時間も向き合ってもらえる。それは間違いなく魅力的なことだ。
 結局その日のうちに答えは出ず、いっそ物の検討をつけてから再度悩もうと決めた。そしてスケジュールに空きができた今日、本屋へ赴いたのだった。

 闇雲に探すわけではない。本屋へ来る前に脳内会議は済ませてきた。まず本の種類だが、ほぼ小説で決め打っていいだろう。エッセイや実用書も面白いものは沢山あるが、プレゼントならば読後感が良い素敵なフィクションがいい。そして中身も知らずに贈るわけにはいかないので俺の読んだことがある本に限定される。話題になった本や名作、定番の本はすでに読んでいる可能性が高いのでこれも除外する。そして桜庭の本棚には英語で書かれている本も差してあった。原文で読みたい派の可能性を考慮して、翻訳物も避けるべきだろう。
 という訳で今回探す本は、俺が読んだことのある有名過ぎないハッピーエンドの日本人著者フィクション小説かつ桜庭の好みに合うものだ。ならば向かう先は一択、日本人著者の既刊が差してある棚だろう。
 本屋の真ん中から奥に掛けての棚を順番に見ていく。
 この本は読んでそう、これは好きだけど最後が切なすぎる、この本続きがあったのか等々背表紙を眺めるだけで色々な思考が浮かんでくる。最後に至っては思わず棚から抜いてしまったが、目的を思い出して開かずに戻した。プレゼントが決まったら自分用に一緒に買って帰ろうと脳内にメモを残して再度背表紙を流し見していく。開いては閉じ、立ち止まっては首を振り、二回半ほど往復したところで溜息をついて首を回した。ま行からわ行の作家の棚の向かい側、壁に備え付けられた棚には大判の本が収められていた。
 写真集か、と棚全体を見回す。右から順に人物、動物、建造物、風景。真っ先に風景のへ行って背表紙から夜空の文字を探してしまう。小説ほど好き嫌いもはっきり別れず華やかだし、何度見ても楽しいものだ。時間がない時でもパラパラと捲って楽しめる。これもありだなと思って棚の前をウロウロしていると今度はとなりの絵本の棚が目に入った。平積みにされた絵本の表紙はコミカルなアニメ調のものから色彩豊かで細やかなもの、そして俺が小さな頃からある懐かしいものまで様々だ。
 一つ手にとって捲ってみる。暖かい絵がどのページにも広がっており、添えられた文章はやっぱり優しい。知らない本でも中身をこの場で簡単に吟味できる。難易度は少し高い気がするがうまく選べばこれもありだ。
 脳内会議の結果から見事に脱線してきているが、この選択肢の広がり方は悪いものではない気がする。いっそさらに拡大してみようとおもいたって周りを見渡す。絵本コーナーの先は児童書、さらにその先は学習ドリルだ。
 児童書の棚の前に立ちざっと見回す。児童書コーナーなんて覗くのは何年振りだろうか。懐かしさのあまり知っているタイトルを見つけてはそっと引き抜く。表紙が全く知らない絵に変わっていて驚いたり、こんなにひらがなばかりだっただろうかと首をひねったりを繰り返していると、上から四段目で「あっ」と小さく声を上げてしまった。
 引き抜いて表紙を見る。三頭身の可愛らしいキャラクターは当時と変わっていなかった。たしか読書感想文用に一巻を図書館で適当に借りたのがきっかけだったはずだ。俺に読書の楽しさを教えてくれた最初の本だ。中を開いて文字を追っていくうちに、圧縮されていた記憶がほどけていくのを感じる。あれは何巻だっただろうか。戻しては次を手に取り、また戻しては手に取って開く。そしてまた戻して手に取り開いたところでこれだと分かる。この四巻を読んだ後、どうしても手元に欲しくなって親に全巻ねだったのだ。小学四年生のクリスマスの朝に届いた全十六巻は結局冬休み中にほぼ全てを読み切った。当時外で遊んでばかりだった俺が珍しく家に引きこもった長期休みだった。
 思い出してすぐ、これにしようと思った。すぐに四巻を閉じて左手に持ち、右手で一巻から三、四冊づつ引き抜いていく。全十六冊を抱えたところで別の問題が浮上した。
 重いのである。
 勿論物理的な意味だ。いや、心理的な意味でも十六冊は重いかもしれない。かといって一巻だけという選択肢は無い。最低でも四巻までは読んでほしい。しかしシリーズものなのに途中までというのもどうなのか。
 本を抱えたまま考え込んでいると後ろから声がした。
「お持ちしましょうか?」
 大き過ぎず、でも聞き取とれる音量で男性が微笑み掛けてくる。エプロンには本屋のロゴが印字されていた。一瞬の間を置いて「お願いします」と言ってしまった。
「まだ店内をご覧になりますか?」
「……はい」
「ではレジでお預かりしておきますね」
 まあプレゼントは別にして、児童書は自分用にする手もある、と数秒悩んだ。悩んだ結果レジへ向かう男性を呼び止めた。
「プレゼント用なんですけど、まとめて包んでもらえますか」
 男性は少し驚いた顔をしたが、すぐに「かしこまりました」と言って笑顔に戻った。

 サプライズパーティには他ユニットのアイドル達も参加してくれた。
「どうせ今年もやるんでしょ?」と事前に聞いてきた人たちに至ってはプレゼントまで用意してくれていた。仕事が終わってから駆けつけてくれる人もおり、自分のことじゃ無いのにとても嬉しかった。
 ファンからもプレゼントや手紙がダンボール単位で事務所に届いている。パーティが始まるより早くプロデューサーと賢が仕分けしてくれていた。
 予想以上に賑やかに終わったパーティの後片付けを俺と翼がしている傍らで、桜庭はプレゼントの整理をしていた。ファンから貰ったプレゼントは日を分けて持ち帰るらしい。大きな紙袋を賢から貰って、届いたファンレターとアイドルからのプレゼントを二袋分詰め終わったところで、桜庭はアルコールで少し赤い顔を傾げて顰めていた。目線の先には勿論俺が渡したプレゼントがある。
 本屋の帰りも、今日事務所に持って来るときも、正直やっぱり重いなと思った。他のプレゼントと一緒に持って帰るとするとかなりの重労働だろう。ごめんと心の中で謝っていると桜庭が唐突にこちらを振り返った。
「天道。君、明日オフだろう」
「そうだけど」
「持て」
 言うと同時に俺のプレゼントを指差した。
 驚きと、明日の予定の脳内検索に数秒を要したのち「よろこんで」と返事をした。好きな人の誕生日の夜に二人きりの時間が貰えるのだ。断る男がどこにいる。

 ローテーブルに本を置いてソファに沈み込んだ瞬間に瞼が落ちそうになる。
 朝一で事務所にプレゼントを運んで昼の生放送番組のためにテレビ局へ。無事に仕事をこなしたらダッシュで事務所へ戻り、翼と一緒にパーティの準備。開始の音頭を取った後は絡まれている主役の桜庭を眺めながらゆっくりしようと思ったら俺まで巻き込まれて一緒にはしゃぎ、解散後に片づけを済ませて荷物持ち。
 思い返すと結構ハードな一日だった。
「泊まってもいいからシャワーくらい浴びろ」
 ソファに沈み込んだままうんともおうともつかない返事をする。
 誕生日の夜にお泊まりなんて彼氏みたいだなあと至極勝手なことを思う。もちろん彼氏みたいなことは出来ないのだけれども。
「おい、天道」
 顔を覗き込んできた桜庭に「ん、浴びる。ちゃんと浴びるよ」と返事をして立ちあがった。

