相対性細身若年低身長理論

 やはりこいつには別に女がいるのではないか。涅が再度そう疑いだしたのは瀞霊廷が落ち着きを取り戻し、そこから暫く経ってのことである。愛染惣右介を首謀者として繰り広げられた破面との戦いは護廷十三隊側が勝利を収め、その後始末も落ち着いたころ、急に一つの噂が流布しだした。更木剣八が見知らぬ女を連れて歩いていた、との目撃情報がいくつも上がったのだ。それも一度ではない。先日見た、いや俺は先週見た、私は半月前に見た、と複数回に渡って目撃されているらしい。
 それに対して、涅はわりと憤っていた。向こうが戦闘を得意とする十一番隊であることはもちろん理解している。よって戦いが終わればその後に任される仕事もそう多くはないだろう。それに対して十二番隊は技術開発局を内包している。救護を担当している四番隊と並んで、後始末に最も奔走した隊と言っても過言ではないだろう。
 こちらが多忙を極めていた中、隣の隊長は女を連れてふらふら遊んでいました、などと言われてはたとえ涅でなくとも憤るのが道理である。まあ百歩譲って遊び呆けているのは許そう。しかし本当に気に食わないのは更木の態度である。これで普段通りだったら涅だってこうも怒っていなかっただろう。結論から言うと、まさしく典型的な浮気中の男ムーブとしか表現のしようがない。元より、交際しているのかと問われたら首を傾げるような関係だ。唐突に花束なんか持参してきたこともあるが、基本的には夜中にふらっと来て朝になったら帰るのがかつての更木の行動パターンであった。それが今となってはどうだろうか。なんか欲しいもんはあるか、行きてえ場所とかないのか、たまには外で飯でも食うか。
 男は浮気をしている最中は罪悪感で優しくなる、なんて話は昔からの定番だが、まさかこんなにも明快だとは流石の涅も思っていなかった。いい歳したジジイが、それも歴代最強と謳われる剣豪剣八が、小物みたいな動きをしやがって。という思いが涅が抱いている怒りの大半を占めていた。なのに誘いを断らず大人しくついて行くのはひとえに尻尾を掴むためである。今のところ、噂からある程度の情報を掴んでいるのみである。小柄で細身、ずいぶんと色が白くて病弱そうな印象の若者らしい。着衣は常に死覇装らしいので死神説が濃厚だが、貴族が身分を偽りたいときに死覇装を着て出歩くことは多々あるのでまだ決め打つのは早い、というのが涅の見解である。

 そして今日もまた夜に、化粧も落として自室でくつろいでいた涅の元に更木がやってきた。二つ返事でついていった先は十二番隊の隊舎からそう遠くない。こぢんまりとした入り口をくぐると内装はずいぶんと洗練されていた。小さなカウンター席と、テーブル席が二つ。しかし店員はそこではなく二階へ上がった先の個室へと二人を案内した。
 座敷に上がるなり更木が「飯はもう食ったのか」と尋ねてくるので、涅は「ああ」と頷いた。そのままお品書き片手に店員と話し出す更木に注文を任せて、涅は座敷内を見回す。
 広さはないが調度品の類いは全て格式高く、畳や座布団にもほころび一つ見当たらない。そしてなにより天井四隅に擬態させて設置してある器具を涅が見落とすわけもなかった。技術開発局で製造と販売をしている遮音器である。ずいぶんと「いい店」だネ、と涅は内心で評価をしたが口には出さないでおくことにした。
 店員の退室後、向かいに腰を下ろしている更木は「大分落ち着いてきたか」などと白々しく聞いてきた。こちらの都合など気にせず散々誘い出しているのはそちらだろう、と思いつつ、修繕や設備の構築は大方終わったヨ、と涅は答える。
「ただ虚圏の調査もあるからネ。やることなんていくらでもあるヨ」
 それに対して、更木は相づちの一つも打たない。なにやらじっと考え込むように押し黙った後、ぽつりと「迷惑か?」などと零した。なにが、と涅が追うと「忙しいんだろ」と返ってくる。
 涅は声のトーンを抑えて、感情が極力乗らないように努めながら「ああ、そう」と答えた。
 自身は関係を続ける努力をした。だけどそっちが忙しいから身を引きます。つまりはそういう筋書きにしたいわけだ。巫山戯るなよ、と涅は素直に思った。終わりにしたいのはそちら側だろう。にもかかわらずこちらの都合、こちらが悪いかのように仕立て上げようとしているその神経がとにかく気に食わない。しかしここで大声でわめきでもしたら、まるでこちらが執着していて終わらせたくないかのように映ってしまう。それはそれでとにかく気に食わない、というのが涅の心境である。
 意外にも今まで尻尾を出さなかったせいで、相手がどこの小娘なのかも涅はつかめていない。それでもあれだけの噂と目撃情報が出回っているのだ。しらばっくれるのも無理だろう。自身が非を被るつもりなど、涅は一切なかった。終わらせたいなら勝手にすればいい。しかしあくまでそちら側の都合だと、そこだけは釘を刺さねば気が済まない。
「忙しいのは貴様のほうだろうに」
「は?」
「終わりにしたいなら貴様が誘いにこなければいいだけだヨ。私からわざわざそちらに出向いたことがあったかネ?」
 あえて小馬鹿にするような表情と物言いをしながら、涅は目の前の更木をしっかりと見据える。なぜだか怪訝な顔つきをしているが、それを無視しながら続けてまくし立てる。
「嫌だと言って泣きわめいてやる気なんて一切ないヨ。だけどね、まるでこちらの都合のせい、なんて格好を呑んでやるつもりもない」
 馬鹿にするのも大概に、と涅が言いかけたところで廊下から「失礼いたします」と声が掛かる。一秒と待たずに襖が開き、その先では正座をした給仕が頭を下げていた。それに対して、向かい合った両者とも碌に反応を示さない。しかしこんな店であるからして、給仕も慣れたものだろう。彼女も平然とした顔で淡々と配膳をこなし、澄ました顔でもう一度頭を下げて退室していった。
 さてその襖が閉まると同時に、つまりは先に口を開いたのは更木であった。
「なんで俺が忙しいんだよ」
「……はあ? 流石にそこをしらばっくれるのは無理があるヨ。で、どこの小娘だね? ああ、言っておくけど別に知ったからと言ってどうこうするつもりはないヨ? どうでもいいからネ」
 六倍くらいの長さで涅が反論してやるとまた更木が黙り込む。無いに等しい脳みそで必死に考えているらしい、と思いながら涅は殊勝にも待ってやることにした。そのまま追い詰めても構わないが、まあ言い分くらいは聞いてやろう、と実に寛大な心持ちで口を閉じている。そもそも更木相手に口げんかで負けるつもりなど露ほどもない。今回など、完全に勝ち戦なのだ。誰に聞いても、いや別に誰にも言いふらしたりなどする気など一切ないが、なんにせよ世間一般の常識から見ても更木が悪いの一択だろう。むしろここは反論を聞いた上で完膚なきまでに叩きのめしてやろう、と内心で意気込む涅の耳に届いた言葉はあまりにも予想外であった。
「お前、いつからそんなに頭悪くなったんだよ」
「……貴様にだけは死んでも言われたくない台詞だネ」
 立ち回りを考慮していたはずなのに、あまりの言葉に涅は素でそう返してしまった。まさか更木にそんなことを言われる日が来るなど想像すらしたことがなかったからだ。とはいえ現状、涅が把握している範囲ではまだ更木に非がある。追求をやめるつもりはない。
「どれだけの噂と目撃情報が流れてるのか知らないのかネ」
「あれだろ? 夜中に俺が女連れて歩いてるってやつだ」
「そうだヨ」と涅が頷く。肯定を受けた更木は噂されている特徴を一つずつ挙げていった。細身で、小柄で、やたらと色が白くて、死神で、と羅列する更木の言葉に涅は「うん」と首を縦に振っていく。青い髪を一つに纏めてて、と更木が続けるのでまた頷こうとして、涅は止まった。
「なんか爪が一本だけ異様に長い」
 今度は涅が黙る番であった。そこから浮かび上がる人物像は涅の視点から完全に抜け落ちていた者であり、それが本当だとしたらあまりにも己は間抜けすぎる。なにか否定する材料はないものか、と涅は疑問点を口にした。
「……小柄? いや女性の平均と比べたら流石に上背は」
「まあ、俺と並んでりゃあそう見えるだろうな」
「……貴様と並んで大柄に見える奴なんて、狛村隊長くらいだろうネ」
 ましてや自身など、男性隊長格の中でも下から数えて五本の指に入る程度の体格である。髪を伸ばしたことも影響したのだろう。まさか女性に間違われるのは盲点であった。涅は背を丸めてため息をついた。己の推測は根本から間違っていたのだ。となれは更木を責め立てる理由はもう一つも残っていない。
「……なんで急に、私のことあっちこっち連れ回すようになったんだネ?」
「調査とか言ってたな」
 こちらの質問を無視された涅は露骨に顔をしかめた。しかし更木はそれに反応することなく「ここから遠隔でやるのか」と続ける。
「まさか。持ち帰った物はこっちで調べるけどね。まずは現地調査だヨ。往来が面倒だから現世に拠点を作るつもりだけどネ」
 涅が放った『現世』という単語で更木の表情が曇る。
「じゃあまたあいつのところか」と更木が零したことで、やっと涅は全容を理解した。それはもう、自身の想定から大いにかけ離れており、暫く絶句した後に出てきた言葉は「ダサすぎないかネ、いくらなんでも」であった。
「え? いい歳したジジイが、それも歴代最強と謳われる剣豪剣八が? 先代が帰ってきてなんか色々やってるからって、不安だか嫉妬だか知らないけど」
「うるせえなあ」
 涅の言葉を遮るようにそう吐き捨てた更木はやっと卓上の杯を手に取った。一度舌打ちをしたのち、ぐいとそれを煽ってまた卓上に置く。その動作はずいぶんと乱雑であった。
「別に何にもねえならそれでいいんだがよ」
「ないよ」
 ダッサいなあ、ともう一度涅が呟くと、それに反応して更木は卓上にまた手を伸ばした。今度は杯ではなく、涅の目の前に置かれた皿を掠っていく。
「食わねえならよこせ」
「何言ってるんだネ食べるヨ」
 慌てて取り返した皿はサンマの塩焼が盛り付けられている。大根おろしに醤油がかかり、当然ネギは乗っていなかった。

あんばあすでい

 涅マユリはずっと悩んでいた。更木がこの自室を訪ねてきたのは今から半刻ほど前である。そのとき涅はすでに技術開発局の研究室から引き上げており、それどころか夕食や入浴すら済ませた時間帯であった。化粧も整髪料もきれいに洗い流した涅は自室でのんびりと、浦原商店を介して取り寄せた現世の論文に目を通していた。そこにずかずかと更木がやってきたのだ。様子からしてすでに一杯やった後らしい。大方、部下を引き連れて隊舎近くの飲み屋にいたか、京楽と呑んでいたかのどちらかだろう。
 約束どころか連絡すらなしに来た更木に対して、涅は特に文句の一つも言わず適当な酒とつまみを出してやった。そのまま論文を置いて隣に座ったのが半刻前のことだ。
 それ自体は一向に構わないのだ。更木の来訪自体はいつものことで、忙中でなければ涅も追い返したりはしない。このまま惰性で呑んで、日付を超すごろになったら同衾して、そして朝になったらさっさと帰れと追い立てる。そこにはなんの疑問も不満も、涅は抱いていなかった。いつも通りである。ただ一点を除いては。
 杯を片手に普段通りの会話を続けながらも、涅はずっと悩んでいた。平然とした顔で酒を呑みながら、時折涅は視線を部屋の隅へと向ける。つい見てしまう、と表現したほうが正しいだろう。そこそこ値の張る花瓶は、今の今まで収納棚にすっかりしまい込まれていた。何年ぶりかに引っ張り出されたそれには、随分と立派な花束が生けられたばかりである。
 半刻前、ああ今日も来たかとあっさり戸を開けた瞬間、涅は硬直した。更木剣八に似合わない物ランキングを作ったら間違いなくトップ3入りを果たすだろう。普段なら酒か肴を提げているその手にあったのは花束であった。驚愕する涅相手に、更木は「ほらよ」とそれを差し出してきたのだ。まず驚いたのはその大きさである。図体のでかい更木が持っていたせいで目測を誤っていたらしい。涅は抱えるように両手でそれを受け取った。視線を落とすとそこに広がるのはまばゆいばかりの白と桃色である。花だけでなくリボンや包装紙までこの二色を使って仕立て上げられており、もはや少女趣味を通り越す勢いだ。これがミニブーケなら、贈られた少女も「わあ、かわいい!」などと歓喜の声を上げるかもしれないが、いかんせん寸法が大きすぎる。少女ですら困惑するだろう。ましてや自身はおっさんの隊長である。まさかこんな物を贈られる日が来るなど想像すらしたことがなかった。
 奇妙な事態を引き起こした元凶である更木はといえば、渡してすぐに涅の脇を抜けて入室した。「ほらよ」以外に言うことはないらしい。涅の理解の範疇を全てが超えている。涅は数秒かけて、なんとか冷静さのかけらを取り戻した。とりあえず娘のネムを呼び寄せて、花瓶に生けるよう指示を出す。そうしてネムの手によって少しばかり、リボンと包装紙の分だけピンクの面積が減ったそれは涅の部屋の隅に飾られた。後は普段通りである。
 よって涅は自室でひたすら悩んでいた。隣に座って杯を傾けている更木は普段通り、と呼ぶには少しばかり機嫌が良さそうな顔をしている。あれをどこで入手したのか、そしてなぜここへ持参したのか、話す気は一切ないらしい。しかし物が物である。なんとなく、ではありえないだろう。
 真っ先に疑うべきは、世間一般で『記念日』と呼ばれるものであり、同時に真っ先に否定すべきものでもある。そもそも交際しているのかと問われれば涅は首を傾げるしかない。いわゆる告白という言質はどちらからもなく、さりとて関係は年単位で続いており、連れたって出かけることはないが涅は更木の他に相手を持っていない。それはおそらく更木も同じなのではないか、と踏んでいた。少なくとも涅視点、他の影が見えたことは一度もなく、また隠すのがうまいとは到底思えなかった。記念日やら行事やらを祝う感性は二人とも持ち合わせていない。少なくとも、関係が始まってから一度も話にすら上がったことがなかった。仮にそれが理由で持参したとしても、思い当たる祝い事が一つもないのだ。涅が忘れているだけ、の可能性は無いに等しい。少なくともこの男に記憶力で負ける気は一切しなかった。
 そう考えると横流し説が浮上するが、それもまた考えにくい。こんなものを更木に贈る人などこの世に存在するとは到底思えず、更木に限らず十一番隊隊士の中でも似合うのは草鹿くらいのものだろう。それにしたって大きすぎるし、草鹿がもらった物を更木が横流しにするとは思いがたい。
 となると可能性は一つ。今までの己の認識が間違っていたのではないだろうか。
 他の人物に贈るつもりだったが、渡せなかったのでここへ持ってきた。
 想定しうる事態の中で、これが最も現実的だろう。
 つまりは他に相手がいるのである。それもこんな花束が似合うような相手だ。それはもう可愛らしくて若い娘に違いない。
 じゃあなんで此奴はここへ、こんなおっさんの元へ年単位で通っているのか。そしてなぜ今現在、上機嫌にしているのか。可能性こそ高いがやはり矛盾が出る説である。よってまた別の可能性を追求するべきなのだが、物事には時間制限が存在するのだ。卓上にあった肴は全て二人の胃の中に収まり、酒瓶の中身はもう底をついている。なにより涅の脳は十二分にアルコールへ浸かってしまった。隣に座る更木が、片付けるようにぐいと杯を煽る姿をぼんやりと眺める。それがコトリと音を立てて卓に置かれたところで涅は白旗を上げた。
「なんだネ、あれは」
 あ? と首を傾げて更木はこちらを見た。そのまま涅は部屋の隅を、異質さを放っているそれを指さす。
「だから、あれだヨ」
「なんだ、って言われてもよ」
 質問の意味が分からない、と言わんばかりに更木は怪訝な顔をしている。どうやら此奴のなかでは特別おかしいことではないらしい。どんな理屈だ、と思いながら涅はかみ砕いてやるように質問を変える。
「どこで貰った?」
「貰った? 買ってきたんだよ」
「……なんで持ってきたんだネ?」
「逢い引きに行くならたまには花でも持っていってやると喜ぶ、って京楽のやつが言ってからな」
 平然と放たれたその言葉を飲み込むのに、涅は三秒かかった。言いたいことはいくらでもある。さっきまで京楽隊長と呑んでたのか、よくこんな遅くまで開いてる花屋を見つけられたネ、貴様はここに来ることを逢い引きだと認識しているのか、贈呈品には理由に合わせた適切な大きさが存在するんだヨ、多分京楽隊長は相手が私だって把握していないよネ。
 その全てを飲み込んで涅は「……ああ、そう」と呟いた。そのまま立ち上がろうとした瞬間、それを察したのだろう、隣から伸びてきた手がそっと涅の手首を掴んだ。
「片付けるだけだヨ。それともまだ呑むかネ?」
 涅が尋ねても返答はなく、更木はただ無言で涅を見据えたままぐいと手を引いてくる。ああこれは、とんでもないのを捕まえてしまったのかもしれない、などと思いつつ、涅は顔に出さないよう努めるほかなかった。

