悪い虫を払うものは

 いつも以上にゆっくりと丁寧にカップを置くプロデューサーの手つきを、天道はじっと見ていた。日はすでに沈んでいる。事務所には天道とプロデューサーの二人しかいなかった。パーテーションを挟んだ奥に天道は座っていた。入口からすぐのソファやホワイトボードが置かれた側にも、もう誰も残っていなかった。ローテーブルにぽつんと一つ本が残されているだけだ。
「おまたせしてすみません」
 向かいのソファに腰を下ろしたプロデューサーは机の上で指を組んだ。
 話があるから時間を作って欲しいと言ったのは天道の方だった。担当アイドルからそんなことを言われては不安に思うのが普通だろう。それでも天道が話しやすい空気を作ろうとしてくれている。彼はそういう人物であることを、天道は今までの付き合いからよく分かっていた。だからこそ、プロデューサーの口元の笑みに天道の良心が痛んだ。天道に話があると言われてから、おそらく色々な想像が脳内を飛び交っただろう。その中でも一番最悪なものを天道は今、彼に伝えようとしていた。
「辞めようと思ってる」
 天道はコーヒーカップに手を伸ばした。プロデューサーの指が視界に入る。落ち着かないと言わんばかりに中指が揺れていた。
 それは、と言ってプロデューサーは一度口をつぐんだ。しかし意を決した顔で天道を見た。
「ドラスタをですか。事務所をですか。それともアイドルを、ですか」
「アイドルを、だな」
 天道は内心、質問に驚いた。315プロダクション以外で、DRAMATIC STARS以外でアイドルを続けるという選択肢など考えてもみなかったからだ。それでも即答した。一切浮かばなかった程度には、ありえない選択肢だった。
「理由を聞いても?」
「……言わなきゃダメか?」
「さすがにそこは」
 ハイ分かりましたとは言えませんので、と続けるプロデューサーがあまりにもまっすぐ視線を向けてくるので、天道は身じろいだ。聞かれることは当然想定していた。
「一身上の都合で……」
 と呟いてみたものの反応一つ示してくれない。流石に通用しなかった。
 プロデューサー視野が広く、人の感情を見通すのが上手い人だ。天道は彼をそう認識していた。そのうえ人当たりがよく穏やかだ。一歩間違えばものすごく胡散臭くなるのだろう。そうならないのは、まるで優しさと誠意を煮詰めたような心が彼の芯となっているからだ。
 天道にとってマイナスになる選択肢は絶対にとってこない。数年間の付き合いからそれは分かりきっていた。それでもなんとか誤魔化すことができないだろうかと、天道は今でも考えている。
「仕事の内容に不満が?」
「いや」
「ではプロデュース方針ですか」
「いや、違う」
「スケジュールですか? 今すぐは無理ですが、今後はオフを増やすことも」
「違うんだよ、プロデューサー。アンタは何も悪くない」
「なら、私に何ができるんですか」
「……なにも」
 プロデューサーが何とかできる問題なら、最初から辞めるなどと天道は言わないのだ。相談がある、と言って解決に向けて話し合っている。それが出来ないからこうしていきなり辞職を告げるはめになっている。
 彼らしくなく矢継ぎ早に言葉を紡ぐ姿を見て、天道は更に良心が痛んだ。本当は墓場にまで持っていきたい。だけど彼に何も知らせず去れるほどの冷徹さを天道は持ち合わせていなかった。
「人間関係だよ」
 プロデューサーは眉間にシワを寄せたま首をかしげた。思い当たるフシがないのだろう。
「好きな人ができた。だから、アイドルは辞める」
「うちは恋愛禁止を謳ってませんよ。理解ある相手なら世間にも隠し通せます」
「付き合ってるわけじゃないんだ」
 プロデューサーの顔が見る見ると青ざめていく。まさか気づかれてたのか、と天道は思った。
「まさか妊娠させ」
「違う!」
「ではなぜ!」
「桜庭なんだよ」
「なにが……えっ?」
 プロデューサーは露骨に目を見開いた。気づいていなかったらしい。普段の天道と桜庭の様子を考えれば当然のことだろう。頻度こそ結成当初より下がったものの、未だに言い争うことも多いのだ。
「だからアイドルを辞めたいと」
「ああ」
「なるほど、微塵も理解できないな」
 パーテーションの向こう側から予想外の声が飛んでくる。天道はゆっくりと顔を向けた。桜庭はよく知る表情をしていた。眉間にシワを寄せ、顎が少し上がっている。天道は恐る恐る口を開いた。
「お前、なんでここに」
「僕は忘れた本を取りに寄っただけだ。それがまさか、こんな不快な会話を聞かされるとはな。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
天道は、桜庭の登場で頭が真っ白になっていたが、すぐに自分がカッとなったのが分かった。反射的に大きな声が出る。
「お前なあ!」
 生半可な気持ちで言っているとでも思われたのだろうか。だとしたら心外にも程がある。アイドルになってから数年間、天道は至極真面目に仕事をこなしてきた。ユニットとして活動してきた以上、自分が抜けることの重大さも理解している。そのうえで真剣に考えて、今日プロデューサーに打ち明けたのだ。