 シャワーを浴びて風呂場から出ると、脱衣所に質のよさそうなパジャマが綺麗に畳んで置かれていた。パンツは未開封の新品だった。さらに一緒に置かれていたバスタオルも借りて着替える。
 洗面台の前でドライヤーを探すも見つからない。桜庭に聞くのが手っ取り早いだろうと居間へ向かった。
 扉を開けるとローテーブルに積まれた本の青い背表紙が目に入った。すぐ横のソファでは桜庭が一冊開いている。
 本を読んでいる顔は決してつまらなそうではないが、何故か手放しで楽しそうとは言い難い。物語を楽しむ以外の感情、それも悲しさや寂しさのようなものが混ざっているように見える。
「桜庭」
 声をかけても返事はなかった。ソファの傍まで行って少ししゃがみながらもう一度呼ぶ。桜庭はハッとした表情で顔を上げた。
「気に入らなかったか?」
「そんなことはない。……ただ」
 俺の言葉にまるで条件反射のように即答する。しかしそこから続く言葉は何故か詰まったように目を伏せる。
「ただ?」
「なつかしいと思っただけだ」
 そう呟いて桜庭は本を閉じた。そのまま表紙をそっと撫でる。
「姉さんが入院していたフロアの小さな歓談ラウンジに置いてあったんだ。姉さんが眠っているときや診察中はいつもこの本を読んでいた。他は大人向けの本や雑誌ばかりだったからな」
 はにかむように、懐かしむように言う桜庭へ何と返事をすればいいのか分からなかった。ただ、桜庭と本の邪魔だけはしたくなかった。
 俺の顔を見た桜庭は小さくこほんと咳払いをしてローテーブルへ目線をやる。
「まあ、あそこには一巻しか無かったが」
 気を使わせてしまったことを感じながらも、「四巻が最高なんだよ」と話へ乗る。
「小四の俺はすすり泣いてな。飯だって親が読んでるのに恥ずかしくて部屋から出られなかったんだ」
「そうか」と呟いて桜庭は小さく笑う。
「なら四巻は移動中に読まない方がいいな」
「メイクさんに怒られるからな」
 気が緩んだらしい桜庭はいつになく柔らかい雰囲気のまま、手に持った本をローテーブルへ置いた。
「僕もシャワー浴びてくる」
 立ち上がった桜庭におうと声をかけて数秒後にくしゃみが出た。ああ、ドライヤーと思ったときにはもう家主は居間にいなかった。

 この誕生日を境に俺は桜庭の家に行くことが多くなった。
 そのたびに本棚にちらりと目をやるが、桜庭が読みさしを鞄へ入れている間は勿論、移動中の本が別のものへ変わった後も、本棚へ十六冊がきれいに並ぶ日は来なかった。
 足らない一巻と四巻の行方を俺が知ったのはあの誕生日から一年半後、一糸纏わぬ姿のままベッドで眠る恋人の頭を撫でているときだった。

