『お前の第二ボタンを欲しがるやつがいませんように』

 中途半端なものほど触りたくなるのは人間の性だ、と宮城は思っている。一ミリだけ立っている逆剥けはついつい別の指の腹で逆撫でてしまうし、端がすこしだけめくれたセロテープは爪で引っ掻いてしまう。ちぎれかけた消しゴムはわざわざ割れ目を開いてみるし、取れかかった学ランのボタンは意味もなく指で弄んでしまう。

 気がついたのは朝練を終えて着替えたときだ。学ランの上から二つ目のボタンを止めている糸が、ずいぶんと緩んでいた。どこかに引っ掛けたのだろうか。宮城は少しつまんで引いた。今すぐ取れるほどではないが、手を離すと一つだけ首をもたげたように下を向く。それがどうにも中途半端で格好が悪い。

 触らずにいればいいのだ。残したまま家に帰って、母になおして貰えばいい。頭では理解しているのに、授業中もつい手が伸びてしまう。かといって完全に引きちぎるわけでもない。糸はいたずらに伸び続けた。結局それが取れたのは昼の屋上、それも予鈴の五分前だった。

 手からボタンがこぼれ落ちると同時に、「あっ」と小さな声が出た。スラックスの上で跳ねて、アスファルトへ転がっていく。隣の三井はとくに驚くでもなく「弄るからだろ」とつぶやいた。取れかかっていることにはとうに気がついていたらしい。

「なんか触っちゃうんすよね、こういうの」

「まあ、分かるけどよ」

 逆剥けとか引っ張っちまうんだよなあ、と気が抜けた声で三井が続けるから、宮城は笑った。ボタンを拾い上げて、手のひらに載せる。表面に施された模様をまじまじと見るのは初めてだった。学ランのボタンってこんなだっけ、と宮城は首を傾げた。別に深い意味はない。いつも着ているのに気にしたことすらなかったことが、なんだか不思議に思えただけだ。

 隣の三井が静かなので、宮城は顔を上げた。先程までの宮城と同様、三井もじっと取れたボタンを見つめていた。

「なんすか」

「……つけてやるよ」

 宮城は目を瞬かせている間に、三井はさっさと立ち上がって歩きだす。「ほら、行くぞ」と三井は宮城を振り返った。

 もう授業始まるんすけど。行くってどこに。アンタ裁縫なんてできるんですか。言葉はいくつも思いつくのに、一つも喉から出てこなかった。

「一緒に入ってたと思ったんだけどよ」

 部室の床にしゃがみ込みながら、三井は救急箱を漁っている。宮城はベンチに座ってその背を眺めていた。五限はとうに始まっている。どこかのクラスが体育でサッカーをしているのだろう。宮城はその音をぼんやりと聞いていた。三井が一向に裁縫セットを見つけられないので、宮城は前身頃に残った糸くずを手持ち無沙汰に取り除いた。

「おー、あったぞ」

 やっと振り向いた三井が手にしているそれは、おもちゃみたいに小さくて安っぽい。似合わないな、と宮城は素直に思った。三井は眼の前で膝立ちになって、針に糸を通している。三井の頭が自分よりもちょっと下にある。なんでそこに座っているのだろうか。まさか、と思ったところで三井に服を掴まれた。

「動くなよ」

 ああ、この人まじで裁縫できないんだな、と宮城は悟った。普通、着せたまま縫わないんだよ。教えてあげるべきなのだろうが、眉間にシワを寄せた顔を見るに、話しかけると怒られそうなので黙っていることにした。三井はそのままおぼつかない手で、針を刺していった。

 普段はくだらない話ばかり飛び交うのに、稀にこうしてお互いの口数が減ることがある。そんなとき三井は決まって、宮城を見ない。それがわざとなのか無意識なのか、宮城は知る由もない。しかしこれ幸いと、宮城はいつも三井を眺めていた。

 初めてあった日に見た、兄の面影は殆ど消え失せていた。改めて向かい合えば顔も中身も似ていないのだ。しかし後ろ姿だけは違った。眺めるたびに、生きていればきっとこのくらいの背格好だったのだろう、と思わずにいられない。しかし振り向けば、口を開けば、その幻想は離散する。それが悲しいわけではない。ただ、中途半端なのだ。色々あったが、三井自身のことは好ましく思っている。その一方で、あの日見た幻想を捨てさることも出来ないでいた。自分が彼に何を求めているのか、宮城ははっきりとした答えが出せないでいる。

 いっそ引っ張ってしまえばいい。髪でも顎でもひっつかんで、こちらを向かせてしまえばいいのだ。そんな衝動を宮城はぐっとこらえた。逆剥けは痛みを増し、ボタンはちぎれて転がっていく。そっとしておけ、触るんじゃない。ろくなことにならないのだから、と言い聞かせた。三井にバレないように手の汗をスラックスで拭う。

 それでも中途半端なものほど触りたくなるのが人間の性だ。未だ目の前にある真剣な顔に、少しだけ、と言い訳をして手を伸ばす。顎の傷に指先がほんの少し触れた瞬間、三井の肩がびくりと跳ねた。

「痛った」

 三井の指の腹から、小さな赤い玉がぷくりと浮き出る。宮城は慌てて立ち上がろうとしたが、三井に学ランを引ひかれて制止された。

「もう終わるから、座ってろ」

 血がつかないように人差し指を反らせながら、三井は糸を切った。そのまま指を咥えて、なれないことするもんじゃねーな、と呟きながら三井は救急箱を漁りだす。宮城はついたばかりの第二ボタンにそっと触れた。意外とまともに縫われていた。

