当たれば悲劇、掠めれば奇跡

 ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドは目に見えてそわそわしていた。

 戴冠してから約一年、責務に追われる姿にはまさに救国王と呼ばれるにふさわしい威厳が身に付きつつあったはずだが、残念なことに今はその影もない。

 執務室で顔の前に書類を掲げてはいるものの、明らかに隻眼は文章を追っていなかった。たまにハッとしたように目を見開くも、またすぐに彼の思考は他所へ飛んでいく。時折、ソファの上の布づつみに視線をやり、民に見せられないほど緩んだ表情をした。

 仕事にならない。ドアの前に立つドゥドゥーは君主に聞こえないよう小さくため息を付いた。

 皇帝を倒しました。戦争は終わりました。世界は平和になりました。寓話のように綺麗に終われたらどんなに楽だろうか。残念なことに、この世はそんな単純にできていなかった。

 エーデルガルトの思想を未だ盲信する残党。戦争で賊に身を落とした者。そしてその裏に見え隠れする不穏な者たち。守るために誰かが剣を振るわねばならぬ日々が、未だ続いていた。

 先日も、ガラテアの領地に居座っていた山賊が流石に手に負えなくなってきたと、王都に救援の依頼が来たばかりだ。イングリットに騎士団を一つ率いらせ、さらにフラルダリウスからも兵を出すこととなった。

 さてその兵を出してくれたフラルダリウス公爵様はと言えば、兵と一緒になって意気揚々と出陣したらしい。お前にいけとは言っていない。使者を前にディミトリは苦言を漏らしたが、決して怒ってはいなかった。むしろ山賊側に同情さえした。イングリットでさえ必要ないのではと迷ったほどだ。そこにフェリクスまで投入してしまっては、過剰戦力もいいところである。

 どうせさっさと蹴散らして返ってくるだろう。この件に関してはさほど気に留めていなかった。そもそも山賊退治に乗り込む暇があるのならば王都に顔を出してほしい。というか自分のところに来てほしいというのがディミトリの本音だった。民を思えば戦時中より今のほうが百億倍マシだ。だが、恋人と共に居られる時間はガルグ=マクにいた頃のほうがよっぽど長かった。なにせ寝室が隣だったのだ。王都奪還直後に告白してからの数カ月は、不謹慎を承知で言えば、忙しいながらも幸せでもあった。

 だからイングリットが天馬で一人いち早く帰ってきたとき、彼はたいへん驚いた。そして彼女の言葉を聞いて、さらに驚くことになった。

「フェリクスの見た目が若返りました」

 ディミトリは自分の後頭部をぐしゃぐしゃと混ぜた。

「……順を追って話してくれないか。意味が分からない」

 イングリットの話を要約すると、「山賊の中に妙な魔法を使うやつが混ざっており、その魔法を避けきれず掠めたフェリクスの容姿が若返ってしまった」ということらしい。

「他に異常は無いのか?」

「はい。どうやら見た目が変わっただけで、怪我や不調もなければ記憶に問題もありません。騎士団の中にいた魔法に詳しい者によれば、一、二週間もあればもとに戻るであろうとの話でしたが」

 念のため魔道学院の学者にでも見せたほうがよろしいかと思います。とイングリットは続けた。

「どのくらい若返ったんだ?」

「ざっと六年か七年。ちょうど士官学校に通っていた頃くらい、でしょうか」

「そもそもなぜ敵はそんな魔法を?」

「掠めただけでこれですから。直撃してたら今ごろ胎児並の小ささでしょうね」

 ディミトリは自分の頬が引き攣るのを感じた。もしかしなくてもめちゃくちゃ危なかったのではないだろうか。

 その後フェリクスには直接魔道学院へ向かってもらい、その後はもとに戻るまで王城で待機するように指示を出した。それが四日前の話だ。そしてもう一つ、大急ぎで作らせたものが今、執務室のソファの上に、布で包まれて置かれていた。

 作らせた本人は執務机に座りながらも、一向に仕事が進んでいなかった。イングリットからの報告を受けた直後はまだそれなりに働いていた。問題は例のものが届いてからである。その中身を確認してからの救国王はそれはもうひどい有様だ。ろくに仕事が進まない。いつもの十分の一程度の遅さである。