女神のいない山

 山の麓まで一目で見渡せる高さに造られた露天風呂は、白濁とした湯で満たされていた。建物内に設置された浴場にあるガラス張りの引き戸を抜けて、衣服無しで歩くにはまだ肌寒い気温の中、数メートルの飛び石の上を小走りで渡った先の湯に天道は桜庭と二人で浸かっていた。先程走り抜けた飛び石の側には、湯に浸かりながら読める角度で黒ずんだ木製の看板が立っており、効能や逸話の書かれたそれを天道はぼうっと眺めていた。
「神様のせいえきだってさ」
「せいいきにわざわざ神様の、とつける必要はあるのか?」
「そりゃあるだろ。人や動物のだったら気持ち悪くて誰も来なくなる」
「せいいきは元々神聖な場所という意味だろう。動物のせいいきなら人が入る温泉など作るべきではない。人のせいいきなんて逸話があるならもっと栄えているはずだ」
 神聖な場所という単語に天道は、ああ、成る程、と思った。桜庭に卑猥な言葉を言わせようとするほんの小さな天道の企みは、そもそもの単語すら通じていなかった。
「聖域じゃなくて精液な」
 ほら、と天道が看板を指差すと、少し離れた位置で湯に浸かっていた桜庭がするすると近寄ってくる。天道の横から看板を睨みつける桜庭の顔は余りにも険しく、数秒睨みつけたのち、諦めたように溜息をついて露天風呂の縁に手をついて看板に顔を付き合わせるように上半身を乗り出した。臀部が辛うじて白濁した湯から姿を見せず、そこからしなるように延びる背は天道よりずっと細い腕に支えられている。背に合わせて視線を登らせると仰け反るように顎を上げているせいで首にはくっきりと喉仏が浮かび上がっており、ほんのり湿った髪の下には熱い湯の影響で赤みを帯びた顔が眼鏡という遮断物も無しに晒されていた。
「神聖なのか俗物的なのかよく分からない話だな」
 看板と顔を突き合わせたまま桜庭が呟く。膝を曲げたのか、ぴちゃんと音がして水面から桜庭の片足が少しだけ覗いた。
 看板の逸話を端的に纏めてしまうならば、とある男の神様がこの子作りするために険しかったこの山に篭った。以来産まれた子供の神々のおかげで山には花が増え動物が増え、そして麓の村まで随分と豊かになった。しかし男神が山から降りてくる姿を見たものはいない。そして湯が白く濁ったのは男の神様が山に篭ったのと同時期だった。だからこの湯には神様の精液が混ざっていて、今もなお彼の子供たちは生まれており、その子らは山を中心にここら一体の自然を育み司っている。ということらしい。
 疲れたのか読み終えたのか、はたまた身体が冷えたのか、桜庭は看板から目を背け、天道が腰掛けている段より低い位置まで湯に浸かってしまった。看板と桜庭の後頭部を交互に見ながら、天道は何か大切なものが足りてない気がして仕方がなかった。
 綺麗な景色に少し肌寒い空気、そして熱めで滑らかな湯は文句無しの露天風呂のはずなのに、天道は何故か居心地が悪く、肩まで浸からず湯には入ってすぐの少し高い段に腰掛けたままだった。
「俺戻るわ」
「もういいのか」
「おう。中の風呂に浸かってくる」
 桜庭は少しだけ寂しそうな表情をした。地方ロケの合間に温泉へ行こうと誘ったのは天道だった。天道は三人で行くつもりで声をかけたのだが、急遽柏木がラジオゲストの代打に呼ばれ一足先に帰ることになり、結局恋人同士である二人で来ることになった。意図していなかったとはいえ温泉デートには変わりない。天道だってつい先ほどまでは大っぴらには出来ないものの桜庭と一緒に楽しもうと思っていた。肌に合わなくて痒みや刺激がある訳でもない。なのに何故かここに居るのが嫌だった。恋人である桜庭を放って戻ろうとする程に。
「……僕はもう少し入っている」
「そっか」
 天道はタオルを持って通路を戻る。ふと振り返ると肩まで浸かりきった桜庭は景色を見るでもなく、ぼうっと宙を眺めていた。その姿を見て天道の中に先ほど湧いた違和感が胸の中で少し膨れ上がったが、吹き込んだ風が濡れた体を撫でたため、天道は身震いをしてガラス戸へ引き寄せられるように歩き出した。
 ガラス戸を引いた瞬間に中から流れてくる暖かい空気を全身に浴びた途端、天道は強張っていた身体から安心感で力が抜けて行くのを感じた。屋内の様子は外に出る前と変わっておらず、設置されている四つの浴槽のうち三つには誰も浸かっていない。一つには年輩の男が三人ほど浸かって相変わらず談笑をしている。
 天道は一通り見回し、掛け湯をしてから誰も入っていない隣の浴槽へ入った。談笑する三人に背を向けて奥の角に座り込む。露天風呂とは違う透明な湯は天道の体を遮らずに映し出した。少し仰け反って目を瞑る。湯の温度と反響する音は多忙により蓄積された疲労を溶かすようで、天道から安心感さえ引き出していく。
 背後にいる三人は時に声を顰めたり、また唐突に笑い出したりと他愛もない話を続けている。盗み聞きするつもりもない上に先程から込み上げてくる眠気も相まって、天道は彼らの会話の内容までは把握していなかった。
「にいちゃんのツレだよなあ」
 唐突に大きめの声で発せられた言葉が天道の脳に入り込んでくる。天道は驚いて、落ちかけた瞼を開いて振り向くと、男性は三人とも天道へ目を向けていた。
「ほら、露天風呂にずっといる若い子だよ」
 おそらく三人とも気の良い人なのだろう。彼らが桜庭の話を自分に振ってきていることを天道は理解した。
「ああ、二人とも仕事で麓の町にきてるんです。名湯だって聞いたんでちょっと登ってきたんですよ」
「仕事で来てんのかい。今の時期は観光客が少ねえから珍しいと思ったよ」
「ここの山は桜が殆ど植わってないからなあ。その分もみじが綺麗だから秋になるとうじゃうじゃ人が来るんだけどよ」
 ロープウェイ乗り場のおばちゃんも同じことを言っていたと天道は思い返す。彼女は「今日は相当空いてるだろうからゆっくり入っておいで」と優しそうに笑っていた。
「あいつ人混み苦手なんでちょうど良かったですよ」
「そりゃよかった」
「しっかしあのにいちゃん長いこと浸かってんなあ。気に入られたか?」
「気に入られた?」
「おう。べっぴんさんだったからなあ」
「若いしなあ」
 話について行けず天道は困惑する。楽しそうに笑う彼らに合わせて笑っておくのが正解のような気がするが、どうしても何かが心に引っかかる。先ほど露天風呂で抱いた違和感が少しずつ顔を出す。
「桜庭が露天風呂を気に入ったんじゃなくて、桜庭の方が気に入られたんですか?」
「あのにいちゃん桜庭って言うのか!」
「勘弁してくれ。桜まで増やされちゃあ俺らが来れる時が無くなっちまうだろ」
 何故桜が増えるのか。天道は理解できず更に困惑する。おそらく表情にも出ていたのだろう。笑っていた三人は天道に目を向けたところで悪戯を仕掛けるような顔へ変わった。
「外の看板読んだか?」
「はい」
「にいちゃんはさっさと外から帰って来ただろ?」
「はい。なんか居心地悪くて」
「追い出されたんだよ、それ」
 あの露天風呂には桜庭と天道しか入っていなかった。もういいのかと寂しそうな顔をした桜庭が、天道を追い払ったわけがない。なら誰が追い出したのかと考えた先に行き着いた答えを、天道は「いや、まさか」と声を出して否定しそうになった。
「子作りは一人じゃ出来ねえからなあ」
 天道は必至に看板の内容を思い出す。どう考えても父となる神と子のことしか記載されていなかったはずだ。天道は己の頬の筋肉が引き攣るのを感じる。これは笑わなければ行けない話だ。桜庭がただの仕事仲間なら笑えただろうか。神様相手に本気で怒りが湧いたのはこれが初めてだ。
 天道の中に渦めくものを叩き割るかのように、大きな高い音が響く。天道が思わず目を向けると脱衣所からの入り口の戸が開け広げられており、先ほど入り口のカウンターに座っていた女性が堂々と立っていた。
「あんたらもう六時半だよ」
 彼女が大きめに放った声は反響して更に大きく天道たちの耳に届いた。そしてその声を聞いた途端、男性たちは慌てて立ち上がった。
「こりゃいかん」
「早よ帰らないとおっかあに叱られるなあ」
 湯船から上がり脱衣所へ向かいつつ、笑いながら天道へ挨拶をした。
「じゃあなにいちゃん。せっかく空いてんだからゆっくり入ってな」
「ロープウェイは八時までだからな」
「でもそろそろ露天風呂からは引き上げさせた方がいいかもなあ」
 天道は苦笑いで手を振りながら三人を見送った。そして脱衣所への扉が閉まった瞬間に立ち上がり露天風呂へと早足で向かっていった。

 天道が露天風呂に着くと、桜庭は隅の湯が出る所で手に湯を受け止めていた。天道が怪訝に思いながら桜庭の方へ向かうと、桜庭は湯の入った手をそっと口元へ近づけた。
「桜庭!」
 天道が慌てて大声で呼びかける。天道が来たことに気づいていなかったのか、桜庭は驚いた表情で天道を見た。
「何やってんだよお前は!」
 桜庭の側まで来た天道は思わず桜庭の手首を掴んで引いた。桜庭の手から湯が零れ落ちると同時に、飲めますと大きく書かれた立看板が天道の目に映った。
「飲むなよそんなもん!」
「いや、飲めますって書いてあるだろう」
「そうだけど飲むなよ!」
「何をそんなに怒ってるんだ」
 苛立ちを含んだ表情で桜庭に見つめられて、天道は少し息が詰まった気がした。桜庭に怒っている訳では無いのに、気が立ったまま桜庭に接してしまった事を恥ずかしく思い、手首を掴んでいる力を緩めた。
「ごめん」
 天道が落ち着いて小さな声で謝ると、桜庭の表情が和らいだ。いきなり怒られた少しムッとしただけであって、桜庭の本気で怒っている訳では無いらしい。安心した天道は手を離し、落ち着いて桜庭に言った。
「そろそろ冷えるから中行こうぜ。おっちゃんたちも帰ったしさ」
「分かった」
 湯船の中を通路の近くまで二人で移動して立ち上がる。すっかり薄暗くなった空気は濡れた身体にはあまりにも冷たい。天道はタオルを手にとって慌てて戻ろうとしたが、反対側の手を握られて思わず振り返った。
「誰もいないんだろう?」
 小さく呟いた桜庭は視線こそ他所を向いているが、薄暗い中でも赤く色づいた耳が天道にははっきり見て取れた。
「うん」
 天道は手を握り返しながら、桜庭を引いて通路を進む。歩きながら、先程まで慌てていた自分が本気で馬鹿らしくなった。桜庭の言う通り、ここには初めから誰もいない。自分とその恋人以外、誰も初めから居やしないじゃないか。天道はそう思いながらガラス戸を開くと、案の定中には他の客は誰もおらずにがらんとしていた。
「ロープウェイは八時までだってさ」
「今何時だ?」
「六時半過ぎ」
「なら、もう少し大丈夫だな」
 手を繋いだまま一番大きな浴槽へ二人で入る。やっぱり温泉デートは一緒に入らなくちゃな、と天道は思いながら、このまま誰も来ませんようにと小さく願った。