対人スキルLv.1

 モルジを引き連れて、アリババは屋敷から海岸への道を全力で駆けていた。ここ最近カシムの様子がおかしい。その事実には二人とも気がついていた。
 持ち前の性格が完全に治ったとは言いがたいが、それでもあの鏡を捨てて以来、カシムは金に物を言わせることをやめた。変な魔法を使う盗賊の宝を売却して得た金は全て、あの盗賊が破壊した町の修繕費に当てたことで周囲からの信頼も少しずつ回復している。使用人も徐々に戻ってきて屋敷もまた活気づいてきた。相談できる鏡を失った代わりに、アリババとモルジで毎晩彼の話を聞くのがあれからの日課となっていた。
 にもかかわらず最近のカシムはまた金遣いが荒くなっていた。しょっちゅう宴を開いては、自室に旅商人を連れ込んであれこれ購入しているらしい。アリババやモルジが部屋に訪ねても追い返されるばかりだ。
 そう、旅商人だ。彼がこの町に、この屋敷に来てからカシムはすっかり元に戻ってしまった。いつか商品の在庫は尽きるだろうし、一生この屋敷に居座るはずもない。しかし長居が続けばそれだけカシムには悪影響だろう。とはいえ屋敷の主はカシムなのだから、いくら弟とはいえアリババが勝手に追いだすわけにもいかない。どうしたものか、と頭を悩ませているアリババの元へ町の人がやってきたのだ。
「カシム様が思い詰めた顔で海に浸かってましたけど、大丈夫ですかね?」
 海? と聞き返すアリババに、その人は強く頷き返した。
「あの、めったなこと言うもんじゃないですけど……」
 入水自殺とかじゃないですよね? いや、すみません。すごく深刻そうな顔をしてたもんで。
 そこまで言ってばつが悪くなったのか、町人は「私は伝えましたからね!」とそそくさと屋敷を後にする。
 教えてくれるだけありがたい話だ。以前のカシムならきっと誰もここに伝えに来なかっただろう。
 そんなわけでアリババは今、モルジとともに海へ向かって全力疾走している。正直に言うと、あの男に自殺を決行する度胸があるとは思えないが、思い詰めているのは確かなのだろう。いらんことを考えてなければいいが、とアリババは内心でため息をついた。もうすぐ日が暮れてしまう。その前には海へたどり着きたいものだ。

 オレンジ色の太陽に照らされて、水平線から垂直に一本、影のような人影が伸びている。顔までは見えない。しかし位置からして、その人物が腰のあたりまで海に浸かっていることは分かった。
「カシムー!」
 アリババが大声で叫ぶと、その人物はやっと動きを見せた。おそらくこちらを振り返ったのだろう。その隙に波打ち際まで到着したアリババは、息を整えながらもう一度話しかけた。
「なにやってるんだよ。もう暗くなるぞ」
「アリババとモルジか? ……お前たちには関係ないだろ!」
「戻りますよカシム様。もうすぐ宴の準備が調います」
 二人して呼ぶも「うるさい! 帰れ!」などと子どものようにカシムは叫び返してくる。困るアリババを余所に、隣に立っていたモルジは躊躇いなくザブザブと海へ、カシムのほうへ向かっていった。
「帰れと言っているだろう! こっちに来るな!」
 カシムはくるりと体の向きを変えた。そのまま逃げるように沖へ向かって進んでいく。それを見たモルジは足を早め、アリババもまたその背を追った。カシムに追いついたころには三人ともすっかり肩まで水に浸かるほどの深さまで到達していた。
「俺に触るな! 放っておいてくれ!」
「いいから一端浜に戻るぞ」
「危ないですから」
 なんとか捕まえようとしているうちに岩にでも足を取られたのか、カシムの体が傾いた。そのまま彼は頭まで水面の中に入ってしまう。ほら言わんこっちゃない、と呆れるアリババを余所にカシムの顔と手はすぐに水面から上に出てきたが、その目は大きく見開いており、手は乱雑にバシバシと水面で暴れている。
 ああこいつ泳げないんだった、とアリババは冷静にその腕を掴む。反対の腕を掴んだモルジが「落ち着いてください。足つきますから」となだめているがカシムの耳には届かないらしい。わあわあと騒いで暴れるカシムを二人がかりで浜まで引き上げたころにはすっかり日が暮れていた。

 星空の下の砂浜で三人、静かに座ってたき火に当たっていた。アリババが薪を集め、モルジが火をつけたのだ。ちなみにカシムは何もしていない。ひたすら座ってうなだれていた男は小さくくしゃみをしたのち、ぼそりと呟き出す。
「ずぶ濡れで寒い」
「それは私たちもです」
「カシムのせいだからな」
 反論ができないのだろう。ぶすっとした顔でたき火を眺めるカシムに向かって、アリババは諭すように口を開いた。
「海なんか入って、何をしてたんだ?」
「関係ないと言っているだろう」
「そうはいきませんよ。屋敷の主はあなたなんですから。突然いなくなられては困ります」
 で、何をしてたんですか? とカシムを見るモルジの目はやたらと鋭い。それに負けたのか、カシムはもごもごと「鏡を……」と零した。
「探そうと思った」
 予想はついていた。この男が自ら海に入るのであれば、よほどの用か人に頼みづらいかのどちらかしかあり得ない。そもそも泳げないくせに、海底の鏡など探せるはずもない。しかしアリババたちには言えなかったのだろう。そして怒られるのも分かっているのだろう。カシムはより深くうつむいた。
「あれは捨てただろ? もういらないって、お前だって分かってるだろ?」
「今更どうしたんですか? 町の人たちとも、少しずつですがうまくやれるようになったじゃないですか」
「町の人たちには使わない。うまくやれてると思ってる。アリババの言うとおりに、困ってるところを助けて、あとはちゃんと挨拶をする。それはやってる。……できてるだろう?」
 うん、とアリババとモルジは揃って頷いた。ぎこちなくはあるが、確かに町人たちを相手取る際のカシムの態度は改善していた。お礼と称して料理や花を持ってきてくれる人もいる。このまま行けば、問題なく人々から頼られる存在になれるとアリババは思っている。
「だけどあの人は、この町の住人じゃない」
 あの人、と言われてアリババは真っ先に一人の顔を思い浮かべる。カシムが元に戻ってしまった原因、数週間前にこの町へやってきた旅商人だ。
「困ってもいない。……だから、どうやったら好きになってもらえるのか、分からなかったんだ。商人だから、品物が売れたら喜ぶかと思って」
「それでバカスカ宝飾品を買ったわけか」
「その土地の音楽や食べ物を楽しむのが旅の醍醐味だと言っていたから」
「それで毎晩宴を開いてたんですか」
 なるほどなあ、と最近のカシムの行動にやっと納得がいく。そして当のカシムは顔を隠すように、三角に立てた両膝へ額をつけて「だけど」と呟く。
「これじゃあ、今までの俺がやってたことと同じだって気づいたんだ。人に嫌われてたときと俺は同じことをあの人にしてる。だから、だから……。あの人はもう、俺のことが嫌いなんだ」
「なんでそうなるんですか」
「短絡的すぎるだろ」
「別に嫌われいてるのはいいんだ。いや、悲しいけど、仕方がない。鏡に聞こうと思ったのはそれじゃなくて、嫌われててもいいから、あの人がずっとここにいてくれる方法がないか知りたかったんだ」
 カシムの声は震えていた。そのうち鼻をぐずぐずと鳴らしながら、途切れ途切れに言葉をつないでいく。
「行かないでほしいんだ。贋の笑顔かもしれないけど、あの人がありがとうって笑ってくれるとうれしい。俺の知らない町の話を面白く話してくれるんだ。ずっとそうしていたい。ずっといてほしい」
 本格的に泣き出したカシムの姿に驚きつつも、アリババは嬉しかった。嫌われたくない、誰でもいいから自分を好きになってほしい。そんな子どものような渇望に喘いでいた兄が、自ら人を好いたのだ。それが成就するかは分からないが、これは間違いなく前進だろう。
 アリババは少しばかり腰を浮かせて、隣へ座るカシムとの距離を詰めた。うつむいて泣くカシムの背にそっと手を当てる。
「あのな、カシム。前と同じって言ってたけど、そんなことないぞ。確かに行動だけ羅列したら同じに見えるかもしれない。だけど以前のお前は自分自身のために、財力を誇示して人を従わせるためにやっていただろう? でも今のは違う。人に喜んでほしくてやっているんだ。ちゃんと伝わってると思うよ」
 カシムは顔を上げた。真っ赤な目でアリババを凝視しながら「本当か?」と呟く。
「旅商人はやめられないけど、拠点をこの町に移したいって相談されましたよ。丁度いい建物がないか聞かれました」
「……それも本当か!?」
「それから、カシム様の好きなものはなにか、とも聞かれました。とてもよくして貰っているから喜ばせたい、と。音楽が好きだと伝えたら楽器の練習をしていましたよ。今日の宴で披露すると張り切っていましたが……。肝心のカシム様がいないから今ごろきっと悲しんで」
「帰る!!!!」
 ものすごい勢いで立ち上がったカシムは一目散に駆けていく。その背を眺めて苦笑するアリババの傍らで、モルジは手際よくたき火を消した。
「俺たちも帰るか」
「はい」
 と二人が立ち上がったところでカシムが走り去った方向から音がする。慌てて視線を向けるとカシムの姿が地に伏していた。
「……転んだ?」
「っぽいですね」
 全く世話の焼ける兄貴だなあ、と呟いて、アリババはモルジとともに駆け足でカシムの元へ向かった。

ベールの向こう側

 剣と魔法のファンタジーはなぜこんなにも人を魅了するのだろうか。ましてや現代日本に生まれた男児となれば惹かれぬわけがない。幻想的な衣装に身を包んだ315プロダクションアイドルたちが大集結したのは今から二日前のことだ。スケジュールの空いている者が一同に介して撮影を行い、こられない者は個別に別日撮影である。華やかな衣装に凝った武器を持ったアイドルたちが沢山集まった姿は壮観で、なによりみんな大はしゃぎだった、らしい。翼から送られてきたオフショットを眺めながら、天道は「いいなあ」と独りごちた。スケジュールが合わなかった奴第一号はまさしく己である。ちなみに二号は桜庭だ。あぶれた者のうちドラスタの二人は今日が撮影日となっている。
 そんなわけで天道は剣士のような格好で左手に剣を持ち、右手のスマホでひたすら二日前の写真を眺めていた。張り切って早く来すぎたらしい。撮影スタジオの隅で時の経過を待っているところだ。
 ニコニコとお互いの衣装を見せ合ったり、格好良くスマホカメラに向かって武器を構える写真がいくつも送られてきており、そこに映るアイドルも衣装もどれも実に魅力的である。
 そのなかでもひときわ目を引くものがあった。ゲーム的な名称をつけるとしたら白魔道士、もしくは僧侶だろう。黒やグレーを基調とした衣装が多い中、布面積の九割以上が白いこの服は写真で見ると非常に目立つ。パッと見たときに真っ先に目に飛び込んでくるのだ。清廉さを意識してデザインされたであろうそれを身に纏っているのは十代の少年ばかりである。中には身を寄せて四人で撮影された写真もあった。その写真は男性アイドルのオフショットとは思えない可愛らしい空気感を放っている。
 なによりどの写真からも伝わってくる和気藹々とした楽しさに当てられ、天道はもう一度「いいなあ」と呟いた。スタジオの隅にしゃがみ込んだまま顔を上げる。自身こそファンタジー衣装に身を包んでいるが、目の前で忙しなく動いているのは皆現代日本的な服を着たスタッフばかりだ。俺もみんなと一緒にはしゃぎたかった、が素直な感想である。
 天道が一人寂しくしゃがみ込んでスマホを眺めていると、暫くして頭上から「おはよう」と声が降ってくる。天道は一切ためらうことなく顔を上げた。どう聞いても桜庭の声だったからだ。そして視界に収めるなり目を見開いた。布をたっぷり使った真っ白なケープに透け感のあるベール、頭上には細身のヘイローが輝いており、普段とは違うコロンとした丸い眼鏡をかけている。
 衝撃を胸の内にぐっと堪えながら天道は「……おはよう」と喉から絞り出す。しかし様子のおかしさは伝わってしまったらしい。桜庭は少しばかり首をかしげ、その後自分の姿を確認するようにきょろきょろと自身の首と体を回しだす。それに合わせてあちらこちらの真っ白な生地がふわりふわりと揺れていった。
「なにかおかしいか?」
「いや、別に?」
 天道の返答に桜庭はもう一度首をかしげたが、納得したのかそのまま隣にしゃがみ込んできた。その姿を天道はまた横目でチラリと見る。はたして己は何を驚いているのだろうか。桜庭が元医者なことくらい当たり前のように知っている。ファンタジー系の職業を当てはめるならヒーラーが選ばれるのは当然だろう。以前冒険したときもそうだった。そのときの自身は剣士ではなく魔法系ジョブだったが。弁護士とアイドルしかしたことがないはずなのに以前冒険したとき、というは意味が分からないが、確かに天道の記憶にはあるのだ。確か四月の頭ごろだった気がする。
 じゃあなぜこんなに驚いているのかと言えば、おそらく先ほど散々写真を見たせいだろう。これを着ていたのは桜庭以外、全員十代だったのだ。まさか二十代半ばの男にこんなものを着せるなどとは、天道はついぞ思っていなかった。
 隣にしゃがんでいる桜庭は珍しくスマートフォンをいじっている。うつむいているせいで白いベールが天道の視界から横顔を遮ってしまっていた。半透明だから全く見えないわけではないが、なんだかそれがすごく勿体なく感じてしまった天道は無意識に手を伸ばす。その顔が見えるようにそっとすくい上げると、現れた青い瞳とバッチリ目が合った。
「なんだ急に」
「えーっと、……これなに?」
 天道はごまかすようにベールをつまむ。桜庭はまた首をかしげながら「僕に聞かれても」と困惑の表情をした。
「大体、みんなつけているだろう」
 桜庭の手元のスマートフォンには、先ほど天道が見ていた写真と同じものが表示されている。確かにそこで笑っている少年たちも桜庭と同様、同じベールを纏っている。しかしこんなものをつけて、こんな格好で真横にしゃがまれては流石の天道も意識せざるを得ない。日常ではまずお目にかかれない姿を見られるのはアイドルならではである。あまりに惜しくて天道はベールから手を離せなかった。そのままついそっと顔を寄せると、桜庭は肩をぐいと押して制止してくる。
「仕事前にひっつくな。気が散るだろう」
 撮影に影響したらどうしてくれる、と文句を言ってくるので天道はつい「撮影後ならいいのかよ」と顔をのぞき込んで再度迫るが、桜庭が返答するより先に大きな声で「おまたせしましたー! 撮影開始します!」とスタッフの号令が掛かる。
 さらに天道を強く押しのけて桜庭は立ち上がってしまった。あーあ、と悔やみながら天道が立ち上がる天道に向かって桜庭が小さく呟いた。
「勝手にしろ」
 慌てて天道が顔を上げるももう桜庭は歩き出しており、ベールに覆われた横顔が一瞬見えただけであった。

