女神のいない山

 山の麓まで一目で見渡せる高さに造られた露天風呂は、白濁とした湯で満たされていた。建物内に設置された浴場にあるガラス張りの引き戸を抜けて、衣服無しで歩くにはまだ肌寒い気温の中、数メートルの飛び石の上を小走りで渡った先の湯に天道は桜庭と二人で浸かっていた。先程走り抜けた飛び石の側には、湯に浸かりながら読める角度で黒ずんだ木製の看板が立っており、効能や逸話の書かれたそれを天道はぼうっと眺めていた。
「神様のせいえきだってさ」
「せいいきにわざわざ神様の、とつける必要はあるのか?」
「そりゃあるだろ。人や動物のだったら気持ち悪くて誰も来なくなる」
「せいいきは元々神聖な場所という意味だろう。動物のせいいきなら人が入る温泉など作るべきではない。人のせいいきなんて逸話があるならもっと栄えているはずだ」
 神聖な場所という単語に天道は、ああ、成る程、と思った。桜庭に卑猥な言葉を言わせようとするほんの小さな天道の企みは、そもそもの単語すら通じていなかった。
「聖域じゃなくて精液な」
 ほら、と天道が看板を指差すと、少し離れた位置で湯に浸かっていた桜庭がするすると近寄ってくる。天道の横から看板を睨みつける桜庭の顔は余りにも険しく、数秒睨みつけたのち、諦めたように溜息をついて露天風呂の縁に手をついて看板に顔を付き合わせるように上半身を乗り出した。臀部が辛うじて白濁した湯から姿を見せず、そこからしなるように延びる背は天道よりずっと細い腕に支えられている。背に合わせて視線を登らせると仰け反るように顎を上げているせいで首にはくっきりと喉仏が浮かび上がっており、ほんのり湿った髪の下には熱い湯の影響で赤みを帯びた顔が眼鏡という遮断物も無しに晒されていた。
「神聖なのか俗物的なのかよく分からない話だな」
 看板と顔を突き合わせたまま桜庭が呟く。膝を曲げたのか、ぴちゃんと音がして水面から桜庭の片足が少しだけ覗いた。
 看板の逸話を端的に纏めてしまうならば、とある男の神様がこの子作りするために険しかったこの山に篭った。以来産まれた子供の神々のおかげで山には花が増え動物が増え、そして麓の村まで随分と豊かになった。しかし男神が山から降りてくる姿を見たものはいない。そして湯が白く濁ったのは男の神様が山に篭ったのと同時期だった。だからこの湯には神様の精液が混ざっていて、今もなお彼の子供たちは生まれており、その子らは山を中心にここら一体の自然を育み司っている。ということらしい。
 疲れたのか読み終えたのか、はたまた身体が冷えたのか、桜庭は看板から目を背け、天道が腰掛けている段より低い位置まで湯に浸かってしまった。看板と桜庭の後頭部を交互に見ながら、天道は何か大切なものが足りてない気がして仕方がなかった。
 綺麗な景色に少し肌寒い空気、そして熱めで滑らかな湯は文句無しの露天風呂のはずなのに、天道は何故か居心地が悪く、肩まで浸からず湯には入ってすぐの少し高い段に腰掛けたままだった。
「俺戻るわ」
「もういいのか」
「おう。中の風呂に浸かってくる」
 桜庭は少しだけ寂しそうな表情をした。地方ロケの合間に温泉へ行こうと誘ったのは天道だった。天道は三人で行くつもりで声をかけたのだが、急遽柏木がラジオゲストの代打に呼ばれ一足先に帰ることになり、結局恋人同士である二人で来ることになった。意図していなかったとはいえ温泉デートには変わりない。天道だってつい先ほどまでは大っぴらには出来ないものの桜庭と一緒に楽しもうと思っていた。肌に合わなくて痒みや刺激がある訳でもない。なのに何故かここに居るのが嫌だった。恋人である桜庭を放って戻ろうとする程に。