水たまりにうつる星

 少し遅れると連絡が入ったのは今から十五分ほど前だ。創作和食が売りの居酒屋チェーン店で俺は一人、お通しをちまちま食べながら店員が置いていったメニューとスマートフォンを交互に眺めていた。たまに個室と通路を仕切っている障子風の引き戸に目をやる。桜庭のメッセージには二十分から三十分ほど遅れると書いてあった。二十分で着くならそろそろ注文をしてもいいだろうか。しかし三十分かかるのであれば頼むのは少し速そうだ。食べたいものの目星はすでに付けてしまったが、手持ち無沙汰に何度もメニュー表を捲る。無意味にデザートの部分を眺めていたところでようやく光ったスマートフォンには桜庭薫と表示された。
「もしもし」
「すまない。撮影が押してしまった。今駅前に着いたところだ」
「いいよ別に。場所分かる?」
「大丈夫だ。すぐに向かう」
「じゃあ適当に注文しとくから。ビールでいいよな?」
「ああ、頼んだ」
「はいよ」
 話し方が変わった気がすると前回あった時も思ったが、電話越しに聴くとなおさらよく分かる。口調が変化したわけではないが、声の出し方やスピード、語順が変わったんだと思う。テレビモニター越しでは今まで気付かなかったのは何故だろう。同僚からアイドルに変化してしまった彼が、今また身近な存在に降りてくるかもしれない状況だからだろうか。通話を切ってスマートフォンをテーブルへ置く。その画面を無視して店員を呼ぶボタンを押したところで思い直して再度スマートフォンをを手に取った。さすがに壁紙は変えるべきだろうか。シルバーの衣装を身にまとった彼が映る画面が、何かの拍子に見られてしまうかもしれない。写真フォルダから適当に画像を探しているところで障子が開く。
「お待たせしました」
「生ビール二つ。あと海鮮サラダと揚げ出し豆腐のトマトあんかけ」
「かしこまりました」
 注文品を復唱してから店員は去っていった。少し開けられただけの障子の向こうから冷たい空気が流れ込んでくる。今朝見た天気予報によると日付を回ったころから雨が降るらしい。場合によっては雪になるかもしれないとはきはきとした声で喋っていたはずだ。寒さのなか足早に俺の元へ向かう姿を想像して思わず口元がゆるむ。
 桜庭と会うのは一ヵ月半前に行われた医大の同期の大きな飲み会以来だ。正直あの場に彼が来るとは思っていなかった。幹事が誘っていたらしいが桜庭の返事は「行けるか分からない」という曖昧なものだったため、他の参加者をぬか喜びさせないためにわざと黙っていたそうだ。案の定忙しかったらしく桜庭が到着したころにはすっかり皆出来あがっていた。酔っ払い集団の中に芸能人になった同期が唐突に表れたものだから、それはもう大層盛り上がった。そんな中で俺一人だけがどんな顔をしたらいいのか分からなかった。それでも同期たちが作り出した大歓迎ムードと体内のアルコールが、スマートフォンから消えたはずの桜庭の連絡先をいつの間にか取り戻してくれていた。そして俺が勇気を出して送ったしょうもないメッセージが、桜庭のぽつぽつとした返事と繋がって、今日の約束に辿り着いた。酒が入っちまえば大丈夫だろうと思う反面、やっぱりどんな顔をすればいいのか分からない自分がいる。だけどそんな自分をよそに、桜庭はこの店まで辿り着いてしまうのだ。
「すまない。またせたな」
「気にすんなよ。誘ったの俺だし」
 そっと開いた障子から桜庭が顔を出す。すまないなんて言いつつもあまり表情は普段と変わらず涼しげに見える。過去の桜庭はそのせいで反感を買うことも多かった。けれども急いでマフラーを外しコートを壁のハンガーに掛ける桜庭の息が少しだけ上がっているのを見れば、彼が急いで来たことは明白だ。人間関係を円滑にするためのちょっとした演技と言うものを桜庭は知らない。覚えることが出来たならもっと生きやすいだろうにと思いつつ、そんなことを覚えてしまえば桜庭の周りにはもっと人が増えてしまうのだろうと考えると、今のままでいてほしいとも思ってしまう。
「失礼します」
 桜庭が座って一息つくと同時に店員の声がして障子が開く。ビールと料理を手際よく置き、一笑して戻っていった。
「適当に頼んじゃったけど」
 と言いつつ桜庭に視線を向ける。表情を見る限りどちらの料理も大丈夫そうだ。
「とりあえず飲むか」
 桜庭がジョッキを持ってこちらを見た瞬間、なんだかほっと肩の力が抜けたのを感じた。今日は楽しく飲める気がする。「おう」と一言返事をして、俺もジョッキを持ち上げた。
「乾杯」
「乾杯」
 二人だけの掛け声とともにガラスのぶつかる音がする。ぐいっと飲んでテーブルに置いて前を見ると、さっそく桜庭が取り皿片手に海鮮サラダへ手を伸ばしていた。
「他に食べたいものあれば頼めよ?」
 机の空いているところへメニュー表を開いてやる。桜庭は少食だから事前にたくさん頼んでしまうのは気が引けた。せっかく誘いに乗ってくれたのだから、せめて好きな物を食べてほしかった。
「俺腹減ってるから今日はそれなりに食うし」
「ん? そうだな」
 美味しそうにサラダを口に運びながらメニューへ視線を落とす桜庭を見ながら、俺は手持ち無沙汰にまたビールへ口を付け始めた。