このころはまだ想像すら

まさか惚れるなんて、そして付き合うなんて、このころはまだ想像すらしていなかった。


ティラミスと、あとカラメルプリン

 新人アイドルの仕事などそう多くはない。プロデューサーが取ってきてくれた仕事を一つ一つ全力でこなしながらも、未だに天道らのスケジュールにはレッスンや勉強会が沢山入っている。それでもなお空いている時間は事務所に集ったり、みんなで食事をしに行ったりしていた。そのたびに天道はなんだかまるで学生時代に帰ったかのような錯覚に陥ったりする。売れてきたらこんな時間もなくなってしまうのだろうか、と考えると少しばかり寂しいものである。
 とはいえ常に三人が揃うわけでもない。弟妹の迎えにいかねばならないらしく、今日のダンスレッスン終了後の柏木はさっと帰宅してしまった。
 そんなわけで桜庭と並んで天道はレッスンスタジオを出た。ちょうど日が暮れてあたりはオレンジ色に染まっている。日中は暑かった気温も下がり、心地よい風まで吹いていた。隣の桜庭を見れば、しっかりと前だけを見据えて真っ直ぐに歩いている。
「いつものファミレスでいいよな?」
 天道が当たり前のように呟くと桜庭はやっとこちらを見た。しかしその顔はお世辞にも優しいとは言いがたい。
「僕は帰るが」
「え、なんでだよ。腹減ってないのか? あれだけ動いて?」
「柏木も帰っただろう。君と二人で食事など御免だ」
「いいだろ別に。ほら、おごってやるから」
 まあファミレスだけどな! と天道が続けると桜庭は露骨にため息をついた。まあまあ、と天道はさらになだめてすぐに期間限定メニューの話に移る。その話題に対して桜庭がきちんと乗ってきたので、なんだよほら来るじゃん、と内心思いつつ口には出さずに真っ直ぐファミレスへの道のりを進むことにした。

 もう何度来たかも分からないファミレスへ入店し、いつもの四人掛けの、両面がソファになっているボックス席へ座る。奥に座った桜庭がメニューを取って広げてくれるので並んで眺めた。やっぱこの期間限定のやつ食べたいよなあ。え、お前また和風パスタ? それこの間も食べただろ。なんて普通に会話しながら注文し、ドリンクバーを揃って注いでまた席に戻る。隣の桜庭にちょっかいをかけながら待ち、料理がやってきたところで天道はやっと気がついた。
 なぜ俺たちは横並びで座っているのだろうか。
 確かに普段は、三人で来店するときはいつもそうだ。翼が一人前を遙かに超える量を注文するため、彼の前に沢山料理が置けるように一人で座らせ天道と桜庭が並んで座る。それは理にかなっているし、もはやドラスタ内では暗黙の了解と化していた。しかし今日は二人なわけで、当然向かいのソファは無人である。常識を考えれば明らかにおかしい。
 そして桜庭が奥に座っているということは、このおかしな状況を作り出した犯人は間違いなく天道自身だ。なんで隣に座ったんだよ、と十二分前の自分に脳内で問いただすも「何も考えてなかった。いつもの癖で座った」などと意味不明な供述をしており、状況を打破するための情報は何一つ得られませんでした。別に今から移ればいいのか、と思い立つもすでに料理は横並びで卓上に鎮座している。今更これを動かして席を移るのはそれはそれでおかしくねえか? などと逡巡しているところへ隣から声をかけられる。
「食べないのか?」
 横を向けば隣で桜庭が怪訝な顔をしていた。その手にはすでにフォークが握られている。
「食べるよ。いただきます」と天道が平常心を装って言えばそれで納得したらしい。桜庭は平然と、淡々と目の前のパスタを食べ始めた。つまりはなにも気にしていないらしい。……ならいいか! と天道は、現状をよしとして腹を満たすことを優先した。
 数十分後、先に食べ終えた天道はまたメニューを眺めていた。医療ドラマのせいか、医者には早食いのイメージを抱いていたが桜庭はそれに当てはまらない。いつもゆっくり、そしてよく噛んで食べる。だから三人で来るときも大抵桜庭が最後に食べ終えるのだが、翼の注文量を考慮するとおかしな話である。なんにせよこうして二人きりなら天道が待つのは必然だ。結局隣に座ったまま、天道はのんびりと桜庭の完食を待った。そして彼がフォークを置いたところでメニューの、最後のほうにあるページを開いて指さした。
「なあ、デザートどれにする?」
「僕はいらない」
「なんだよ、じゃあ待たずに先に頼めばよかった」
 えーどれにしよう、とまた天道がメニューに向き合おうとしたところでなぜか桜庭に肩を押される。何だよ、ともう一度視線を向けるとすでに鞄を手に持っていた。
「食べ終わったから僕は帰る」
「えー、それはひどくないか? お前もデザート食べればいいだろ」
「不要だ」
 ええ、ともう一度抗議の声を上げる天道をどかそうとぐいぐい肩を押していた桜庭だが、数秒後にふとその力が抜けた。諦めたか? とその顔を見るとなんだかずいぶんと怪訝な表情へ変わっていた。
「……なぜ君は、僕の隣に座っているんだ?」
「お、やっと気づいたか」
「常識的に考えておかしいだろう。なぜ狭苦しく隣に並んでいる?」
「なんかいつもの癖で座っちまったんだよな。でも気づくの遅くないか? 俺は二十分以上前から気づいてたぜ?」
「なら移動すればいいだろう」
「まあいいかなって」
「よくない」
 桜庭は露骨に嫌そうな顔をしてため息をついた。そのまま「なんにせよ僕は帰る。いいからどけ」と言ってくるので天道は腰を上げた。そのまま少しだけ浮かせて腕を伸ばし、奥にある店員呼び出しボタンを押してまたすぐに座り込む。
「おい!」
「どかねーよ。だから桜庭ちゃんは帰れません。はい残念!」
 で、お前デザートどれにするの? と聞きながら顔をのぞき込むと、桜庭はずいぶんと悔しそうな顔をしながら「……プリン」と答える。表情と言葉のギャップがツボに入り、天道がケラケラ笑うと脇腹にけっこう強めの拳が飛んできてなかなかに痛い。
 そうして桜庭の帰宅をブロックしながら、隣に座って正解だったな、などと天道は頭の片隅でのんきに考えていた。  後日、読書がてら天道がチェーン店のカフェに赴くと、そこには四人掛けボックス席のソファに二人並んで睦まじく一つのスマホを覗いている女子高校生二人組がいた。それを見た天道は、いきつけの店で女子高校生みたいなことをしてしまった事実に謎の精神的ダメージを負うはめになり、残念なことに読書はちっともはかどらなかった。


俺達は完璧で究極の

 独占欲、とはまた少し違う気がしている。どちらかと言えばマーキングや縄張り意識に近いのかもしれない。天道自身、これがどういう欲から来ているのかはっきりは把握していないが、確かにそれは己の願望として昔からある。具体的な言葉にすると「よく遊びに行く家には俺のものを置いておいてほしい」である。俺用のパジャマとかコップとかスリッパとか、来客用ではなく天道輝用に常備してほしいのだ。ちなみに家主に用意してほしい、という願望はない。自身で持ち込んだもので十分である。
 そんなわけで天道は数ヶ月前から、何度も桜庭の家に自身のものを持ち込んでいた。結成初期なんて住んでいる場所すら教えてもらえなかったが、最近は普通に翼含めて遊びに行っている。しかし「これ俺用な」となにかを置いていこうとすると全力で拒否された。仕方がないのでうっかり忘れていき、そうあくまでうっかりと持ち帰ることを忘れ、あーごめんまあ置いておいてくれ戦法を繰り出したところ事務所にある天道のロッカー内にきっちり返却されていた。それを何度か繰り返すが両者一歩も譲らず、設置に成功したのはせいぜい調理器具のみである。しかしこれはみんなでご飯を食べるためのものであって、天道専用のものとは言いがたい。実質全敗と言えるだろう。
 このまま続けても埒が明かない。天道は作戦の練り直しを余儀なくされていた。仕事の移動時間にうんうん唸ること数十分、完璧で究極の作戦を考案することに成功した。名付けて「予備作戦」である。
 つまり桜庭が普段使っているものと同一品を持ち込むのだ。そして桜庭には「これはお前の予備だ。今使ってるやつが古くなったらこれを使えばいい。ただし俺が来るときは俺がこれ使うから」と説明する。こうすることで桜庭の家に置かれたこれらの品はあくまで桜庭用の予備となり、しかし天道が訪れたときだけ天道専用のものに変貌する。これなら桜庭も文句を言わず家に置くだろう。我ながら冴えすぎている。天才かもしれない。天道はその後数日かけて桜庭が使用しているスリッパとマグカップを特定し購入した。パジャマに関してはすでに特定を終えており、というか家に同じのがあるのでそれをそのまま持ち込めばいい。
 その三つを紙袋へ入れて事務所に保管、その後帰り際の桜庭をとっ捕まえて作戦内容を解説、そして紙袋を差し出すと桜庭は大変驚愕していた。驚いているというか、正気かこいつ、と言わんばかりの表情である。確かにこの欲求は桜庭には理解できないのだろう。しかし今回ばかりは拒否する理由がないはずだ。どや顔の天道対驚愕の桜庭で無言の向かい合いを続けること数秒、桜庭はあっさりとそれを受け取った。
「分かった。それが君の望みなんだな? 君はそれを望んでいるんだろう?」
「そうだよ」
「なら持ち帰ってやる。好きにしろ。……後悔しても僕は知らないからな」
 なにやら意味深な言葉を残して帰って行く桜庭の背を、天道は不思議に思いながら見送った。それが一ヶ月前の話である。

 そして今日は桜庭の家に泊まりに行くことになった。天道が出演することになった映画の、監督の作品を持っているらしいのでそれを見に行くのだ。天道は一ヶ月前の、桜庭宅への持ち込みへ成功した作戦を思い出す。そして異様に楽しみにしながら彼のマンションへと赴いた。夕方のことである。ちなみに柏木も誘おうと思ったが地方ロケで静岡の温泉に浸かっているらしい。それはそれで羨ましい。
 到着早々「ほら」と桜庭が出してきたスリッパに、天道はテンションが大いに上がった。自身が渡したものである。これこそが天道の望みであった。完全なる勝利である。
 飯は俺が作る、と事前に言っていたので持参した食材で夕食を作り二人で食べ、映画見るより先に風呂入っちまうか、ということで桜庭が上がってくるのを待つ。そして風呂上がりの桜庭に「俺のパジャマは?」と聞けばやはり一ヶ月前に渡したそれを差し出してきた。完全なる勝利である。
 上機嫌でそれを受け取り、鼻歌を奏でながら湯を浴び終えた天道は当然そのパジャマを身につけた。鏡の前で髪を乾かしているときである。天道はやっと気がついた。衝撃の事実についドライヤーをオフにする。そのままひたすら鏡の中の自分を眺めるも、今更気がついたところでもう遅い。あの日桜庭が言っていた「後悔しても僕は知らないからな」とはまさしくこのことなのだろう。
 天道はまだ乾ききっていない頭を抱えながら必死に考えたが、ここから挽回する方法は一切思い浮かばない。どうやら天才ではなかったらしい。むしろ頭が悪いのかもしれない。そもそも気づいていたのなら、その場で注意してくれればよかったのだ。天道は別にこんなことを望んでなどいない。天道は遠い目をしたままドライヤーを再度オンにした。残りの水分をきっちりと飛ばし、諦めたままリビングへと戻る。今から桜庭と二人並んで映画を見るのだ。
 その桜庭はどうやら飲み物を用意してくれていたらしい。天道が戻ると両手に持ったマグカップのうち、片方をこちらに差し出してくる。
「デカフェでいいな?」
 天道はそのカップをぼうっと眺めた。無の境地である。
「どうした? 受け取らないのか?」
「……違うんだよ」
「君が持ち込んだカップだろう? 君が望んで持ち込んだものだ」
「だから、違うんだよ」
 天道は弱々しい声を絞り出してそう言った。確かに桜庭の持っているマグカップのうち、片方は天道が持ち込んだものだ。しかしそれがどちらなのか分からない。当然である。全く同一の見た目をしていた。天道がそれを探し出して持ち込んだのだ。
 マグカップだけじゃない。パジャマもスリッパも、目の前の桜庭と全く同じだ。いっそ二人きりで幸いだったのかもしれない。身につけているもの全てがそうだ。他者がこの場にいたならば誰もが目を奪われていくだろう。アラサー男二人による完璧で究極のくつろぎペアルック三点セットである。
「この格好で? 同じマグカップで? 今からお前と並んで座って映画見るのか? 冗談だろ?」
「それが君の望みだろう?」
「ちげーよ!」と天道は思わず叫ぶ。本当に違うのだ。己はただ、桜庭の家に俺専用のものを置きたいだけであり、なんとかその望みを叶えようとあれこれ考えた結果、とんでもない欠点を見落としただけに過ぎないのだ。女子高校生のパジャマパーティでもここまで揃えないだろう。それをアラサー中年男性二人でやっているのだから始末に負えない。眼鏡以外の違いが一切存在しないのだ。
 己の視野の狭さに天道は深いため息をついた。向かいの桜庭はざまあみろといわんばかりにふんと鼻を鳴らす。それもまた意味が分からない。肉を切らせて骨を断つにもほどがある。己がこの格好を恥じているのだから、同じ格好をしている桜庭もまた恥じるべきなのだ。こちらの失態を突きつけるほうが大切らしい。天道はガシガシと頭をかいた。
「……持って帰るわ」
「僕の予備だろう? 君が持ち帰る必要はない」
「あー、はいはい。全部やるよお前に」
 早く映画つけろよ、と投げやりに言いながら天道はソファにどかりと座った。と同時に「野郎二人のペアルック三点セットはきついよなあ」と呟く。
「三点ではなく四点だ」
「パジャマとスリッパと、マグカップだろ? ……あとなんだ?」
「胃の中身」
 ずいぶんとお医者さんらしい高尚な意見である。見えないからノーカンだろ、と反論しつつ天道はおそろいのマグカップに口をつけた。ミルクの入ったデカフェは普通にちゃんと美味しかった。

 後日、自分だけがこんな目に遭うのはどうにも癪に障ったため、翼に「桜庭の家に俺のお泊まりセットあるから、翼も使っていいぞ」とLINKを送ったところ速攻でお断りされた。桜庭が事前に連絡していたらしい。完全なる敗北である。


よく分からないけどとりあえず異議あり

 桜庭もずいぶん体力がついてきた、と思っていた。実際にかなり改善はされている。オーディションの合間に砂糖水を啜っていたころとは比べものにならないほど桜庭の体力は増えており、それは当然、彼自身の努力によるものである。天道はその変化を感心して眺めていたのだが、今日はどうやらだめだったらしい。聞けば朝の四時集合でドラマのロケ撮影をこなし、その後もずっとスケジュールが詰まっていた、と本人が語った。倒れたりこそしないものの、テレビ局で偶然会った桜庭は目に見えてげっそりとしていた。明日は朝七時に事務所集合である。その様子を見た天道は、彼を自宅に連れ帰ることにした。幸いにも自身の体力は十二分に残っている。お前は食って風呂入るだけでいいから、と言えば素直についてきた。差し伸べた手を突っぱねなくなったのもまた成長である。
 そんなわけで桜庭に飯を食わして風呂に押し込み、天道は洗い物を終えてのんびり台本を読んでいると洗面台から唐突に大きな音が届く。すわ何事かと飛んでいけば桜庭が目をぱちくりさせていた。
「どうした!?」
「……ドライヤーを落とした、のだろう」
 のだろう、ってなんだよと思いつつ床を見れば確かにそこには電源がついたままのドライヤーが転がっている。桜庭はそれに目を向けながら「乾かしながら寝たらしい」と呟いた。それで意識がないままに手から転がり落ちたのだろう。天道は桜庭より先にそれを拾い上げて電源を切った。コンセントも抜いて左手に持ち、空いた手を桜庭の肩に置く。
「リビング戻るぞ」
「まだ乾いていない」
「乾かしてやるから。お前は座ってろ」
 とその背中を押す。お前は食って風呂入るだけでいいから、と言ったのは紛れもなく数時間前の天道自身である。そして本当に眠いのだろう。桜庭は大人しくリビングのソファに座った。コンセントを差した天道はその背後から温風を当てていく。中までしっかり乾くように反対の手で目の前の黒髪を解いた。自身のそれと比べて、桜庭の髪はずいぶんと細くて柔らかい。慣れない触感を楽しみながら「熱くないか」と声をかけるも返事はなかった。顔をのぞき込むとその目は完全に閉じられており、同時にがくりと桜庭の頭が垂れる。どうやら完全に寝てしまったらしい。起こしてしまわないように、優しい手つきを心がけながら天道は黙々と桜庭の髪を乾かす。しかしあの桜庭が、こうして己に頭を任せて寝こけている現状はなかなかに愉快であった。人の面倒を見るのは嫌いではない。任されるのは信頼の証でもある。
 そうして上機嫌のまましっかりと桜庭の髪を乾かし、ついでに手ぐしでしっかり整え、ドライヤーを片した天道はソファの正面から桜庭の顔を覗く。軽く肩を叩きながら「乾いたぞ。起きれるか?」と聞くが完全に無反応だ。
 しょうがねえなあ、と呟いてから寝室までのドアを開け放ち、ついでに掛け布団を足下までめくり上げる。そうしてリビングに戻って両の袖を捲った。事務所の筋肉自慢たちには負けるが、天道だってそれなりに鍛えてはいるのだ。桜庭程度なら余裕である。小声でよっこいしょと呟きながら横抱きで持ち上げるも流石に起きてしまったらしい。「ぅお」と漏れる小さな声相手に「危ないから動くなよ」と注意する。そのままベッドまで運んでやると桜庭は目をまたぱちくりとさせていた。
「……君は僕の彼氏かなにかか?」
「彼氏じゃなくてリーダーだよ」
 寝そべったまま寝言のようなことを言う桜庭へ突っ込みを入れつつ、ほら寝ろと掛け布団を頭まで被せる。これにて桜庭の世話は完遂した、とリビングへ戻ったところで天道は気がついた。
 流石に今のたとえはおかしいのではないだろうか。
 確認するべく天道は踵を返した。真っ暗な寝室でひたすら桜庭の肩をペチペチと叩く。
「彼氏? なあ彼氏ってなんだよ。おい一回起きてくれよ。彼氏? お前、俺のこと彼氏だと思ってるのか? どういう意図のたとえ? 優しいって意味? なあ起きろよ」
 と必死に声をかけてみたが、残念なことに桜庭が目は一向に開かなかった。