「最後の方、縫っててイヤになったからよ。呪っといてやったぜ」

「はあ?」

 絆創膏を巻いた指で宮城を指しながら、三井はにやりと笑った。

「もう取るなよ!」

「いや、好きで取ったんじゃないっすよ」

 さっきまでロクに目も合わせなかったくせに、いつもの調子で話しかけてくる。

 この人のこういうとこ、よく分かんねーんだよな、と宮城はため息をつきそうになった。

「ところでお前六限なに? 出るの?」

 平然と話しかけてくる三井に、数学だった気がする、と返事をした。

 振り回されっぱなしで癪に障るが、どうせ自分では中途半端で決められないのだ。だったら三井に合わせてやればいい。三井の望みに乗っかっていれば、悪い方向には動かないだろう。では三井の望みとは、三井が己に望むこととは、あとさっきの呪いってなに、と頭を捻らす宮城のことなどつゆ知らず、三井は「じゃあサボれよ」と言った。

 悪い方向にも種類があるよな、と思いながらも、すでに授業へ出る気は失せていた。

当たれば悲劇、掠めれば奇跡

 ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドは目に見えてそわそわしていた。

 戴冠してから約一年、責務に追われる姿にはまさに救国王と呼ばれるにふさわしい威厳が身に付きつつあったはずだが、残念なことに今はその影もない。

 執務室で顔の前に書類を掲げてはいるものの、明らかに隻眼は文章を追っていなかった。たまにハッとしたように目を見開くも、またすぐに彼の思考は他所へ飛んでいく。時折、ソファの上の布づつみに視線をやり、民に見せられないほど緩んだ表情をした。

 仕事にならない。ドアの前に立つドゥドゥーは君主に聞こえないよう小さくため息を付いた。

 皇帝を倒しました。戦争は終わりました。世界は平和になりました。寓話のように綺麗に終われたらどんなに楽だろうか。残念なことに、この世はそんな単純にできていなかった。

 エーデルガルトの思想を未だ盲信する残党。戦争で賊に身を落とした者。そしてその裏に見え隠れする不穏な者たち。守るために誰かが剣を振るわねばならぬ日々が、未だ続いていた。

 先日も、ガラテアの領地に居座っていた山賊が流石に手に負えなくなってきたと、王都に救援の依頼が来たばかりだ。イングリットに騎士団を一つ率いらせ、さらにフラルダリウスからも兵を出すこととなった。

 さてその兵を出してくれたフラルダリウス公爵様はと言えば、兵と一緒になって意気揚々と出陣したらしい。お前にいけとは言っていない。使者を前にディミトリは苦言を漏らしたが、決して怒ってはいなかった。むしろ山賊側に同情さえした。イングリットでさえ必要ないのではと迷ったほどだ。そこにフェリクスまで投入してしまっては、過剰戦力もいいところである。

 どうせさっさと蹴散らして返ってくるだろう。この件に関してはさほど気に留めていなかった。そもそも山賊退治に乗り込む暇があるのならば王都に顔を出してほしい。というか自分のところに来てほしいというのがディミトリの本音だった。民を思えば戦時中より今のほうが百億倍マシだ。だが、恋人と共に居られる時間はガルグ=マクにいた頃のほうがよっぽど長かった。なにせ寝室が隣だったのだ。王都奪還直後に告白してからの数カ月は、不謹慎を承知で言えば、忙しいながらも幸せでもあった。

 だからイングリットが天馬で一人いち早く帰ってきたとき、彼はたいへん驚いた。そして彼女の言葉を聞いて、さらに驚くことになった。

「フェリクスの見た目が若返りました」

 ディミトリは自分の後頭部をぐしゃぐしゃと混ぜた。

「……順を追って話してくれないか。意味が分からない」

 イングリットの話を要約すると、「山賊の中に妙な魔法を使うやつが混ざっており、その魔法を避けきれず掠めたフェリクスの容姿が若返ってしまった」ということらしい。

「他に異常は無いのか?」

「はい。どうやら見た目が変わっただけで、怪我や不調もなければ記憶に問題もありません。騎士団の中にいた魔法に詳しい者によれば、一、二週間もあればもとに戻るであろうとの話でしたが」

 念のため魔道学院の学者にでも見せたほうがよろしいかと思います。とイングリットは続けた。

「どのくらい若返ったんだ?」

「ざっと六年か七年。ちょうど士官学校に通っていた頃くらい、でしょうか」

「そもそもなぜ敵はそんな魔法を?」

「掠めただけでこれですから。直撃してたら今ごろ胎児並の小ささでしょうね」

 ディミトリは自分の頬が引き攣るのを感じた。もしかしなくてもめちゃくちゃ危なかったのではないだろうか。

 その後フェリクスには直接魔道学院へ向かってもらい、その後はもとに戻るまで王城で待機するように指示を出した。それが四日前の話だ。そしてもう一つ、大急ぎで作らせたものが今、執務室のソファの上に、布で包まれて置かれていた。

 作らせた本人は執務机に座りながらも、一向に仕事が進んでいなかった。イングリットからの報告を受けた直後はまだそれなりに働いていた。問題は例のものが届いてからである。その中身を確認してからの救国王はそれはもうひどい有様だ。ろくに仕事が進まない。いつもの十分の一程度の遅さである。