 梅しそとチーズの鶏天ぷらを齧る桜庭を正面から見据えている。こいつこんなに食べたっけ?というのが正直な感想だ。アイドルになる前の桜庭は食事をおろそかにしていることも多かった。飲み会の時も酒ばかり口にしていたし、大学や病院にいたころも昼食を取る時間すら惜しんで勉強や研究に裂いているのを何度も見た。余ったら俺が食べればいいと考えていたにもかかわらず、頼んだ料理はほぼ均等に二人の腹に収まっている。以前なら俺の方が五割増しくらいで食べてたはずなのに、随分な変わりようだ。再開した飲み会でも「前より健康的に見える」などと言われていじられていた。こうして観察してみると体型だけではなく顔色や肌も目に見えてよくなっている。髪はもとから綺麗だったけど、それでもここまでの艶はなかった。それこそ栄養不足でもう少し細くてパサついていた気がする。他人の病気ばかりを気にしていた彼はもういない。そう考えると寂しくなった。けれども変わったところばかりではない。量が増えても食べ方が相変わらず綺麗なところ、会話の返事を考えるときに少し目を伏せるところなんかは昔と同じだ。それから服の趣味も殆ど変わってない。医者時代に来ていたブランドと同じものだ。ということはどうやら彼女は出来てなさそうだと思って先ほど冗談交じりに聞いてみたところ、「当り前だろう。僕はアイドルだぞ」と怒られてしまった。恋人作ってるアイドルなんてごまんといるだろうに、真面目なところも変わっていない。結局その話題はすぐに流れてしまった。他人からの変な勘ぐりも含めて自分の恋愛話は極力避けるところも、やっぱり変わっていなかった。
「そのとき天道がな、急に滑り台にものすごい速さで上りだしたんだ」
「うん」
「そしていきなり叫び出すんだ。まわりには子供連れやジョギングしている人が沢山いるにも関わらずだ」
 それでも変わったところばかり気になってしまうのは仕方がない。なかでも一番の変化は会話の内容だろう。同じ医大で学び、同じ病院に勤めていたころの会話に出てくる人物は共通の知り合いばかりだった。交友関係の狭かった桜庭と、人並みにコネや友人を作っていた俺ではそうなるのが当たり前だ。そして共通の友人であれば会話に出てくる情報はお互い既に友人から直接聞いていたり噂で耳にした後だったり、何にせよ「ああ、あの話か」と知っていて当然の会話ばかり繰り広げられていた。あいつが高校時代から付き合っていた彼女についに振られた。あいつがどこどこに移動になるらしい。今日俺が桜庭に言うたびに、桜庭は初めてそれを知り驚いていた。俺が日常的に知る当たり前は、とっくの昔に桜庭にとっての当り前ではなくなってしまったらしい。
 逆に今日桜庭の口から聞く名前の殆どはもちろん知っている。しかしどれもテレビや雑誌を通して一方的に知っている人ばかりだ。たまに出てくる表舞台に出てこない人の名前なんかは聞いてもぱっと分からない。桜庭にとっての日常的に知る当たり前は、やはり俺にとっての当り前ではなくなってしまった。
 桜庭の話を聞きながら相槌を打ったり笑ったりしていたところ、ユニットメンバーの愚痴を洩らす桜庭がふいに話を止めた。
「……すまない。面白くないだろう。知らない人の話ばかりで」
 突然桜庭がそう言って謝りだした。やはり寂しさという負の感情がにじみ出たらしい。環境の変化が寂しいだけであって別に話がつまらない訳ではないのだが、桜庭にはそうは映らなかったようだ。
「そんなことないよ。芸能人の裏話面白いし。あのひと特撮好きってよく言ってるし、あの仕事決まった時喜んだだろうなあとは思ってたけどそこまでとはなあ」
「天道が特撮好きなこと知っているのか」
「あれ? 結構いろんなところで言ってるよな?」
「そうではなくて、君が知っていることに驚いているんだ。君の口からアイドルの話題なんて聞いたことないぞ」
「ああ、そういうこと」
 確かに桜庭にアイドルの話しなどしたことはなかっただろう。俺が男性アイドルを意識しだしたのはそもそも桜庭が原因だ。そしてそのきっかけとなった桜庭がテレビに出だした頃、すでに俺のスマートフォンからは桜庭の連絡先は消えてしまっていた。
「お前がきっかけでちょっとハマってるんだよ。といってもライブなんかは行ったことないけど」
「そうだったのか。それにしても意外だな」
「本当になあ。俺もまさかこの歳でアイドルにハマるなんて思わなかったよ。しかも男性アイドル」
「ライブにも行けばいいだろう。多分ほかのユニットのライブでも男性ファンが見に来ているはずだぞ?」
「忙しいっつーの!」
 とっさに出た嘘は桜庭に気づかれなかったらしい。不審に思われないまま315プロのアイドルの仕事の話題へ移って言った。桜庭がきっかけなのは嘘ではない。多分そのへんの男より男性アイドルに相当詳しい自信もある。だけど別に俺はアイドルにはまっているわけではない。DRAMATIC STARSを中心に我が家に大量に増えた雑誌やCD、ブルーレイは決して他のファンが集めている理由とは全く別の感情が原因だった。そしてその理由は桜庭薫だけには絶対言えないことでもある。
 結局桜庭には男性アイドルにハマったという体で話を進めた。315プロダクションの面々の話題から桜庭の共演した別事務所のアイドルの話へと移っていく。彼らはテレビでは個人での活動が目立つアイドルグループだが、ライブでは激しいにも関わらず綺麗に揃ったダンスと凝った演出をウリにしている。去年行われたライブツアーのブルーレイの感想を語ったところ、随分と桜庭の興味を引いてしまったらしい。「他におすすめのユニットはないのか?」と喰いつかれたのでアルコールに任せて語っている間に気が付けば桜庭は我が家に来る気満々になっていた。
「うちのプロダクションのアイドルの仕事はいくらでも耳に入ってくるが、よそのアイドルまでは中々手が回らない。相当詳しい君のオススメなら見て損はないだろう」
 というのが桜庭の言い分らしい。会計をさっさと済ませて外に出た俺たちに吹き付ける風は随分と冷たかった。マフラーに口元をうずめた桜庭が温かい声で言った。
「君の家に行くのは久々だな」
「そうだなあ」
 返事をしながら必死で家の状況を思い出す。桜庭がよく来てたときほど綺麗ではない。五分だけ外で待っていてもらうことになるかもしれない。せめてそれまでは降らないでほしいと願いながら見上げた空はどんよりと雲が覆いかぶさっていた。
 