 後日、なんか桜庭に彼氏って言われたんだけど、と翼に相談しようとしてやめた。なぜやめたのか、天道自身もよく分かっていない。


























僕は最初から好きだったぞ。

君とは住む世界が違うので

 ずいぶんと売れてきた自覚はある。それは桜庭に限った話ではない。同じユニットメンバーである天道と柏木、それ以外の315プロダクション所属アイドルたちも着実にキャリアと高評価を積み重ねてきた。今では全員がせわしなく仕事をこなしており、それは嬉しい悲鳴としか表現しようがない。しかし空きの少ないスケジュールは常に犠牲が伴う。交際をしているはずなのに、それどころか同ユニットに所属しているのに、桜庭と天道が顔を合わせるのは約一ヶ月ぶりであった。ちょっと話がある、とは事前にLINKで言われていた。しかし都合が合わせられず、偶然事務所で出会ったタイミングで桜庭は屋上まで連れてこられた。
「あのさ、……一緒に住まないか?」
 ドアを閉めるなりそう切り出した天道の言葉に、桜庭には否定する理由が一切なかった。だから当たり前のように頷くと、天道は「よかった」と嬉しそうに笑った。それから天道と一緒に暮らしている。無理にスケジュールを合わせなくても顔が見られる、声が聞ける、触れ合える。そんな生活を桜庭は内心、相当に気に入っていた。しかしそれを天道本人に伝えたことはなかった。

 社交の酒の席を終えて桜庭が帰宅すると、当然天道はそこにいた。ソファでリラックスしている彼に「ただいま」と告げると、すぐに「おかえり」と返ってくる。一瞬だけ桜庭を捉えた視界はすぐによそへ向いてしまった。桜庭は彼の正面にあるテレビを確認する。
「また見てるのか」
 桜庭がため息交じりにそう呟くと「おう」と天道は適当な相づちを打つ。当然視線は画面に向けられたままであった。
 そこに映し出されているものを桜庭はよく知っている。315プロダクション所属アイドルが総出演した映画、天地四心伝。その後編である千紫万紅の乱であった。ちょうど桜庭演じる不知火がなにやらべらべらと喋っているところである。
 この映画のブルーレイが発売されてから、天道はなにかとこれを再生していた。
 確かにこなした仕事の中でもかなり印象深く、当時の現場も賑やかであり、未だにこれを楽しかったと振り返るアイドルも多い。だから天道もよく見返している、と最初のころは思っていたが、どうやら違うらしいと気がついたのは少しばかり前である。なんでも天道は不知火が気に入っているらしい。
 確かに以前、気に入る演技があったと言われた記憶がある。
 とはいえ不知火そのものを気に入るのは予想外であった。お世辞にも性格がいいとは言えない、むしろ典型的な悪役である。当然全力で演じはしたが共感など微塵もできなかったし、なにせ天道が好む正義のヒーローとは対極のような役であった。いったいなにがそんなに天道の心を掴んだのか、理由はさっぱり分からないが、天道はしょっちゅうこの映画を見返している。
 自身の演じた役を恋人が気に入ってくれていること自体は別にかまわない。当然桜庭もその点に関しては嫌な気はしていない。していないのだが、天道の視線はずっとテレビの画面に向けられたままである。
 桜庭はその様子をじっと見ていた。しかし天道は気にとめてもくれない。桜庭は鞄を置いてその脇に立った。ソファに座る天道の足元へ両膝をつく。下からじいっとのぞき込むと、やっと天道が顔を向けた。そのまま桜庭はすうっと息を吸う。
 いつもより少し高く、機嫌が良さそうに、好意的に、だけど目は笑ってはいけない。あくまで自己中心的に。
 膝の上に置かれていた天道の手を上から握って、桜庭は口を開く。
「ずいぶんと私を買ってくれているようですね。よろしければ秘密の場所に招待しましょうか。……人間族の被検体はなかなか手に入らないんですよ。あなたなら大歓迎です」
 天道は目を丸くしていた。しかし数秒後、ふ、と息を吐くと同時に顔が緩み出す。にやけるのをこらえているらしい。口元が変に力んでいるのが隠し切れていない。
「なんだよ急に。ファンサが過ぎるだろ」
 空いた手でぐりぐりと桜庭の頭を撫でながら、天道は嬉しそうな声で言う。しかし対する桜庭は不貞腐れていた。
「え、まじでどうした?」
「帰ってきたぞ」
「うん。知ってるよ。おかえりって言っただろ?」
「じゃあなぜ君はいつまでもテレビばかり見ているんだ」
 不機嫌を隠さずに桜庭が言い放つ。天道はやっと理解したらしい。クツクツと笑いながらソファを降りた。桜庭に合わせて床に膝をつきながら、躊躇いなくその身を抱きしめてくる。
「ごめん。……拗ねるなよ」
 体温、匂い、頬をかすめる髪の感触。その全てにほだされそうになりながらも桜庭は「言っておくが」と釘を刺す。
「自分の役に妬くなよ、などとくだらない発言は許さないからな」
「言ってないだろそんなこと」
 ごめんなあ、とまた頭を撫でられるのが、まるであやされているかのようでしゃくに障る。なので抗議の意味を込めて、それからちょっと愛も込めて、桜庭は全力で抱きしめ返すことにした。

ろうそくに灯る光のごとく

 今となっては掌に収まってしまうほど小さなそれを当時は両手でしっかりと持っていた。木箱の蓋はガラスがはめ込まれており、中には青を基調とした蝶の標本が羽を広げて鎮座している。
「お前、今日誕生日なんだろ?」
 ほら、と笑顔で差し出されたそれを、後に宵闇の王と呼ばれるようになる少年は不思議に思いながら受け取った。確かに今日は少年の八歳の誕生日だ。だからといってなぜこの男が自分にプレゼントを渡してくるのか。彼とは一週間前に知り合ったばかりである。ここファンタスマゴリーという国には暗夜という二つ名がついている。光に見放され闇に支配された土地は文字通り日の当たらぬ者たちが跋扈し平和とはほど遠い。当然町並みも荒れ果て、管理の行き届かず放棄された建造物は数え切れない。不当に占拠され悪の巣窟と化している場も多いが、ここはそういった人物たちからはどうも嫌煙されているらしい。少年たちのほかに人の気配はない。
「お前はいっつもここにいるのか?」
 そう言いながら、先日テッドと名乗った少年はあたりを見回した。並ぶ机と椅子は古びてこそいるものの質のいい木が使われておりずっしりと重厚感が溢れている。入り口付近にあるカウンターは当然無人であった。先へ目を向ければ視界が許す限りびっしりと、彼らでは到底手が届かない高さの本棚が立ち並んでいる。少年が持ち込んだランタンの光だけが周囲を照らしていた。卓上は揺らめき、重厚な天板と少年が開いたままの本、そして今しがた受け取ったばかりの木箱とその中で艶麗さごとピン留めされた蝶へ光を注ぎ、受けたそれらが反対方向へ深い影を落としている。少年はじっと木箱の中を見た。傷一つなく広げられた羽根は青と黄色、そして艶のある黒の三色で複雑かつ艶やかな模様を成している。
「本なんて見ると目が悪くなるぞ」
 机に手をつきながらテッドが言った。少年が机に積み上げた本の背を、目を顰めながら眺めている。この真っ暗な国で文字を追うには手元に明かりを用意するほかない。室内を照らしきるなど夢物語だ。たった一日でも燃料代がとんでもないことになるだろう。そしてそんなことをしようものなら窓から漏れた光を見たアウトローたちが嬉々として乗りこんでくるにちがいない。私は金持ちです、と自らアピールするようなものである。やっているものがいないとは言わない。周囲に怖いものなどいない、そこら一帯を牛耳っているような大悪党どもは自らの威厳を示すかのようにアジトへカンカンと明かりをつけている。そんな情勢が何百年という単位で続いたこの国は案の定識字率が低い。口伝が基本となっており、平民は数字こそ読めるが文字を追えるものは少ない。それもせいぜい自分の名前や身の回りにあるものの単語を読み書きできる程度である。長文、ましてや本を読むものなどほぼいないに等しい。それでも国の施策として識字率を上げようとした次期もあった。この荒廃した図書館はその名残である。
「視力ならすでに手遅れだ」
「そもそもこんなもの見てどうするんだ?」
「あのな、テッド。本は見るものじゃない。読む、と言うんだ」
 ふうん、と実に気の抜けた、興味のなさそうが相づちが返ってくる。テッドは積み上がっている本の一番上を取った。そうしてつまらなそうな顔でパラパラとページをめくる。すぐに彼の眉には皺が寄っていった。
「なんだよこれ、絵が一つもないぞ。なにも分からないじゃないか」
「文章が載っているだろ」
「お前、何が書いてあるか分かるのか?」
 彼がこくりと頷いた瞬間、テッドの瞳がパッと見開く。「マジで? マジか?」などと年を押したのち感心したような声で「ただのいじめられっ子じゃなかったのか」などとほざいた。確かに傍から見た彼は『いじめられっ子』と呼ばれるにふさわしい。二人が初めて出会った一週間前も、やはりこの少年は同い年の子供ら三人に取り囲まれていた。見ず知らずにもかかわらず彼の前に立ち、暴力と暴言を行使していた三人組を追い払ったのがまさしくこのテッドである。よって彼はテッドに大変感謝をしている、なんてことはなかった。常人なら間違いなく感謝する場面であるが、残念なことにこの少年は少しばかり常識から逸脱していた。自分がいじめられているなど微塵も認識していない。暴言暴力を振るわれていること自体は理解をしているが、それに屈したことも言いなりになったこともないので彼はこれを喧嘩と認識していた。そしてテッドのことはなぜか割って入ってきた変なやつだと思っている。三人を追い払った際、テッドは「大丈夫か?」と満面の笑みで彼を振り返った。それに対する彼の返事は「なんだお前は」であった。助けてやったのにぶっきらぼうにそう言ってくる彼に対してテッドは怒った。人の喧嘩に急に割って入ってきたあげくなぜか切れだしたテッドに対して彼も怒った。それが一週間前の出来事である。
 よってテッドが彼の前に姿を現したのは今日が二度目であり、なぜ誕生日を知っているのかも、なぜ贈り物まで用意して祝いにきたのかも彼には分からなかった。
 しかしそんな疑問は意識の片隅に追いやられている。少年は何度も箱を傾けた。動かすたびに蝶は色と輝きを、そして影を変えていく。彼はただひたすらにそれを眺めた。腹を満たすわけでも知識となるわけでもない。ただ美しいだけのそれに少年は間違いなく視線も心も奪われていた。調度品を人から贈られたのは初めてのことであった。それどころか、自分のものとして手にすることすら初めてである。
「気に入ったか?」
 真向かいから聞こえてくる問いに対して彼は素直に頷いた。未だ蝶から視線を放せない彼にはテッドの表情が分からない。しかしその声色が実に穏やかであることはきちんと認識できていた。
「それじゃあお礼に、教えてくれよ。この本になんて書いてあるか」
「いやだ。面倒くさい」
 少年の辛辣な一言に、テッドは言葉を返してこなかった。それどころか身じろぎ一つする気配がない。おそらく予想外だったのだろう。
「一つ一つ内容を教えていては効率が悪い。自分で読め。……読み方なら教えてやる」
 そういいながら少年はやっと視線を上げた。彼の目の前で、ランタンに照らされたテッドの顔がパッと破顔した。

 古びた木箱に収まる蝶の標本、宝石を模した青いガラスがはめ込まれたピアス、金糸の刺繍が施されたスカーフ、見事な装丁をした革張りの本は遠く離れた国のものらしく書かれた文字を読むことはできない。鮮やかな色の絵の具がふんだんに使われた絵画に、細やかな意匠が施された銀のペン。本物の金にルビーがあしらわれた指輪は彼の指にぴったりとはまる。 一人で使うにはあまりにも広すぎる寝室はオレンジ色の光で満たされていた。天井からのみにあらず四方八方の壁に備え付けられたランプはそれぞれ柔らかな光を放っている。それらを一心に受けながら宵闇の王は大きな戸棚を開けた。そこには上記を含めた十八個の品が等間隔に静座している。彼は一番上の、左隅に置かれた木箱へ手を伸ばした。当時は大きく感じたそれはもう片手に収まってしまう。それでも宵闇の王はそれをわざわざ両手で持った。そして中の蝶を見つめたまま箱を小さく傾ける。
 少年が宵闇の王と呼ばれるようになるまで、ファンタスマゴリーの悪を踏みつけその上に君臨するようになるまでテッドは常に彼の隣にいた。実権を握り身の回りを騎士団で固めてからも彼は休むこと知らず、治安とインフラの向上は当然の責務とした上でさらに先を見据えていた。
「根本的に国力が低すぎるんだ。だから大きな力が、この国の象徴となるようなものが欲しい。しかしゼロから生み出しては時間が掛かる。……そこで一つ考えがある」
 錬金術、および錬金術師。隣国で密やかに噂されるそれは魔術師からも科学者からも受け入れられていない。蔑称であり、日陰者であり、そして身を隠しながら小さく散けて点在している。
「先進国の連中が持っている魔術の信仰も科学の信念も我らには知ったことではない。あれを引き入れて、国を挙げて支援する。上手くいけば何十年、いや、何百年分の時が一瞬で進むだろう。錬金術だけではない。無意味に不当な扱いを受けている有能なものをどんどん引き入れて成長させていく。当然、本当の悪も混ざり込むだろうがそこは見つけ次第きちんと叩き潰す。どうだ? 暗夜の国にふさわしい戦略だと思わないか?」
 静かに聞いていたテッドは「分かった」と言って頷いた。それ以来テッドは彼の隣から姿を、そしてファンタスマゴリーの歴史から名を消した。全ては故郷のため、そして彼の理想のために今は見知らぬ国を渡り歩いている。
 しばらく蝶を眺めていた宵闇の王は壁の時計へ視線を移した。針はもうすぐ二十四の位置で重なろうとしている。他国では十二を二回繰り返すことで一日の時間を把握しているらしい。それでは混乱するだろう、と眉を顰めた彼に「日の光が移り変わるから分かるんだよ」とテッドは笑った。闇に閉ざされた世界にいるものには到底想像のできないことであった。あの日、彼に読み書きを教えて貰っていたはずのテッドは長い時を経て彼にものを教える立場へと変わっていた。もう数年に一度しか顔を合わせていない。それでも彼の元には年に一度、必ず贈り物が届いていた。それには名もなく手紙もない。腹を満たすわけでも知識となるわけでもない。ただ美しいだけの贅沢品をこの日に送りつけてくる人物を王は一人しか知らない。隣にいたころからの習わしだったからである。だから十九個目が今日、目の前の棚に並ぶはずであった。並ぶものだと信じて疑わなかった。遅れたことも届かなかったこともこれまで一度もなかったのだ。
 だからドアを叩く音が聞こえた瞬間、彼はハッとして駆け寄った。標本を持ったまま重厚なドアが開かれるのを待つ。そこに立っていたのは見知った従者であった。片手に銀の盆を持っており、そこには小さな瓶とグラスが載っている。それ以外はなにも持っていなかった。
「一向に明かりが消えないため、寝酒をお持ちしました。……明日のご予定は先ほどお伝えしたはずですが」
 要約するなら「早く寝ろ」である。肩透かしを喰らった彼はぶっきらぼうに「そこに置いておけ」とベッド横のチェストを顎で示す。従者は言われたとおりにそこへ盆を置きさっさと部屋を立ち去った。ドアが完全に閉まったことを確認してから彼はため息をつく。とぼとぼと棚の前に戻り木箱を元の位置に戻した。そのまま重い足取りで壁のランプを一つ一つ消していく。そこには王としての威厳など微塵も感じられない。最後にベッド脇の明かりを消して、彼は眼鏡を外した。そのまま倒れ込むように寝具へと身を沈める。そのままゆっくりと目を閉じた。眠ってしまおうと思った。彼にできることは他に何もなかったからだ。仰向けに身を動かして片腕で目を覆う。彼は意識して体の力を抜いた。意識を手放すために深く呼吸をする彼の体を緩やかな風が撫でていった。ああ、窓を閉めるのを忘れていた。しかしもう起き上がるのも面倒だ、とそのまま再度深い息を吐いた彼の髪がくすぐられる。それは風ではなかった。明確な意思と熱を持っていた。彼はとっさに腕をどけて目を見開いた。幼少期から酷使した目はもはや眼鏡なしでは近距離のものすらろくに輪郭を捉えることができない。それでも一目見た瞬間に分かる。闇夜の中でもよく目立つ燃えるような赤い髪を彼が見間違うはずがなかった。
「悪い、遅くなっちまった」
 誕生日おめでとう。テッドがそう言い終わるより先に、彼の手は大きな背中へとまわっていた。