 桜庭はひどく冷たい目をしたまま「そんなことで悩むくらいならMCでも考えたらどうだ」と言った。そしてプロデューサーのほうへ向き直り「君もこんなくだらない話に付き合う必要はない」と言ってさっさと事務所から出ていった。
 扉が閉まる音にすっと頭が冷静になっていく。天道は椅子に座り直して頭を抱えた。
向かい側からプロデューサーの困惑した声が聞こえてくる。
「……今すぐ、というわけでは無いんですよね」
「ああ、ツアーライブも決まってるし」
 そこまではちゃんとやり遂げるつもりだ、と天道は続けた。
「とりあえずこちらにも考える時間をください」
「……悪かったな」
「いえ」
 天道は退席するべき立ち上がった。プロデューサーは見るからに疲弊していた。その顔に申し訳無さがこみ上げてくる。しかし原因は自分なのだからどうすることも出来ない。天道はさっさと事務所を出た。歩きなれた階段を降りているとポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を確認する。意外な人物からの連絡に天道は目を見開いた。

 いつから桜庭が好きなのか。天道は正確に把握していない。しかし自覚した日のことははっきりと覚えていた。
 その日天道は事務所についたばかりで、待ち人であるドラスタの二人とプロデューサーはまだ到着していなかった。事務所の奥から他ユニットのアイドルの談笑が聞こえる。混ざろうかと思ったときローテーブルに置かれた雑誌が目に入った。届いたのか、と天道はソファに座って雑誌を手に取る。それはまだ発売前のもので、先日行われたDRAMATIC STARSのインタビューが掲載されているはずだ。
 3人の午前スケジュールは把握していた。桜庭はダンスレッスン、柏木が街ブラロケでプロデューサーも同行している。天道は壁にかけられた時計を見た。集合時間までまだ十五分以上ある。インタビューだけなら到着前に目を通し終わるだろう。天道は雑誌を捲って目当てのページをすぐに探し当てた。右ページの上部にスリーショットの写真があり、インタビュー文はその下から始まっている。内容は近々発売する新譜についてである。写真もジャケット写真と同じ衣装を着用していた。
 この曲は近々、音楽番組で披露する予定になっている。それに備えてレッスンを入れたいと桜庭がプロデューサーに頼んだ結果、今日の午前に行われているらしい。
 それなりに仕事が貰えるようになってきた今、デビュー当時のように三人揃ってレッスンをする機会はぐんと減った。レッスンだけではない。仕事もバラバラですることのほうが断然多くなった。新曲のPV撮影、そしてこのインタビューは久々に三人が揃った現場だった。
 天道は三人で写っているページをそっと撫でた。自分の口元が緩むのが分かる。柏木に関してはしょっちゅう連絡を取っていたが、桜庭は最低限しか返事をしてくれない。スケジュールこそ大抵把握していたが、ここ最近はメディアを通して仕事の様子を知ることが多かった。だからこそ、先日の仕事は掛け値なしに楽しかったのだ。案の定言い争いはあったが、それでも彼らが自分の隣りにいて、いいものにするべく同じ仕事に向き合うのは楽しい。音楽番組の撮影までに一度集まって練習できないだろうか。プロデューサーに相談してもいいかもしれない。天道は文字を追った。ページを捲ったところで事務所のドアが開く音がする。天道は雑誌から顔を上げた。桜庭だった。
「おつかれ」
「もう来ていたのか」
 桜庭はドアを閉めると天道のもとまで歩いてくる。隣まで来て「届いたのか」と言った。
「ああ。バッチリ載ってるぜ」
 天道は膝の上の雑誌を軽く叩く。すると桜庭は、天道の隣へ座った。ソファの右側が沈み、同時に清潔感のただよう匂いを隣から感じる。レッスン終わりにシャワーを浴びてからきたのだろう。天道の横から桜庭が雑誌を覗き込んでくる。
「見るか?」
「このままでいい」
 桜庭は横髪を耳にかけて、天道の隣から覗き込む。その口角が僅かに上がっていた。その顔を見たとき、天道は初めて自分が桜庭に惚れていることに気がついたのだ。その後の会話を天道は覚えていない。本当に些細な日常の一瞬で自分の認識がひっくり返ったという事実にただ驚いたことだけは、よく覚えていた。
 そして衝撃とは裏腹に、自分が桜庭が好きだという事実はあっさりと腹落ちした。あまりにも納得できる点が多すぎたのだ。例えばそれは、桜庭のきつい言葉にやたらと腹を立ててしまうことだったり、逆に珍しく褒められたときは素直に受け止めきれず茶化してしまうところだったり。しっかりした大人だと分かっているのに必要以上に気にかけるのも、結成当初から言われているのに未だに辞められていない。そして何より桜庭の、眩しいほど実直に仕事へ打ち込む姿が好きだった。

 プロデューサーと話をしてから三日後の夜、天道は駅から少し離れたバーに来ていた。カウンター席に一人で座ってスマートフォンを触る。暖色系の光に包まれた店内はまだ席に余裕があった。奥のテーブル席にはスーツ姿の三人の客が談笑している。カウンター席には天道しか座っていない。先程注文したばかりの杯を傾けながら天道はLINKを見ていた。
