天体観測日記

 滑り落ちた日記帳を慌てて受け止めようと手を伸ばす。掌に一度当たったその日記帳は音を立てて床へ落ちた。予想外になってしまった大きな音に自分自身が驚く。隣の部屋で眠る天道は起きてはいないだろうか。日記帳の狭間から滑り落ちた複数枚のメモが床へ散らばる。散らかった部屋で僕は一人、静かに立ち尽くしていた。
 天道と同棲を初めて1年が過ぎた。ソロの活動も多いことから、寝室は別で用意している。実際に僕たちの読み通り、就寝時間が異なる日は数え切れないほどあった。天道が先に眠っている日も、僕が眠るより後に帰ってくる日も、特別珍しいことではない。
 一緒に暮らし始めて初めて気がついた事だが、天道は筆まめだ。彼が僕より早く寝る際、もしくは天道が僕より遅く起きる際、彼はよくメモを残していく。そのメモの殆どが夕食、もしくは朝食と共に添えられており、特筆すべき内容が添えられている訳では無い。
 そんな意味も無いメモを日記に挟むようになって半年が過ぎた。僕が不注意で落としたせいで、集めたメモたちは床へと散らばっている。
 僕は小さなため息を一つつき、メモを一枚一枚拾うことにした。
【お疲れ様! 麺つゆかけてそのまま食べろよ!きしめんは名古屋市民の心を抱きしめん!! なんてな!!】
 最初のメモは簡単だった。僕と天道が同棲を始めてから名古屋で行ったライブは一度しか無い。5月7日。この日に僕が書いたページを開いてみる。
『今日はグリーティングツアー名古屋だった。ソロ曲は何度歌っても緊張する。終盤で2人を感じた瞬間の安心感は、きっと一生忘れない。3人揃ってDRAMATIC STARSと最初に言ったのは誰だったか。もしかしたら、一番実感しているのは僕かもしれない。』
 日記帳にメモを一枚挟み込み、僕は新しいメモを拾い上げた。
【お疲れ様! 明日は6時からニュースの生撮影があるから先に寝るからな !  桜庭が淋しいなら俺の部屋においで】
 手元のメモを暫く見つめる。内容から察するに、恐らくムーンナイトのせいにしての発表付近だと思われる。僕は日記帳を捲りながら、目当ての日付付近を読み直した。
『今日はDRAMATIC STARSのワンマンライブに向けた最後の練習だった。新曲であるムーンナイトのせいにしても今日が初披露となる。DRAMATIC STARASどころか、315プロダクションとしても初のラブソングになる。ファンに受け入れて貰えるだろうか。ダンスも既存の曲より激しい。不安は決して少なくは無いが、きちんと仕上げたつもりだ。ファンの満足を通り越して、期待以上のステージを披露して見せよう。』
 日記帳にメモを一枚挟み込み、僕はまた新しいメモを拾い上げる。
【ただいま。朝早いんだろ? 早く会いたいけど、夜までお預けだからこっそり寝顔だけ眺めさせてもらうな。夕食は買ってきた美味しい食材をふんだんに使って作るから、まっすぐ帰ってきてくれよな! 追伸 蒼い恋人は無かったから、お土産はこれで勘弁してくれ。】
 蒼い恋人という謎の単語に、誰が見ているわけでもないのに思わず一人首を傾げる。少し悩んだが、前半の内容のおかげで思い出し、ページをめくる。
『やっと天道が帰ってきた。ツアー初日の北海道は大成功に終わったようだ。少し前までは当たり前だったはずなのに、自分以外の気配が無い家は随分と物寂しかった。勿論本人には伝えなかった。次々出てくる海鮮料理に、何をしに行ってきたのか問い詰めたかったが、美味しかったのでよしとする。でも土産が白い恋人なのは芸が無さ過ぎでは無いだろうか。』
 日記帳にメモを一枚挟み込み、僕は新しいメモを拾い上げてはページを捲る。繰り返していく内に床から少しずつメモが消えていく。日記を落としてから十数分、僕はやっと最後の一枚を拾い上げた。
【冷蔵庫に冷しゃぶがあるから食べてくれよな! 夕方からの練習楽しみにしてろよ? 今回のダンスはかなり自信あるからさ。終わったら3人でファミレス行こうぜ。先月から始まった期間限定のマンゴープリン食べたいからさ】
 今日このメモを読むのは2回目だ。1回目は先ほどリビングで読んだ。パズルのようなメモ整理がひと段落ついたところで、新しいページを開きながら机に向かう。ペンを手に取ったところでふと思い立ち、引き出しから手のひらサイズのメモ用紙を抜き取った。
【ごちそうさま。さっぱりしていて悪くなかったが、リビングの机にごまだれが出てたが僕はポン酢派だ。あとデザートは食べ過ぎるなよ。柏木だけじゃなく君の体重管理までするつもりは無いからな。】
 書きあがった文面は必要性も可愛げも無かった。暫く眺めて考えたが、捨てるのも癪なのでリビングの机へそっと置いてきた。天道を起こさないように静かに部屋へ戻り、いつものように手短に日記をつける。
 書きあがったページへ天道のメモを挟んで閉じる。挟んだ数だけほんの少し膨れ上がった日記帳を本棚へ戻し、さっさとベッドへ潜り込むことにした。
 寝不足を理由に情けないダンスなど見せられないし、僕だってまだマンゴープリンは食べていない。こんな夜は、さっさと眠ってしまうに限る。冷たいほど静かな夜も、朝が来ればいつも通り、賑やかな日常へと姿を変えるのだから。

なんでもない夜

 やんわりと覚醒した意識の中に肌寒さを覚えて、シーツを口元まで引き上げる。まだまだ日中は日差しが強いが、深夜から朝方にかけてはだいぶ冷え込むようになってきた。それにしても寒すぎるだろう。ぬくもりを求めて伸ばした腕が何も掴まずシーツへ沈んだ瞬間、僕は恋人が隣にいないことに気がついた。寝ぼけていた意識が少しずつ覚醒していく。
「……柏木?」
 読んでみても返事はない。家の持ち主はどこへ行った。肌寒さと心細さから、僕はゆっくりベッドから抜け出し、床から寝巻を拾い上げた。