ちょっとした魔法¥780税込

 今日の桜庭は何かが違う。一目見た瞬間に天道はそう直感した。今日はドラスタ恒例の月末定例ミーティングである。三人がデビューをして早数年、着々と仕事をこなしてきた成果ははっきりと現れていた。楽曲ビルボードにライブ動員数、グッズの売り上げ、テレビの視聴率にブログの閲覧数やコメント数、そしてなにより舞い込む仕事の数はデビュー当初とはもはや比べものにもならない。そしてその仕事の半数以上が個人に対する依頼であった。DRAMATIC STARSというユニットは実に個性が散けており得意な分野が違う。それぞれが得意なことを全力でこなしているうちに気がつけば一ヶ月以上も顔を合わせていない、などという事態が頻繁に起こるようになった。
 これに対して真っ先に危機感を覚えたのは天道であった。とはいえ柏木に関してはあまり問題視していない。連絡をすればすぐに返事をくれるし、最近会えていないから時間を作ろうと提案すれば乗り気で合わせてくれる。問題は桜庭であった。仕事の用事以外ではLINKをろくに返さない。返ってきても必要最小限の短文であり、飯にでも誘おうものなら『その必要性は感じない』などと辛辣な答えでぶった切られる。流石の天道も心が折れそうになることが何度もあった。結成当初こそ会うたびに喧嘩をしていた仲であるが、年単位の交流を続けることで随分と桜庭のことを理解できるようになった、と天道は思っている。彼に対して腹を立てる機会も減った。言葉のとげは未だ健在だ。しかし対面していればその声色から、視線から、そして表情から言葉の裏にある優しさや真面目さを十二分に読み解くことができるほどの時間を共有してきた。対面していれば、の話である。
 文章のみのやりとりとなると話は別であった。判断材料が文字のみとなった瞬間に、途端にその辛辣さが際立ち始める。自分の発言が他者からどう思われるのか。年単位でアイドルという職業に従事しているはずなのに桜庭はそれが完全に欠落しているとしか思えない、というのが天道の正直な感想である。とはいえ桜庭がメディアの前で失言をしたことはない。欠落しているのではなく天道には一切の気を使う必要はない、と思われているだけの可能性もある。実際、柏木に対してはもう少し優しいもの言いをする。以前柏木と食事に行った際にLINKを見せてもらったことがある。それを見た天道は正直に驚いた。そして俺にももうちょっと気を使ってもいいんじゃないか、などと考えたが、桜庭本人に伝えたところで食い気味に却下されるのは目に見えているので心の内に留めることにした。
 桜庭本人からしてみれば対面だろうがLINKだろうが態度を変えているつもりはないはずである。だからこれは受け取る天道側の問題と言われれば彼はなんの反論もできない。それでもさあ、もうちょっとさあ、と食い下がりたくなるのは天道が桜庭を好いているからにほかならない。それは仲間的な意味であり、そして恋愛的な意味でもある。しかし後者に関しては桜庭に聞くまでもなく一方的なものなので、天道は必死に前者のみを全面に押し出してDRAMATIC STARSのリーダーを務めていた。せめて月一くらいは三人で顔を会わせる方法ないか? できれば桜庭も納得して参加するような方法だといいんだけど。そう零した天道にプロデューサーはきっちりと応えた。以来、DRAMATIC STARSは来月のスケジュール確認と今後のプロデュース方針のすり合わせのための定例ミーティング、という名目で各月の末に事務所へ集っている。

 そんなわけで今日も朝から事務所のミーティングスペースを陣取っている。真っ先にやってきたのは天道であった。続いて柏木、プロデューサーが席に着く。桜庭を待ちながら和やかに談笑を続けているうちに気がつけば開始時間の十分前となっていた。壁の時計は八時五十分を指している。企業としての315プロダクションは始業を九時としており、案の定事務を始めとした裏方の職員たちは元気よく挨拶をしながら席へ着き始めていた。目の前に並んで座る柏木とプロデューサーとの会話を続けながら、天道はついチラチラと時計へ視線を向けてしまう。日頃の桜庭なら十五分前、遅くとも十分前には涼しい顔をして着席している。さてはまたコーヒーを切らしたのではないか。謂わば朝にだけ観測することができる希少種、ふわふわぽやぽやした桜庭薫の姿を天道は思い浮かべた。塩と砂糖の区別すらつかないそれは実に愛くるしくて可愛げがあるが、反面危なっかしくて仕方がない。桜庭の自宅から事務所へ向かうまでの道筋は当然知っている。迎えに行くべきか、いやまずLINKを送ってみるべきか。いやそもそも開始時刻にもなっていないんだから心配するのは早いんじゃないか。天道が悩んでいるところでやっと桜庭は顔を出した。九時まですでに残り六分のところであった。
「僕が最後か。遅れてすまない」
「まだ九時前ですよ。大丈夫です」
「珍しいな。寝坊でもしたか?」
「してない」
 淡々と言いながら天道の隣へ座った桜庭の姿を、天道はしっかりと捉えた。そして思った。今日の桜庭は何かが違う、と。天道は改めて桜庭の顔をじっと見る。違和感、と表現するのは語弊がある。とにかく普段と印象が違う。服装はいつも通りである。若干肌寒くなってきた気温に合わせて衣替えこそしているものの、特筆する点は天道には思い当たらない。言動や声、髪型や眼鏡にも普段と異なる部分を見つけることはできない。ならば原因はいったいなんなのか。天道が疑問に思いながら桜庭の顔をひたすら眺めていると横目でぎろりと睨まれた。仕方がないので天道は正面へ向き直る。人の顔をじろじろと見るのは褒められた行為ではない。流石に今のは己に非があったと天道は反省した。
 天道が気を取り直したところで始まったミーティングは特筆すべき点もなく終わった。そもそも顔を合わせることを目的として組まれているし、定例として毎月行ってきたので流れもある程度決まってきている。今月の反省という名の感想合戦、来月のスケジュールと仕事の不安点や共有しておきたいこと、今後挑戦したい仕事や再度やりたい仕事。その辺までいくとだいたい話が逸れていく。他ユニットのライブ見に行ったがとてもよかった、地方ロケでものすごく美味しいお店を見つけました、ドッキリ番組で特撮ばりの爆発があってテンションあがったエトセトラ。そうしているうちに時間がきて解散となる。やはり今日もいつも通りのドラスタ定例月末ミーティングであった。強いて言うなら天道自身の気が散っていたことくらいである。
 そもそもアイドルという職業柄、衣装もヘアメイクも仕事によって千差万別である。なので普段と印象が違う、などということは日常茶飯事なのだ。ドラマや映画、舞台のメインキャストに選ばれればそれに合わせて髪色やその長さまで変えることもある。だからちょっと普段と違うくらいどうということはないはずであった。なのになぜ今日はこんなにもその違いが気になるのか。天道自身にもよく分かっていない。少なくとも初めて見る雰囲気ではなかった。ときたま仕事で、バラエティではなくグラビア撮影などの現場でこんな印象を纏っている桜庭を見たことはある。とはいえ桜庭が日常生活で化粧などしているはずもなく、さりとて顔以外に変わった部分は見当たらないので天道はひたすら隣に座る桜庭をちらちら見ていた。向かいに座る柏木とプロデューサーは特に気にしている様子が見えず、当然話題にも上げないのでもしかしたら自分の勘違いなのではないか、いやでもやっぱなんか違う気がする、などという思考が時間いっぱい頭の片隅に居座っていた。

 定例ミーティング終了後、桜庭とプロデューサーはそのまま次の仕事の打ち合わせをするとスペースへ残った。柏木と天道は並んで歓談スペースへ移動する。残った二人が会話を始めたことを衝立ごしに確認してから天道は小声で「なあなあ翼」と話しかけた。
「今日の桜庭、なんかいつもと違うよな?」
 柏木は分かりやすくきょとんとした顔をした。そのまま顎に手を当てて数秒ほど悩む仕草をしたが、そのまま小首を傾げ始めた。
「いつも通りだったと思いますけど……」
「そっか。俺の気のせいか?」
「オレにはちょっと分からなかったです」
 そのまま柏木がうんうんと一生懸命に考え出してしまったので天道は慌てて止めた。やはり自分の勘違いだろうか、と思いながら「お前この後仕事だろ? 時間大丈夫か?」と尋ねる。柏木はハッとした顔をしたあと、挨拶をして慌てて事務所を後にした。しばらくしてから天道が窓から下を覗くと、ビルを降りて道を歩く柏木の後ろ姿がやはり悩むように小首を傾げており、それを見て心の中で「ごめん」と謝罪した。
 天道は窓から離れてソファへと座った。今日の仕事は午後からであり、移動を考えてもまだ十二分に余裕がある。事務所に用は残っていないが特にやらなくてはいけない用事もない。こんな日に限って事務所には他のアイドルの姿は見当たらなかった。レッスン室にはいるかもしれないが暇つぶしで邪魔をするわけにもいかない。天道はしばらく悩んだのち、鞄から文庫本を取り出した。一度帰宅してもいいし、余所の喫茶店で時間を潰す選択肢もある。しかしどうしても気になった。自分だけではなく柏木まで悩ませてしまったのだ。こうなってはもう答えを見つけなければ気が済まない。さながら高難易度の間違い探しのようだな、と思った。そして間違い探しならじっくり見ながら探すほかない。天道が事務所を出るのが先か、桜庭が打ち合わせを終えるのが先か。文庫本を開いて睨み付けていると前方でコトリと音がした。天道は慌てて顔を上げる。にこやかな表情をした山村がカップをローテーブルに置いてくれる音であった。

 衝立の向こうから出てきたのは桜庭一人であった。プロデューサーは反対側から自分のデスクへ戻ったらしい。天道はさっと手元の本に栞を挟んで顔を上げる。そして座ったまま桜庭の顔をじっと見た。天道がまだ残っていると思わなかったのだろう。桜庭は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに鋭い視線で天道を睨みつけてきた。天道も負けじと真面目な顔で凝視し続ける。やはり違う。あきらかに何かが違う。両者による数秒間のにらみ合いののち、それを破ったのは桜庭であった。
「そんなに変か」
 そう言いながらぷいと顔を背けられる。ああやっぱり、と天道は思った。いつもと同じならそんな言葉は出てこないのだ。普段と違う部分があって、桜庭はそれを自覚している。これはもう本人に答えを聞いたほうが早い。それはそれとして今の言葉には語弊がある。そこはきちんと否定しなければならない、と天道ははっきり口を開いた。
「いや変なわけじゃないけど。……いつもと違うのは分かるんだけど、なにが違うのかは分からないんだよ」
 天道が素直に言うと桜庭はちょっと怒ったような、拗ねたような顔つきのままポケットへ手を入れた。そこから出てきたのは黒いスティックであった。ちょうど人差し指ほどの長さで細いそれが桜庭の手に収まっている。
「リップ?」と天道は首を傾げた。桜庭は無言でそれの蓋をとり、下部を回す。そこからゆっくりと出てきた色はちょうどピンクとベージュの中間であった。
「そろそろ乾燥してきたから駅ナカで今朝買った。……無色を選んだつもりだった」
 つまりは買い間違えたわけだ、と天道は合点した。大方買い直すか悩んで、まあ対して目立たないはずだなんて思いながらそのまま来たのだろう。桜庭が化粧品になど詳しいはずもなく、なんなら寝ぼけていた可能性すらある。桜庭の朝の弱さはよく知っていた。
 天道は改めて桜庭の顔をしっかりと見た。言われてみれば一目瞭然である。いつもは主張の少ない薄い唇にほんのりと色が載っている。はっきりと発色する口紅なら別だが、この程度ならノーメイクで塗っていても違和感はない。むしろ知らない人が見たら、元の唇の色と勘違いをする可能性すらあるほど自然であった。
「まあいい。後で買い直す」
 むくれた顔のまま隣へ移動してくる桜庭を、天道は無言で見つめていた。ひたすら顔に視線を合わせて追い続ける。桜庭が腰掛けた後も真横からじっと見つめ続けた。白い肌に整ったEライン。その下部でいつもより血色のいい唇が艶を伴って鎮座している。密度は高くないがすっと長く伸びた睫毛の下で、水色の瞳が天道のほうを向いた。未だに凝視されていることに気がついたらしい。桜庭の眉間はみるみるうちに皺が寄っていく。あ、怒る、と天道が思った瞬間に桜庭は勢いよく立ち上がった。
「もういい。今買ってくる」
 低い声でそう言い放ちながら歩き出そうとする桜庭の手を、天道は慌てて掴んだ。
「だから変じゃないって!」
「じゃあなんだ! さっきからじろじろと人の顔ばかり見て!」
「だから……、変じゃなくて……」
 えーっと……、と言いよどむ天道を、桜庭は容赦なく睨みつけてくる。人の顔をじろじろと見るのは褒められた行為ではない。流石に今のは己に非があったと天道も理解している。とはいえこんなの見ざるをえないし、それに対する弁解をしなければいけないことも分かっている。数秒以内に「変じゃなくて」の続きを言わなければ数週間単位で口をきいてくれなくなることは明白であった。しかし残念ながら一つの感想が脳裏を占めているので他の単語が出てこない。もはや賭けであった。無言ならマズいことになるのが確定しているのだから口に出すほかない。結成当初すら数えるほどしか見たことないぞと言いたくなるほど鋭い視線を向けられたまま、その目をしっかり見据えたまま天道は言った。
「かわいいよ」
「……は?」
 ちょっと信じられないほど強い力で腕を振りほどかれる。そのまま桜庭は早足に事務所を出て行った。ドアの閉まる音を聞きながら天道はため息をつく。目の前のカップをゆっくりと手に取って一口飲んだ。もう随分と冷めていた。駄目だったかあ、ともう一度ため息をつきながら、次に会うのはいつだったかと先ほどのミーティングで聞いたスケジュールを思い出していた。

 そんな事件から約一ヶ月後、ドラスタは今日も事務所のミーティングスペースへ集うことになっていた。月末恒例定例ミーティングである。結局あれから天道と桜庭が顔を合わせる日はなかった。ミーティングスペースへ入りながら、絶対口聞いてもらえないだろやだなー、と苦い顔で思ってしまうのは天道が桜庭を好いているからにほかならない。それは仲間的な意味であり、そして恋愛的な意味でもある。しかし後者に関しては桜庭に聞くまでもなく一方的なものなので、天道は必死に前者のみを全面に押し出してDRAMATIC STARSのリーダーを務めていたのだが、すでに座っている桜庭の唇がほんのり色づいており、こちらに気がついて逸らされた顔の横についている耳もやっぱり色づいており、ちょっと悩んで隣に座り小声で「かわいいよ」と言ってみたら肩に拳が飛んできたがそれは予想よりずっと力が弱かったので、今後は後者も押し出していくべきである、と天道は一人で決意した。