『お久しぶりです。少し話したいことがあるのですか、時間を作ってもらえませんか』
 あの日事務所から出た後、このメッセージを見て天道は驚愕した。そもそも彼とLINKを交換していたことすら忘れていたのだ。案の定それより前のやりとりは一切ない。法律事務所に勤めていたころの同僚だった。無口で馴れ合いを好まず、同僚にすら敬語で喋るやつだった。しかし仕事には心底真面目に取り組んでいたことをよく覚えている。桜庭に似ていた、とドラスタやFRAMEの前で話したこともあった。
 杯を半分ほど空けた頃、バーのドアが開く。天道より十センチほど背の低い男はすぐに隣へ座った。
「おまたせしました」
「いや、来たばっかりだよ」
 時計は二十時五十分を指している。男は手短に酒を注文して天道に向き直った。
「お久しぶりですね」
「ほんとにな。お前からLINKがきてびっくりしたぜ」
 二人はそのまま軽い雑談を続けた。久しぶりにあった元同僚の見た目は少し変わっていた。短くて黒かった髪は茶色く染まり天道と同じ程の長さになっていた。服装は昔と変わらず仕立てのいい無難な色のスーツだが、左手の薬指にはシンプルな指輪がつけられていた。天道が事務所を辞めてからは一切の交流は無く、連絡が来た時点である程度調べはしたが、結婚したことまでは指輪を見るまで当然知るよしもなかった。仕事中の姿しか見たことが無いせいか、彼が女性と並んで歩く姿を天道は全く想像できない。指輪を話題に上げるべきか、天道は少し悩んで別のことを口にした。
「そういえば見たぜ。独立したんだってな」
「ああ、知っているんですね」
 なら話は早い、と彼はグラスをカウンターに置いた。
「売れっ子のアイドルにこんなこと言うのは憚られるんですけれども、うちの事務所に来ませんか」
「それは弁護士として、ってことか?」
「当たり前でしょう。うちの事務所にアイドルはいりませんよ」
「だよなあ」
 天道は誤魔化すように視線を反らした。しかし彼はお構いなしにこちらの横顔を凝視してくる。正直、想像はしていた。メッセージを見たときこそ分からなかったが、彼の名前を検索して独立したことを知ってからは、そういった話なのではないかと予測を立てていた。他にわざわざ自分を呼び出す理由が思い当たらない、というのが主な理由だ。分かった上で今日天道はここに来ていた。アイドルを辞めようとしているのだ。それ以外で自分ができる仕事となれば法律関係にほかならない。遅かれ早かれ昔のツテをたどることになる。向こうから声をかけてくれたのだから渡りに船だ。
 しかしそれとは別に驚きもある。彼がわざわざ自分を引き抜こうとする理由は思い当たらないからだ。一度干されてるうえにブランクもある。彼ならいくらでも候補がいるだろう。なぜ自分に? という疑問はどうしても天道の中にあった。「なんで?」と問うと「依頼が増えてきたので人手が欲しいんです」と返ってくる。
「いや、そうじゃなくて。なんで俺?」
「実力は分かってますから。それに……」
 と彼は少し言い淀んだ。
「事務や経理のスタッフに、どうも怖がられているようなんですよ、私。事務所も常に静かでして。それが原因で辞めてしまったスタッフも居るんです。あなたが入れば少しはマシになるでしょう?」
 煩過ぎるのは困りますけれど、と彼は付け加えた。そういうところが桜庭と似ている。天道は笑いそうになった。それと同時に喜びも湧き出てくる。たしかに仕事中に雑談をする彼の姿は想像ができない。そしてその空気を重いと感じる人もいるだろう。まさかこいつに必要とされる日が来るとは、天道は思いもしなかった。
 弱みを見せるようで気恥ずかしいのだろう。彼はグラスを見つめてうつむいていた。その横顔を盗み見ながら、天道はぽつぽつと今の自分の状況を話し始めた。流石に辞めようとしている理由までは伝えられない。そこは「人間関係」といってごまかした。
「では来てもらえるのですか」
「流石に今日返事はできねーよ。それに今すぐにとはいかない。早くてもツアーライブが終わってからになる」
 でも前向きに検討させてもらうよ、と天道は返事をした。表情の乏しい彼が明らかにホッとして眉を下げた。初めて見る顔だった。
 そのままポツポツと彼は自分の法律事務所の現状を語ってくれる。天道はグラスを甜めながら適度に相槌を打った。彼と酒を飲みながら穏やかに話す日が来るなんて弁護士時代には想像もできなかったはずだ。もしかしたら一度離れたからこそなのかもしれない。いつの間にか店の席はほぼ埋まっていた。カウンターの内側ではバーテンダーがシェイカーを振っている。仕立てのいい服を着た客ばかりで、大声で騒ぐものもいない。みな和やかに談笑しており、店内にかかる音楽と混ざって心地いい賑やかさを保っている。いいバーだな、と天道は思った。ここを指定したのは彼だった。
 以外にも話題が途切れることはなく、二人とも三杯目が空になりかけたあたりで彼のスマホが震えた。取り出した彼は「ああ、もうこんな時間ですね」と言った。
「長々と悪かったなあ」
「いえ、こちらこそ」