「なあ、ドゥドゥー。フェリクスはまだ来ないのか」

「昨日、魔道学院が『以上無し』と正式に言ってきましたから、じきに参るでしょう」

「そうか」

 ディミトリは書類を放り投げて、椅子に深く背を預ける。茶でも入れますか、とドゥドゥーが訪ねようとすると同時に、控えめなノックが部屋に響く。ディミトリは椅子から跳ねるように立つと「入れ!」と叫んだ。数秒後、部屋の中を伺うように、そっとドアが開く。ディミトリは口角が上がりそうになるのを必死にこらえた。ご丁寧に髪まで伸びたらしい。後頭部には小さなお団子が乗っている。バツが悪そうにうつむきがちな顔は、今ではすっかり消えたはずの少年らしさを残していた。しかし服装は公爵らしくいつもの立派なマントを付けているものだから、なんだかアンバランスだ。

「ずいぶんな姿だな。フラルダリウス公」

 ディミトリはわざと高圧的な物言いをする。するとフェリクスは一瞬目を見開いたあと、露骨に顰め面をしてズカズカと執務室に入ってきた。それと入れ違うように、ドゥドゥーが音も立てずに外へ出る。もはや慣れたものである。

「笑いたければ笑えばいいだろう」

 真正面に立って下から睨みつけてくる顔はずいぶんと幼い。ディミトリは別に、笑うつもりは微塵もなかった。ただニヤけるのを我慢しているだけだ。

「イングリットから話は聞いている。危うく死にかけたそうだな。いや、生まれ直しそうだったと言うべきか?」

 フェリクスは舌打ちをして目をそらした。下手を打った自覚はあるらしい。ディミトリはついに我慢できなくなった。自分の口角がこれでもかと上がるのを自覚しながら、口元を手で覆い隠して言葉を続けた。

「その姿であちこち動き回るわけにもいかないだろう。戻るまでは俺の机仕事でも手伝ってもらうぞ」

「……分かった」

 とは言え執務室に監禁するわけにもいかない。城内くらいは自由に歩けるべきである。しかしフラルダリウス公が小さくなったなどと噂されるのはあまり良くない。見られた程度ではフェリクスとバレない格好をさせるべきだ。

「公爵は怪我で二週間ほど療養すると周囲には伝えてある。なに、服装さえ変えればあまり気づかれはしないだろう」

 ピッタリのものを用意してやったぞ。と、ディミトリはソファの上を指さした。

 白いシャツの上に、金色の模様とボタンを施した黒いベスト。黒いズボンの左腿にはベルトが一つ巻かれている。足元は当然、白いブーツだ。どこからどう見ても士官学校の生徒にしか見えない。そんな姿のフェリクスを左腿の上に座らせて、救国王は満円の笑みを浮かべていた。フェリクスの両足は己の足の間に落とし、左腕で腰を抱き寄せている。そして目の前にあるフェリクスの顔へグリグリと頭を寄せると、案の定「おい」とドスの利いた声が降ってきた。

「仕事を手伝わせるのでは無かったのか」

「そんなもの、手につくわけないだろう」

「そもそもなんだ、この格好は」

「ぴったりだろう。大急ぎで作らせたんだ」

「士官学校はまだ再開してない。今制服を着ているものなどこの世に一人も存在しない。こんな格好で歩いていたら不審がられるだろう」

「そうだな」とディミトリは平然と言う。

「俺が着せたかっただけだ」

 フェリクスはこれみよがしに大きなため息を付いた。「なんなんだ、お前は」

 そう呟くフェリクスの瞳を、ディミトリは至近距離で眺めていた。顔こそ当時のままだが、瞳には優しさが混じっている。当時では考えられなかったことだ。

「この姿の頃のお前は、俺にずいぶんと冷たかっただろう」

 ディミトリは再度、フェリクスに頬を寄せた。

「結構寂しかったんだぞ」

 腰に添えた手に力を込めて、より抱き寄せる。フェリクスの手が右肩に添えられた。しかし抵抗するように強く押されることはない。顔を離して顔を覗くと、バツが悪そうに視線がさまよっていた。何か言いたげだが、言葉が出ないのだろう。口も小さく開いたり閉じたりを繰り返している。結局彼は困惑した顔のまま、小さく「ディミトリ」とつぶやいた。

 その可愛らしさにディミトリは目を細める。そもそもこの姿のフェリクスが自分に抱き寄せられていること、そして名を呼んでくれること。ディミトリにとってそれは起こり得なかった過去のはずだった。そのはずだったものが、奇妙な形かつ少しの時間ではあるが、手に入れる機会が今と未来に現れたのだ。

「たかが一、二週間程度、可愛がってもバチは当たらないだろう」

 前髪をなでつけるように撫でると、「勝手にしろ」と顔を背けられる。その耳はずいぶんと赤かった。