その壁は二週間前に崩壊している

 それは天道への恋心を自覚した直後のことであった。ステージの上でハイタッチをした瞬間に桜庭は違和を覚えた。その次にカメラの前で肩を組まれて引き寄せられたときにそれは疑惑となり、その後に事務所でソロの仕事を「頑張れよ」と背中を叩かれたことで確信へと変わった。
 天道輝は手が大きい。桜庭がその事実を認識したころにはDRAMATIC STARS結成から年単位の時が経過していた。今まではそんなこと微塵も気にしておらず、そもそも知ったところでなんの感情も抱かなかっただろう。それは本来、桜庭の人生と生活に微塵も関係がない情報であった。だのに、確信して以来の桜庭はその事実に心を引きずられかき乱されている。コーヒーカップを手渡され指先が触れた瞬間ですら、心臓とよく似た器官からなにかが大量にあふれ出してくるような錯覚を覚えた。まるで女子中学生である。いや、もしかしたら小学生レベルかもしれない。桜庭はそのあまりに未熟な精神構造を恥じた。影でため息をつきながら必死に耐えるほかなかった。なにせ天道という男はパーソナルスペースが随分と狭い。平気で人に触れてくるのだ。だからライブ後に感極まって抱きすくめられたときも、飲み会の後にぐしゃぐしゃと頭を撫でられたときも、事務所の屋上へ続く階段で告白されながら手首を掴まれていたときも桜庭は必死で耐えた。そうして晴れて恋人となり天道の家に呼ばれた今、桜庭はやっと気がついた。耐える理由が微塵も残っていないことに。

 とっくに日が落ちた外とこの部屋を隔てるようにカーテンはぴっしりと閉められている。桜庭は一人でソファに座り瞑目していた。少し離れたキッチンからは絶え間なく流水の音と天道の鼻歌が聞こえ、ときおりカチャリと食器が鳴る。天道の手料理を食べる機会はこれまで何度もあった。だからこそ分かる。今日は随分と気合いが入っていた。白身魚のソテーに彩りのいいサラダ、野菜がゴロゴロ入ったスープの隣に置かれたパンは近所にある行きつけのパン屋で買っておいたらしい。クラフトビールが注がれたグラスにはバカラのロゴがあった。店でも開くつもりか? と突っ込もうとしてやめた。向かいに座る天道があまりにも楽しそうな笑顔だったからだ。手を合わせて食べ始めると、天道はすぐにあれはこれはと料理の感想を求めだす。桜庭は珍しく素直に褒めておいた。さっぱりとした味付けで素材のうまみを引き出すように作られたそれらは明らかに桜庭の好みを重視して作られていたからだ。思えばこの家に一人で赴いたのは今日が初めてであった。天道の家を訪ねるときはいつだって柏木や他のアイドルが共におり、そして普段表に出ている年甲斐のない明るさという子どもらしさとは裏腹に天道は社交性と常識も十二分に身につけている男である。よって卓上には来客全員をもてなすための料理が並ぶのが常であった。しかし今日の客は桜庭一人しかいない。桜庭のために、桜庭の好みに合わせて、桜庭をもてなすためだけに天道の手によって作られていることは明白であった。つまり己が褒めてやらねば目の前の料理は存在価値を失い、そしてそれを作るために天道がかけた労力も水泡に帰す。よって桜庭は素直に褒めることを選択した。この場で喧嘩になることも、悲しい顔を見る羽目になることもいやだった。結成当初であればこの選択は取らなかっただろうな、などとパンをちぎりながら考えたが、そもそも結成当初の自分は一人で天道の家になど来るはずがないと思い返した。

 そうして穏やかな雰囲気のまま全ての皿は空になり、キッチンで天道が一人それを片している。桜庭は当然手伝いを申し出たのだが「いいから。お前早朝から仕事だっただろ? ゆっくりしてな」と追い返されてしまった。仕方がないのでこうして一人、リビングにある二人がけのソファに座っている。落ち着いた色合いをした布張りのソファは弾力があり大変座り心地がいい。目の前にあるテレビの電源は入れていない。桜庭は目を瞑ってひたすら耳を澄ませていた。背後のキッチンからは流水がシンクへ落ちる音が絶え間なく続いている。それにアクセントをつけるようにカチャリ、カチャリと食器が鳴る。それらの後ろから微かにメロディーが聞こえてくる。聞き慣れた声が鼻歌を奏でている。それはDRAMATIC STARSのデビュー曲であった。胃が満たされた状態でソファに沈み込みながら、桜庭は目を瞑ってひたすらそれを聞いていた。桜庭の頭がゆっくりと垂れていく。それと比例するように、耳に届く音もゆっくりと小さくなっていくような錯覚を覚えた。

 緩やかに覚醒を始めた意識が真っ先に認識したのは頬に触れるなにかであった。柔らかで温かいものが三つほど並んで頬に添えられている。それはゆっくりと、そして撫でるように微かに動いた。指先だ、と桜庭は思った。まだ重たい瞼を桜庭は半分ほど持ち上げた。
「悪い。起こしたか?」
 あの心地よかった音は止んでいた。己の顔を覗き込んでいる天道のことをレンズ越しに認識した桜庭はパチパチと瞬きを繰り返す。どうやら隣に浅く腰掛けて身を乗り出しているらしい。触れていた天道の指先がまたゆっくりと動いた。下からすくい上げられるように掌が輪郭へべたりと触れる。桜庭の顎先が掌の底、母指球でやんわりと持ち上げられた。伸びた指先は柔らかく耳たぶを撫でている。洗い物をしていたはずの手はすでに熱を取り戻していた。いつも通りの、あの触れられるたびに心臓にまで熱が送り込まれてくるような温度へと戻っていた。未だぼんやりとした意識の中で桜庭は「耐えなければいけない」と反射的に思った。ずっとそうしてきたからである。桜庭はまた目を閉じた。今までのように離れるまでじっと我慢しようとした。しかし数秒経ってもその手は離れる気配がない。苦言を呈そうと桜庭はしぶしぶ瞼を持ち上げる。天道は相変わらずこちらの顔を覗き込んでいた。先ほどよりは多少まわるようになってきた頭で状況を認識し、桜庭は片頬を包まれたまま首を傾げる。目の前の天道は見たこともない表情をしていた。笑顔であることは間違いない。しかし日常や仕事で見るような屈託のないものとは違っていた。目尻はいつものように穏やかに下がっているが瞳の奥が知らない色を灯している。口元だって緩やかに弧を描いているのに、まるでなにかに耐えているかのような強ばりが表れていた。分からない、と桜庭はさらに首を傾げる。顔が大きく動いたせいで添えられた掌に桜庭の唇の端が当たった瞬間、耳の裏で天道の中指にびくりと力が入るのが伝わってくる。それと同時に目の前の瞳がさらに細まった。桜庭の思考はようやく睡魔から完全に覚醒した。そしてやっと気がついた。今日、自分がここに赴いたのは仕事仲間としてではない。今まで通り必死で堪える必要などもうどこにも残っていないのだ。
 桜庭はゆるゆると腕を持ち上げた。顔の高さまで手を上げた後、ずっと己の頬に添えられていた天道の手に甲側から包み込むように重ね合わせる。天道輝は手が大きい。瞬間的なふれあいと目測でその事実は把握していた。しかしこうしてしっかりと重ね合わせたのは初めてである。案の定桜庭の爪先は天道の指の端まで届かない。頬に触れている掌の柔らかさとは対照的に、骨張った手の甲は桜庭の掌には収まりきらない。桜庭はそのまま天道の手ごと自分の頬に向かって押しつけた。それと同時に自分の口角が上がったことを自覚する。求めていたことが叶ったのだからそれも仕方のない事であった。この大きくて温かな手に自分から触れてもいいし、自分に触れてほしいとその手を引き寄せることだってしても構わない。天道に告白されそれを受け入れたあの日から、自分はその資格を得ていたという事実にやっと桜庭は気がついた。外側から押しつけた天道の掌は仲間として触れられていた普段よりも、なんなら先ほどまでと比べても一段と熱を帯びている。そうして幸福を享受して笑みを浮かべている桜庭に向かって天道の額がゆっくりと近づいてくるものだから、桜庭は素直に目を閉じてやることにした。

悪い虫を払うものは

 いつも以上にゆっくりと丁寧にカップを置くプロデューサーの手つきを、天道はじっと見ていた。日はすでに沈んでいる。事務所には天道とプロデューサーの二人しかいなかった。パーテーションを挟んだ奥に天道は座っていた。入口からすぐのソファやホワイトボードが置かれた側にも、もう誰も残っていなかった。ローテーブルにぽつんと一つ本が残されているだけだ。
「おまたせしてすみません」
 向かいのソファに腰を下ろしたプロデューサーは机の上で指を組んだ。
 話があるから時間を作って欲しいと言ったのは天道の方だった。担当アイドルからそんなことを言われては不安に思うのが普通だろう。それでも天道が話しやすい空気を作ろうとしてくれている。彼はそういう人物であることを、天道は今までの付き合いからよく分かっていた。だからこそ、プロデューサーの口元の笑みに天道の良心が痛んだ。天道に話があると言われてから、おそらく色々な想像が脳内を飛び交っただろう。その中でも一番最悪なものを天道は今、彼に伝えようとしていた。
「辞めようと思ってる」
 天道はコーヒーカップに手を伸ばした。プロデューサーの指が視界に入る。落ち着かないと言わんばかりに中指が揺れていた。
 それは、と言ってプロデューサーは一度口をつぐんだ。しかし意を決した顔で天道を見た。
「ドラスタをですか。事務所をですか。それともアイドルを、ですか」
「アイドルを、だな」
 天道は内心、質問に驚いた。315プロダクション以外で、DRAMATIC STARS以外でアイドルを続けるという選択肢など考えてもみなかったからだ。それでも即答した。一切浮かばなかった程度には、ありえない選択肢だった。
「理由を聞いても?」
「……言わなきゃダメか?」
「さすがにそこは」
 ハイ分かりましたとは言えませんので、と続けるプロデューサーがあまりにもまっすぐ視線を向けてくるので、天道は身じろいだ。聞かれることは当然想定していた。
「一身上の都合で……」
 と呟いてみたものの反応一つ示してくれない。流石に通用しなかった。
 プロデューサー視野が広く、人の感情を見通すのが上手い人だ。天道は彼をそう認識していた。そのうえ人当たりがよく穏やかだ。一歩間違えばものすごく胡散臭くなるのだろう。そうならないのは、まるで優しさと誠意を煮詰めたような心が彼の芯となっているからだ。
 天道にとってマイナスになる選択肢は絶対にとってこない。数年間の付き合いからそれは分かりきっていた。それでもなんとか誤魔化すことができないだろうかと、天道は今でも考えている。
「仕事の内容に不満が?」
「いや」
「ではプロデュース方針ですか」
「いや、違う」
「スケジュールですか? 今すぐは無理ですが、今後はオフを増やすことも」
「違うんだよ、プロデューサー。アンタは何も悪くない」
「なら、私に何ができるんですか」
「……なにも」
 プロデューサーが何とかできる問題なら、最初から辞めるなどと天道は言わないのだ。相談がある、と言って解決に向けて話し合っている。それが出来ないからこうしていきなり辞職を告げるはめになっている。
 彼らしくなく矢継ぎ早に言葉を紡ぐ姿を見て、天道は更に良心が痛んだ。本当は墓場にまで持っていきたい。だけど彼に何も知らせず去れるほどの冷徹さを天道は持ち合わせていなかった。
「人間関係だよ」
 プロデューサーは眉間にシワを寄せたま首をかしげた。思い当たるフシがないのだろう。
「好きな人ができた。だから、アイドルは辞める」
「うちは恋愛禁止を謳ってませんよ。理解ある相手なら世間にも隠し通せます」
「付き合ってるわけじゃないんだ」
 プロデューサーの顔が見る見ると青ざめていく。まさか気づかれてたのか、と天道は思った。
「まさか妊娠させ」
「違う!」
「ではなぜ!」
「桜庭なんだよ」
「なにが……えっ?」
 プロデューサーは露骨に目を見開いた。気づいていなかったらしい。普段の天道と桜庭の様子を考えれば当然のことだろう。頻度こそ結成当初より下がったものの、未だに言い争うことも多いのだ。
「だからアイドルを辞めたいと」
「ああ」
「なるほど、微塵も理解できないな」
 パーテーションの向こう側から予想外の声が飛んでくる。天道はゆっくりと顔を向けた。桜庭はよく知る表情をしていた。眉間にシワを寄せ、顎が少し上がっている。天道は恐る恐る口を開いた。
「お前、なんでここに」
「僕は忘れた本を取りに寄っただけだ。それがまさか、こんな不快な会話を聞かされるとはな。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
天道は、桜庭の登場で頭が真っ白になっていたが、すぐに自分がカッとなったのが分かった。反射的に大きな声が出る。
「お前なあ!」
 生半可な気持ちで言っているとでも思われたのだろうか。だとしたら心外にも程がある。アイドルになってから数年間、天道は至極真面目に仕事をこなしてきた。ユニットとして活動してきた以上、自分が抜けることの重大さも理解している。そのうえで真剣に考えて、今日プロデューサーに打ち明けたのだ。
 桜庭はひどく冷たい目をしたまま「そんなことで悩むくらいならMCでも考えたらどうだ」と言った。そしてプロデューサーのほうへ向き直り「君もこんなくだらない話に付き合う必要はない」と言ってさっさと事務所から出ていった。
 扉が閉まる音にすっと頭が冷静になっていく。天道は椅子に座り直して頭を抱えた。
向かい側からプロデューサーの困惑した声が聞こえてくる。
「……今すぐ、というわけでは無いんですよね」
「ああ、ツアーライブも決まってるし」
 そこまではちゃんとやり遂げるつもりだ、と天道は続けた。
「とりあえずこちらにも考える時間をください」
「……悪かったな」
「いえ」
 天道は退席するべき立ち上がった。プロデューサーは見るからに疲弊していた。その顔に申し訳無さがこみ上げてくる。しかし原因は自分なのだからどうすることも出来ない。天道はさっさと事務所を出た。歩きなれた階段を降りているとポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を確認する。意外な人物からの連絡に天道は目を見開いた。

 いつから桜庭が好きなのか。天道は正確に把握していない。しかし自覚した日のことははっきりと覚えていた。
 その日天道は事務所についたばかりで、待ち人であるドラスタの二人とプロデューサーはまだ到着していなかった。事務所の奥から他ユニットのアイドルの談笑が聞こえる。混ざろうかと思ったときローテーブルに置かれた雑誌が目に入った。届いたのか、と天道はソファに座って雑誌を手に取る。それはまだ発売前のもので、先日行われたDRAMATIC STARSのインタビューが掲載されているはずだ。
 3人の午前スケジュールは把握していた。桜庭はダンスレッスン、柏木が街ブラロケでプロデューサーも同行している。天道は壁にかけられた時計を見た。集合時間までまだ十五分以上ある。インタビューだけなら到着前に目を通し終わるだろう。天道は雑誌を捲って目当てのページをすぐに探し当てた。右ページの上部にスリーショットの写真があり、インタビュー文はその下から始まっている。内容は近々発売する新譜についてである。写真もジャケット写真と同じ衣装を着用していた。
 この曲は近々、音楽番組で披露する予定になっている。それに備えてレッスンを入れたいと桜庭がプロデューサーに頼んだ結果、今日の午前に行われているらしい。
 それなりに仕事が貰えるようになってきた今、デビュー当時のように三人揃ってレッスンをする機会はぐんと減った。レッスンだけではない。仕事もバラバラですることのほうが断然多くなった。新曲のPV撮影、そしてこのインタビューは久々に三人が揃った現場だった。
 天道は三人で写っているページをそっと撫でた。自分の口元が緩むのが分かる。柏木に関してはしょっちゅう連絡を取っていたが、桜庭は最低限しか返事をしてくれない。スケジュールこそ大抵把握していたが、ここ最近はメディアを通して仕事の様子を知ることが多かった。だからこそ、先日の仕事は掛け値なしに楽しかったのだ。案の定言い争いはあったが、それでも彼らが自分の隣りにいて、いいものにするべく同じ仕事に向き合うのは楽しい。音楽番組の撮影までに一度集まって練習できないだろうか。プロデューサーに相談してもいいかもしれない。天道は文字を追った。ページを捲ったところで事務所のドアが開く音がする。天道は雑誌から顔を上げた。桜庭だった。
「おつかれ」
「もう来ていたのか」
 桜庭はドアを閉めると天道のもとまで歩いてくる。隣まで来て「届いたのか」と言った。
「ああ。バッチリ載ってるぜ」
 天道は膝の上の雑誌を軽く叩く。すると桜庭は、天道の隣へ座った。ソファの右側が沈み、同時に清潔感のただよう匂いを隣から感じる。レッスン終わりにシャワーを浴びてからきたのだろう。天道の横から桜庭が雑誌を覗き込んでくる。
「見るか?」
「このままでいい」
 桜庭は横髪を耳にかけて、天道の隣から覗き込む。その口角が僅かに上がっていた。その顔を見たとき、天道は初めて自分が桜庭に惚れていることに気がついたのだ。その後の会話を天道は覚えていない。本当に些細な日常の一瞬で自分の認識がひっくり返ったという事実にただ驚いたことだけは、よく覚えていた。
 そして衝撃とは裏腹に、自分が桜庭が好きだという事実はあっさりと腹落ちした。あまりにも納得できる点が多すぎたのだ。例えばそれは、桜庭のきつい言葉にやたらと腹を立ててしまうことだったり、逆に珍しく褒められたときは素直に受け止めきれず茶化してしまうところだったり。しっかりした大人だと分かっているのに必要以上に気にかけるのも、結成当初から言われているのに未だに辞められていない。そして何より桜庭の、眩しいほど実直に仕事へ打ち込む姿が好きだった。