 ビールの空き缶、コンビニ弁当のプラスチック容器、それからシンクの傍に積まれているカップ麺の容器。これらを慌ててゴミ袋に放り込み、その袋をクローゼットに無理やり押し込む。
「五分! 五分だけ待っててくれ!」
 マンションの扉の前でそう頼み込むと桜庭は怪訝そうな顔をした。
「まあ、構わないが……」
 多分桜庭は俺の家が汚いなどとは微塵も思ってないのだろう。当たり前だ。そんなところ彼は見たことがないのだから仕方がない。逆にいえば見せるわけにもいかなかった。そして今でも見せるわけにはいかない。
「ごめん、おまたせ」
「もういいのか?」
「うん。寒かっただろ。ごめん」
「君は大袈裟だな。三分くらいしか待ってないぞ」
 そう言っている桜庭は鼻の頭が少しだけ赤い。可哀想な事をしてしまった。汚くて驚かれてもいいからさっさと入れてあげるべきだった。
 とにかく桜庭をリビングへ通すと、さっそくテレビ横の棚を興味深そうに眺め出した。この収納棚は最近買ったものだ。ついに増えすぎたアイドル関係のものをどこに置くかで大分悩んだ。結局テレビの横が一番だろうという結論に至った。リビングに堂々と置くのは正直気が引けたが、まあいいかと諦めた最大の理由は、見栄を張りたい相手がいなくなったことだ。
 その収納棚の一角を桜庭はじっと見つめている。上から二段目の右隅はDRAMATIC STARSのものが収められたスペースだ。
 そんな姿を尻目に俺は冷蔵庫の中身のせいで苦い顔をしていた。すっかり料理をしなくなったせいでろくなものが入っていない。最近ではカップ麺を晩飯兼つまみにしていた。散々食べた後だから簡単なつまみだけでいいはずだが、やはり居酒屋で聞いた話がどうしても頭を過る。俺だって料理は上手かったんだ。少なくとも桜庭の中では、今もその認識なのだろう。
 桜庭が棚に集注しているのをいいことに冷蔵庫や戸棚から食材を掘りだす。見つかった賞味期限以内かつ未開封品は瓶詰パスタソースとクラッカー。それと冷凍庫から細切りチーズが見つかった。クラッカーにソースとチーズを乗せてオーブンで1分半ほど焼く。トマトやベーコン、バジルでもあれば様になっただろうが、生憎今の俺の冷蔵庫にはそんなものは入ってなかった。
 なんとか作り上げたつまみの乗った皿と缶ビール二本を持ってソファまで行く。ローテーブルに置いた音を聞いた桜庭はハッとして、自分たちのCDの背を撫でるのを辞めて視線を棚全体へ巡らせた。
「さっき言ってたのはこれのことか」
 キッチンに立つ俺に向かって桜庭が紺色を基調としたライブブルーレイのケースを見せる。先ほど居酒屋で話した、去年のライブツアーのものだ。
「それそれ。本当は古い順に見ていくのがいいんだけどなあ」
 そもそもそのツアーの映像ですら一晩で見終わるのは無理だ。桜庭はスリーブケースのデザインや後ろのクレジットを数秒眺めてから中身を取り出し、同封されているブックレットをぱらぱらと眺め出す。ディスクを受け取って再生できるようにセットし、二人並んでソファへ腰をかける。
「スタートしていい?」
「ああ」
 返事と一緒にプシュっとプルタブが開く音がする。俺もリモコンを置いて缶ビールを持ちなおした。

 ライブ円盤っていうのはもっとこう、楽しそうに見るものだと思う。横から盗み見た桜庭の顔は真剣そのものだ。同時に懐かしくも思う、医学書や論文を見ていた表情となんら変わらない。当時と変わらず周囲も時間も気にならなくなってしまうのだろう。
「お前さ、どこまで見るの?」
 俺の質問に首を傾げて返してきたので時計を指差してやる。テレビの斜め上に掛けられた時計は23時を過ぎていた。
「あとどのくらいあるんだ?」
「2時間ちょっとくらい」
 残り時間を聞かされた桜庭は、顎に手を当てて無言で時計を見たままだ。最後まで見る、借りて帰る、また来る。恐らく頭に浮かんでいる選択肢はこの三つだろう。
「……泊ってく?」
「……いいのか?」
「俺はいいよ。休みだし」
 いいのかなんて聞かれたのは何年振りだろう。少なくとも医者を辞める直前の桜庭は当たり前のように泊っていた。その当たり前は既に桜庭の中から消えてしまったらしい。
「君には甘えてばかりだな」
「別にいいだろ。一応年上だしな」
 そんなことを言われたのは初めてだ。当たり前のように俺に甘やかされていた桜庭はもういない。優しく笑ってくれたにもかかわらず、その事実がとにかく寂しかった。

 洗面所で稼働しているドライヤーの音だけが聞こえる。桜庭が風呂に向かったときにライブ映像を止めたからだ。入浴によってもたらされた脱力感と、変化のない微量な音は俺の眠気をゆっくり誘っている。急に疲れていることを実感した。いつも以上に忙しかった上に、桜庭に会うために普段では考えられない早さで仕事をこなしたせいだろう。
 突然肩を叩かれて自分の瞼が跳ねあがる。いつの間にか完全に閉じてしまっていたようだ。ドライヤーの音が止んだことも、桜庭がリビングに戻ってきたことにも気付かなかった。
「君まで付き合ってくれる必要はない。眠いんだろう?」
 黒いハイネックにジーンズを履いていた桜庭は、俺の貸したスウェットへ着替えていた。
 両手で目を擦りながら、ぼやけた頭で考える。俺が居てもいなくても桜庭はこのまま映像を真剣に見続けるだろう。重要なのは俺の意思のみである。ローテーブルには大量の缶が乱立していた。その殆どは俺が空けたものだ。明日の起床時間と今日の疲労具合、そして飲酒量を考えると、このあたりが限界だろう。
「……先に寝るわ」
「ああ。おやすみ」
 寝室でベッドに倒れ込んだ数秒後、俺は今日の天気予報を思い出した。引っ張り出した毛布を片手にリビングへ戻り桜庭に渡す。
「机は片付けなくていいから」と桜庭に伝えて再度寝室へ戻り、ベッドに倒れ込む。そのまま意識が遠のくまで、一分もかからなかった。

 意識が浮かんですぐに自分の口から「寒い」という声が出た。どう考えても暖房が付いていない。オイルヒーターのスイッチに向かってベッドから必死に手を伸ばす。なんとか中指で触れるとピッと音がした。暗い部屋の中でヒーターの電子パネルだけが光っている。やはり付いていなかったらしい。付けたところで寒さは変わらない。オイルヒーターは安全な変わりに即効性に欠ける。頭痛と胃の気持ち悪さを感じながら窓を見たが、遮光カーテンの隙間からは光は射していない。寝過してはいないようだと安堵しつつも時間を確認するためにスマートフォンを探す。バタバタと枕元や布団の中を叩いてみるがスマホは見つからなかった。俺は諦めてベッドを抜け出し、ドア横のスイッチを押して電気を付ける。それと同時に桜庭と目があった。壁に貼ってあるポスターの中の桜庭とである。その横の時計は3時過ぎを指していた。
 変なポスターだなと見るたびに思う。桜庭がこんなポスターになっていることも、そしてこの寝室に飾られていることも、それを未だにおかしいと感じる俺も、全てが変なのだ。そしてその変な空間であるこの部屋のすぐ近くの居間に、これまた変な事に桜庭薫本人がいる。
 寝室になければリビングだろう。俺はスマートフォンを探すという大義名分のもと、居間へと足を運んだ。
 リビングの電気は付いたままだった。テレビにはライブブルーレイのメニュー画面が映しだされ、その向かいには背を倒したソファベッドに桜庭が毛布にくるまって眠っている。その間のローテーブルの上にはアルミ缶が乱立したままだ。
 その様子が懐かしく思えて、俺はローテーブルとソファベッドの間の床に座り込んだ。片手でテーブル上の空き缶を順番に掴んで軽く振っていく。3つ目で半分ほど残っている缶に当たったので口を付ける。数時間暖房の効いた部屋に置いてあったビールは案の定ぬるい。決して美味しくはないそれを呑みながら桜庭の寝顔を覗き込む。
 桜庭は昔もよくここで身を縮めて眠っていた。可哀想だからと普通のソファからソファベッドにわざわざ買い換えてやったにもかかわらず、彼は何故か縮こまって眠るのだ。俺の家のリビングで桜庭がそうして眠るのは当たり前だった。
「アイドルになる」などと言いだすまでの話である。