 真っ暗の廊下に僕の履いているスリッパの音だけが聞こえる。辿り着いたリビングのドアを開けると、奥のダイニングキッチンだけが光っていた。その中に一人、家の持ち主がいつもより少し背中を丸めて立っていた。開いた扉に気づいたぼくの恋人は「あっ」と小さく声をあげて、手に持ったカップ麺とこちらを交互に見返したのち
「見つかっちゃいました」
 と憎めない表情でほほ笑んだ。
「また太るぞ」
 溜息の後に口から出た言葉は批難だったが、怒りの感情は一つも沸いていない。実年齢より子供らしく笑う恋人をかわいらしく思いながらリビングの電気のスイッチへと手を伸ばしていた。

「やっぱり薫さんも食べましょう」
 深夜にカップ麺など食べたことがない。そう話した直後、柏木はお湯の入ったカップ麺を片手にもう一度キッチンへ戻った。戸棚からお椀を取出した後、容器の中身を解すように混ぜて少しだけ取り分ける。カップラーメンの容器とお椀、そして箸と弁当用の少し小さなフォークを持って僕の座っているリビングのソファまで戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 隣に腰かけにこやかに差し出されたそれを手に取る。少量のカップラーメンと小さなフォークはまるで幼稚園児にでも分け与えるかのごとくこじんまりとしていた。たしかに一人では食べきれないから二つ目を作る必要はないと断ったのは自分だが、幼子扱いされているようでほんの少しだけ気に障る。そんな僕の心のうちなど知らない柏木は笑顔でこちらの顔を覗き込んだままだ。自分のカップラーメンに手をつける様子はない。おそらく先に食べろということなのだろう。柏木に見つめられたまま、一口分すくい取り口へ運ぶ。
「……美味しいですか?」
 味など変わるわけがない。それでも、期待するような眼にそんな言葉を告げられるわけもなく
「確かに普段と味が違う気がしないでもないな」
 などと曖昧ながら好意的な返事を返せば、ほんのり含んだ嘘など吹き飛んでしまうような柔らかな笑顔が返ってくるのだった。

 箸を付けてからほんの数分。既に麺など食べ終わり、容器に口を付けてスープを飲む柏木の横顔を眺めていた。
「美味しかったか?」
「はい。でも、あれですね。深夜だからっていうのありますけど、薫さんと一緒だからもっと美味しかったです」
 普段は表情豊かなくせにこういう言葉を言う時に限ってそのままの顔でさらりと言い放つ。こちらばかり赤面するのが腹立たしく、ごまかすように顔を背ける。
「味なんてそう変わらないだろう」
「薫さんもさっき美味しいって言ったじゃないですか」
「別に美味しいとは言っていない」
 くすくすという笑い声と髪に触れてくる手がくすぐったい。しかし決して嫌なわけではない。振りほどかずそのまま好きに撫でさせていると満足したのか、柏木は手を話して立ち上がった。
「そろそろ歯磨きして寝ましょうか」
「……そうだな」
 僕も続けて立ち上がったのを確認して、柏木は一歩早くキッチンへ向かって歩いていく。どうせ数分後には同じベッドで眠るのに、離れてしまった手が恋しくて後ろからそっと手を握る。柏木は一瞬だけ驚いた顔をして振り向いたが、すぐに柔らかい笑顔に戻って握り返してくれる。茶化さず優しく受け入れてくれる態度が何より心地いい。
「朝ごはんは何にしましょうか」
「君の好きなものでいい」
 夜食を食べた分朝食を減らす発想はおそらく持ち合わせていないだろう。また油断して太らないことを祈りつつ、こんな穏やかな時間のためなら少しの夜食は許してやろう。そんなことを思ってしまうほどには柏木に惚れ込んでいる自分に気付いたが、しっかりと握り返された手と二人きりのこの空間が、そんな甘い感情さえ包み込んでくれていた。

事務所での一コマ

 おぼつかない手で棚から器具を出す桜庭のまるい後頭部から、一房だけが流れに逆らって外側に跳ねている。
 ぴょこぴょこさせながらここまで来たのだろうか。体の動きに合わせて揺れる髪も含めて、見慣れない姿がなんだかとても愛おしい。片思い相手の寝起きに等しい姿を見る機会はなかなか無い。事務所の仮眠室から出てくるところは何度も見ているが、ここまでぼんやりはしていない。きっと朝限定なのだろう。そう考えるとなおさら希少性が増す気がした。
 桜庭がやってきて早々に「コーヒーなら俺が淹れてやろうか?」と申し出てみたが、あっさり却下されてしまった。引き下がったものの、気になって眺めていたら案の定動作がいつもの二倍ほど遅い。そして両手でゆっくり作業しているにもかかわらず、普段の桜庭からは想像できないほどにおぼつかない。
「なんだか手元がおぼつかなくてヒヤヒヤするぜ」
「コーヒー一杯で、なにを大げさな……」と反論しながら桜庭がミネラルウォーターをやかんに注いでいく。はたして今のこいつに熱湯を扱わせていいのだろうか。なんとか座らせて代わりに俺が淹れる方法はないだろうか。そもそもなんでこいつはこの状態で事務所まで来たのだろう。ここに来る前にコンビニも自販機も沢山あったはずだ。缶コーヒーが嫌だとしても、コーヒーチェーン店だってとっくに営業している時間だ。そんなことすら思いつかないレベルで頭が回っていないのだろうか。
 不安でいっぱいになりながら見守っている間に桜庭は水を入れ終えたらしく、やかんを火にかけて、フィルターをゆっくりセットしている。
「なんで君はさっきから僕の周りをうろうろするんだ」
「いやだって……本気で危なっかしいんだよ」
「別に壊したりしないぞ」
 しゃがみこんで棚をごそごそと探しながら桜庭が呟く。確かにここにある器具は初期のころに俺が持ち込んだものだ。高価なものではないし、そもそも器具の心配はしていない。
「豆はそっちじゃなくて上の棚だぞ」
「……分かってる」
 小さく呟いてから桜庭はゆっくり立ち上がって、上の棚をまたごぞごぞと探す。お前絶対分かってなかっただろ、と口に出して言いたいが、どうせ反論が飛んでくるだけなので我慢する。
 やっと見つけた桜庭が計量スプーンでばさばさとフィルターに中細挽きになっている豆を入れていく。
「どう見ても入れすぎじゃないか?」
「どう見ても適量だろう」
 いや、多い。その半分で充分なはずだ。そう口に出す前に桜庭がまたふらふらと何かを探しだした。
「ん、砂糖はどこだ。ああ、これか」
「ちょっと待った! それ、塩だぞ……!」
「ん? なら、こっちか」
 桜庭は平然と塩を離し、隣の容器に持ち替えてカップの横へ置く。そのままコンロの火を止めて、やかんの中の湯をドリップ用のポットへ移し替えようとする。
「大丈夫か? 溢すなよ? 危ないからな?」
「分かってる」
 満たされたポットからフィルターへ少しだけフィルターへ注ぐ。蒸らしている間に桜庭は冷蔵庫の扉を開けて未開封の牛乳を持ってくる。そして開け口の反対側を首を傾げながら引っ張っている。
「反対だから。開け口こっちだぞ」
 横から手を出して牛乳パックを回転させる。すると少し遅れて桜庭の顔も回転してこちらを向く。
「天道」
「なんだよ」
「うるさい。邪魔だ。あっちに行ってろ」
 寝起きでも言葉のキツさは相変わらずらしい。そんなことを考えていて反論の言葉に詰まっている間に、ぐいぐいと肩や背中を押されて応接スペースまで追い出されてしまう。
「だって危ないだろ!」
「危なくない。むしろ周りをうろつかれる方がぶつかる可能性が高まって危ない」
 ぶつかりそうになったら俺がきちんと避けるに決まっている。少なくとも今の桜庭に一人で熱湯を扱わせるより幾分マシだと思うのだが、桜庭本人はそうは考えてくれないらしい。おそらく毎日自宅で同じ作業をしているせいだろう。そこまで思考して、本気でこの男が心配になった。毎朝こんな危なっかしいことをしているのか。
「いいから座っていろ」
 ソファの前まで綺麗に逆戻りさせられたところで桜庭はそう言い放ち、パーテーションの反対側へと姿を消してしまった。仕方なくパーテーションを眺めていると、磨りガラス越しの人影の動きに合わせてポットやカップの音が聞こえる。
 拘束されているわけではない。よってまた桜庭の傍に戻ることは別に容易に出来ることだ。しかし仮に戻ったとして、また怒られるのがオチだろう。
 火傷しませんように。カップを割りませんように。牛乳をぶちまけませんように。
 仕方がないので祈ってみるが、こんな願いに耳を傾けてくれる物好きな神様がいるとは思えない。かといって俺自身ではどうすることもできないので、ひたすらパーテーションの前をうろうろするほか無かった。