 プロデューサーと話をしてから三日後の夜、天道は駅から少し離れたバーに来ていた。カウンター席に一人で座ってスマートフォンを触る。暖色系の光に包まれた店内はまだ席に余裕があった。奥のテーブル席にはスーツ姿の三人の客が談笑している。カウンター席には天道しか座っていない。先程注文したばかりの杯を傾けながら天道はLINKを見ていた。
『お久しぶりです。少し話したいことがあるのですか、時間を作ってもらえませんか』
 あの日事務所から出た後、このメッセージを見て天道は驚愕した。そもそも彼とLINKを交換していたことすら忘れていたのだ。案の定それより前のやりとりは一切ない。法律事務所に勤めていたころの同僚だった。無口で馴れ合いを好まず、同僚にすら敬語で喋るやつだった。しかし仕事には心底真面目に取り組んでいたことをよく覚えている。桜庭に似ていた、とドラスタやFRAMEの前で話したこともあった。
 杯を半分ほど空けた頃、バーのドアが開く。天道より十センチほど背の低い男はすぐに隣へ座った。
「おまたせしました」
「いや、来たばっかりだよ」
 時計は二十時五十分を指している。男は手短に酒を注文して天道に向き直った。
「お久しぶりですね」
「ほんとにな。お前からLINKがきてびっくりしたぜ」
 二人はそのまま軽い雑談を続けた。久しぶりにあった元同僚の見た目は少し変わっていた。短くて黒かった髪は茶色く染まり天道と同じ程の長さになっていた。服装は昔と変わらず仕立てのいい無難な色のスーツだが、左手の薬指にはシンプルな指輪がつけられていた。天道が事務所を辞めてからは一切の交流は無く、連絡が来た時点である程度調べはしたが、結婚したことまでは指輪を見るまで当然知るよしもなかった。仕事中の姿しか見たことが無いせいか、彼が女性と並んで歩く姿を天道は全く想像できない。指輪を話題に上げるべきか、天道は少し悩んで別のことを口にした。
「そういえば見たぜ。独立したんだってな」
「ああ、知っているんですね」
 なら話は早い、と彼はグラスをカウンターに置いた。
「売れっ子のアイドルにこんなこと言うのは憚られるんですけれども、うちの事務所に来ませんか」
「それは弁護士として、ってことか?」
「当たり前でしょう。うちの事務所にアイドルはいりませんよ」
「だよなあ」
 天道は誤魔化すように視線を反らした。しかし彼はお構いなしにこちらの横顔を凝視してくる。正直、想像はしていた。メッセージを見たときこそ分からなかったが、彼の名前を検索して独立したことを知ってからは、そういった話なのではないかと予測を立てていた。他にわざわざ自分を呼び出す理由が思い当たらない、というのが主な理由だ。分かった上で今日天道はここに来ていた。アイドルを辞めようとしているのだ。それ以外で自分ができる仕事となれば法律関係にほかならない。遅かれ早かれ昔のツテをたどることになる。向こうから声をかけてくれたのだから渡りに船だ。
 しかしそれとは別に驚きもある。彼がわざわざ自分を引き抜こうとする理由は思い当たらないからだ。一度干されてるうえにブランクもある。彼ならいくらでも候補がいるだろう。なぜ自分に? という疑問はどうしても天道の中にあった。「なんで?」と問うと「依頼が増えてきたので人手が欲しいんです」と返ってくる。
「いや、そうじゃなくて。なんで俺?」
「実力は分かってますから。それに……」
 と彼は少し言い淀んだ。
「事務や経理のスタッフに、どうも怖がられているようなんですよ、私。事務所も常に静かでして。それが原因で辞めてしまったスタッフも居るんです。あなたが入れば少しはマシになるでしょう?」
 煩過ぎるのは困りますけれど、と彼は付け加えた。そういうところが桜庭と似ている。天道は笑いそうになった。それと同時に喜びも湧き出てくる。たしかに仕事中に雑談をする彼の姿は想像ができない。そしてその空気を重いと感じる人もいるだろう。まさかこいつに必要とされる日が来るとは、天道は思いもしなかった。
 弱みを見せるようで気恥ずかしいのだろう。彼はグラスを見つめてうつむいていた。その横顔を盗み見ながら、天道はぽつぽつと今の自分の状況を話し始めた。流石に辞めようとしている理由までは伝えられない。そこは「人間関係」といってごまかした。
「では来てもらえるのですか」
「流石に今日返事はできねーよ。それに今すぐにとはいかない。早くてもツアーライブが終わってからになる」
 でも前向きに検討させてもらうよ、と天道は返事をした。表情の乏しい彼が明らかにホッとして眉を下げた。初めて見る顔だった。
 そのままポツポツと彼は自分の法律事務所の現状を語ってくれる。天道はグラスを甜めながら適度に相槌を打った。彼と酒を飲みながら穏やかに話す日が来るなんて弁護士時代には想像もできなかったはずだ。もしかしたら一度離れたからこそなのかもしれない。いつの間にか店の席はほぼ埋まっていた。カウンターの内側ではバーテンダーがシェイカーを振っている。仕立てのいい服を着た客ばかりで、大声で騒ぐものもいない。みな和やかに談笑しており、店内にかかる音楽と混ざって心地いい賑やかさを保っている。いいバーだな、と天道は思った。ここを指定したのは彼だった。
 以外にも話題が途切れることはなく、二人とも三杯目が空になりかけたあたりで彼のスマホが震えた。取り出した彼は「ああ、もうこんな時間ですね」と言った。
「長々と悪かったなあ」
「いえ、こちらこそ」
 帰りがけに彼はカバンから封筒を一つ取り出した。時間を作っていただいてありがとうございます、と天道に差し出す。断ろうとする天道に、大したものではないと言って彼は押し付けて帰っていった。

 平然としたふりをして桜庭にLINKを送り、平然としたふりで待ち合わせ場所に向かうと、平然とした桜庭がいた。天道はほっとした。結成当初なら蛙を零コンマ三秒で殺すような目つきで立っていたに違いない。これは何度も喧嘩と和解を繰り返した賜だ。きちんと和解しなければいけない、という意識がいつからか桜庭に芽生えているようだった。天道がそれに気がついたのはずいぶんと前のことだ。桜庭との言い合いに罪悪感や恐怖が消えたのはその後だった。それでも今回は流石の天道も怖かった。安心したのと同時にまた別の不安も襲ってくる。桜庭が平然としているということは、今回の喧嘩は桜庭にとって普段のものと大差ないということでもある。
 先日天道がもらった封筒の中身は映画館のチケットだった。最近できたばかりの会場らしい。道中桜庭に行ったことがあるかと尋ねると、案の定「無い」と返ってきた。チケットが貰い物であることは事前に伝えていた。それでもロビーや劇場内で物珍しそうにしている桜庭を見て、天道はなぜか誇らしい感情が湧き出てきた。高級路線を売りにしているこの映画館はロビーも重厚だが、なによりシートが豪華だった。一般的な映画館用の椅子では無く、広々としたソファ状の空間が並んでいる。座席についた天道は仕事で行ったプラネタリウムを思い出した。あのときの桜庭はなぜかJupiterの翔太と一緒に座っていた気がする。席についた桜庭はさっさと備え付けのクッションを抱えていた。客席を見回すとすでに八割以上の席が埋まっていた。
 この邦画は先日上映が始まったばかりだ。すでに知名度の高い小説を映像化した作品であり、天道も以前に原作の小説を読んだことがある。見る前にもう一度天道はこの小説を読み直した。当日映画の内容が頭に入ってくるか不安だったからだ。そしてその嫌な予感は的中した。さっぱり集中できなかった。観終わった二人は早めの昼食を兼ねて上階のレストランに来ていた。珍しく桜庭のほうがよく喋り、天道が相槌を打つかたちになっている。桜庭の話題の中心はもっぱら演技についてだった。主人公の上司役をしていた俳優の名前ばかりが上る。桜庭は今ちょうど彼とドラマで共演していた。綺麗に食事をする桜庭を見ながら、天道はぼんやりと話を聞いていた。
 天道が高校生の頃、彼は若手イケメン俳優としてテレビによく出演していた。女性人気も非常に高く、クラスメイトの女子たちも持ち上げていた記憶がある。しかしそれは一時的なものだった。彼が再度テレビや映画に出るようになったのはここ数年のことだ。その間は舞台の仕事をメインにしていたらしい。最近は実力派として様々な映像作品の助演を努めている。十二年ほど前に放送された、彼が主演の高校生恋愛ドラマは当時大流行で、天道も当然見ていた。しかし当時は特別に演技がうまいとは思わなかった。実際にそうだったのだろう。だからこそ映像メディアに帰ってきた際の彼の実力にはたいへん驚いた。俳優として生き残るための覚悟と年単位の努力を天道は、そして天道以外の人も感じ取っていた。
 しかしそれとは別に悪い噂もある。実力と人となりは比例しない。桜庭は今回のドラマでずいぶんと交流を深めているようだが、噂について知っているのだろうか。彼のことを桜庭が口にするたびに、天道は自分の中に暗い感情が湧いてくるのを感じていた。しかしそれを言葉にするのは堪えた。そもそも噂は噂でしかなく、天道自身もちらっと耳にしただけだった。真実かも分からないうえにそれが桜庭に影響を与えるかも分からない。それが杞憂だとしたら、今の状況は桜庭にとって何も悪くない。話を聞くに撮影中にたくさんのアドバイスを貰っているらしい。実力のある他事務所の俳優と交流することはむしろプラスなのだ。噂の真相も分からないのに「あまり関わるのは辞めてほしい」と思うのは、純粋に心配しているからだ。それでも仕事仲間に向けるには過剰だと天道は感じている。それに嫌だと思う理由の十割がそれなのかと言われたら天道は首を横に振るしか無い。三割は桜庭に好意的に思われている俳優に対する嫉妬だった。
 桜庭の、眩しいほど実直に仕事へ打ち込む姿が好きだった。要するに邪魔なのだ。天道の持つ桜庭に対する恋愛感情は、桜庭がトップアイドルを目指す過程で障害にしかならない。天道がアイドルを辞めようと思った一番の原因がこれであった。
 食後のコーヒーを飲みながら、桜庭は先程買った映画のパンフレットを捲っている。時刻は一二時を過ぎた。店の席は全て埋まり、あちこちから賑やかな談笑が聞こえる。トレンチを持った店員がテーブルの間をせわしなく動いていた。
 天道が物静かなことに何かを悟ったのか、もしくは店が混み合い出したことに気がついたのか、桜庭はパンフレットを閉じた。一つ咳払いをして、先日の話だが、と澄ました顔で言い始める。
「リーダーの脱退はマイナスにしかならない」
「流石に分かってるよ。申し訳ないとも思ってる」
 それは間違いなく本音だった。桜庭に対してだけではない。柏木にもプロデューサーにも、当然ファンにも申し訳ないと天道は思っている。
「理由についてははっきり言って微塵も理解できない。だが……、先日はカッとなってああ言ったが、君が簡単に捨て去るほど軽い気持ちでアイドルをしていたわけでは無いことくらいは分かっている。それに、仕事自体が嫌になったわけでは無いのだろう?」
「ああ。大変なことも沢山あるけど、アイドル自体が嫌だと思ったことは無いぜ。楽しいよ」
「なら、辞める以外の解決策を先に試すべきだ」
「……あるのかよ、そんなのが」
「ある。嫌われればいいのだろう、君に」
 仲が悪くても同じユニットとして活動している人たちも、他の事務所にはいくらでもいる。と桜庭は続けた。なるほど理屈としては正しい。DRAMATIC STARSより売れていても、不仲で有名なユニットはある。しかし桜庭の案はあまりにも力技が過ぎる。かと言って頭ごなしに否定してはまた喧嘩になるだけだ。天道はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。
「……具体的には?」
「高圧的な態度を取る」
「いつもだろ」
「では君が自信を持っているものを貶すのはどうだ」
「ああ、ギャグとか」
「暴力を振るうのはどうだ」
「事務所の屋上行くか?」
「……関わりそのものを減らす。会話や連絡は必要最小限に抑える」
「俺とのLINK見返してみろよ」
「……そもそもなぜ君は僕が好きなんだ」
「お前まともに恋愛したことないだろ」
 桜庭は露骨に顔をしかめた。それを見てかわいいなと思ってしまうのだから、桜庭の案を実現するのは難しいのだろう。ぶつぶつと呟きながら別の案を考える桜庭の姿に天道の頬が緩む。桜庭がアイドル活動を最善の形で続ける方法を一生懸命考えているにも関わらず、天道は自分を引き止めてくれていることに喜びを感じてしまっている。だからこそ自分は辞めるしか無いのだと再確認した。
「ごめんな、お前の邪魔してさ」
「なら辞めなければいいだろう」
 居ても邪魔なんだよ、と天道は返した。桜庭は納得いかないと言わんばかりの顔で首を傾げていた。

 柏木のテンションの高さにはその場にいる全員が気づいていただろう。ライブ来場者に向けたメッセージ動画の撮影の為、久しぶりにDRAMATIC STARSの三人揃っての仕事だった。事務所のテラススペースには大型のスタンドライトが複数持ち込まれている。撮影スタッフと打ち合わせをしているプロデューサーを横目に、天道と柏木は台本を捲っていた。すでに衣装を身に着けて、ヘアメイクも完了している。前の仕事が押した桜庭は二人より支度が遅れた。ドアから桜庭の姿が見えた瞬間に、柏木が嬉しそうに駆け寄っていく。天道はその後ろをついていった。天道を見た桜庭は少し不安げな顔をした。そして話しかけるのを躊躇うように見えた。天道は笑顔を作って「似合ってるな」と話しかけた。桜庭はホッとした顔で「PV撮影のときにも見ただろう」と返事をした。
 動画は一人ずつのパートと三人揃ってのパートに分けられる。程なくして柏木が最初に呼ばれた。天道と桜庭は並んで、カメラの更に奥から柏木が話しているところを見守っていた。柏木は滞りなく話を進めている。桜庭は真剣な顔でずっと柏木を見ていたが、終わりがけにちらりと天道を見た。その顔はやはり最初のときのように不安げだった。柏木が話し終わり、スタッフが天道の名を呼ぶ。天道は「大丈夫」と呟いて桜庭の肩を叩いた。質問の内容は事前に聞かされていて返答も考えてある。だから大丈夫だと、天道は思っていた。実際に一人で喋るシーンは大丈夫だったのだ。問題は最後の三人のシーンだ。三人並んでカメラの前に立った瞬間から、天道自信もダメだと分かってしまった。天道は自分の頬に触れた。ぎこちなさは緩和されなかった。上手く笑えない。二人の会話が耳に入ってこない。そして上手く返答できない。撮影は一時中断された。「外の空気を吸ってくる」と言って、天道は逃げ出すように屋上へ向かった。ちらりと見えた柏木には不安が全面的に出ており、あまりの申し訳無さに天道は消えてしまいたくなった。