 帰りがけに彼はカバンから封筒を一つ取り出した。時間を作っていただいてありがとうございます、と天道に差し出す。断ろうとする天道に、大したものではないと言って彼は押し付けて帰っていった。

 平然としたふりをして桜庭にLINKを送り、平然としたふりで待ち合わせ場所に向かうと、平然とした桜庭がいた。天道はほっとした。結成当初なら蛙を零コンマ三秒で殺すような目つきで立っていたに違いない。これは何度も喧嘩と和解を繰り返した賜だ。きちんと和解しなければいけない、という意識がいつからか桜庭に芽生えているようだった。天道がそれに気がついたのはずいぶんと前のことだ。桜庭との言い合いに罪悪感や恐怖が消えたのはその後だった。それでも今回は流石の天道も怖かった。安心したのと同時にまた別の不安も襲ってくる。桜庭が平然としているということは、今回の喧嘩は桜庭にとって普段のものと大差ないということでもある。
 先日天道がもらった封筒の中身は映画館のチケットだった。最近できたばかりの会場らしい。道中桜庭に行ったことがあるかと尋ねると、案の定「無い」と返ってきた。チケットが貰い物であることは事前に伝えていた。それでもロビーや劇場内で物珍しそうにしている桜庭を見て、天道はなぜか誇らしい感情が湧き出てきた。高級路線を売りにしているこの映画館はロビーも重厚だが、なによりシートが豪華だった。一般的な映画館用の椅子では無く、広々としたソファ状の空間が並んでいる。座席についた天道は仕事で行ったプラネタリウムを思い出した。あのときの桜庭はなぜかJupiterの翔太と一緒に座っていた気がする。席についた桜庭はさっさと備え付けのクッションを抱えていた。客席を見回すとすでに八割以上の席が埋まっていた。
 この邦画は先日上映が始まったばかりだ。すでに知名度の高い小説を映像化した作品であり、天道も以前に原作の小説を読んだことがある。見る前にもう一度天道はこの小説を読み直した。当日映画の内容が頭に入ってくるか不安だったからだ。そしてその嫌な予感は的中した。さっぱり集中できなかった。観終わった二人は早めの昼食を兼ねて上階のレストランに来ていた。珍しく桜庭のほうがよく喋り、天道が相槌を打つかたちになっている。桜庭の話題の中心はもっぱら演技についてだった。主人公の上司役をしていた俳優の名前ばかりが上る。桜庭は今ちょうど彼とドラマで共演していた。綺麗に食事をする桜庭を見ながら、天道はぼんやりと話を聞いていた。
 天道が高校生の頃、彼は若手イケメン俳優としてテレビによく出演していた。女性人気も非常に高く、クラスメイトの女子たちも持ち上げていた記憶がある。しかしそれは一時的なものだった。彼が再度テレビや映画に出るようになったのはここ数年のことだ。その間は舞台の仕事をメインにしていたらしい。最近は実力派として様々な映像作品の助演を努めている。十二年ほど前に放送された、彼が主演の高校生恋愛ドラマは当時大流行で、天道も当然見ていた。しかし当時は特別に演技がうまいとは思わなかった。実際にそうだったのだろう。だからこそ映像メディアに帰ってきた際の彼の実力にはたいへん驚いた。俳優として生き残るための覚悟と年単位の努力を天道は、そして天道以外の人も感じ取っていた。
 しかしそれとは別に悪い噂もある。実力と人となりは比例しない。桜庭は今回のドラマでずいぶんと交流を深めているようだが、噂について知っているのだろうか。彼のことを桜庭が口にするたびに、天道は自分の中に暗い感情が湧いてくるのを感じていた。しかしそれを言葉にするのは堪えた。そもそも噂は噂でしかなく、天道自身もちらっと耳にしただけだった。真実かも分からないうえにそれが桜庭に影響を与えるかも分からない。それが杞憂だとしたら、今の状況は桜庭にとって何も悪くない。話を聞くに撮影中にたくさんのアドバイスを貰っているらしい。実力のある他事務所の俳優と交流することはむしろプラスなのだ。噂の真相も分からないのに「あまり関わるのは辞めてほしい」と思うのは、純粋に心配しているからだ。それでも仕事仲間に向けるには過剰だと天道は感じている。それに嫌だと思う理由の十割がそれなのかと言われたら天道は首を横に振るしか無い。三割は桜庭に好意的に思われている俳優に対する嫉妬だった。
 桜庭の、眩しいほど実直に仕事へ打ち込む姿が好きだった。要するに邪魔なのだ。天道の持つ桜庭に対する恋愛感情は、桜庭がトップアイドルを目指す過程で障害にしかならない。天道がアイドルを辞めようと思った一番の原因がこれであった。
 食後のコーヒーを飲みながら、桜庭は先程買った映画のパンフレットを捲っている。時刻は一二時を過ぎた。店の席は全て埋まり、あちこちから賑やかな談笑が聞こえる。トレンチを持った店員がテーブルの間をせわしなく動いていた。
 天道が物静かなことに何かを悟ったのか、もしくは店が混み合い出したことに気がついたのか、桜庭はパンフレットを閉じた。一つ咳払いをして、先日の話だが、と澄ました顔で言い始める。
「リーダーの脱退はマイナスにしかならない」
「流石に分かってるよ。申し訳ないとも思ってる」