「……僕はもう少し入っている」
「そっか」
 天道はタオルを持って通路を戻る。ふと振り返ると肩まで浸かりきった桜庭は景色を見るでもなく、ぼうっと宙を眺めていた。その姿を見て天道の中に先ほど湧いた違和感が胸の中で少し膨れ上がったが、吹き込んだ風が濡れた体を撫でたため、天道は身震いをしてガラス戸へ引き寄せられるように歩き出した。
 ガラス戸を引いた瞬間に中から流れてくる暖かい空気を全身に浴びた途端、天道は強張っていた身体から安心感で力が抜けて行くのを感じた。屋内の様子は外に出る前と変わっておらず、設置されている四つの浴槽のうち三つには誰も浸かっていない。一つには年輩の男が三人ほど浸かって相変わらず談笑をしている。
 天道は一通り見回し、掛け湯をしてから誰も入っていない隣の浴槽へ入った。談笑する三人に背を向けて奥の角に座り込む。露天風呂とは違う透明な湯は天道の体を遮らずに映し出した。少し仰け反って目を瞑る。湯の温度と反響する音は多忙により蓄積された疲労を溶かすようで、天道から安心感さえ引き出していく。
 背後にいる三人は時に声を顰めたり、また唐突に笑い出したりと他愛もない話を続けている。盗み聞きするつもりもない上に先程から込み上げてくる眠気も相まって、天道は彼らの会話の内容までは把握していなかった。
「にいちゃんのツレだよなあ」
 唐突に大きめの声で発せられた言葉が天道の脳に入り込んでくる。天道は驚いて、落ちかけた瞼を開いて振り向くと、男性は三人とも天道へ目を向けていた。
「ほら、露天風呂にずっといる若い子だよ」
 おそらく三人とも気の良い人なのだろう。彼らが桜庭の話を自分に振ってきていることを天道は理解した。
「ああ、二人とも仕事で麓の町にきてるんです。名湯だって聞いたんでちょっと登ってきたんですよ」
「仕事で来てんのかい。今の時期は観光客が少ねえから珍しいと思ったよ」
「ここの山は桜が殆ど植わってないからなあ。その分もみじが綺麗だから秋になるとうじゃうじゃ人が来るんだけどよ」
 ロープウェイ乗り場のおばちゃんも同じことを言っていたと天道は思い返す。彼女は「今日は相当空いてるだろうからゆっくり入っておいで」と優しそうに笑っていた。
「あいつ人混み苦手なんでちょうど良かったですよ」
「そりゃよかった」
「しっかしあのにいちゃん長いこと浸かってんなあ。気に入られたか?」
「気に入られた?」
「おう。べっぴんさんだったからなあ」
「若いしなあ」
 話について行けず天道は困惑する。楽しそうに笑う彼らに合わせて笑っておくのが正解のような気がするが、どうしても何かが心に引っかかる。先ほど露天風呂で抱いた違和感が少しずつ顔を出す。
「桜庭が露天風呂を気に入ったんじゃなくて、桜庭の方が気に入られたんですか?」
「あのにいちゃん桜庭って言うのか!」
「勘弁してくれ。桜まで増やされちゃあ俺らが来れる時が無くなっちまうだろ」
 何故桜が増えるのか。天道は理解できず更に困惑する。おそらく表情にも出ていたのだろう。笑っていた三人は天道に目を向けたところで悪戯を仕掛けるような顔へ変わった。
「外の看板読んだか?」
「はい」
「にいちゃんはさっさと外から帰って来ただろ?」
「はい。なんか居心地悪くて」
「追い出されたんだよ、それ」
 あの露天風呂には桜庭と天道しか入っていなかった。もういいのかと寂しそうな顔をした桜庭が、天道を追い払ったわけがない。なら誰が追い出したのかと考えた先に行き着いた答えを、天道は「いや、まさか」と声を出して否定しそうになった。
