その壁は二週間前に崩壊している

 それは天道への恋心を自覚した直後のことであった。ステージの上でハイタッチをした瞬間に桜庭は違和を覚えた。その次にカメラの前で肩を組まれて引き寄せられたときにそれは疑惑となり、その後に事務所でソロの仕事を「頑張れよ」と背中を叩かれたことで確信へと変わった。
 天道輝は手が大きい。桜庭がその事実を認識したころにはDRAMATIC STARS結成から年単位の時が経過していた。今まではそんなこと微塵も気にしておらず、そもそも知ったところでなんの感情も抱かなかっただろう。それは本来、桜庭の人生と生活に微塵も関係がない情報であった。だのに、確信して以来の桜庭はその事実に心を引きずられかき乱されている。コーヒーカップを手渡され指先が触れた瞬間ですら、心臓とよく似た器官からなにかが大量にあふれ出してくるような錯覚を覚えた。まるで女子中学生である。いや、もしかしたら小学生レベルかもしれない。桜庭はそのあまりに未熟な精神構造を恥じた。影でため息をつきながら必死に耐えるほかなかった。なにせ天道という男はパーソナルスペースが随分と狭い。平気で人に触れてくるのだ。だからライブ後に感極まって抱きすくめられたときも、飲み会の後にぐしゃぐしゃと頭を撫でられたときも、事務所の屋上へ続く階段で告白されながら手首を掴まれていたときも桜庭は必死で耐えた。そうして晴れて恋人となり天道の家に呼ばれた今、桜庭はやっと気がついた。耐える理由が微塵も残っていないことに。

 とっくに日が落ちた外とこの部屋を隔てるようにカーテンはぴっしりと閉められている。桜庭は一人でソファに座り瞑目していた。少し離れたキッチンからは絶え間なく流水の音と天道の鼻歌が聞こえ、ときおりカチャリと食器が鳴る。天道の手料理を食べる機会はこれまで何度もあった。だからこそ分かる。今日は随分と気合いが入っていた。白身魚のソテーに彩りのいいサラダ、野菜がゴロゴロ入ったスープの隣に置かれたパンは近所にある行きつけのパン屋で買っておいたらしい。クラフトビールが注がれたグラスにはバカラのロゴがあった。店でも開くつもりか? と突っ込もうとしてやめた。向かいに座る天道があまりにも楽しそうな笑顔だったからだ。手を合わせて食べ始めると、天道はすぐにあれはこれはと料理の感想を求めだす。桜庭は珍しく素直に褒めておいた。さっぱりとした味付けで素材のうまみを引き出すように作られたそれらは明らかに桜庭の好みを重視して作られていたからだ。思えばこの家に一人で赴いたのは今日が初めてであった。天道の家を訪ねるときはいつだって柏木や他のアイドルが共におり、そして普段表に出ている年甲斐のない明るさという子どもらしさとは裏腹に天道は社交性と常識も十二分に身につけている男である。よって卓上には来客全員をもてなすための料理が並ぶのが常であった。しかし今日の客は桜庭一人しかいない。桜庭のために、桜庭の好みに合わせて、桜庭をもてなすためだけに天道の手によって作られていることは明白であった。つまり己が褒めてやらねば目の前の料理は存在価値を失い、そしてそれを作るために天道がかけた労力も水泡に帰す。よって桜庭は素直に褒めることを選択した。この場で喧嘩になることも、悲しい顔を見る羽目になることもいやだった。結成当初であればこの選択は取らなかっただろうな、などとパンをちぎりながら考えたが、そもそも結成当初の自分は一人で天道の家になど来るはずがないと思い返した。

 そうして穏やかな雰囲気のまま全ての皿は空になり、キッチンで天道が一人それを片している。桜庭は当然手伝いを申し出たのだが「いいから。お前早朝から仕事だっただろ? ゆっくりしてな」と追い返されてしまった。仕方がないのでこうして一人、リビングにある二人がけのソファに座っている。落ち着いた色合いをした布張りのソファは弾力があり大変座り心地がいい。目の前にあるテレビの電源は入れていない。桜庭は目を瞑ってひたすら耳を澄ませていた。背後のキッチンからは流水がシンクへ落ちる音が絶え間なく続いている。それにアクセントをつけるようにカチャリ、カチャリと食器が鳴る。それらの後ろから微かにメロディーが聞こえてくる。聞き慣れた声が鼻歌を奏でている。それはDRAMATIC STARSのデビュー曲であった。胃が満たされた状態でソファに沈み込みながら、桜庭は目を瞑ってひたすらそれを聞いていた。桜庭の頭がゆっくりと垂れていく。それと比例するように、耳に届く音もゆっくりと小さくなっていくような錯覚を覚えた。