 読みかけの文庫本が突っ伏されたローテーブルと無人のソファを背後に不審な動きをすること数分。仕切りの反対側から現れた桜庭の手にはきちんとコーヒーカップが持たれていた。
「ほらみろ。ちゃんと出来ただろう」
 少し得意げな顔をした桜庭は俺を通り越し、ローテーブルに伏せられた文庫本の横に小さな音を立ててカップを置いた。そしてその向かい側にさらにもう一つ、同じカップをことりと置いた。
 桜庭はそのままソファに座りこんで再度カップを持ち上げた。二つ運んでいた先ほどとは違い、両手で包み込むようにして口元へ近付ける。口を付ける前に、驚いて桜庭を凝視している俺に気がついたらしい。こちらを向いた桜庭の顔が、視線が合わさったまま左へ傾いた。
「何だ?」
「いや、なんでもない」
 やかんに入れたミネラルウォーターも、フィルターに入れた豆も、やけに多いとは思っていた。しかし俺の分も淹れてくれる、という発想はなかった。それこそ俺の読みかけの本の隣に置いてくれるまで、何故二つもカップを持っているのかよく分かっていなかった。
 驚いたままソファに座り、上からカップを覗きこむ。普段飲むより少しだけ優しい色をしたそれを見つめていると、また桜庭が話しかけてきた。
「朝からブラックは胃に悪いからな」
「そっか」
 嬉しさを噛み締めながら口に含む。ほんの少しのまろやかさはあれど甘みはなかった。俺がブラック派なのを分かっていて最小限のミルクのみに留めてくれたのだろう。
 俺の分まで用意してくれたうえに体の気づかいまでしてくれている。それだけの思考能力はあるはずなのに、なぜ桜庭の髪は跳ねているんだろうか。
 重力に逆らう一房の髪を揺らしながら、ゆっくりコーヒーを飲む姿は可笑しい半面、それ以上にかわいらしい。
「君、今日はおかしいぞ」
「おかしいのはお前だよ」
 そういいながら俺は後頭部の左側を撫でつける。
「ここ、跳ねてるぞ」
 桜庭は一瞬ぽかんとした顔をしてカップから片手を離す。そのまま俺の真似をして髪を撫でつけながらバツの悪そうな顔をした。
「……飲み終わったら直してくる」
 少し膨れた顔をした好きな人を眺めながら飲む、好きな人の淹れたコーヒーの何と旨いことよ。
 直してやろうかと口に出したらそれこそそっぽを向かれるのだろう。
 いつかドライヤーを片手に桜庭の髪を直してやれる日はくるのだろうか。
 そんな日が来るとするならば、それはきっと事務所で起こった偶然の一コマなんかじゃない。桜庭の家か俺の家で当たり前のようにこの空間が訪れる朝を迎えるために、この想いをどう届ければいいのだろう。
「うまいなあ」
「……そうか」
 特別な事が言えない代わりに、素直に溢した俺の言葉にちいさくはにかんだ桜庭の顔は、今まで向けられたことがないくらいに柔らかい気がした。

イルカの真相と星の行方

 それは食器だったり、文房具だったり、はたまたネクタイやハンカチだったり。意識してみるとイルカモチーフの商品は意外とたくさん売られている。
 桜庭がネックレスを肌身離さず着けている理由を俺は知らない。
 イルカの形だから、という理由ではないことくらいは想像がつく。それでも思わず売り場で足が止まるのは、俺の中で桜庭とイルカがイコールで結びつくほどに印象づいているからだ。
 コンビニの商品棚からパッケージにイルカの描かれたお菓子を一つ手に取る。これなら理由が無くても渡すことが出来るだろう。けれど、本当にそれでいいのだろうか。上っ面の形だけ借りてプレゼントしたところで、俺はネックレスの意味さえ知らない。渡して喜んでくれたところで、俺はイルカの何が嬉しいのかさえ、教えてもらうことが出来ないのだろう。
 一瞬だけ悩んで、お菓子を棚に戻した。そしてその隣にある星型のお菓子を手に取ってレジへ向かう。
 こっちなら俺も知っている。桜庭はあまり語りはしないが、あいつなりにちゃんと大切にしてくれているのは、側にいた俺はしっかり分かっている。事務所に戻ったら3人で食べよう。イルカはまた今度だ。いつか、桜庭から話してくれるその日まで、プレゼントするのは我慢しよう。
 理由を知って、理解して、その上で渡せる日も来るだろう。トップアイドルにはまだまだ遠い。3人で目指す道中には、きっとそんな日も訪れてくれると信じてる。

