なんでもない夜

 やんわりと覚醒した意識の中に肌寒さを覚えて、シーツを口元まで引き上げる。まだまだ日中は日差しが強いが、深夜から朝方にかけてはだいぶ冷え込むようになってきた。それにしても寒すぎるだろう。ぬくもりを求めて伸ばした腕が何も掴まずシーツへ沈んだ瞬間、僕は恋人が隣にいないことに気がついた。寝ぼけていた意識が少しずつ覚醒していく。
「……柏木?」
 読んでみても返事はない。家の持ち主はどこへ行った。肌寒さと心細さから、僕はゆっくりベッドから抜け出し、床から寝巻を拾い上げた。

 真っ暗の廊下に僕の履いているスリッパの音だけが聞こえる。辿り着いたリビングのドアを開けると、奥のダイニングキッチンだけが光っていた。その中に一人、家の持ち主がいつもより少し背中を丸めて立っていた。開いた扉に気づいたぼくの恋人は「あっ」と小さく声をあげて、手に持ったカップ麺とこちらを交互に見返したのち
「見つかっちゃいました」
 と憎めない表情でほほ笑んだ。
「また太るぞ」
 溜息の後に口から出た言葉は批難だったが、怒りの感情は一つも沸いていない。実年齢より子供らしく笑う恋人をかわいらしく思いながらリビングの電気のスイッチへと手を伸ばしていた。

「やっぱり薫さんも食べましょう」
 深夜にカップ麺など食べたことがない。そう話した直後、柏木はお湯の入ったカップ麺を片手にもう一度キッチンへ戻った。戸棚からお椀を取出した後、容器の中身を解すように混ぜて少しだけ取り分ける。カップラーメンの容器とお椀、そして箸と弁当用の少し小さなフォークを持って僕の座っているリビングのソファまで戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 隣に腰かけにこやかに差し出されたそれを手に取る。少量のカップラーメンと小さなフォークはまるで幼稚園児にでも分け与えるかのごとくこじんまりとしていた。たしかに一人では食べきれないから二つ目を作る必要はないと断ったのは自分だが、幼子扱いされているようでほんの少しだけ気に障る。そんな僕の心のうちなど知らない柏木は笑顔でこちらの顔を覗き込んだままだ。自分のカップラーメンに手をつける様子はない。おそらく先に食べろということなのだろう。柏木に見つめられたまま、一口分すくい取り口へ運ぶ。
「……美味しいですか?」
 味など変わるわけがない。それでも、期待するような眼にそんな言葉を告げられるわけもなく
「確かに普段と味が違う気がしないでもないな」
 などと曖昧ながら好意的な返事を返せば、ほんのり含んだ嘘など吹き飛んでしまうような柔らかな笑顔が返ってくるのだった。

 箸を付けてからほんの数分。既に麺など食べ終わり、容器に口を付けてスープを飲む柏木の横顔を眺めていた。
「美味しかったか?」
「はい。でも、あれですね。深夜だからっていうのありますけど、薫さんと一緒だからもっと美味しかったです」
 普段は表情豊かなくせにこういう言葉を言う時に限ってそのままの顔でさらりと言い放つ。こちらばかり赤面するのが腹立たしく、ごまかすように顔を背ける。
「味なんてそう変わらないだろう」
「薫さんもさっき美味しいって言ったじゃないですか」
「別に美味しいとは言っていない」
 くすくすという笑い声と髪に触れてくる手がくすぐったい。しかし決して嫌なわけではない。振りほどかずそのまま好きに撫でさせていると満足したのか、柏木は手を話して立ち上がった。
「そろそろ歯磨きして寝ましょうか」
「……そうだな」
 僕も続けて立ち上がったのを確認して、柏木は一歩早くキッチンへ向かって歩いていく。どうせ数分後には同じベッドで眠るのに、離れてしまった手が恋しくて後ろからそっと手を握る。柏木は一瞬だけ驚いた顔をして振り向いたが、すぐに柔らかい笑顔に戻って握り返してくれる。茶化さず優しく受け入れてくれる態度が何より心地いい。
「朝ごはんは何にしましょうか」
「君の好きなものでいい」
 夜食を食べた分朝食を減らす発想はおそらく持ち合わせていないだろう。また油断して太らないことを祈りつつ、こんな穏やかな時間のためなら少しの夜食は許してやろう。そんなことを思ってしまうほどには柏木に惚れ込んでいる自分に気付いたが、しっかりと握り返された手と二人きりのこの空間が、そんな甘い感情さえ包み込んでくれていた。