 浪人して必死に医大に入った俺が初めて桜庭を見たのは入学式当日、新入生代表として壇上で挨拶をしている姿だった。堂々とした足取りで壇上まで歩いていった桜庭が正面を向いたとき、どこからともなく黄色い歓声が上がったのを覚えている。
 容姿端麗、成績優秀。入学早々桜庭の周りにはたくさんの人が集まった。そして早々に散っていった。サークル勧誘、飲み会の誘い、講義が終わったら遊びに行こうよ――。桜庭はその他諸々全てを断った。それもただ断るだけではない。「君は何のために大学に来たんだ」というニュアンスの含まれた言葉とともにきっぱりと断っていった。
 俺はその様子を横目で見ていた。
 相当真面目だと周囲に認知されたころ、また少し人が集まりだした。不真面目な人間たちだっだ。代返してくれる楯突かない人や優秀なノートのコピーを常に探している人間だ。
 そして「君たちは何をしに大学へ来たんだ」というニュアンスの言葉しか寄越さない桜庭から、その殆どが離れていった。
 やっぱり俺はその様子を横目で見ていた。
 諦めない奴もいた。しつこく絡んでノートのコピーだけでも引き出そうとする奴らだ。それでもキツい言葉しか渡さない桜庭相手に彼らはついに暴力という手段に出ようとした。俺たちが大学で初めての定期試験を迎える少し前のことである。
 俺はその様子を横目で見ているわけにはいかなかった。
 親から貰った高い背と、浪人時代にハマった筋トレが役に立った瞬間である。
 桜庭と親しくなるのは簡単だった。
 危ないから、と理由をつけて隣にいる。後は桜庭の邪魔をしない。そうしているうちに見えてきた生活感の無さを横からちょっと補ってやる。これだけだった。
 一年生の夏季休暇には、当たり前のように泊まりにきていた。ソファを買い換えたのもその頃だったと思う。
 医者になってからも当たり前のように面倒を見てきた。夕食も食べようとせず病院で論文や臨床データと向き合っている桜庭を家へ引っ張って帰ることも珍しくなかった。好みの物さえ作ってやればきちんと食べたし、沸かしてやれば風呂も入った。ただ髪を乾かず行為だけは度々書物に負けていた。そんなときは俺が後ろから乾かしてやった。
「医者は辞める。僕はアイドルになる」
 そう桜庭が言い出したとき、寝言は寝て言えと本気で思った。歌が上手いのは知っていた。だけど何曲も踊れまい。その上笑顔を振りまくなど、天地がひっくり返っても無理だろう。第一芸能界など生き抜けまい。人間関係はどうするつもりだ。おべっかの一つも使えないくせに。同期ですら俺がクッションになっていることを分かっていないのだろうか。
 無理だ、と完全否定する俺の話を桜庭は聞かなかった。辞表も出した、今月いっぱいで辞める、事務所も決めたと言ってきかない。315プロダクションなど聞いたこともない。喧嘩は平行線の一途を辿った。
「やれるもんならやってみろ」
 結局俺のその言葉で喧嘩は打ち切られた。
 桜庭と会わなくなっても、最初のうちはなんとも思わなかった。どうせすぐ帰ってくるだろうと余裕かましていたのだ。
 しかしいつまで経っても帰ってこない。かといってメディアで見かける訳でもない。痺れを切らせてネットで調べてみた。辿り着いたネットニュースに載っていた一枚の写真。ライブ中の物だろう。その写真を見たときの衝撃を俺は今でも忘れられない。何年も一緒にいたにもかかわらず、俺はこんなにも楽しそうな桜庭を初めて見た。俺の知っている桜庭薫はもういない。そして帰ってくることもない。
 一瞬で浮かび上がった考えを肯定することが出来なかった。感情は情報で打ち消せばいい。俺の家には瞬く間にCDやブルーレイを初めとした男性アイドル関係のものが増えた。DRAMATIC STARSだけではなく、比較対象となる新人男性アイドル全般だ。そしてそのどれもが完全なる否定材料にはなり得なかった。
 気づいたところでどうしようもなかった。連絡先は消してしまったし、家に押しかける訳にもいかない。第一、まだ同じところに住んでいるのかすら分からなかった。
 テレビで見かけるようになったのは、それから暫くしてからのことだった。
 未練がましく情報を追いかける俺に、桜庭薫及びDRAMATIC STARSは着実な成長とその伸び代を見せてくれた。否定材料が増えて行くのと比例して、俺の部屋と食生活は悪化していった。そして典型的な「ダメな独身男性」となった辺りで訪れたのが、例の飲み会だったのだ。

 眠っているのをいいことに桜庭薫の髪へ手を伸ばす。明らかに昔より指通りがよくなった髪を数回すくように撫でてから、目尻、頬、顎の輪郭へと手を滑らせていく。
 桜庭がここにいるのも後数時間だ。再度訪れる保証はどこにもない。
 左手に持った缶の中身を煽るように吞み下す。温いビールは喉を通ったのち、胃の中に残ったままのアルコールと混ざり合う。吐き気すら催しそうなほどに不快だ。
 缶を床に置いて両手で首に手をかける。
 握力しかかけていないにも関わらず、俺の指はしっかりと桜庭の首に食い込んでいた。腰を浮かせて真上から覗き込む体勢を取る。上から体重を掛けようとした瞬間、呻き声と共に桜庭の目が薄く開いた。噛み合った視線は俺の握力を抜いた。咳込む姿から顔を逸らす。視線の先には、ローテーブルに置かれた俺のスマートフォンがあった。光る画面は迷惑メールの受信通知と共に、シルバーの衣装を身に纏った桜庭が映し出されていた。そっと手に取って居間から出て行く。
 玄関の扉を閉めるまで、咳込む声は消えなかった。