 それは間違いなく本音だった。桜庭に対してだけではない。柏木にもプロデューサーにも、当然ファンにも申し訳ないと天道は思っている。
「理由についてははっきり言って微塵も理解できない。だが……、先日はカッとなってああ言ったが、君が簡単に捨て去るほど軽い気持ちでアイドルをしていたわけでは無いことくらいは分かっている。それに、仕事自体が嫌になったわけでは無いのだろう?」
「ああ。大変なことも沢山あるけど、アイドル自体が嫌だと思ったことは無いぜ。楽しいよ」
「なら、辞める以外の解決策を先に試すべきだ」
「……あるのかよ、そんなのが」
「ある。嫌われればいいのだろう、君に」
 仲が悪くても同じユニットとして活動している人たちも、他の事務所にはいくらでもいる。と桜庭は続けた。なるほど理屈としては正しい。DRAMATIC STARSより売れていても、不仲で有名なユニットはある。しかし桜庭の案はあまりにも力技が過ぎる。かと言って頭ごなしに否定してはまた喧嘩になるだけだ。天道はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。
「……具体的には?」
「高圧的な態度を取る」
「いつもだろ」
「では君が自信を持っているものを貶すのはどうだ」
「ああ、ギャグとか」
「暴力を振るうのはどうだ」
「事務所の屋上行くか?」
「……関わりそのものを減らす。会話や連絡は必要最小限に抑える」
「俺とのLINK見返してみろよ」
「……そもそもなぜ君は僕が好きなんだ」
「お前まともに恋愛したことないだろ」
 桜庭は露骨に顔をしかめた。それを見てかわいいなと思ってしまうのだから、桜庭の案を実現するのは難しいのだろう。ぶつぶつと呟きながら別の案を考える桜庭の姿に天道の頬が緩む。桜庭がアイドル活動を最善の形で続ける方法を一生懸命考えているにも関わらず、天道は自分を引き止めてくれていることに喜びを感じてしまっている。だからこそ自分は辞めるしか無いのだと再確認した。
「ごめんな、お前の邪魔してさ」
「なら辞めなければいいだろう」
 居ても邪魔なんだよ、と天道は返した。桜庭は納得いかないと言わんばかりの顔で首を傾げていた。

 柏木のテンションの高さにはその場にいる全員が気づいていただろう。ライブ来場者に向けたメッセージ動画の撮影の為、久しぶりにDRAMATIC STARSの三人揃っての仕事だった。事務所のテラススペースには大型のスタンドライトが複数持ち込まれている。撮影スタッフと打ち合わせをしているプロデューサーを横目に、天道と柏木は台本を捲っていた。すでに衣装を身に着けて、ヘアメイクも完了している。前の仕事が押した桜庭は二人より支度が遅れた。ドアから桜庭の姿が見えた瞬間に、柏木が嬉しそうに駆け寄っていく。天道はその後ろをついていった。天道を見た桜庭は少し不安げな顔をした。そして話しかけるのを躊躇うように見えた。天道は笑顔を作って「似合ってるな」と話しかけた。桜庭はホッとした顔で「PV撮影のときにも見ただろう」と返事をした。
 動画は一人ずつのパートと三人揃ってのパートに分けられる。程なくして柏木が最初に呼ばれた。天道と桜庭は並んで、カメラの更に奥から柏木が話しているところを見守っていた。柏木は滞りなく話を進めている。桜庭は真剣な顔でずっと柏木を見ていたが、終わりがけにちらりと天道を見た。その顔はやはり最初のときのように不安げだった。柏木が話し終わり、スタッフが天道の名を呼ぶ。天道は「大丈夫」と呟いて桜庭の肩を叩いた。質問の内容は事前に聞かされていて返答も考えてある。だから大丈夫だと、天道は思っていた。実際に一人で喋るシーンは大丈夫だったのだ。問題は最後の三人のシーンだ。三人並んでカメラの前に立った瞬間から、天道自信もダメだと分かってしまった。天道は自分の頬に触れた。ぎこちなさは緩和されなかった。上手く笑えない。二人の会話が耳に入ってこない。そして上手く返答できない。撮影は一時中断された。「外の空気を吸ってくる」と言って、天道は逃げ出すように屋上へ向かった。ちらりと見えた柏木には不安が全面的に出ており、あまりの申し訳無さに天道は消えてしまいたくなった。

 屋上の金網に額を押し付けながら天道は大きなため息をついた。正午を過ぎたばかりの太陽はまだ頭上高くに輝いており、衣装のジャケット姿ではじんわり汗ばむくらいに暑い。事務所のビルの下はたくさんの人が行き交っている。昼食の弁当を買うためだろう。下のたまこ屋の前には人が集まっていた。
 天道にも予想外だった。原因はおそらく罪悪感だろう。あの動画を見てくれるファンは三人揃って行われるライブを楽しみにしてくれているはずだ。それが自分のせいで、今回が最後になるかもしれない。辞めた方がいいという考えは前からあった。それでも仕事に影響は無かったはずだ。口に出してしまったのが不味かったのだろう。どちらにせよライブにはきちんと出演するつもりだった。しかしファンに向けた動画ですらこの体たらくだ。ファンの前に直接三人で出て、自分はアイドルを全うできるのか。天道は金網を強く握った。ぎしりと嫌な音が鳴った。
