今日はあの子の誕生日

 まんまるな頭のフォルムに、癖のないつややかな黒髪。子供らしかった頬の丸みは取れてしまったが、涼し気な目元は変わっていない。
 二十年ぶりくらいだろうか。初恋のあの子が店に初めて入ってきたとき、思わず拭いていたグラスを落とすところだった。子供の頃の面影を残したままの彼は値踏みするように店内を見渡す。そして厭味ったらしく鼻で笑った。
「しけた店だな」
 自身の手から滑り落ちたグラスが、ガシャンと足元で割れた。他人の空似かもしれない。そうであってほしい。そんなことを言う子ではなかった。そんな表情をする子ではなかったんだ。
 バーテンダーの気など知る由もない彼は、ヅカヅカと真正面までやってきてカウンター椅子に乱暴に腰掛けた。
「酒」
「……ウイスキーかビールしかないけど」
「どっちでもいい」
 彼は頬杖を付きながらつまらなそうな顔をした。バーテンダーは後ろの棚へ振り返る。少し迷って、二番目に上等なウイスキーの瓶を手に取った。グラスに注いで出してやる。彼は無愛想なまま口をつけた。その目が一瞬だけ見開いて、ほんの少しだけほころんだ。
 酒の味は悪くない。そうつぶやく姿に、やはりあの子だと認めざるを得なかった。

 家族ぐるみの付き合いだった。気難しそうな父親と、聡明そうな母親、そして優しげな雰囲気をまとった姉。そしてその後ろに隠れているあの子。仕事絡みの付き合いだったのだろう。いつもすぐに父親二人は席を外した。残った母親二人と彼の姉に見守られながら、二人で遊ぶのが常だった。
 遊びに行こうと駆け出すと、細くてどんくさい彼はすぐに転ぶ。そのたびに泣きそうな顔をするから、いつも慌てて起こしてやった。木登りも下手だった。怖がって登れないから、上から引き上げてやる。そうすると今度は「降りられない」と怖がった。
 地面に絵を描いて遊ぶこともあった。それは彼のほうが上手かった。歌もそうだ。彼はきれいな歌を教えてくれた。真似をしても、ちっともきれいには歌えなかった。
 次はいつ来るの? と、帰ってしまうたびに母に尋ねた。二ヶ月後よ、と母はいつだって答えた。なのにある日、彼らは来なかった。どうして来ないの、次はいつ? と母に聞いた。無言で頭を撫でられるだけだった。
 ずっと昔の記憶だ。子供の頃の、もう思い出すことすらめったにない記憶。結局父の仕事ではなく、祖父の店を継いだ。仕事にも生きていくのにも関係のない思い出が、あの日一瞬で引きずり出された。
 あれ以来彼はこの店にやってくる。人相の悪い男を後ろにずらずらと連ねながら、金をちらつかれる。機嫌が悪い日はカウンターに足を乗せた。
 聞きたいことが山ほどあった。どうして急に来なくなったんだ。姉さんはどうした。ときおり咳き込んでいただろう。どうしてそんな仕事をしている。家族はどうした。
 バーテンダーの口からその問いが出ることはない。情報を売る側だった。じゃあ金を払えば彼は教えてくれるのか? と思ったときもある。答えはNoだろう。彼が別の店へ行くようになるだけだ。
 彼が来店するたびに、バーテンダーは嬉しかった。面影が残るその姿を見ると心が踊った。そして彼に話しかけられるたびに悲しかった。忘れられたこと、変わってしまったこと、彼の善性が知らないところで失われたことが辛かった。しかし彼を攻める気にはならなかった。再開するまで自分だって忘れていたのだ。善性を失っていく過程に、自分はそばにいることもできずに忘れていたのだから。
 だから店員と客としての距離を縮める気にもならなかった。人間関係は一方通行にはならない。片方が忘れてしまったのなら、それはもう無かったことになる。そう思っていた。

 霧雨の夜だった。常連客も早々と帰ってしまい、いつもより早く店じまいにしようとモップを取り出したところで静かにドアが開いた。
 濡れたのだろう。黒髪はいつもより艶が出ていた。彼の後ろには誰もいない。ゆっくりと、だけどまっすぐにカウンターへ向かってくる。バーテンダーはモップをしまって、カウンター内へ戻った。
「いつものやつでいいか?」
「ああ」
 彼は静かに、ゆっくりと座った。後ろの棚から瓶を取り出し、グラスに注いでだしてやる。今日はもう来ないと思っていた。彼は視線を落としたまま、グラスをちびちびと舐めた。
 なんかあったのか。聞こうとして、やめた。彼は何も言わない。ただ、机の傷や棚の瓶を眺めながら無言で飲むばかりだった。
 バーテンダーはそっとカウンター下の戸棚を開けた。別に大したものではない。親が子に出すような、シンプルな焼き菓子だ。それをそっと彼の前に置く。
「なんだこれは」
「アンタ今日、誕生日だろ」
 彼は目を見開いた。そしていつものように顰める。
「なぜ知っている」
「これでも街イチバンの情報通なんで」
 おちゃらけてウインクをしてみせると、顰め面は露骨ににらみ顔へと変わった。不機嫌なまま彼は菓子を口に運ぶ。文句は飛んでこなかった。お気に召したらしい。当然だった。これは祖父ではなく、母のレシピだ。あの子も美味しいと言っていつも食べていた。
 無言で食べ終わった彼は、グラスに残った酒を一気に煽ってから立ち上がった。懐に手を入れたのを見て、「金ならいらねえよ」と制す。
「バーテンダーごときの施しなど受けない」
 言い方は厭味ったらしいのに、顔はすねた子供のようだった。バーテンダーは思わず笑った。そして思考を巡らせる。
「じゃあ、お代替わりに歌でも歌ってもらうかな」
 思い出から引っ張り出してきた旋律を口ずさんで見せると、「下手くそ」とやじが飛んできた。