輝ける星二つ

 気象庁が東京都の梅雨入りを発表したのは一週間前のことだった。今夜も厚い雲に覆われており、小さな雨粒が降り注いでいる。ソファに座って台本を読んでいる桜庭の顔に向かって、隣に座る天道が手を伸ばした。
「邪魔なんだよなあ」
 そう呟いて天道は桜庭のメガネを取った。突然視界がぼやけた桜庭は抗議した。
「何をするんだ。読めないだろう」
「いやほら、雨だから」
 天道はそれだけ言って桜庭の目をじっと見ていた。
「意味が分からない。なんで雨だと僕のメガネを外すんだ」
「昔、明くる日のヒロインってアニメがあってさ。主人公がヒロインのことを星の瞳のお姫様って呼ぶんだけど」
 おんなじ色なんだよなあ、と目を合わせたまま天道は呟いた。
「勝手に人の目を代替品にするな」
 桜庭は、天道の手からひったくるようにメガネを奪ってかけ直す。黒いふちとつるのせいで、隣に座る天道からはまた見えなくなってしまった。
「いいだろ別に。減るもんじゃないし」
「僕は台本を読んでいるんだ。邪魔なのは君のほうだろう」
 再度持ち直した台本へさっさと視線を落とす桜庭の隣で天道は拗ねた顔をした。
 そのまま横顔を見続けたが、桜庭は一向に反応してくれない。天道は諦めてため息をつくと桜庭にもたれ掛かった。
「いいよ別に。後でたくさん見せてもらうから」
 怪訝な顔をした桜庭を無視して、天道はローテーブルに置かれている空のカップを二つとも手に取って立ち上がった。
「むしろ暗いほうが綺麗に見えるし」
 キッチンへ向かって歩いていく天道の背中を眺めながら桜庭は首を傾げた。そして三秒後に意味を理解し、背中へ向かってクッションを投げつけた。
「僕は今日、さっさと寝るからな!」
「寝かさないので問題ないでーす」
 背中に当たったクッションなど物ともせず天道は飄々と答えた。

「明日も一日中振りそうですね」とテレビの中のキャスターが言ったが、二人の耳には届かなかった。

それは病弱で美しい少女だったはずだ

 天道は顔を顰めた。それは窓から差し込む西日のせいでもあり、隣に座る桜庭のせいでもある。見るからに噛み締めた口から数秒前に発せられた言葉はあまりにも恐ろしいものだった。沈黙を破ろうと口を開いても何の音も紡げない。それどころか息が漏れていくばかりで、吸うことすらままならない。しかし天道以上に、桜庭の顔は苦悶の表情を浮かべていた。
 桜庭は天道に厳しかった。褒めることは滅多にせず、非難の声は人一倍多かった。プライベートでは自らかかわろうともせず、電話やメールも仕事関係で最低限の往復をするのみだった。
 それでもレッスンや仕事を通じて作り上げていたつもりの二人の関係は全く形を成していなかったらしい。天道が仲間として見つめていたとき、桜庭の胸にあったのは愚かな愛情だったらしい。天道が仲間として肩を抱いていたとき、桜庭の胸にあったのは醜い劣情だったらしい。天道が数年間渡し続けた信頼と愛情は桜庭が欲しかったものとは全く異なるものであり、また天道が数年間受け取り続けていた桜庭からの感情は、勝手に想像していたものとは全く別のものだった。天道だけが一方的にそれを知らず、切磋琢磨しあえる信頼のおける仲間だと勘違いし続けていた。愚かで醜いのはどちらの方なのか、天道には分からなかった。
 窓の外で西日に照らされた木が揺れる。薄紅色の花はとっくに散り、青々と茂って風に身を任せていた。桜の季節はとっくに終わりを告げている。背後から西日に照らされた桜庭の姿はあまりにも痛々しかった。天道が恐るおそる桜庭の手を掴む。桜庭の手は五月とは思えないほど冷たかった。
「……やめろ」
 桜庭から零れる声も、手と同じほど冷たい。天道は引いてもびくともしない腕に小さくため息をついた。桜庭は一向に顔を上げない。天道は諦めるようにもう一度息を吐くと、凭れかかるように桜庭を抱きしめた。
「……たのむからやめてくれ」
 水に落とせば一瞬で消え入りそうなほど桜庭の声は小さく震えていた。天道は桜庭のような劣情も感情も持ち合わせていない。思いを伝えられた今でも、湧きあがってくる気配は無い。
「だって、こうしないとかわいそうだろ」
 あれは病弱で美しい少女だったはずだ。頬に触れる髪はかたく、握った手は筋張り、肩から背中へまわした天道の腕から柔らかな感触が伝わるわけもない。
「お前の手が、指が、髪が、かわいそうだろ」
 それでも天道はまわした腕に力を込めるほかなかった。天道の耳に桜庭が息を飲む音が聞こえる。
「君は本気で言っているのか」
 天道の背中の布が引かれる。桜庭の手によって驚くほど、恐ろしいほどに握りしめられる。
「なら、僕は君を諦めないぞ」
 天道の視界の片隅で何かの影が揺れる。
 口笛はいつまでたっても聞こえてこなかった。

