口寂しいを口実に

 普段なら自宅で平気に吸っているが、人が来ているなら話は別だ。しかも居るのは数日前から禁煙しだした桜庭だ。風呂から上がったら部屋中に煙草の匂いが満たされていたら、とてもじゃないが気分のいいものでは無いだろう。せっかく恋人が来ているのに、わざわざ不機嫌になどさせたくない。天道は煙草と携帯灰皿を持って、既に暗いベランダへ出た。風呂の湯とドライヤーの熱風に暖められた身体に夜風が気持ち良い、とはならなかった。むしろ冷房の効いた部屋の方がよっぽど涼しい。日が落ちていても十分に蒸し暑い。季節はとっくに夏だった。
「……美味い」
 煙を吐き出したあとに思わず声が出る。禁煙しているやつの隣で吸うのはどうにも気が引けて、何時間も吸えずにいたのだ。辞められる気がしないと同時に、辞めようと我慢している桜庭に素直に感心する。
 吸えなかった分を取り返そうと、二本目に手を伸ばす。少しくどいかもしれないが、また暫く吸えないのだから丁度いいだろう。自分にそう言い聞かせて火を付ける。ベランダの床に直接座りながら、頭を空にしてだらだらと吸い続けていた。
 二本目も半分ほどの短さになった頃、唐突に背後のガラス戸が開いた。天道が音に驚いて振り返ると同時に、エアコンで冷やされた空気が流れ出てくる。戸を開けたのはもちろん桜庭で、そのままベランダへ出ると戸を閉め、肩や足が当たるほど詰めて天道の左隣りに座り込んだ。頭にはスポーツタオルを被っていて、その下の髪はどうやら濡れたままのようだ。桜庭自分から引っ付いてくるのも珍しい。
「急にどうしたんだよ」
 驚きを隠さず聞いてみると、左肩が少し重くなる。
「別に……。ただ君がいなかったから」
 天道にもたれ掛かったまま、桜庭は続けて呟く。
「そもそも何で外にいるんだ。中で吸えばいいだろう」
 拗ねた声色を心の中で噛み締めながら、左腕を回して桜庭の頭を抱え込むようにして顔を寄せる。自分と同じシャンプーの匂いがくすぐったい。
「これ吸い終わったらすぐ入るから。先に髪乾かしてろ」
「……後でいい」
 返事と同時に服の背中をぎゅっと掴まれる。天道はそれに応えて、髪を拭くようにタオル越しに頭を撫でてやる。
「横にいたら吸いたくなるだろ」
 返事の代わりに、更に天道に擦り寄ってくる。もしかしたら桜庭は、吸えない苛立ちを甘えることで解消しようとしているのではないだろうか。そう考えると禁煙されるのも悪くはないなと思いながら、天道は温もりを享受していた。
 暫く身を寄せ合ったまま頭を撫でていると、桜庭は顔を上げて天道をじっと見つめてきた。長い睫毛に縁取られた、切れ長の瞳をレンズ越しに見つめ返す。
「どうした? 吸いてーの?」
 そう問うと桜庭は少しむくれた顔をして、視線を逸らしてしまう。天道は思わず口元が緩みそうになるのをぐっとこらえる。ここでにやけてしまえば、桜庭は本格的に拗ねてしまう。逸らされてしまった眼を見つめたまま、撫でていた手を後頭部に回してそっと引き寄せると、応えるように桜庭の視線が天道へ戻ってくる。再度視線が交わったあと、なんだ? と言わんばかりに桜庭の頭が少し傾く。その子供じみた仕草が可愛くて、先ほどより強くもう一度引き寄せながら、顔を近づける。桜庭は一瞬気が抜けたようにふわりと笑った。見つめ合ったまま鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せると、ゆっくりと瞼が閉じられていく。そのまま天道も目を閉じながら、唇を重ね合わせる。風呂上がりで温かいその唇を何度か啄ばむ。薄く開いている隙間にそっと舌を伸ばすと受け入れるように広がり、その先で待っていた舌がゆるりと絡みついてくる。後頭部に添えていた天道の手に、はらりとタオルが落ちる。桜庭の気が散らないように慎重に引き抜いて床に落とした。左手は再度、濡れた髪に差し込んで引き寄せる。そのままただゆっくりと、お互いの感触を味わうために舌を柔らかく広げたまま撫であい、纏わりつかせる。桜庭の舌だけ少し堪能したところで引っ込めて、一瞬唇だけ触れ合わせてさっと離れる。おそらく同じタイミングで開いたであろう桜庭の瞳が、天道の眼をかっちりと捉えていた。それから逃げるように顔を逸らして、殆ど燃え尽きてしまった煙草を再び吸い直す。
「煙草の代わりに輝さんのチューで我慢な」
 照れ隠しも兼ねて天道は茶化すように言ってみる。桜庭は聞いているのかいないのか、じっと天道の顔を見つめたまま口を開く。
「天道」
 名前を呼ばれて天道は思わず口から煙草を離して桜庭へ向き直る。数秒見つめ合った後、桜庭は先ほどまで触れ合っていたその唇を一瞬だけ開いたが、すぐに言い淀むようにぎゅっと閉ざして顔を逸らしてしまった。天道はもう一度フィルターを咥えて吸い込み、煙草をベランダの床に押し付ける。ゆっくり吐き出しながら吸殻を携帯灰皿へ仕舞うと、やっと自由になった両手で桜庭の顔を包み込む。手に導かれるようにこちらを見返してくれる事が嬉しくもあり、少し恥ずかしくもある。付き合い始めたばかりのころは目を合わせてもすぐに逸らされて寂しかった。最近は慣れてきたのかむしろ向こうが見つめてくることが多いが、いざ綺麗な顔で見つめられるようになるとこっちが照れてしまう。悟られないように堪えているが、慣れる気は一向にしない。左手の甲にそっと桜庭の手が重なる。数秒遅れてゆっくり開かれた唇から、小さな声をそっと発する。
「……もう一回」
 慣れとは本当に恐ろしいものである。桜庭が慣れて心を開いていくたびに、こちらの心臓にどんどん負荷がかかっていく。爆発したときはまあ、桜庭に助けてもらえばいい。うるさい心臓を無視して噛みつくようにキスをする。今度は舌だけででなく、歯列をなぞり裏顎をゆっくりとなめると、先ほどの言葉通り甘えてねだるかのように舌先を吸われて甘噛みされる。そんな仕草一つ一つがかわいらしい。にやけそうな口をさらに押し付けるように、桜庭の顔をさらに引き寄せた。