 緩やかに覚醒を始めた意識が真っ先に認識したのは頬に触れるなにかであった。柔らかで温かいものが三つほど並んで頬に添えられている。それはゆっくりと、そして撫でるように微かに動いた。指先だ、と桜庭は思った。まだ重たい瞼を桜庭は半分ほど持ち上げた。
「悪い。起こしたか?」
 あの心地よかった音は止んでいた。己の顔を覗き込んでいる天道のことをレンズ越しに認識した桜庭はパチパチと瞬きを繰り返す。どうやら隣に浅く腰掛けて身を乗り出しているらしい。触れていた天道の指先がまたゆっくりと動いた。下からすくい上げられるように掌が輪郭へべたりと触れる。桜庭の顎先が掌の底、母指球でやんわりと持ち上げられた。伸びた指先は柔らかく耳たぶを撫でている。洗い物をしていたはずの手はすでに熱を取り戻していた。いつも通りの、あの触れられるたびに心臓にまで熱が送り込まれてくるような温度へと戻っていた。未だぼんやりとした意識の中で桜庭は「耐えなければいけない」と反射的に思った。ずっとそうしてきたからである。桜庭はまた目を閉じた。今までのように離れるまでじっと我慢しようとした。しかし数秒経ってもその手は離れる気配がない。苦言を呈そうと桜庭はしぶしぶ瞼を持ち上げる。天道は相変わらずこちらの顔を覗き込んでいた。先ほどよりは多少まわるようになってきた頭で状況を認識し、桜庭は片頬を包まれたまま首を傾げる。目の前の天道は見たこともない表情をしていた。笑顔であることは間違いない。しかし日常や仕事で見るような屈託のないものとは違っていた。目尻はいつものように穏やかに下がっているが瞳の奥が知らない色を灯している。口元だって緩やかに弧を描いているのに、まるでなにかに耐えているかのような強ばりが表れていた。分からない、と桜庭はさらに首を傾げる。顔が大きく動いたせいで添えられた掌に桜庭の唇の端が当たった瞬間、耳の裏で天道の中指にびくりと力が入るのが伝わってくる。それと同時に目の前の瞳がさらに細まった。桜庭の思考はようやく睡魔から完全に覚醒した。そしてやっと気がついた。今日、自分がここに赴いたのは仕事仲間としてではない。今まで通り必死で堪える必要などもうどこにも残っていないのだ。
 桜庭はゆるゆると腕を持ち上げた。顔の高さまで手を上げた後、ずっと己の頬に添えられていた天道の手に甲側から包み込むように重ね合わせる。天道輝は手が大きい。瞬間的なふれあいと目測でその事実は把握していた。しかしこうしてしっかりと重ね合わせたのは初めてである。案の定桜庭の爪先は天道の指の端まで届かない。頬に触れている掌の柔らかさとは対照的に、骨張った手の甲は桜庭の掌には収まりきらない。桜庭はそのまま天道の手ごと自分の頬に向かって押しつけた。それと同時に自分の口角が上がったことを自覚する。求めていたことが叶ったのだからそれも仕方のない事であった。この大きくて温かな手に自分から触れてもいいし、自分に触れてほしいとその手を引き寄せることだってしても構わない。天道に告白されそれを受け入れたあの日から、自分はその資格を得ていたという事実にやっと桜庭は気がついた。外側から押しつけた天道の掌は仲間として触れられていた普段よりも、なんなら先ほどまでと比べても一段と熱を帯びている。そうして幸福を享受して笑みを浮かべている桜庭に向かって天道の額がゆっくりと近づいてくるものだから、桜庭は素直に目を閉じてやることにした。