最終地点は同じだから

 桜の花は今年の役目を終え、緑が主役となった公園にジャージ姿の男が二人、ベンチに腰かけている。二人が履いているランニングシューズは先日頂いたばかりのもので、まだ新品のように綺麗なままだ。
 いつもなら一緒にいるはずのもう一人の姿は無い。暫くは激しい運動は避け、体力と体調の回復を優先させろと口うるさい主治医からお達しがあったせいだ。
 数日前のTHE虎牙道との合同ライブの直前、DRAMATIC STARSの一員である柏木翼が倒れた。突然の出来事に硬直する桜庭の姿を、隣にいた天道ははっきりと目にしていた。そして柏木の姿を姉と重ねた心境も、桜庭の口からはっきりと聞いている。
 結局ライブ前に柏木は回復し、本番はトラブル無くステージを終えることができた。直後こそ安心感が胸と頭を満たしていたが、数日経った今、ふとある疑問が天道の頭に浮かんできた。
「倒れたのが俺でもさ、心配してくれた?」
「は?……ああ、その話か」
 あまりにも唐突な発言に、桜庭は一度汗を拭く手を止めたが、すぐにそれが先日のライブ前のことを指していると理解したらしい。
「当り前だろう。三人一組で出演する予定だったんだ。君が出られないとなればどうあがいてもパフォーマンスの質は落ちる。もちろんファンやスポンサーからの信頼も……」
 冷静な顔で続ける桜庭の言葉を、天道が制止する。
「いや、ステージの心配じゃ無くて! 俺の心配!」
「は?……ああ、そっちの話か」
 桜庭はやはり批難に近い声を上げたが、やっと天道が言わんとすることを理解したらしい。そもそもステージに関する心配は、柏木の一件で嫌と言うほど理解できている。
「知るわけ無いだろう」
「なんだよその言い方」
 あまりにも冷たい物言いに、今度は天道が非難の声を上げる・
 睨みつけている天道の顔を一瞬だけ捉えると、桜庭は立ち上がって簡単な準備運動を始め出した。
「うるさい。起こってもいないことを訊かれても分かるわけがないだろう」
「だからってそんなキツイ言い方しなくてもいいだろ」
「そもそもそんなことは分からなくていいだろう。一生分からなくていい」
 空になったペットボトルが天道の手の中で振り子のように揺れる。それがぴたりと止まった時、桜庭は公園の出口を見たままもう一度口を開いた。
「君まで心配かけるなと言っているんだ」
 そのまま振り返りもせず、桜庭は出口に向かって走っていく。
「やっぱ心配してくれるじゃん」
 既に道へ出た桜庭の後姿を眺めながら、天道はペットボトルを隣のごみ箱に投げ捨てた。
「もう半分頑張りますかー」
 桜庭を追うように立ち上がり、天道もゆっくりと走り始める。桜庭の背中が見えないけれど、天道は全く気にならなかった。

何度でも君に恋に落ちよう

 何度読み返したか分からない。プロデューサーからミュージカルの仕事が決まったことを聞かされたその帰り道、本屋で当たり前のように買った原作小説。役のすべてを理解しようと何度も何度もページをめくった。重要な場面は勿論、ミュージカルでは削られたシーンも変更されたセリフも、そのすべてを知り尽くつもりで文字を追った。時には台本と比べながら自分なりに解釈し練習もある程度重ねた今、闇医者を理解し彼は自分の中で息づいているとまで自信を持てるほどには、妥協せず自分なりに役と向き合ったつもりだ。だからこそ彼の言葉が理解できなかった。
「闇医者はね、革命家を愛していたんだよ」
「……はあ」
「もちろん恋愛感情って言う意味の愛ね」
 僕が繰り返し読んだ小説にはそんな記述は無かったし、僕なりに読み説いた彼の感情の中にもそんなものは微塵も無い。ビルの合間を抜けてきた風は僕の頬と髪を一瞬撫でて何処かへ去って行った。原作者が稽古を見に来ると聞いた時、生まれた感情は喜びと少しの恐怖だった。外の空気に当たりに来た僕を追いかけてきた彼は、僕の演技に肯定も否定もしなかった。
「驚くのも無理は無いと思うよ。僕は彼の愛を一切書かなかったからね。正確には書けなかったんだ」
 夕陽を背負った原作者は逆光のせいで僕の目には随分と黒く映っている。そして彼と繋がったさらに黒い影は僕の足元まで伸びていた。
「分からなかったんだよ。いつ、どこで、どうして恋に落ちたのか」
「産みの親ですら分からないのですか」
 なら僕にはなおさら分からないでしょう。続けて飛び出そうとした言葉は僕の理性が押し戻してくれた。
「でも恋愛の話なんて、親より友人相手の方がよっぽど語りやすいだろう? なんなら、闇医者本人も気づいていないのかもしれないね。話す以前の問題かもしれない。それでもさ、見てる側が先に気づくこともあるだろう? 本人は鈍感で気づいてないけど、傍からみたら好きなのまる分かり、なんてそんなに珍しいとも思わない」
「だから君なら分かると思ったんだよ。まあ、僕の勘違いかもしれないけどね」
 勘違いとは一体どこにかかっているのか。闇医者の愛のことなのか、僕を買い被り過ぎているという意味なのか、問いただすための言葉を探す僕より先に原作者は歩き出していた。
「初日と千秋楽は必ず見に行くよ」
 そう呟いて彼は僕の隣を通り過ぎていった。暫くの間小さくなる彼の背中を無心で眺めていたが、溜息とともに前を向き直すと真っ赤な夕陽が恐ろしいほどに僕を照らしていた。遮っていた彼が居なくなったせいだった。