「なあ、ドゥドゥー。フェリクスはまだ来ないのか」

「昨日、魔道学院が『以上無し』と正式に言ってきましたから、じきに参るでしょう」

「そうか」

 ディミトリは書類を放り投げて、椅子に深く背を預ける。茶でも入れますか、とドゥドゥーが訪ねようとすると同時に、控えめなノックが部屋に響く。ディミトリは椅子から跳ねるように立つと「入れ!」と叫んだ。数秒後、部屋の中を伺うように、そっとドアが開く。ディミトリは口角が上がりそうになるのを必死にこらえた。ご丁寧に髪まで伸びたらしい。後頭部には小さなお団子が乗っている。バツが悪そうにうつむきがちな顔は、今ではすっかり消えたはずの少年らしさを残していた。しかし服装は公爵らしくいつもの立派なマントを付けているものだから、なんだかアンバランスだ。

「ずいぶんな姿だな。フラルダリウス公」

 ディミトリはわざと高圧的な物言いをする。するとフェリクスは一瞬目を見開いたあと、露骨に顰め面をしてズカズカと執務室に入ってきた。それと入れ違うように、ドゥドゥーが音も立てずに外へ出る。もはや慣れたものである。

「笑いたければ笑えばいいだろう」

 真正面に立って下から睨みつけてくる顔はずいぶんと幼い。ディミトリは別に、笑うつもりは微塵もなかった。ただニヤけるのを我慢しているだけだ。

「イングリットから話は聞いている。危うく死にかけたそうだな。いや、生まれ直しそうだったと言うべきか?」

 フェリクスは舌打ちをして目をそらした。下手を打った自覚はあるらしい。ディミトリはついに我慢できなくなった。自分の口角がこれでもかと上がるのを自覚しながら、口元を手で覆い隠して言葉を続けた。

「その姿であちこち動き回るわけにもいかないだろう。戻るまでは俺の机仕事でも手伝ってもらうぞ」

「……分かった」

 とは言え執務室に監禁するわけにもいかない。城内くらいは自由に歩けるべきである。しかしフラルダリウス公が小さくなったなどと噂されるのはあまり良くない。見られた程度ではフェリクスとバレない格好をさせるべきだ。

「公爵は怪我で二週間ほど療養すると周囲には伝えてある。なに、服装さえ変えればあまり気づかれはしないだろう」

 ピッタリのものを用意してやったぞ。と、ディミトリはソファの上を指さした。

 白いシャツの上に、金色の模様とボタンを施した黒いベスト。黒いズボンの左腿にはベルトが一つ巻かれている。足元は当然、白いブーツだ。どこからどう見ても士官学校の生徒にしか見えない。そんな姿のフェリクスを左腿の上に座らせて、救国王は満円の笑みを浮かべていた。フェリクスの両足は己の足の間に落とし、左腕で腰を抱き寄せている。そして目の前にあるフェリクスの顔へグリグリと頭を寄せると、案の定「おい」とドスの利いた声が降ってきた。

「仕事を手伝わせるのでは無かったのか」

「そんなもの、手につくわけないだろう」

「そもそもなんだ、この格好は」

「ぴったりだろう。大急ぎで作らせたんだ」

「士官学校はまだ再開してない。今制服を着ているものなどこの世に一人も存在しない。こんな格好で歩いていたら不審がられるだろう」

「そうだな」とディミトリは平然と言う。

「俺が着せたかっただけだ」

 フェリクスはこれみよがしに大きなため息を付いた。「なんなんだ、お前は」

 そう呟くフェリクスの瞳を、ディミトリは至近距離で眺めていた。顔こそ当時のままだが、瞳には優しさが混じっている。当時では考えられなかったことだ。

「この姿の頃のお前は、俺にずいぶんと冷たかっただろう」

 ディミトリは再度、フェリクスに頬を寄せた。

「結構寂しかったんだぞ」

 腰に添えた手に力を込めて、より抱き寄せる。フェリクスの手が右肩に添えられた。しかし抵抗するように強く押されることはない。顔を離して顔を覗くと、バツが悪そうに視線がさまよっていた。何か言いたげだが、言葉が出ないのだろう。口も小さく開いたり閉じたりを繰り返している。結局彼は困惑した顔のまま、小さく「ディミトリ」とつぶやいた。

 その可愛らしさにディミトリは目を細める。そもそもこの姿のフェリクスが自分に抱き寄せられていること、そして名を呼んでくれること。ディミトリにとってそれは起こり得なかった過去のはずだった。そのはずだったものが、奇妙な形かつ少しの時間ではあるが、手に入れる機会が今と未来に現れたのだ。

「たかが一、二週間程度、可愛がってもバチは当たらないだろう」

 前髪をなでつけるように撫でると、「勝手にしろ」と顔を背けられる。その耳はずいぶんと赤かった。

今日はあの子の誕生日

 まんまるな頭のフォルムに、癖のないつややかな黒髪。子供らしかった頬の丸みは取れてしまったが、涼し気な目元は変わっていない。
 二十年ぶりくらいだろうか。初恋のあの子が店に初めて入ってきたとき、思わず拭いていたグラスを落とすところだった。子供の頃の面影を残したままの彼は値踏みするように店内を見渡す。そして厭味ったらしく鼻で笑った。
「しけた店だな」
 自身の手から滑り落ちたグラスが、ガシャンと足元で割れた。他人の空似かもしれない。そうであってほしい。そんなことを言う子ではなかった。そんな表情をする子ではなかったんだ。
 バーテンダーの気など知る由もない彼は、ヅカヅカと真正面までやってきてカウンター椅子に乱暴に腰掛けた。
「酒」
「……ウイスキーかビールしかないけど」
「どっちでもいい」
 彼は頬杖を付きながらつまらなそうな顔をした。バーテンダーは後ろの棚へ振り返る。少し迷って、二番目に上等なウイスキーの瓶を手に取った。グラスに注いで出してやる。彼は無愛想なまま口をつけた。その目が一瞬だけ見開いて、ほんの少しだけほころんだ。
 酒の味は悪くない。そうつぶやく姿に、やはりあの子だと認めざるを得なかった。