「子作りは一人じゃ出来ねえからなあ」
 天道は必至に看板の内容を思い出す。どう考えても父となる神と子のことしか記載されていなかったはずだ。天道は己の頬の筋肉が引き攣るのを感じる。これは笑わなければ行けない話だ。桜庭がただの仕事仲間なら笑えただろうか。神様相手に本気で怒りが湧いたのはこれが初めてだ。
 天道の中に渦めくものを叩き割るかのように、大きな高い音が響く。天道が思わず目を向けると脱衣所からの入り口の戸が開け広げられており、先ほど入り口のカウンターに座っていた女性が堂々と立っていた。
「あんたらもう六時半だよ」
 彼女が大きめに放った声は反響して更に大きく天道たちの耳に届いた。そしてその声を聞いた途端、男性たちは慌てて立ち上がった。
「こりゃいかん」
「早よ帰らないとおっかあに叱られるなあ」
 湯船から上がり脱衣所へ向かいつつ、笑いながら天道へ挨拶をした。
「じゃあなにいちゃん。せっかく空いてんだからゆっくり入ってな」
「ロープウェイは八時までだからな」
「でもそろそろ露天風呂からは引き上げさせた方がいいかもなあ」
 天道は苦笑いで手を振りながら三人を見送った。そして脱衣所への扉が閉まった瞬間に立ち上がり露天風呂へと早足で向かっていった。

 天道が露天風呂に着くと、桜庭は隅の湯が出る所で手に湯を受け止めていた。天道が怪訝に思いながら桜庭の方へ向かうと、桜庭は湯の入った手をそっと口元へ近づけた。
「桜庭!」
 天道が慌てて大声で呼びかける。天道が来たことに気づいていなかったのか、桜庭は驚いた表情で天道を見た。
「何やってんだよお前は!」
 桜庭の側まで来た天道は思わず桜庭の手首を掴んで引いた。桜庭の手から湯が零れ落ちると同時に、飲めますと大きく書かれた立看板が天道の目に映った。
「飲むなよそんなもん!」
「いや、飲めますって書いてあるだろう」
「そうだけど飲むなよ!」
「何をそんなに怒ってるんだ」
 苛立ちを含んだ表情で桜庭に見つめられて、天道は少し息が詰まった気がした。桜庭に怒っている訳では無いのに、気が立ったまま桜庭に接してしまった事を恥ずかしく思い、手首を掴んでいる力を緩めた。
「ごめん」
 天道が落ち着いて小さな声で謝ると、桜庭の表情が和らいだ。いきなり怒られた少しムッとしただけであって、桜庭の本気で怒っている訳では無いらしい。安心した天道は手を離し、落ち着いて桜庭に言った。
「そろそろ冷えるから中行こうぜ。おっちゃんたちも帰ったしさ」
「分かった」
 湯船の中を通路の近くまで二人で移動して立ち上がる。すっかり薄暗くなった空気は濡れた身体にはあまりにも冷たい。天道はタオルを手にとって慌てて戻ろうとしたが、反対側の手を握られて思わず振り返った。
「誰もいないんだろう?」
 小さく呟いた桜庭は視線こそ他所を向いているが、薄暗い中でも赤く色づいた耳が天道にははっきり見て取れた。
「うん」
 天道は手を握り返しながら、桜庭を引いて通路を進む。歩きながら、先程まで慌てていた自分が本気で馬鹿らしくなった。桜庭の言う通り、ここには初めから誰もいない。自分とその恋人以外、誰も初めから居やしないじゃないか。天道はそう思いながらガラス戸を開くと、案の定中には他の客は誰もおらずにがらんとしていた。
「ロープウェイは八時までだってさ」
「今何時だ?」
「六時半過ぎ」
「なら、もう少し大丈夫だな」
 手を繋いだまま一番大きな浴槽へ二人で入る。やっぱり温泉デートは一緒に入らなくちゃな、と天道は思いながら、このまま誰も来ませんようにと小さく願った。