 天道が日差しに焼かれながらしばらく金網に額を押し付けていると、背後のドアが開く音がした。どうせ文句を言いにきた桜庭だろう、と天道は振り返らなかった。振り返れなかった、のほうが正しいのかもしれない。合わせる顔がなかった。そっと締まる音の後にコツコツと天道に向かって歩いてくる。隣に立った人影が想像より大きいことに天道は気がついた。ゆっくり視線を向けると、悲しげな顔をした柏木が天道を覗き込んでいた。
「薫さんとなにかあったんですか?」
「……桜庭と?」
「はい。薫さんも様子がおかしいので」
「桜庭、怒ってるだろ?」
「怒ってるというか……。怒り半分悲しさ半分、って感じです」
 いつもならめちゃくちゃ怒りそうなのに、と柏木は続けた。
「本当にどうしちゃったんですか? 大丈夫です?」
「ぶっちゃけ大丈夫じゃない。でも、なんとかしないとなあ」
「喋ること全部決めちゃって、文字に起こしちゃいましょうか。プロデューサーにカンペ持ってもらいましょう」
「……そうだな。そうするしかないか」
 未だ不安げな顔をする柏木の背を、天道は軽く叩いた。
「ちゃんとやるよ、ちゃんとな」
 天道は金網に背を向けて歩きだす。後ろから柏木が「ねえ、輝さん」と呼び止めた。
「ライブ、楽しみですね」
「……そうだな」
 天道は振り返ることができなかった。
 テラススペースに戻った天道はプロデューサーと桜庭に頭を下げた。三人で話す部分に関しては全てセリフを決めてほしいことを伝える。桜庭は苦い顔で「そこまでしなければできないのか」と言った。天道はうなだれてうなずくしか無かった。あのとき桜庭に聞かれなければまだマシだったのだろうか。それとももっと早く、きっぱりと辞めるべきだったのだろうか。プロデューサーのもつカンペを読み上げながら、天道はそんなことばかり考えていた。
 なんとか撮影を乗り切ったその晩、天道は元同僚にLINKを一本送った。

 
 テレビ越しでは広くて立派に見えるバラエティのセットも引いて見るとハリボテ感が拭えない。だだっ広い空間にL字に壁が作られ、その間には椅子やらモニターやらが豪華に並んでいる。周りにはカメラやらマイクやらライトやらの無骨な機材がいくつも置かれていて、そのそばで地味な格好をしたスタッフたちがあれこれ仕事をしていた。
 準レギュラーとして何度も出演しているバラエティ番組のセットを、天道は何気なしに見つめていた。撮影は先程終わったばかりで、スタッフだけでなく出演陣もまだ何人も残っている。
「天道くんおつかれ。今日も良かったよ、ギャグ以外は!」
 ひな壇レギュラーのお笑い芸人がぽんと天道の背を叩く。天道はとっさに笑顔を作った。
「いや、ギャクも冴えてましたよ!」
「どこがよ」
 わははと笑う彼の顔を見て天道は胸をなでおろした。先日の動画撮影のこともあり、プロデューサーは現場に同行しようかと持ちかけてきていた。しかし天道はそれを断った。「予定通り翼の地方ロケに行ってあげてくれ。……たぶん、ソロの仕事なら大丈夫だ」と伝えると、プロデューサーは不安げな顔をしながらも引き下がってくれた。声をかけてくれた彼は、テレビで見せているキャラクターと違って意外と仕事にストイックである。彼が笑って声をかけてくれたのだから今日は本当に大丈夫だったのだろう。
「天道くんこれから暇? 飲み行こうよ。今朝カミさんの機嫌サイアクでさあ。帰りたくないんだよねえ」
「俺はいいですけど、あんまり遅く帰ると余計に機嫌悪くなるんじゃないですか?」
「それはそうなんだけどさあ」
 などと言いつつ彼は家庭の愚痴を少しこぼした。その後、他の人も誘ってくると言ってその場を後にする。天道は荷物を取りに楽屋へ戻ることにした。

 楽屋に戻った天道はさっと着替えてテレビ用のメイクを落とし、自分のカバンを手に取った。癖でスマホを取り出してロックボタンを押す。そこにはおびただしい数の通知が来ていた。ぎょっとして確認する。その全てがプロデューサーだった。メッセージと不在通知がいくつも折り重なっている。天道はスマホを開いた。慌ててLINKを確認する。
『撮影終わりましたか?』
『終わったらすぐ連絡ください』
『桜庭さんが非常事態みたいなんです』
『事務所もすぐに動ける人がいなくて』
『まだかかりそうですか』
 天道は再度通知を見返した。最後の電話は三分前だった。慌ててプロデューサーに電話をかける。ワンコールもかからず繋がった。
「仕事終わりましたか?!」
「終わったけど、何があったんだ」
「……正直、杞憂であって欲しいのですが」
「うん」
「酒になにか盛られたみたいです」
 天道はカバンをひっつかんですぐに楽屋から出た。スマホを耳に当てたまま早足に歩く。そのままプロデューサーから店の場所を聞いた。ここからならそう遠くない。天道はエレベーターのボタンを押した。上部の階層表示を見て思わず舌打ちする。すると後ろから「あれ」と声が聞こえてきた。さきほど約束したばかりの芸人だった。
「天道くん」
「すみません急用です! また来週誘ってください!」
 一向に変わらない階層表示に再度舌打ちをして、天道は階段を駆け下りることにした。