 もし、時を遡ることができるなら。五日前に戻りたい。そして「役作りは十分だ」などと得意げにインタビューに応えていたあの馬鹿な自分を殴りたい。
 がしがしと頭を掻く監督から思わず目を背ける。稽古を始めたばかりのころの恐ろしいほど厳しいダメだしから一転、先日の時点では良いものをより良くするため、という状態まで完成度は高まっていた。あくまで先日までの話である。言うまでも無くそれを壊したのは僕だった。監督の機嫌は初期よりさらに悪くなっていた。当たり前の話だ。歌詞は飛ぶ、セリフは間違える。そのうえしょっちゅう他の役者とぶつかるのだ。例の一件から闇医者として演技することが出来なくなった。彼が歌いあげたい心境が、このセリフで伝えたい事が、この動きの根源となる心理が、この解釈で本当にいいのかと頭の中で何かが足を引っ張ってくる。そしてその戸惑いは演技と言う形で全て露わになっていた。
「……いったん休憩だ」
 監督は低い声で言い放ち扉の向こうへと消えていった。問題は何一つ解決していないが、目の前の威圧感から逃れたことに安堵しその場に座り込む。溜息をつく僕の後ろから刺さる、天道と柏木の明らかに心配を含んだ視線が煩わしくてしかたがない。あえて反応せずにいると、そっと二人の足音が近づいてきた。
「……大丈夫か?」
「大丈夫に見えたのか?」
「……何かあったんですか?」
「何も無しにこんな風になるとでも?」
 腫れものに触れるかのごとく掛けられる言葉に苛立ちを覚える。そして実際腫れものと化した自分自身に嫌気がさす。苛立ちを隠さない僕の両脇にそっと天道と柏木が座りこんだ。
「思ってないから聞いてるんだろ」
「だったら最初から断定して聞けばいいだろう。何があったんだ、って」
「……何があったんだ?」
「君たちには関係ない」
「はあ!? 何だよそれ!!」
「薫さん、さすがに今のはちょっと……」
 あまりにもひどい僕の物言いに左からは怒りの声が、右側からは苦笑いを押し殺した声が飛んでくる。自分でも正直酷いと言わざるをえない。それでも無言を貫いていると、怒りと苦笑いは少しずつ離散してしまったらしい。先ほどのような心配する視線が左右の至近距離から刺さるようになってしまった。天道も柏木も口を開かない。その視線に耐えきれず僕は小さく口を開いた。
「原作の先生と話をして、闇医者というキャラクターが分からなくなっただけだ」
 出てきた声は自分でも驚くほど小さく弱弱しかったが、身を寄せるように隣に座っている二人にはきちんと届いたようだ。
「いや……そっくりだろ。お前と」
「輝さんと革命家もですけどね」
「……僕もそう思っていた」
 あの一件から時間があるたびに原作の小説を捲っていた。そのうえで僕は二人の言うとおり闇医者と僕は良く似ていると思っている。そして天道と革命家も良く似通っている。その考えは初めて小説を読んだときから変わっていない。だからこそ原作者の言葉が恐ろしいほど理解できない。革命家自体は魅力あふれるキャラクターに間違いない。しかし闇医者が、原作者本人に「愛していた」と言わしめる要素は何度読んでも見つからなかった。彼は闇医者の愛を書かなかったと言っていたのだから、原作を読んでも見つからないのは当たり前なのかもしれない。それでも何度読んでも僕は革命家には惚れないのだから、闇医者もきっと惚れてはいないのだろう。だけど闇医者は革命家を愛している。つまりそれは僕と闇医者は本当は似ていないのではないだろうか。ここ数日、そんな考えばかりが僕の頭を支配していた。
「天道、君は革命家と自分自身が似ていると思うか?」
「似てるってよりは俺の理想に近いと思ってる。俺がこう為りたい、こう有りたいって思い描いてる理想に限りなく近い。だからまあ、似てるって言われるのはすげー嬉しい」
 物語の主人公と比べるのは可哀そうだが、確かに似ているとはいえ言葉選びやカリスマ性は天道より革命家の方が圧倒的に上だろう。しかしそんなことより、今の僕には別の言葉が引っ掛かった。
「限りなく近い? 完全ではないのか?」
「そりゃ完全な理想じゃねーよ。演じようと真剣に向き合うと、やっぱ革命家に対する小さな不満は出てくるしな。例え創作上の人間でもさ、他人を完全に理解するなんて無理だろ」
 真剣な表情でそう話す天道の姿に僕は素直に驚いた。舞台上で演技をしながら歌うことに対する難しさを嘆くことはあれど、今まで革命家に関してはプラスな感情以外を溢す姿は僕の記憶に無い。
「そっくりって言ってもさ、お前と闇医者だって大なり小なり違う部分もあるだろうよ。共感できるところはお前も合わせて何割増しにもしてやってさ、分からない所はまあ、自分なりに最低限尊重してやればいいんじゃねーかな」
「オレなんて共感できないことだらけですよ、この役。それでもオレなりに彼のことを理解して、オレみたいに共感できない人にも、彼のことが少しでもオレを通して伝わればなって思ってます」
 原作者は闇医者の愛を一切書かなかったと言った。彼の愛が描かれていないその物語は、決してつまらないものではない。闇医者の信念を貫く姿勢に、助けられない人々を悲しむ心に、仲間と同じ場所を目指す思い。読みたびにそれらに共感し、感動を覚えたことをどうして僕は失念していたんだろう。
 へたり込んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなり、大きく息を吐き出してからその場で立ち上がる。つられて上がった天道と柏木の視線には、もう心配の色は含まれていなかった。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないように見えるか?」
「大丈夫そうですね」
 大きな音を立ててドアが開く。僕はその先にいる監督の顔をしっかりと見据えた。
 僕が表現したいのは闇医者の恋心では無い。僕が見せたい彼の気高さを、僕が伝えたい彼の信念を、僕を通じで観客に見せる。それが新人の僕にできる、仕事に対する精一杯の誠意である。

 ミュージカルは観客が居て初めて完成する。初めて会ったときに監督がこぼしたその言葉の意味を、僕はやっと理解することが出来た。
 観客の見守る舞台に立ったその瞬間、闇医者は僕の中にいた。袖に捌ければ彼も消え、舞台へ上がればまた現れる。稽古中もリハーサルも、ここにいない彼の代わりにと、ずっと思っていた。どうやら杞憂だったようだ。
 スピリチュアル的な現象や心理はあまり好かない。それでも舞台で僕に寄り添うように、僕に教えてくれるように感情を動かす闇医者の存在を否定することはしたくなかった。役者にもいろんなタイプがいると聞く。自我が消え役そのものに成り切る者、限りなく自分自身が役に近付く者。そして僕は、自分と役が舞台で共存するタイプらしい。彼の心を僕が聞いて、僕が僕の体を使って目の前の観客たちに彼を伝える。ミュージカルの舞台の上は想像していたよりずっと楽しい。それこそアイドルのステージに匹敵するほどだ。
『文句なら後でいくらでも聞いてやるよ!』
 そう叫びながら天道が演じる革命家は高台を模した舞台装置へ上がっていく。闇医者がまだ革命軍に属する前、革命家と初めて出会ったにも関わらず彼の活動に巻き込まれるシーンである。
『なんて奴だ……』
 闇医者に代わって僕が呟く。彼の心は想像していたより穏やかだ。もっと怒っていると思っていた。僕が想像していたよりずっと、闇医者は初めから革命家に嫌悪感を抱いていなかったらしい。ここ数十分で初めて知ったことだった。
 