 家族ぐるみの付き合いだった。気難しそうな父親と、聡明そうな母親、そして優しげな雰囲気をまとった姉。そしてその後ろに隠れているあの子。仕事絡みの付き合いだったのだろう。いつもすぐに父親二人は席を外した。残った母親二人と彼の姉に見守られながら、二人で遊ぶのが常だった。
 遊びに行こうと駆け出すと、細くてどんくさい彼はすぐに転ぶ。そのたびに泣きそうな顔をするから、いつも慌てて起こしてやった。木登りも下手だった。怖がって登れないから、上から引き上げてやる。そうすると今度は「降りられない」と怖がった。
 地面に絵を描いて遊ぶこともあった。それは彼のほうが上手かった。歌もそうだ。彼はきれいな歌を教えてくれた。真似をしても、ちっともきれいには歌えなかった。
 次はいつ来るの? と、帰ってしまうたびに母に尋ねた。二ヶ月後よ、と母はいつだって答えた。なのにある日、彼らは来なかった。どうして来ないの、次はいつ? と母に聞いた。無言で頭を撫でられるだけだった。
 ずっと昔の記憶だ。子供の頃の、もう思い出すことすらめったにない記憶。結局父の仕事ではなく、祖父の店を継いだ。仕事にも生きていくのにも関係のない思い出が、あの日一瞬で引きずり出された。
 あれ以来彼はこの店にやってくる。人相の悪い男を後ろにずらずらと連ねながら、金をちらつかれる。機嫌が悪い日はカウンターに足を乗せた。
 聞きたいことが山ほどあった。どうして急に来なくなったんだ。姉さんはどうした。ときおり咳き込んでいただろう。どうしてそんな仕事をしている。家族はどうした。
 バーテンダーの口からその問いが出ることはない。情報を売る側だった。じゃあ金を払えば彼は教えてくれるのか? と思ったときもある。答えはNoだろう。彼が別の店へ行くようになるだけだ。
 彼が来店するたびに、バーテンダーは嬉しかった。面影が残るその姿を見ると心が踊った。そして彼に話しかけられるたびに悲しかった。忘れられたこと、変わってしまったこと、彼の善性が知らないところで失われたことが辛かった。しかし彼を攻める気にはならなかった。再開するまで自分だって忘れていたのだ。善性を失っていく過程に、自分はそばにいることもできずに忘れていたのだから。
 だから店員と客としての距離を縮める気にもならなかった。人間関係は一方通行にはならない。片方が忘れてしまったのなら、それはもう無かったことになる。そう思っていた。

 霧雨の夜だった。常連客も早々と帰ってしまい、いつもより早く店じまいにしようとモップを取り出したところで静かにドアが開いた。
 濡れたのだろう。黒髪はいつもより艶が出ていた。彼の後ろには誰もいない。ゆっくりと、だけどまっすぐにカウンターへ向かってくる。バーテンダーはモップをしまって、カウンター内へ戻った。
「いつものやつでいいか?」
「ああ」
 彼は静かに、ゆっくりと座った。後ろの棚から瓶を取り出し、グラスに注いでだしてやる。今日はもう来ないと思っていた。彼は視線を落としたまま、グラスをちびちびと舐めた。
 なんかあったのか。聞こうとして、やめた。彼は何も言わない。ただ、机の傷や棚の瓶を眺めながら無言で飲むばかりだった。
 バーテンダーはそっとカウンター下の戸棚を開けた。別に大したものではない。親が子に出すような、シンプルな焼き菓子だ。それをそっと彼の前に置く。
「なんだこれは」
「アンタ今日、誕生日だろ」
 彼は目を見開いた。そしていつものように顰める。
「なぜ知っている」
「これでも街イチバンの情報通なんで」
 おちゃらけてウインクをしてみせると、顰め面は露骨ににらみ顔へと変わった。不機嫌なまま彼は菓子を口に運ぶ。文句は飛んでこなかった。お気に召したらしい。当然だった。これは祖父ではなく、母のレシピだ。あの子も美味しいと言っていつも食べていた。
 無言で食べ終わった彼は、グラスに残った酒を一気に煽ってから立ち上がった。懐に手を入れたのを見て、「金ならいらねえよ」と制す。
「バーテンダーごときの施しなど受けない」
 言い方は厭味ったらしいのに、顔はすねた子供のようだった。バーテンダーは思わず笑った。そして思考を巡らせる。
「じゃあ、お代替わりに歌でも歌ってもらうかな」
 思い出から引っ張り出してきた旋律を口ずさんで見せると、「下手くそ」とやじが飛んできた。

白(R-18 医者時代)