 天道とすれ違う全員が驚いて振り返る。しかしそれに「お疲れ様です」と声だけかけて天道は階段を駆け下りた。そのままテレビ局を飛び出し、駐車場にいるタクシーの一つに乗り込む。運転手に店の名前を告げて、天道は一息ついた。タクシーはゆっくりと走り出す。天道は手に持ったままのスマホで桜庭の名前を探す。『プロデューサーから聞いた。大丈夫か? 今向かってるから』と手短に打ち込んだ。天道は外を見た。窓ガラスには眉を寄せた自分の顔がはっきりと映り込んでいる。日はとっくに沈んでいた。大量に走る車のヘッドライトと建物から漏れる光が夜闇を照らしている。桜庭が主演を務めているドラマは今日がクランクアップのはずだ。今日のこの時間に店で飲んでいるなら、それの打ち上げに間違いないだろう。
 天道は握りしめたスマホを何度も見た。しばらくしてやっと既読がつく。それを見た天道は通話ボタンを押したが向こうから切られてしまった。再度『大丈夫か?』とメッセージを送る。返信を待つ数十秒が酷く長く感じられた。
『お手洗いにこも』
『こもってる。どあのそとにだれいる』
 桜庭の誤字を見るのは初めてではないだろうか。天道はスマホを握る手に力が入った。『絶対に出るなよ』と返す。送ると同時に既読がついた。天道は財布から五千円札を取り出して握った。もう五分もあれば到着するだろう。車は着実に進んでいく。天道はひたすら窓の外を眺めていた。そして予定通りの五分後にタクシーは店からひとつ横の大通りに到着する。天道は握っていた五千円を運転手に渡してすぐに飛び出した。飲食店の並ぶ通りまで走れば、一人でいる人などほとんど居ない。似たような格好をした人が固まって楽しそうに談笑しながら歩いている。その隙間を縫って天道は走った。店はすぐそこだった。遠目に見える看板に向かって進む。店の入口が目視できる位置までついた。そこには見知った丸い頭がある。出るなって言っただろ。天道はさらに足を早める。桜庭は支えられていた。短髪で程よく筋肉がついた、桜庭より少し背の高いその男の背中を天道は知っていた。スクリーンで見たばかりだったからだ。
「桜庭!」
 大きな声で叫ぶと周囲の人まで振り返る。当然男も振り返った。その瞬間の冷たい眼差しを天道は見逃さなかった。駆け寄っていき、男が肩を貸しているのとは反対側から桜庭の手首を握る。桜庭は青白い顔をしていた。
「すみません。うちのが迷惑かけて」
「おどろいたな。不仲って聞いてたのに」
 天道は男を見据えた。人がよさそうな笑顔でふわりと笑っている。
「大丈夫だよ。悪酔いしただけだ。俺のマンションが近いから、そこでちょっと休ませるよ」
「結構です。こっちで連れて帰るので」
 男の笑顔がすっと消える。その瞬間に桜庭を引き剥がした。軽く頭だけ下げてさっさと背を向けた。桜庭の手を引いて歩き出したが、後ろから舌打ちが聞こえて天道は一瞬硬直した。
「アイドル風情が。顔だけのくせに」
 天道は振り返らずに、桜庭の腰に手を回してしっかりと支えた。
 来た道を半分以下のスピードで戻っていく。すれ違う人の中には顔をしかめながら避けていく者もいる。桜庭を酔っ払いと勘違いしているのだろう。避けてくれるなら好都合だ。桜庭の左腕が天道のシャツの背を掴んでいる。その弱々しさは服越しでも伝わってきた。なんとか大通りまで戻ってタクシーを探す。さっきの運転手に待ってもらうように頼んでおけばよかった。自分の手際の悪さに天道は苛立ちを覚えた。大量のヘッドライトの眩しさに顔をしかめていると、右手側からクラクションが鳴る。すぐそばに見慣れたバンが停まった。
「すまない、遅くなった!」
 開けられた助手席の窓から見えたのは斎藤社長だった。
「乗りたまえ!」
 天道は後部座席のドアを開けて桜庭とともに乗り込んだ。社長の姿と嗅ぎ慣れた車内の匂いで、自分の緊張が解れていくのを感じる。
「とりあえず事務所に」と天道が言いかけたところで桜庭が袖を引く。
「いや、ここに」とスマホの画面を見せてきた。その住所はここからそう遠くない。
「大学の同期の家がやっている個人病院だ。連絡はしてある」
 天道は社長の顔を見た。うなずいたのを確認して住所を読み上げる。手早くナビに入力した社長は車を発進させた。
 天道はやっと桜庭の顔を見た。「大丈夫か?」と声をかけると、桜庭は小さく首を振った。俯いているせいで顔に髪がかかり、表情はよく見えない。天道はそっと手を伸ばして桜庭の前髪を掬った。瞳が潤んで今にも泣き出しそうだった。桜庭は小さな声で「虫が」と言った。
「虫?」
「入ってくる」
 桜庭はしきりに左右の手を払っている。当然そこには何もいない。天道は桜庭の両手を握った。手は酷く冷たく、小刻みにふるえていた。
「おちつけ、虫なんかいない」
「分かってる」
 そう言いながらも桜庭はさらに俯いて「気持ち悪い」と小さく声を漏らした。天道は片手を離して、桜庭の頭を抱き寄せる。
「大丈夫だから。目、瞑っとけ」