 最終決戦前夜。決意溢れる顔の革命軍たちと、それを鼓舞する革命家の姿を僕は舞台袖から見守っていた。闇医者は主要人物だが、正式に革命軍になるのは随分と遅い。医療技術の高さと人を救いたいという思いを見抜かれ、革命家に巻き込まれる形でほぼ仲間同然の立場にいるものの、あくまで闇医者本人は協力者であり、革命家とは医者と患者という姿勢と貫いてきた。
 最後の宴を歌とダンスで表現している中、革命家はそっとその輪から抜け出す。
『どこに行くんだい?』
 目ざとく見つけたパイロットに革命家は困ったように笑いながら人差指を口に押し付けて見せた。歩みを止めず部屋を抜け出したところで歌が終わり、観客の拍手とともに照明が落ちる。たくさんの革命軍役の役者とともに戻ってきた柏木に小さく肩を叩かれる。
「いってらっしゃい」
「ああ、いってくる」
 真っ暗なステージの中、置かれた椅子に腰をかける。このシーンで闇医者はやっと革命軍に正式に所属し、そのまま舞台の照明は消えることなく舞台装置を一気に反転させ、一番の盛り上がりを見せる決選へと入っていく。その後は息をつく暇もなくキャスト全員でクライマックスまで駆け上がっていくことになる。あれほど頑なに所属を拒否していた闇医者が、正式に仲間になることで大一番の盛り上がりの火蓋を切ることになる大切な場面だ。そのシーンを映し出すべく、暗闇の部屋が今、照明で照らされた。
 そしてその後起こったことを、僕は殆ど覚えていない。

 劇場の裏側にある野外喫煙スペースは、関係者用として利用するために一般客は立ち入れないようになっている。喜び騒がしい楽屋をこっそり抜け出した僕以外には勿論僕誰もいない。煙草の煙には当たりたくない。かえって好都合だった。壁の傍で蹲るように座りこむと、劇場の表側の雑踏からであろう楽しそうな大量の話し声たちが膜を張ったように不鮮明に僕の耳に届いていく。
「お疲れ様」
 近くから鮮明な声が聞こえて驚いて顔を上げる。真っ赤な夕陽を背負って立つ原作者はゆっくりと僕の隣にしゃがみこんだ。
「いいもの見せてもらったよ」
 紡がれる声はあの日聞いたものと明らかに同じはずだ。当時異質なノイズのように聞こえていた声は、今は不思議なほど穏やかに聞こえる。
 革命軍のエンブレムを付けられ数え切れないほど聞いたセリフを呟かれた瞬間、観客の視線が全て消え去った。視線どころか完璧に覚えたセリフも振りも全て消え去り、ただ穏やかに笑う革命家の顔だけが熱い照明に照らされていた。
 今から約四十分前のことだ。何百人の観客の中、僕を通して一人の男が恋に落ちた。そしてそれに気づいたのは僕と、今僕の隣に座っている男の二人だけだろう。 
「あの瞬間まで、僕はあなたの言ったことが全く理解できなかった」
 懺悔でもするような気持ちで呟くと、原作者は小さく息を漏らして僕に笑いかけた。
「あたりまえじゃないか。だって彼が革命家に惚れたのは、ついさっきの出来事なんだから」
 原作者はそう言い切ると鞄から手帳を取り出して悩み事をするように顎に手を当てて眺め出した。
「何してるんですか?」
「いや、最低でも後五回は見に来たいなあって思ってね」
 手帳をにらめっこを始めた原作者は逆光のせいで僕の目には随分と黒く映る。それでも近くにいるおかげで優しげな表情はしっかりと見て取れた。
 暫く二人で風に当たっていると少し離れた出入り口から僕を呼ぶ声がする。
「お迎えが来たね。じゃあ僕はこれで」
 また見に来るねと呟いて去っていく原作者と入れ違うように天道が僕の元へ走ってくる。
「こんなところで何やってんだよ! みんな探してたんだぞ!」
 不満そうに口をとがらせる顔は随分と幼く見え、思わず笑いそうになる。革命家はこんな表情は絶対にしないのだろう。
「悪かった」
 そう断って立ちあがった僕の目を天道はしばらく見つめていた。天道は何か伝えたいとき普通の人の数倍目を見つめてくる。ここ数カ月、DRAMATIC STARSを結成して気が付いた彼の癖の一つだ。
「なんだ?」
 促すように声をかけると天道は喜びを噛み締めるように顔を綻ばせた。
「すげー楽しかったな」
「そうだな」
「監督もめちゃくちゃ喜んで褒めてくれてたぜ」
 DRAMATIC STARSの三人が演じる初めてのミュージカルは主役も監督も、そして帰りゆく観客も満足させることが出来たようだ。
「まだ初日だぞ。明日もある」
「明後日も明々後日も、その後もだ」
 原作者は闇医者の愛を一切書かなかった。そして僕の演技は彼の愛を伝えなかった。ミュージカルでも小説でも彼の愛は意味を成さない。だから天道も革命家も、小説の読者も観客たちも彼の愛を微塵も知ることは無い。
 それでも公演が続く限り、舞台の幕は上がり続け、ストーリーは進行を続ける。
 そして彼がほほ笑むたび、何百人の観客の前で一人の男は恋に落ち続けるのだろう。