 夜の壁を沿うように桜庭薫は足を進める。長時間に渡る手術を終え一段落ついたと思ったところで、受け持ちの患者の容態が急変した。内科医との相談の上、明後日行う予定だった彼女の手術は一週間以降に延び、また桜庭の今日の就業時間も随分と延びてしまった。もとより体力に自信のない桜庭は家に帰るのを諦め仮眠室へと足を伸ばしたのだった。
 安眠の妨害を防ぐためできるだけ音を立てずにドアを開けると、ベッドに横になっている同僚が酷く驚いた顔をして桜庭の方へ振り向いた。
「すまない。起こしたか?」
「いや、まだ寝る前」
 桜庭が小声で話しかけたにも関わらず、彼は普通の声量で返事をした。
「桜庭はまだ仕事してたのか」
「まあな、今日は君しかいないのか。珍しいな」
「俺普段ここ使わないから珍しいとか言われても分かんないよ。むしろ普段の状況把握してる方が異常だと思うよ」
「そうかもな」
 桜庭はそう返事をしながら部屋の隅に壁に背をつけて設置された小さな冷蔵庫へと足を延ばす。
「ところで桜庭さあ、精液飲んだことある?」
 飲み物を取り出そうと少し屈んで冷蔵庫のドアに手をかけたところで、3,4メートルほど離れた背後のベッドから奇妙な疑問が投げかけられた。
「……あるわけないだろ。何の話だ」
 相手からの返事はなく、代わりに床に降りる音が聞こえてくる。不穏に思い振り返れば、同僚がゆっくりと桜庭の方へと近づいてきていた。肩のあたりまで持ち上げられた右手の指先には白色の液体が付着している。
「君は仮眠室で何をしてたんだ」
「いやあ、誰も来なかったからさ」
 悪びれる様子もないさわやかな声色といつもどおりのやさしい笑顔は、桜庭にはひどく不快かつ奇妙に映った。
「で、もう一回聞くけど」
 右手の指を練り合わせるように動かしながら、同僚はいつもの笑顔で桜庭に近づいていく。
「桜庭さあ、精液飲んだことある?」
 体が反射的に引き下がっていこうとするが、半歩下がった時点で冷蔵庫に阻まれてしまう。より距離を取ろうと左後ろへさらに下がるが、壁との距離があるはずもなく、部屋の角と冷蔵庫の間の1メートルほどの隙間に入り込む形になってしまう。逃げられない、と桜庭が思った時にはすでに同僚は目の前まで迫ってきていた。
「……何を考えているんだ」
 怯える桜庭を見ても同僚は眉一つ動かさず、さらに距離を詰めてくる。触れられる距離まで近づいた瞬間、左手が伸びてきた。思わず身を縮こませ目をつぶり、両手が顔をかばうように上がる。その両の手首を同僚は片手で力強く拘束してきた。
「やめろ、はなせ」
 恐怖からか、絞り出したような小さな声しか出てこない。
「飲んだことないんだよね? 味知らないんだよね?」
 言い終わると同時に足を払われ、尻餅をつく。壁に打った背が痛い。掴まれていた両腕は吊上がったが、ゆっくりと屈んでくる同僚と同じスピードで下がっていく。
「飲んでよ、俺の」
 座りこんだ桜庭を覆うように、膝をついた同僚の顔がぐっと近づいてくる。見知った顔が、まるで知らない人のように見えた。拘束された腕は力を込めているのに一向に外れる気配がない。
「口開けて」
 声を発するために唇を開くことすら怖ろしく、無言のまま顔をそむける。同僚はあからさまな溜息をついて、右手で桜庭の顎を上げた。驚いて同僚の顔を見るが、彼は真顔のまま親指で桜庭の唇になでるように精液を塗りつけた。独特のにおいが鼻をついてうめき声が漏れる。気持ちの悪い触感に、全身に鳥肌が立つのが分かった。唇の端から端まで塗り終わると、同僚は満足げな笑みを浮かべた。愛おしむような視線に吐き気がする。
「それ舐めて。舐めてくれたら終わりにするから」
 終わりにする、という言葉に桜庭は少し心が揺らぐが、口を開く気には到底なれない。しかし文句を言う気力も無く、震えたまま口を噤んでいるのが精一杯だった。
「頼むよ、ちゃんと終わりにするから」
 同僚は人差し指の甲で下唇を掬い上げるように拭い取り、そのまま口を割るように押し付ける。
「ちょっとだけでいいから。そしたら手も離すし、もう何にもしない」
 本当かと問いかけたいが、言うために口を開けばそのまま指を押し込まれるだろう。桜庭は悩んだ末、おそるおそる舌を伸ばした。触れた瞬間、口に広がる臭い胃酸込み上げてくる。粘膜で触れたことでより強く伝わる生温さが、これが体液である事を嫌という程伝えてくる。独特な触感は、唇に塗られたときとは比べ物にならないほどの恐怖と嫌悪感をもたらした。一瞬舌先で触れただけで、顔が歪み視界が潤む。これ以上は無理だと直感しすぐ舌を引っ込めた。
「もう無理?」
 目を瞑りながら小さく頷いた。濡れた上睫毛の根元が冷たい。幸いにも零れ落ちる程の涙はまだ目元に溜まっていなかった。
「そっか、ごめん」
 同僚は悲しそうに少し微笑むと拘束していた手をゆっくりと緩めた。その手で桜庭の髪を整えるようにそっと撫でる。
「本当にごめん。……おやすみ」
 それだけ言うと同僚は何事もなかったように背を向けて、ポケットティッシュで手を拭きながらベッドに向かい、そのまま潜り込んでしまった。膨らんだ掛け布団の中身は人形の方に動かなかった。
 仮眠室はいつも通り、冷蔵庫の小さな稼働音だけが鳴っている。部屋の片隅で震えている自分だけが、まるで異質なもののように思えた。