 壁、扉、床、天井。全てが白を基調としているこの空間を、白い白衣を着て歩く。入院室ばかりが並んでいるため廊下には人が少なく、外来のある階と比べてとても静かだ。故に突きあたりを曲った先にいるであろう人物の声が微かに聞こえてくる。
「……ってもう……いでしょ」
「……らばせんせいが……」
 桜庭先生という名前が聞こえて足を止める。忍び足で曲がり角まで歩いていき、耳を欹てる。
「でもさあ」
「あんたの気持ちは分かるよ。でも居ないものは居ないんだから」
「そうだけどさ」
 会話を聞きながら思わず眉を顰める。未だにそんなことを言っている奴がいるのか。桜庭などとっくの昔に出ていったじゃないか。
「なにも絞め殺すことないでしょ」
「はあ?」
 盗み聞きしていたことも忘れて口から声が漏れる。絞め殺したとは何だ。誰が? 俺が。いや、俺は殺してない。
 唐突に全身に不快感を覚える。まるで冷や汗で全ての衣服が貼りついたみたいだ。同時にやって来た寒気に足が震えるのが分かる。
「ちょっと!! お兄さん!!」
 声とともに左肩が掴まれて揺すられる。その衝撃が思考と感覚から俺の意識を現実へ引き戻した。
 全身ずぶぬれで背中が固い。何故か仰向けで寝そべる俺の真上から、黒い布地と細い金属を背景に知らない男が覗き込んでいる。
「意識あるね。起きられるかい?」
 真上から覗きこんでいた男が少し左へとずれると、俺の顔面に大量の水が降り注ぐと同時に、雲に覆われた暗い空が現れる。俺は手を着いて起き上がろうとしたが、左右にそんなスペースはなかった。何度か空振りしつつもぞもぞと上半身だけ起き上がる。降り注ぐ雨は冷たく、周りは暗い。そして頭が割れるように痛い。状況から察するに俺が寝ていたのは屋外のベンチだろう。
「体に異常はない?」
「……はい」
「ただの酔っ払いかな」
「……たぶん」
 男と会話しながらベンチへきちんと座り直す。凍えるように寒いにもかかわらず胃のあたりが熱と不快感を主張してくる。
「とりあえず身分証明書ある?」
 ごそごそとズボンのポケットを漁る。スマートフォン以外には何も入っていなかった。
「ないの? お兄さん名前は? あと住所も」
「……ここどこですか?」
「いいから名前は? 何してたの?」
 先ほどからの疑問を口にするも男は答えてくれなかった。どうしたらいいかよく分からず目をぎゅっと瞑って考えてみようとしたが、胃の不快感と寒さと頭痛で頭が上手く回らない。さらに額に手を当てたところで少し遠くから声が聞こえた。
「すみません」
 男の後ろから傘を差した桜庭が駆け寄ってくる。声と足音に気付いた男は振り返った。
「はい」
「彼は僕の友人です。不審者ではありません」
 不審者、という単語が不透明な頭に引っ掛かる。男は俺を置いて桜庭と会話をし出した。そっちの方がよほど話が通じると判断して切り替えたのだろう。雨音のせいで二人の会話は意識しないと聞きとれそうもない。聞く気も起きないので俺は足元にあった白いビニール袋の中を覗いた。大量の空き缶は全て酒だった。明らかに俺が一晩で飲める量を超えている。再度二人に視線を移してやっと気付いた。特徴的なぼうしにかっちりとしたシルエットの服。そしてその両方がこの暗闇に解けそうな濃紺。どう見ても警察である。
 警察は暫く桜庭と話した後、ちらりと俺の方を見た。そしてまた桜庭に向き直ると何かを言って去っていった。
 警察を見送った桜庭は俺の正面まで来た。右手で傘を差しており、反対の手には閉じられた傘と、白い布と黒い布が掛けられている。
 目の前で中腰になった桜庭が傘を開いて差し出して来たので無言で受け取る。白い布を頭から掛けられた。大判のタオルだった。黒い布が掛けれたままの左手でがしがしと頭を拭かれる。
「立てるか?」
「……ああ」
 俯いたまま立ち上がった俺に今度は黒い布を差し出して来た。広げてみると俺のコートだった。少し迷ったがびしょ濡れの袖を通すのが嫌で肩から掛けるだけにした。桜庭はその一部始終をじっと見ていた。
「帰るぞ」
「……」
 俯いたまま無言でいた。向かいから小さな溜息が聴こえる。そっと伸びてきた左手が俺の手首をつかむ。跡なんか絶対残らないほど優しかった。
「帰ろう」
 そのまま桜庭に手を引かれる形で俺たち二人は歩き出した。ずぶ濡れの服とその上に掛けたコートが重かった。前を歩く桜庭はベージュのコートの上にきっちりとマフラーを巻いていた。

「風邪をひくぞ」と到着早々脱衣場へ押し込まれた。張り付いた衣服を引き剥がして洗濯機に放り込む。洗濯機の上にスウェットが畳んで置かれている。桜庭に貸したやつだろう。風呂場へ移動して蛇口を回し、シャワーの温度が上がるのを少し待つ。温かくなったのを確認して頭から浴びると生き返った心地がした。目覚めてから今まで心も身体もまるでゾンビのような感覚だった。体温が上がって行くとともに「戻ってきた」という感覚が広がっていく。家に、日常に、少しずつ戻っていく。桜庭はここに来るまで何も言わなかった。
 体温が完全に戻りきったところでシャワーを止めて脱衣場へ出る。棚からタオルとスウェットを取り出して、体を拭いて着る。そしていつもより丹念に髪を拭いた。桜庭はまだ居るのだろう。家主に無言で帰るような奴じゃない。外へ出るのが怖かった。それでもあまり待たせるのは悪いのでドライヤーをかけるのは諦めた。

 居間に戻るとローテーブルの上におにぎりとパン、そしてインスタントのカップスープが置かれていた。その横には向かいのコンビニの袋が置かれていた。
「食べられるか?」
「スープだけ貰うわ」
 桜庭がコーヒーカップを両手にキッチンから歩いて来る。ローテーブルにカップを置いて再度キッチンに戻り、電気ケトルを持ってきた。コーヒーも朝食も俺が用意していた。豆から挽いていたし朝食は勿論手作りだった。今となってはもう昔の話だ。
「今日も仕事だろう」
「いつも通り7時からだな」
「なら長居すると悪いな」
 隣の桜庭がパンを食べながらそう言った。服装は黒のハイネックに戻っている。正面のテレビではライブブルーレイの再生画面が表示されたままだった。

 玄関で桜庭と向かい合うのは初めてかもしれない。少なくとも俺の記憶には無い。一緒に家を出るのが当たり前だった。
「きちんと仕事に行くんだぞ」
「分かってるよ」
 返事をしながら俺は自称気味に笑ってみせた。サボる気は無かった。せっかく桜庭が連れ戻してくれたのだ。
「ああ、服は洗濯機の上に置いておいた」
「知ってる」
 暫く無言で向かい合う。桜庭も察しているのだろう。何か言いたげに口を開いては、言葉にならずに噤んでいる。
「お前も仕事だろ? 遅刻するぞ?」
「……そうだな」
 その言葉に背中を押されるように桜庭は玄関のドアを開けた。
「じゃあな」
「おう」
 桜庭がドアの外に消えていく。ガチャリと完全に閉まったのを確認してからポケットの中のスマホを取り出した。ロックボタンを押すと何故か電子マネーの利用通知が表示されている。アプリを立ち上げて時間と店を見る限り、公園に行く前に買ったのだろう。足元の空き缶の出所はこれかと納得する。そういえば財布は持ってなかった。
 こんなしょうもないことはどうでもいい。直ぐに連絡先を開いて桜庭薫の項目を消した。桜庭は「またな」とは言わなかった。俺も言わなかった。つまりはそういうことだ。
 居間に戻ってブルーレイディスクを入れ替える。家を出るまでまだ少し時間があった。
 太陽に近づきすぎた英雄は蝋で固めた翼をもがれ地に落とさせる。
 では星に近づきすぎた凡人は? そもそも羽根も無いのにどうして側に近づけたのか?
 多分奇跡だったのだ。俺の隣という場所に居たこと自体が奇跡で、本来いるべき場所は最初から手の届かない場所だった。
 もう隣には居ないけれど、迷子の夜には光で道を正してくれる。それだけでもう十分なのではないだろうか。
 液晶画面の中で桜庭が笑う。実物はとっくに帰っていった。俺ももうすぐ着替えて出なければならない。
 ありがとうと呟いて画面を消した。
 次のソファは何色にしようかと考えながら。