美人とかわいいの代名詞

 翼はよく犬に例えられるが、桜庭を動物に例えるなら間違いなく猫だろう。猫を飼ったことは無いが、警戒心の強さや素っ気ない態度は一般的に想像する猫そっくりだ。
 付き合う前からそうは思っていたが、まさかこんなところまで似ているとは。そう驚いたのももう随分と前な気がする。
 重たい左側から向けられる視線をわざと無視するように携帯電話の画面を凝視する。今の俺は弁護士時代にお世話になった人のメールに返信しなければならないんだ。画面の上部に表示された時刻はもうだいぶ遅い。常識的な就寝時間より前に返さなくては失礼だろう。頭をフル回転させて文面を考えたいのに、普段冷たい恋人は甘えるように俺の肩にしなだれかかっている。
 桜庭が甘えてくるのは決まって俺が何かに集中しているときだ。普段素っ気ない癖に、邪魔するように自分にかまえとアピールしてくる。最初は純粋に嬉しくてしょうがなかった。馴れてきた今はキーボードの上に寝転がる猫みたいだな、なんて可愛く思っていたが、急ぎのときにやられるのは堪ったものじゃない。
 左腕の服を引っ張るように握られる感覚に心がぐらぐらする。神経の殆どを持って行かれている自覚はある。馴れたとはいっても、かわいいものはかわいいのだ。左側を向いてしまえば、拗ねたような顔をして俺を見つめている桜庭が目に入るのだろう。それだけは避けなければいけない。今この携帯電話を投げ捨てるわけにはいかないのだ。
 お望みどおりかまってやりたい衝動をぐっと堪えて口を開く。
「桜庭」
 名前を呼んでも返事はない。それどころか身動き一つしない。
「ちょっと離れてろ。すぐ終わらせるから」
 やっぱり返事はない。その代わりと言わんばかりに服を引っ張る力が少し強くなる。心だけじゃなく脳ミソまで揺れそうだ。負けるな、俺。ここで負けたらおしまいだ。
「頼むから。本当にすぐ終わらせる」
「……いやだ」
 口を開いたかと思えば、同時に肩に額を擦り付けてくる。おそらく分かってやっている。本当に厄介だ。
「文字を打つのに支障はないだろ」
 あるから離れろって言っているんだ。そう言えたらどんなに楽だろうか。口調はいつもの桜庭なのに、近距離から耳に届く声色はずっと甘い。堪えきれずその発生源を見れば、想像通り長い睫毛の下から、碧みがかった瞳がこちらを見据えていた。
「……はやく終わらせろ」
 綺麗に整ったこの顔は、稀に驚くほどかわいい表情を浮かべてくる。

 先生ごめんなさい。返信までまだまだ時間が掛かりそうです。

特別な関係がもたらす特別な付加価値

 桜庭薫は決して探す手間を怠った訳ではない。むしろ一ヶ月半も前から時間を見つけては雑誌やインターネットで情報を収集し、オフの日には様々な店へ足を運んだ。2週間を切ったあたりで本格的に焦り出し、彼と年齢の近い人に好きなブランドや最近気になっているものを聞き出しては片っ端から調べていった。にも関わらず、2月23日が目前まで迫った今、桜庭薫は天道輝へのプレゼントを用意できていなかった。残りの数日にオフの日は無く、約一ヶ月半かけてもダメだったのに仕事をしながら残り数日で用意できるかと問われれば、答えはNO以外にありえなかった。そもそも、物の候補すら見当がついていない状態だ。
 完璧主義の桜庭がなぜ誕生日目前でプレゼントの準備ができていないのか。周囲の人が知ったらさぞ不思議に思うだろう。そして桜庭本人も、今の状態が不思議で仕方無いのだ。
 一昨年は3日前に誕生日を知り、前日に購入した。去年は2週間前に柏木翼に何気なく相談をして、5日ほど前に購入した。そこまで苦労した記憶はなく、また天道が贈り物にケチをつけるような人間ではないこともよく知っていた。それでもこんなに悩んでしまったのは、去年の誕生日までの「同ユニットの仲間」という関係から、「同ユニットの仲間兼恋人」という関係へ変化したことが理由だろう。恋人は明らかに特別な存在であって、その恋人から贈られる誕生日の贈り物は、やはり特別な物になる。気負いすぎが原因だと分かったところで、残りの日数では現状は変えられない。それでも、つきあって初めての誕生日にプレゼントは無し、という事態はできれば避けたかった。
「仕方がないか」
 扉の前で桜庭は一人で呟き、覚悟を決めて事務所の扉を開けた。
「おはようございます」
「おっ、桜庭おはよう!」
 都合のいい事に、事務所内に天道以外の姿はない。
「どうしたんだよ。やけに暗い顔して」
 ソファに座ったまま話しかけてくる天道はいつも通りの明るい表情をしている。一瞬桜庭は人の気も知らないで、と思いかけたが天道は知らなくて当然だ、と自分の中で完結させる。
「天道、ちょっといいか?」
「なんだよ」
「近々空いてる日は無いか? 買い物に付き合ってほしいんだが」
「別にいいけど……。何買うんだ?」
「……君の誕生日プレゼントだ」
 自分が選べないのなら、天道自身に選んでもらうしかない。
 一瞬固まった天道の顔が、驚きと焦りを露わにする。
「いや、23日まで俺仕事漬けだけど!?」
「……それは分かってる。間に合わないのは本当に申し訳ない」
 そもそも桜庭も昨日が23日までの中で最後のオフだった。例え天道に時間があっても、既に間に合わないことは確定していた。
「忘れていたわけではないんだ。ただ、何を贈ればいいのか分からなくなった」
 桜庭の視線は声が小さくなるのと連動してだんだんと天道から逸れていく。
 扉の前で明らかに気を落としている桜庭を見て、天道は小さく息を吐き、自分が座っているソファを少し叩いた。
「とりあえずここ座れよ」
 その声色は柔らかいものだったが、桜庭は動き出そうとしない。
「しょうがねえな」
 天道は立ち上がると桜庭の目の前まで歩いていく。それでも俯いたままの桜庭を小さく笑うと、手を引いてソファまで戻った。
「いいから座れって」
 手を引いたままソファに座り、その隣に桜庭を座らせる。
「来週の火曜日なら空いてるけど、お前は?」
「……仕事は午前で終わる」
「じゃあ午後から一緒に行くか」
 天道の声は一貫して優しいままだ。
「……怒らないのか?」
「なんで怒るんだよ」
 桜庭が不安げに顔を上げると、天道はそっと桜庭の頭に手を伸ばして髪を梳きだす。
「お前のことだから悩みすぎて訳分からなくなったんだろ? そのくらい真剣に考えてくれたことも、だめだったって素直に言ってくれるようになった所も、言ったうえでちゃんと用意しようとしてくれてることも、全部ひっくるめて嬉しいに決まってるだろ」
 天道が髪を梳く手を止めて桜庭を引き寄せると、いとも簡単に抱きつくかたちで倒れこんでくる。
「すげー嬉しいし、デートもできるし、なんか誕生日前なのに既にプレゼント貰っちまった気分だ」
「まだ何も渡してないぞ」
 髪の隙間から覗く桜庭の耳は案の定赤く染まっている。
 付き合って初めての誕生日は、どうやら悲しい結末を迎えずに済みそうだ。