好きの妥協点

 目が覚めた瞬間、頭に浮かんだのはやばいの三文字だった。慌てて飛び起きてスマートフォンを手に取ると、時刻は11時48分。その下には着信履歴とメッセージアプリのポップアップがずらりとぶら下がっていた。
 桜庭と同じ日にまる一日オフなんてのは本当に久々だ。桜庭の神戸行きが目前に迫っているのもあり、朝からデートしようと誘ったのは紛れもない俺自身だった。にも拘らずこの体たらくである。頭を抱えたところでときが戻るはずもなく、寝起きで回らない頭で謝罪の言葉を必死に考えながらメッセージアプリひらいて確認する。
「着いたぞ」
「天道、今どこだ?」
「近くの喫茶店に入ってる。気づいたら連絡しろ」
「本当にどうした?」
「何かあったのか?」
「今から君の家に向かう。電話は出られるようにしておくから、気づいたらすぐ連絡してくれ」
 最後のメッセージは11時32分。電話に出られるということは恐らくタクシーで向かっているのだろう。待ち合わせ場所から俺の家まで約30分程だろうか。怒って帰られる方がよっぽどマシだとさえ思えてくる。明らかに心配しているであろう後半のメッセージに罪悪感を覚えながら、3回ほど入っている着信履歴から桜庭の携帯へ電話をかけると、数回のコールで繋がった。
「……もしもし?」
「天道か? どうした?」
 普段よりほんの少し高くて早口で、小さく聞き取りづらい声にさらに罪悪感が圧し掛かってくる。桜庭は完全に何か問題が起きたと思っているようだ。いっそ嘘でもついて俺が悪いわけではないことにしてしまおうか。一瞬そんな考えも浮かんだが、変な嘘でさらに桜庭に心配をかけるのは、さすがに俺の正義感が許さなかった。
「……すみませんでした」
「……なぜ謝る」
「完全に寝坊した」
 俺の言葉を聞くや否や、携帯越しに溜息が聞こえてくる。
「本当に寝坊しただけなんだな?」
「まじで今起きたとこだ。本当にごめん」
「……後15分くらいで君の家に着く。身支度だけ整えておけ」
 俺の返事を待たずに電話は切られてしまった。そもそも何故俺は起きられなかったのだろうか。携帯のアラームはきちんと設定したはずだ。アプリを開いてみればきちんと8時に設定されており、9時半の待ち合わせには十分間に合ったはずだろう。現実逃避と言わんばかりに少し携帯を弄ってみれば、何故か音量が最小に設定されていた。ああ、それでさっきの電話は聞きとりにくかったのか、などと一人で納得している間に時刻は11時53分。原因が解明したところで桜庭は家へやってくる。俺はベッドの上で大きな溜息をついて、洗面所へと向かうべく床へ降り立った。

 聞きなれた音に反応してモニターへ向かう。案の定小さな画面には不機嫌ですと言わんばかりの桜庭の顔が映し出されていた。早急に玄関へ向かい扉を開ける。その先に顕われた桜庭はモニターに映し出されたものと全く同じ顔をしていた。
「5分、いや3分だけ待ってくれ! すぐ支度するから!」
「別にゆっくりでいい。襟足が跳ねているぞ」
 桜庭は猫のように扉をすり抜けて、当たり前のごとく靴を脱いで上がっていく。開けたばかりの玄関を閉め、通ったばかりの廊下を桜庭の後ろをついて戻る。一足先にリビングへ入った桜庭はさっさとソファへ座り、取り出した文庫本を開きだす。まるで何事も無かったかのような仕草だが、その表情は決して柔らかくない。桜庭は人一倍時間に厳しい。正直、家に来た瞬間説教をされる覚悟さえあった。予想に反した行動だが、顔を見るに桜庭の感情とも反しているのだろう。桜庭が不満や許せないことはきちんと口に出すタイプであることは嫌と言うほど知っている。普段とあまりにも違う対応に戸惑い、俺は無言でリビングの入口に立ち尽くす。暫く文庫の文字を追う桜庭を見つめていたがところ、桜庭は立ちつきしている俺に気がついたのか、ふいに顔を上げた桜庭と目があった。
「何をしているんだ。まさかその跳ねた襟足で外出するつもりか?」
「いや……。お前さ、怒らないのか?」
「怒っていないと思うか?」
 俺は反射的に首を振る。怒っていない訳が無い。だからこそ、今の桜庭が不思議で仕方がないのだ。
「これが仕事だったら君とは一生口をきかなかったかもしれないな」
 そう言いながら桜庭の視線は本へ戻ってしまう。流石にそんなへまはしないと言い返したいが、盛大に寝坊した直後にその言い訳は気が引ける。
「今日は僕にしか迷惑をかけていないし、君にも悪気があった訳ではないだろう。それに数日後にはツアーのために神戸へ発たなければならない。怒ってはいるが、何もここでケンカすることも無いと思っただけだ」
「……そっか」
 俺の口から洩れた言葉はとても小さかった。
「髪直してくる」
 怒ってはいる。だけど今日は許してやる。つまりそういうことなのだろう。遅刻を咎めることよりも、俺と楽しく過ごすことを優先してくれた。普段からは想像がつかないからこそ、その事実が純粋に嬉しく思う。
 せっかくの好意を無駄にするのが惜しくて、素直に乗っかるように洗面所へ向かう。整髪料を片手に、音量が最小になったスマートフォンで小声で馴染みのレストランへ電話をかける。
「もしもし、今晩予約取れますか?」
 夕飯は俺の家で手料理をふるまおうと考えていたが予定変更だ。多分桜庭は昼食をとっていないから、何処かへ寄って、映画を見て、それからもっとうまいものでも食べに行こう。せっかく許してくれたのだから、最高の気持ちで送り出してやるのが筋ってものだろう。
 電話をかけて3件目、やっと予約が取れたころには俺の襟足も綺麗に直線を描いていた。リビングへ戻って静かに文庫本のページを捲る桜庭へ手を差し伸べた。。
「昼飯まだだろ? なんか食ってから、映画見に行こうぜ」
「ああ」
 何のためらいも無く握り返された手が温かい。繋いでいられるのはいつも通り、マンションを出るまでだ。それ以上は世間が許してくれない。だけどそれで十分だ。桜庭はまたこの家にやってくる。そしてまた、溜息一つで俺を許してくれるのだから。