 屋上の金網に額を押し付けながら天道は大きなため息をついた。正午を過ぎたばかりの太陽はまだ頭上高くに輝いており、衣装のジャケット姿ではじんわり汗ばむくらいに暑い。事務所のビルの下はたくさんの人が行き交っている。昼食の弁当を買うためだろう。下のたまこ屋の前には人が集まっていた。
 天道にも予想外だった。原因はおそらく罪悪感だろう。あの動画を見てくれるファンは三人揃って行われるライブを楽しみにしてくれているはずだ。それが自分のせいで、今回が最後になるかもしれない。辞めた方がいいという考えは前からあった。それでも仕事に影響は無かったはずだ。口に出してしまったのが不味かったのだろう。どちらにせよライブにはきちんと出演するつもりだった。しかしファンに向けた動画ですらこの体たらくだ。ファンの前に直接三人で出て、自分はアイドルを全うできるのか。天道は金網を強く握った。ぎしりと嫌な音が鳴った。
 天道が日差しに焼かれながらしばらく金網に額を押し付けていると、背後のドアが開く音がした。どうせ文句を言いにきた桜庭だろう、と天道は振り返らなかった。振り返れなかった、のほうが正しいのかもしれない。合わせる顔がなかった。そっと締まる音の後にコツコツと天道に向かって歩いてくる。隣に立った人影が想像より大きいことに天道は気がついた。ゆっくり視線を向けると、悲しげな顔をした柏木が天道を覗き込んでいた。
「薫さんとなにかあったんですか?」
「……桜庭と?」
「はい。薫さんも様子がおかしいので」
「桜庭、怒ってるだろ?」
「怒ってるというか……。怒り半分悲しさ半分、って感じです」
 いつもならめちゃくちゃ怒りそうなのに、と柏木は続けた。
「本当にどうしちゃったんですか? 大丈夫です?」
「ぶっちゃけ大丈夫じゃない。でも、なんとかしないとなあ」
「喋ること全部決めちゃって、文字に起こしちゃいましょうか。プロデューサーにカンペ持ってもらいましょう」
「……そうだな。そうするしかないか」
 未だ不安げな顔をする柏木の背を、天道は軽く叩いた。
「ちゃんとやるよ、ちゃんとな」
 天道は金網に背を向けて歩きだす。後ろから柏木が「ねえ、輝さん」と呼び止めた。
「ライブ、楽しみですね」
「……そうだな」
 天道は振り返ることができなかった。
 テラススペースに戻った天道はプロデューサーと桜庭に頭を下げた。三人で話す部分に関しては全てセリフを決めてほしいことを伝える。桜庭は苦い顔で「そこまでしなければできないのか」と言った。天道はうなだれてうなずくしか無かった。あのとき桜庭に聞かれなければまだマシだったのだろうか。それとももっと早く、きっぱりと辞めるべきだったのだろうか。プロデューサーのもつカンペを読み上げながら、天道はそんなことばかり考えていた。
 なんとか撮影を乗り切ったその晩、天道は元同僚にLINKを一本送った。

 
 テレビ越しでは広くて立派に見えるバラエティのセットも引いて見るとハリボテ感が拭えない。だだっ広い空間にL字に壁が作られ、その間には椅子やらモニターやらが豪華に並んでいる。周りにはカメラやらマイクやらライトやらの無骨な機材がいくつも置かれていて、そのそばで地味な格好をしたスタッフたちがあれこれ仕事をしていた。
 準レギュラーとして何度も出演しているバラエティ番組のセットを、天道は何気なしに見つめていた。撮影は先程終わったばかりで、スタッフだけでなく出演陣もまだ何人も残っている。
「天道くんおつかれ。今日も良かったよ、ギャグ以外は!」
 ひな壇レギュラーのお笑い芸人がぽんと天道の背を叩く。天道はとっさに笑顔を作った。
「いや、ギャクも冴えてましたよ!」
「どこがよ」
 わははと笑う彼の顔を見て天道は胸をなでおろした。先日の動画撮影のこともあり、プロデューサーは現場に同行しようかと持ちかけてきていた。しかし天道はそれを断った。「予定通り翼の地方ロケに行ってあげてくれ。……たぶん、ソロの仕事なら大丈夫だ」と伝えると、プロデューサーは不安げな顔をしながらも引き下がってくれた。声をかけてくれた彼は、テレビで見せているキャラクターと違って意外と仕事にストイックである。彼が笑って声をかけてくれたのだから今日は本当に大丈夫だったのだろう。
「天道くんこれから暇? 飲み行こうよ。今朝カミさんの機嫌サイアクでさあ。帰りたくないんだよねえ」
「俺はいいですけど、あんまり遅く帰ると余計に機嫌悪くなるんじゃないですか?」
「それはそうなんだけどさあ」
 などと言いつつ彼は家庭の愚痴を少しこぼした。その後、他の人も誘ってくると言ってその場を後にする。天道は荷物を取りに楽屋へ戻ることにした。

 楽屋に戻った天道はさっと着替えてテレビ用のメイクを落とし、自分のカバンを手に取った。癖でスマホを取り出してロックボタンを押す。そこにはおびただしい数の通知が来ていた。ぎょっとして確認する。その全てがプロデューサーだった。メッセージと不在通知がいくつも折り重なっている。天道はスマホを開いた。慌ててLINKを確認する。
『撮影終わりましたか?』
『終わったらすぐ連絡ください』
『桜庭さんが非常事態みたいなんです』
『事務所もすぐに動ける人がいなくて』
『まだかかりそうですか』
 天道は再度通知を見返した。最後の電話は三分前だった。慌ててプロデューサーに電話をかける。ワンコールもかからず繋がった。
「仕事終わりましたか?!」
「終わったけど、何があったんだ」
「……正直、杞憂であって欲しいのですが」
「うん」
「酒になにか盛られたみたいです」
 天道はカバンをひっつかんですぐに楽屋から出た。スマホを耳に当てたまま早足に歩く。そのままプロデューサーから店の場所を聞いた。ここからならそう遠くない。天道はエレベーターのボタンを押した。上部の階層表示を見て思わず舌打ちする。すると後ろから「あれ」と声が聞こえてきた。さきほど約束したばかりの芸人だった。
「天道くん」
「すみません急用です! また来週誘ってください!」
 一向に変わらない階層表示に再度舌打ちをして、天道は階段を駆け下りることにした。
 天道とすれ違う全員が驚いて振り返る。しかしそれに「お疲れ様です」と声だけかけて天道は階段を駆け下りた。そのままテレビ局を飛び出し、駐車場にいるタクシーの一つに乗り込む。運転手に店の名前を告げて、天道は一息ついた。タクシーはゆっくりと走り出す。天道は手に持ったままのスマホで桜庭の名前を探す。『プロデューサーから聞いた。大丈夫か? 今向かってるから』と手短に打ち込んだ。天道は外を見た。窓ガラスには眉を寄せた自分の顔がはっきりと映り込んでいる。日はとっくに沈んでいた。大量に走る車のヘッドライトと建物から漏れる光が夜闇を照らしている。桜庭が主演を務めているドラマは今日がクランクアップのはずだ。今日のこの時間に店で飲んでいるなら、それの打ち上げに間違いないだろう。
 天道は握りしめたスマホを何度も見た。しばらくしてやっと既読がつく。それを見た天道は通話ボタンを押したが向こうから切られてしまった。再度『大丈夫か?』とメッセージを送る。返信を待つ数十秒が酷く長く感じられた。
『お手洗いにこも』
『こもってる。どあのそとにだれいる』
 桜庭の誤字を見るのは初めてではないだろうか。天道はスマホを握る手に力が入った。『絶対に出るなよ』と返す。送ると同時に既読がついた。天道は財布から五千円札を取り出して握った。もう五分もあれば到着するだろう。車は着実に進んでいく。天道はひたすら窓の外を眺めていた。そして予定通りの五分後にタクシーは店からひとつ横の大通りに到着する。天道は握っていた五千円を運転手に渡してすぐに飛び出した。飲食店の並ぶ通りまで走れば、一人でいる人などほとんど居ない。似たような格好をした人が固まって楽しそうに談笑しながら歩いている。その隙間を縫って天道は走った。店はすぐそこだった。遠目に見える看板に向かって進む。店の入口が目視できる位置までついた。そこには見知った丸い頭がある。出るなって言っただろ。天道はさらに足を早める。桜庭は支えられていた。短髪で程よく筋肉がついた、桜庭より少し背の高いその男の背中を天道は知っていた。スクリーンで見たばかりだったからだ。
「桜庭!」
 大きな声で叫ぶと周囲の人まで振り返る。当然男も振り返った。その瞬間の冷たい眼差しを天道は見逃さなかった。駆け寄っていき、男が肩を貸しているのとは反対側から桜庭の手首を握る。桜庭は青白い顔をしていた。
「すみません。うちのが迷惑かけて」
「おどろいたな。不仲って聞いてたのに」
 天道は男を見据えた。人がよさそうな笑顔でふわりと笑っている。
「大丈夫だよ。悪酔いしただけだ。俺のマンションが近いから、そこでちょっと休ませるよ」
「結構です。こっちで連れて帰るので」
 男の笑顔がすっと消える。その瞬間に桜庭を引き剥がした。軽く頭だけ下げてさっさと背を向けた。桜庭の手を引いて歩き出したが、後ろから舌打ちが聞こえて天道は一瞬硬直した。
「アイドル風情が。顔だけのくせに」
 天道は振り返らずに、桜庭の腰に手を回してしっかりと支えた。
 来た道を半分以下のスピードで戻っていく。すれ違う人の中には顔をしかめながら避けていく者もいる。桜庭を酔っ払いと勘違いしているのだろう。避けてくれるなら好都合だ。桜庭の左腕が天道のシャツの背を掴んでいる。その弱々しさは服越しでも伝わってきた。なんとか大通りまで戻ってタクシーを探す。さっきの運転手に待ってもらうように頼んでおけばよかった。自分の手際の悪さに天道は苛立ちを覚えた。大量のヘッドライトの眩しさに顔をしかめていると、右手側からクラクションが鳴る。すぐそばに見慣れたバンが停まった。
「すまない、遅くなった!」
 開けられた助手席の窓から見えたのは斎藤社長だった。
「乗りたまえ!」
 天道は後部座席のドアを開けて桜庭とともに乗り込んだ。社長の姿と嗅ぎ慣れた車内の匂いで、自分の緊張が解れていくのを感じる。
「とりあえず事務所に」と天道が言いかけたところで桜庭が袖を引く。
「いや、ここに」とスマホの画面を見せてきた。その住所はここからそう遠くない。
「大学の同期の家がやっている個人病院だ。連絡はしてある」
 天道は社長の顔を見た。うなずいたのを確認して住所を読み上げる。手早くナビに入力した社長は車を発進させた。
 天道はやっと桜庭の顔を見た。「大丈夫か?」と声をかけると、桜庭は小さく首を振った。俯いているせいで顔に髪がかかり、表情はよく見えない。天道はそっと手を伸ばして桜庭の前髪を掬った。瞳が潤んで今にも泣き出しそうだった。桜庭は小さな声で「虫が」と言った。
「虫?」
「入ってくる」
 桜庭はしきりに左右の手を払っている。当然そこには何もいない。天道は桜庭の両手を握った。手は酷く冷たく、小刻みにふるえていた。
「おちつけ、虫なんかいない」
「分かってる」
 そう言いながらも桜庭はさらに俯いて「気持ち悪い」と小さく声を漏らした。天道は片手を離して、桜庭の頭を抱き寄せる。
「大丈夫だから。目、瞑っとけ」
 肩越しにうなずいたのが伝わった。震える桜庭をあやすように、小さく頭をとんとんと指の腹で叩き続ける。すがるように握ってくる手が気の毒で仕方がなかった。天道はシート越しにナビを見る。目的地までまだ十分以上はかかるようだ。早く、早くとただ祈ることしかできなかった。どうして桜庭がこんな目に合わなければならないのか。天道は先日の、彼のことを話す桜庭の様子を思い出していた。桜庭は実力主義だ。努力でそれを身に着けた彼を間違いなく尊敬していた。たとえ嫉妬だとバレようとも、鬱陶しく思われようとも、あの日に忠告しておけばよかった。多少の噂を聞いていた天道も流石に彼がここまでのことを仕出かすとは思っても見なかったのだ。
「目的地付近に到着しました。案内を終了します」
 やっと聞こえたその音声に天道はほっと息を吐いた。社長が揺らさないようにゆっくりと車を止める。建物から駆け寄ってくる人の姿が窓の外に見えた。天道はそっと桜庭から体を離した。

 天道は階段を上る。早めに事務所に到着した天道に「桜庭さんももう来てますよ」とプロデューサーは微笑んで言った。屋上だと思います、と続けた彼にお礼を言って、すぐにミーティングルームを後にした。天道はシャツの襟元を緩めた。空調の効いていないここはうっすらと汗ばむくらいに暑い。
 医者に託した後の顛末を、天道はプロデューサーから聞いていた。やはり非合法の薬物であったこと。幸いにも効果が切れた後は体調に問題が無かったこと。そして後遺症らしきものも見当たらないこと。あのドラマ関係の仕事はまだ少し残っていて、桜庭はバラエティに番宣で出演する予定だが、例の俳優は出ないらしい。顔を合わせる機会も無い。それを狙っての犯行だったのだろう。天道としては今すぐにでも訴えてやりたいところだが、彼がやった証拠を叩きつけるのは難しいだろう。今回は泣き寝入りをする他無い。俳優に関してはうちの事務所のブラックリストに載った。二度とうちのアイドルには近づけさせません、とつぶやくプロデューサーの目は見たことも無いほどに恐ろしかったが、天道としては頼もしい限りである。
 最上段についた天道はそっと目の前のドアを開けた。隙間から外を覗く。そこからまっすぐ先のフェンスの前に桜庭の後ろ姿があった。いつも通りしゃんと伸びた背筋の上の頭は、空を見上げていた。天道はドアを抜けて外へ出る。日差しの暑さを感じるよりも先に、爽やかな風が頬をさらった。桜庭の髪も風にさらわれてかすかに靡いている。そっと近寄って、後ろから名前を呼ぶ。桜庭はすぐに振り返った。先日とは比べ物にならないほど血色のいい顔をしていた。話は聞いていたとはいえ、あの事件後に顔を合わせるのは今日が初めてだった。天道はほっと胸をなでおろす。
「もう大丈夫なんだよな」
「ああ、薬さえ抜ければ問題は無いようだ」
 桜庭の表情は明るい。天道はつられて微笑んだ。あんな目にあったにも関わらず数日で切り替えられる桜庭の強さに安心した。
「先日は悪かった。君が来てくれなかったら、もっとひどい目にあっていただろうな」
「たいしたことしてねえよ。社長もすぐそこまで来てくれてたしな」
 桜庭は首を振った。そのまま真っ直ぐ天道を見つめてくる。
「……あのとき君の姿を見て本当に安心した。来てくれて助かった」
 珍しいこともあるものだと、天道は頭を掻いた。桜庭にここまではっきり礼を言われたのは初めてかもしれない。天道はあの晩の桜庭の姿を思い出す。なんの力にもなれなかったと思っていた。飛んでいった意味はあったのか、と素直に嬉しかった。
「それでだ、天道。あれから考えた」
「何を?」
「やはりDRAMATIC STARSは3人であるべきだと思う。僕には君が必要なのだろう」
 天道は一瞬面食らったがすぐに相槌を打った。正直な話、ここ数日は桜庭の心配ばかりをしていてその話を忘れていたからだ。確かにあれから何の進捗も無かった。
「しかし君に心理的負担をかけた状態で続けるのは良くない。そしてその負担は、僕に片思いしている状況が原因なのだろう?」
「……ああ」
「ならば先日言ったもの以外にもう一つ、解決策がある」
「無いだろ」
「ある」
 言い切った桜庭は一拍置いて再度口を開いた。
「君が、僕のことを口説き落とせばいい」
 両思いなら問題ないのだろう? と桜庭は得意げに眉を上げる。なるほど理屈としては正しい。
「お前、たまにめちゃくちゃなこと言うよな」
 ユニットメンバーに向かってそんなことを言ってくるやつはこの世に桜庭くらいしか居ないだろう。とんでもないやつに惚れたな、と天道は改めて思った。なぜそんな堂々とした顔ができるのか、天道には理解できない。それと同時に、お前はそれで本当にいいのか、とも思った。でも言い出したのは桜庭本人なのだから、「いい」と捉えるほか無いのだろう。
「……できるかなあ」
「やれ。ライブまでに」
「期限付きかよ」
「とりあえず戻るぞ。そろそろ柏木も来てるだろう」
 話は終わったと言わんばかりに、桜庭は天道の横を抜けて歩いていく。その背中を天道は呼び止めた。
「言ったからにはお前、オフの日全部空けとけよ!」
「望むところだ」
 鼻を鳴らす表情はあまりにも可愛くない。さっさと屋上を去る桜庭を見送ってから、天道はスマホを取り出した。さっさと文字を打ち込んで、すぐにその背中を追いかけた。
『もうちょっと頑張ってみることにするよ。せっかく誘ってくれたのに悪かったな』