 肩越しにうなずいたのが伝わった。震える桜庭をあやすように、小さく頭をとんとんと指の腹で叩き続ける。すがるように握ってくる手が気の毒で仕方がなかった。天道はシート越しにナビを見る。目的地までまだ十分以上はかかるようだ。早く、早くとただ祈ることしかできなかった。どうして桜庭がこんな目に合わなければならないのか。天道は先日の、彼のことを話す桜庭の様子を思い出していた。桜庭は実力主義だ。努力でそれを身に着けた彼を間違いなく尊敬していた。たとえ嫉妬だとバレようとも、鬱陶しく思われようとも、あの日に忠告しておけばよかった。多少の噂を聞いていた天道も流石に彼がここまでのことを仕出かすとは思っても見なかったのだ。
「目的地付近に到着しました。案内を終了します」
 やっと聞こえたその音声に天道はほっと息を吐いた。社長が揺らさないようにゆっくりと車を止める。建物から駆け寄ってくる人の姿が窓の外に見えた。天道はそっと桜庭から体を離した。

 天道は階段を上る。早めに事務所に到着した天道に「桜庭さんももう来てますよ」とプロデューサーは微笑んで言った。屋上だと思います、と続けた彼にお礼を言って、すぐにミーティングルームを後にした。天道はシャツの襟元を緩めた。空調の効いていないここはうっすらと汗ばむくらいに暑い。
 医者に託した後の顛末を、天道はプロデューサーから聞いていた。やはり非合法の薬物であったこと。幸いにも効果が切れた後は体調に問題が無かったこと。そして後遺症らしきものも見当たらないこと。あのドラマ関係の仕事はまだ少し残っていて、桜庭はバラエティに番宣で出演する予定だが、例の俳優は出ないらしい。顔を合わせる機会も無い。それを狙っての犯行だったのだろう。天道としては今すぐにでも訴えてやりたいところだが、彼がやった証拠を叩きつけるのは難しいだろう。今回は泣き寝入りをする他無い。俳優に関してはうちの事務所のブラックリストに載った。二度とうちのアイドルには近づけさせません、とつぶやくプロデューサーの目は見たことも無いほどに恐ろしかったが、天道としては頼もしい限りである。
 最上段についた天道はそっと目の前のドアを開けた。隙間から外を覗く。そこからまっすぐ先のフェンスの前に桜庭の後ろ姿があった。いつも通りしゃんと伸びた背筋の上の頭は、空を見上げていた。天道はドアを抜けて外へ出る。日差しの暑さを感じるよりも先に、爽やかな風が頬をさらった。桜庭の髪も風にさらわれてかすかに靡いている。そっと近寄って、後ろから名前を呼ぶ。桜庭はすぐに振り返った。先日とは比べ物にならないほど血色のいい顔をしていた。話は聞いていたとはいえ、あの事件後に顔を合わせるのは今日が初めてだった。天道はほっと胸をなでおろす。
「もう大丈夫なんだよな」
「ああ、薬さえ抜ければ問題は無いようだ」
 桜庭の表情は明るい。天道はつられて微笑んだ。あんな目にあったにも関わらず数日で切り替えられる桜庭の強さに安心した。
「先日は悪かった。君が来てくれなかったら、もっとひどい目にあっていただろうな」
「たいしたことしてねえよ。社長もすぐそこまで来てくれてたしな」
 桜庭は首を振った。そのまま真っ直ぐ天道を見つめてくる。
「……あのとき君の姿を見て本当に安心した。来てくれて助かった」
 珍しいこともあるものだと、天道は頭を掻いた。桜庭にここまではっきり礼を言われたのは初めてかもしれない。天道はあの晩の桜庭の姿を思い出す。なんの力にもなれなかったと思っていた。飛んでいった意味はあったのか、と素直に嬉しかった。
「それでだ、天道。あれから考えた」
「何を?」
「やはりDRAMATIC STARSは3人であるべきだと思う。僕には君が必要なのだろう」
 天道は一瞬面食らったがすぐに相槌を打った。正直な話、ここ数日は桜庭の心配ばかりをしていてその話を忘れていたからだ。確かにあれから何の進捗も無かった。
「しかし君に心理的負担をかけた状態で続けるのは良くない。そしてその負担は、僕に片思いしている状況が原因なのだろう?」
「……ああ」
「ならば先日言ったもの以外にもう一つ、解決策がある」
「無いだろ」
「ある」
 言い切った桜庭は一拍置いて再度口を開いた。
「君が、僕のことを口説き落とせばいい」
 両思いなら問題ないのだろう? と桜庭は得意げに眉を上げる。なるほど理屈としては正しい。
「お前、たまにめちゃくちゃなこと言うよな」
 ユニットメンバーに向かってそんなことを言ってくるやつはこの世に桜庭くらいしか居ないだろう。とんでもないやつに惚れたな、と天道は改めて思った。なぜそんな堂々とした顔ができるのか、天道には理解できない。それと同時に、お前はそれで本当にいいのか、とも思った。でも言い出したのは桜庭本人なのだから、「いい」と捉えるほか無いのだろう。
「……できるかなあ」
「やれ。ライブまでに」
「期限付きかよ」
「とりあえず戻るぞ。そろそろ柏木も来てるだろう」
 話は終わったと言わんばかりに、桜庭は天道の横を抜けて歩いていく。その背中を天道は呼び止めた。
「言ったからにはお前、オフの日全部空けとけよ!」
「望むところだ」
 鼻を鳴らす表情はあまりにも可愛くない。さっさと屋上を去る桜庭を見送ってから、天道はスマホを取り出した。さっさと文字を打ち込んで、すぐにその背中を追いかけた。
『もうちょっと頑張ってみることにするよ。せっかく誘ってくれたのに悪かったな』