夢に沈めて

 きっかけはいったい何だっただろうか。天道とこうして肌を重ねるようになってから随分経つ。彼は僕に愛の言葉を紡いだことは一度も無く、僕もまた彼に愛の言葉を紡いだことは一度もない。初めに誘ったのはどちらだったのだろう。
 隣で背を向けて眠る天道を眺めながら思い出そうとしてみるが、出てくるのは自分も天道も酷く酔っ払っていたということだけだ。しかし2回目以降は、誘うのはいつも天道の方だ。そして自分も当たり前のように着いて行く。僕たちはいったい何をしているのだろう。そっと天道の赤い髪に触れてみた。短くて硬い、水分の少なそうな感触は、間違いなく触り慣れていない男の髪だった。すぐに触るのを止め、後ろから寄り添うようにして眼を閉じる。先に起きるのはいつだって僕なのだから、どんな体勢で寝ようが天道には関係ない。自分よりほんの少し高い体温が、なぜか心地よく感じる。不思議と目を瞑った先で、天道と逢いたかった。夢で逢えたら、君は僕にだけ笑いかけてくれるだろうか。僕は、君に好きだと伝えられるだろうか。

 朝陽がカーテンに遮られているせいで室内は随分薄暗い。自然と開いた眼を再び閉じようとして、ふと違和感を覚えた。数秒間そのまま考えたが、違和感の正体が呼吸だと気付いた瞬間、反射的に短い襟足を力強く引っ張った。
「痛ってえ!」
 そう叫んで襟足を押さえる天道からそっと身体を離して、ベッドの反対側へ寄る。
「医師免許持ちの隣で狸寝入りか。 度胸があるのか馬鹿なのか」
「別に狸寝入りじゃねえよ。動いたら起こしちまいそうだったから二度寝しようとしてただけだろ」
 そういいながら天道はごろりと体ごとこちらを向く。その表情は、昨日僕が夢で見たいと願ったものにそっくりだった。そのままゆっくりと伸びてきた手が僕の頭を撫でる。その事実が耐えきれなくて、思わず天道の顔から視線を逸らした。
「ちゃんと眠れたか?」
「君には関係ない」
「あっそう。……朝飯なにがいい?」
「なんでもいい」
 ぶっきらぼうな僕の返事は気にも止めず、分かったと小さく返事をして天道はベッドを降りていった。僕はシーツを頭の上まで引き上げて再び眼を閉じる。結局夢で天道に逢うことは出来なかった。けれども、普段の天道は僕より先に起きないし、あんな顔で笑いかけることも、僕の頭を撫でることもない。だから僕も、普段しない二度寝をしよう。天道はきっと何も言ってはこないのだろう。だから眠ってさえしまえば、再び眼が覚めた時、全ては夢のようなものへと変わっているに違いないのだから。

くだらない奇跡はいつだって人が引き起こす

 アイドルのバレンタイン関係の仕事なんてものは、バレンタイン当日より前にとっくに終わっている。ライブや生放送の番組に出るアイドル以外は、卒業や入学関係の仕事が混ざるアイドル活動に従事しながら、事務所に届くチョコレートをメインとしたたくさんの贈り物を待つだけとなる。
 そんなことは分かっていても世間様はバレンタイン一色で、その空気に当てられたのかなんなのか、ネット通販でちょっとお高いチョコレートをひたすら調べていたのが一週間前。自宅に届いたのが三日前。鞄に忍ばせて仕事へ向かったのが十時間前。番組スタッフから貰ったチョコが入っている紙袋へ、鞄から移し替えたのが六時間前。楽屋から翼と桜庭がいなくなった隙を見て、桜庭の鞄にねじ込んだのが三時間前。そして俺と翼が飯に誘ったにも関わらず、不機嫌オーラ全開で桜庭が帰っていったのは、今から二時間ほど前のことだ。

「薫さんめちゃくちゃ機嫌悪かったですね」
「言っておくけど今日は喧嘩してないぞ」
「じゃあなんであんなに怒ってたんですか?」
「さあ?」
 いつものファミレスで食後のコーヒーを啜りながら、翼と二人で時間を持て余していた。桜庭が機嫌を損ねた理由は本当に分かっていない。少なくとも朝の時点ではいつも通りだった。にも関わらず途中から、カメラの前では出さなかったが、唐突に眉間にシワを寄せ出し、驚く程に口数が減った。
「まあガキでもないんだし、単に機嫌が悪いだけなら首突っ込まなくてもいいと思うぜ。何日も引きずるようならあれだけどな」
「明日にはなおってるといいですねえ」
 そうつぶやきながら翼が翼が手元のスマートフォンを一瞬付ける。表示された時間は自分の想像していたものよりずっと遅い。
「そろそろ出るか?」
「あ、じゃあ俺トイレだけ行ってきます」
 翼が店の奥へ消えていったので、自分の携帯を探してカバンを漁る。翼にはああ言ったが、桜庭に一本くらい連絡を入れてもいいかも知れない。あいつは文句を我慢しないから、機嫌を損ねた理由はおそらく俺ではない。それでもせっかくのバレンタインが、不機嫌な恋人を黙って見送って終わり、なんて結末は余りにも寂しい。
「あれ?」
 鞄から先に見つけたのはスマートフォンよりも少し細長い、そして余りにも見覚えのあるものだった。よく知った包装紙に包まれた手のひらサイズの四角い箱。自分の鞄から出てきたそれは、俺が桜庭の鞄にねじ込んだチョコにそっくりだ。
 不審に思いながら包装紙を破れば、出てきたのはやっぱり同じ箱。蓋を開ければ、やっぱり俺が選んだはずの星型のチョコレートが三つ鎮座していた。
「戻された?」
 予想外のできごとにため息すら出てこない。固まることしかできない俺の頭上から、ふわついた声が降ってくる。
「お待たせしました! 事務所行きましょうか。チョコいっぱい来てますかね?」
 見上げた先の翼は随分嬉しそうで、多分コイツは今たらふく飯を食ったことなど忘れてしまっているのだろう。
「悪い、翼。俺明日取りに行くわ」
「え!? 輝さんチョコいらないんですか!?」
「明日行くって。ちょこっと用事ができた。チョコだけに」
「分かりました! 全部食べておきます!」
「だから明日行くってば!」
「冗談ですよ?」
「ホントかよ……」
 多分ダジャレがいけなかったのか、思わぬ反撃を喰らいながらファミレスを出てタクシーを捕まえる。向かう先をもちろん桜庭の家だ。せっかくのバレンタインが、不機嫌な恋人を黙って見送って終わりどころかチョコまで突っ返された、では余りにも寂しすぎるではないか。

