『お前の第二ボタンを欲しがるやつがいませんように』

 中途半端なものほど触りたくなるのは人間の性だ、と宮城は思っている。一ミリだけ立っている逆剥けはついつい別の指の腹で逆撫でてしまうし、端がすこしだけめくれたセロテープは爪で引っ掻いてしまう。ちぎれかけた消しゴムはわざわざ割れ目を開いてみるし、取れかかった学ランのボタンは意味もなく指で弄んでしまう。

 気がついたのは朝練を終えて着替えたときだ。学ランの上から二つ目のボタンを止めている糸が、ずいぶんと緩んでいた。どこかに引っ掛けたのだろうか。宮城は少しつまんで引いた。今すぐ取れるほどではないが、手を離すと一つだけ首をもたげたように下を向く。それがどうにも中途半端で格好が悪い。

 触らずにいればいいのだ。残したまま家に帰って、母になおして貰えばいい。頭では理解しているのに、授業中もつい手が伸びてしまう。かといって完全に引きちぎるわけでもない。糸はいたずらに伸び続けた。結局それが取れたのは昼の屋上、それも予鈴の五分前だった。

 手からボタンがこぼれ落ちると同時に、「あっ」と小さな声が出た。スラックスの上で跳ねて、アスファルトへ転がっていく。隣の三井はとくに驚くでもなく「弄るからだろ」とつぶやいた。取れかかっていることにはとうに気がついていたらしい。

「なんか触っちゃうんすよね、こういうの」

「まあ、分かるけどよ」

 逆剥けとか引っ張っちまうんだよなあ、と気が抜けた声で三井が続けるから、宮城は笑った。ボタンを拾い上げて、手のひらに載せる。表面に施された模様をまじまじと見るのは初めてだった。学ランのボタンってこんなだっけ、と宮城は首を傾げた。別に深い意味はない。いつも着ているのに気にしたことすらなかったことが、なんだか不思議に思えただけだ。

 隣の三井が静かなので、宮城は顔を上げた。先程までの宮城と同様、三井もじっと取れたボタンを見つめていた。

「なんすか」

「……つけてやるよ」

 宮城は目を瞬かせている間に、三井はさっさと立ち上がって歩きだす。「ほら、行くぞ」と三井は宮城を振り返った。

 もう授業始まるんすけど。行くってどこに。アンタ裁縫なんてできるんですか。言葉はいくつも思いつくのに、一つも喉から出てこなかった。

「一緒に入ってたと思ったんだけどよ」

 部室の床にしゃがみ込みながら、三井は救急箱を漁っている。宮城はベンチに座ってその背を眺めていた。五限はとうに始まっている。どこかのクラスが体育でサッカーをしているのだろう。宮城はその音をぼんやりと聞いていた。三井が一向に裁縫セットを見つけられないので、宮城は前身頃に残った糸くずを手持ち無沙汰に取り除いた。

「おー、あったぞ」

 やっと振り向いた三井が手にしているそれは、おもちゃみたいに小さくて安っぽい。似合わないな、と宮城は素直に思った。三井は眼の前で膝立ちになって、針に糸を通している。三井の頭が自分よりもちょっと下にある。なんでそこに座っているのだろうか。まさか、と思ったところで三井に服を掴まれた。

「動くなよ」

 ああ、この人まじで裁縫できないんだな、と宮城は悟った。普通、着せたまま縫わないんだよ。教えてあげるべきなのだろうが、眉間にシワを寄せた顔を見るに、話しかけると怒られそうなので黙っていることにした。三井はそのままおぼつかない手で、針を刺していった。

 普段はくだらない話ばかり飛び交うのに、稀にこうしてお互いの口数が減ることがある。そんなとき三井は決まって、宮城を見ない。それがわざとなのか無意識なのか、宮城は知る由もない。しかしこれ幸いと、宮城はいつも三井を眺めていた。

 初めてあった日に見た、兄の面影は殆ど消え失せていた。改めて向かい合えば顔も中身も似ていないのだ。しかし後ろ姿だけは違った。眺めるたびに、生きていればきっとこのくらいの背格好だったのだろう、と思わずにいられない。しかし振り向けば、口を開けば、その幻想は離散する。それが悲しいわけではない。ただ、中途半端なのだ。色々あったが、三井自身のことは好ましく思っている。その一方で、あの日見た幻想を捨てさることも出来ないでいた。自分が彼に何を求めているのか、宮城ははっきりとした答えが出せないでいる。

 いっそ引っ張ってしまえばいい。髪でも顎でもひっつかんで、こちらを向かせてしまえばいいのだ。そんな衝動を宮城はぐっとこらえた。逆剥けは痛みを増し、ボタンはちぎれて転がっていく。そっとしておけ、触るんじゃない。ろくなことにならないのだから、と言い聞かせた。三井にバレないように手の汗をスラックスで拭う。

 それでも中途半端なものほど触りたくなるのが人間の性だ。未だ目の前にある真剣な顔に、少しだけ、と言い訳をして手を伸ばす。顎の傷に指先がほんの少し触れた瞬間、三井の肩がびくりと跳ねた。

「痛った」

 三井の指の腹から、小さな赤い玉がぷくりと浮き出る。宮城は慌てて立ち上がろうとしたが、三井に学ランを引ひかれて制止された。

「もう終わるから、座ってろ」

 血がつかないように人差し指を反らせながら、三井は糸を切った。そのまま指を咥えて、なれないことするもんじゃねーな、と呟きながら三井は救急箱を漁りだす。宮城はついたばかりの第二ボタンにそっと触れた。意外とまともに縫われていた。

「最後の方、縫っててイヤになったからよ。呪っといてやったぜ」

「はあ?」

 絆創膏を巻いた指で宮城を指しながら、三井はにやりと笑った。

「もう取るなよ!」

「いや、好きで取ったんじゃないっすよ」

 さっきまでロクに目も合わせなかったくせに、いつもの調子で話しかけてくる。

 この人のこういうとこ、よく分かんねーんだよな、と宮城はため息をつきそうになった。

「ところでお前六限なに? 出るの?」

 平然と話しかけてくる三井に、数学だった気がする、と返事をした。

 振り回されっぱなしで癪に障るが、どうせ自分では中途半端で決められないのだ。だったら三井に合わせてやればいい。三井の望みに乗っかっていれば、悪い方向には動かないだろう。では三井の望みとは、三井が己に望むこととは、あとさっきの呪いってなに、と頭を捻らす宮城のことなどつゆ知らず、三井は「じゃあサボれよ」と言った。

 悪い方向にも種類があるよな、と思いながらも、すでに授業へ出る気は失せていた。