 玄関のドアから顔をのぞかせた桜庭は帰り際の五割増しで不機嫌そうに見える。多分実際は三割増程度で、残り二割は怒りのせいで悪く捉えているのだろう。
「連絡もなしに突撃してくるな。常識ってものを考えろ」
「何回も電話したのに出なかったのはお前だろ」
「近所迷惑だからとりあえず入れ」
 背を向けて引っ込む桜庭について家に上がる。服装はいつもより簡素で、髪は目に見えて湿っている。風呂に入っていてタクシーからかけた俺の電話には気づいてすらいなかったのだろう。それでも出なかったことを攻めた先ほどの発言に対して、撤回して謝る気にはなれなかった。
 リビングに通されて、桜庭が俺より先にソファのど真ん中に足を組んで座り込む。茶の一つも出す気は無くて、隣に座られるのも嫌なようだ。その態度に余計苛立ちながら、俺も向かいのソファに座り込む。
「で、なんだ? 説教でもしに来たのか?」
「は? 説教?」
 予想外の言葉に出鼻を挫かれる。説教ってなんだ? 怒らせた自覚はあるみたいだが、ここで説教という言葉は違う。
「確かに軽率だったと思う。でも咎めるなら同じ行動で返すのはおかしいだろう。そもそもこうして訪ねてくるなら今返せばよかっただろう。君が何をしたいのかまったく理解できない」
 理解できないのは俺のほうだ。軽率だった、はチョコを突っ返したことだとしても、同じ行動で返すってなんだ。今返せばよかったってなにをだ。抱えていた怒りが宙吊りにされて、底からぽこぽこと疑問ばかりが湧いてくる。
「お前が何を言っているのかまったく理解できないんだけど」
「は?」
「突っ返したのはお前だろ?」
「僕が突っ返した? 何を?」
「そりゃチョコだろ」
「……君は何を言っているんだ」
 ずっと視線を逸らしていた桜庭の顔が、やっと俺のほうを向く。その表情は怒っているような、困惑しているような、はたまた軽蔑しているような、端的に言えば「なんだこいつは」とでも言いたげな顔をしていた。
「突っ返したのは君の方だろう」
 ぽつりと桜庭が呟いたが、やっぱり意味が分からない。そもそも言葉の抜けが多すぎる。こいつは俺に伝える気が無いのではないかとさえ思えてきた。しかし伝えてもらわなくては始まらない。とにかく足りない部分を補うように湧いてきた疑問をそのままぶつける。
「俺が? 何を?」
「だからチョコをだ」
 どうやら俺はチョコを突っ返したらしい。
「……チョコを? 俺が? 誰に?」
「だから僕に!」
 ということはつまり、俺が桜庭にチョコを突っ返したから桜庭は怒っている、という訳だ。
「なんで!?」
「なんでってなんだ!!」
「そもそも貰ってねーよ!!」
「渡しただろう! それを君が突っ返したんじゃないか!」
「だから突っ返してないって……」
 あまりに理解できないせいで怒りがどんどんしぼんでいく。怒鳴り合いは想定していたが、まさか謎解きをする羽目になるとは思わなかった。バカみたいに大きなため息をつきながら自分の髪を掻き回す。
「とりあえずお前の言い分は、俺にチョコを渡したのに突っ返されて怒ってる、ってことでいいんだよな?」
「だからそう言っているだろう」
「いつ渡した?」
「撮影の合間に君の鞄に入れた」
「なんで突っ返されたと思った?」
「撮影が終わったあとに僕の鞄に戻ってたから」
「……なんで今俺がお前の部屋に押しかけてきたと思ってる?」
「誰かに知られる可能性がある渡し方をしたことを咎めるため、だと思っているが……。そのことについて怒るなら、同じ方法で返してきた意味が分からないし、そもそもこの場でチョコを返せばよかったのではないかと思う。このあたりがイマイチ理解できていない」
 鞄に入れたチョコが自分の元に戻されたから怒っている。これはまったく自分と同じ理由だ。なぜか俺がしたはずのことが、桜庭の中で桜庭がしたことになっている。後半はまあ、桜庭の推測に過ぎないし、そもそも理由からして間違っているから理解できなくて当たり前だ。
「俺がお前の渡し方を咎めに来たわけでも説教しに来たわけでもないぜ」
「じゃあ何をしに来たんだ」
「お前の鞄に入れたチョコが、帰りには俺の鞄に入ってたから突っ返されたと思って怒りに来た」
「やはり意味が分からない」
「俺も分からない。でも俺はお前からチョコを貰ってないし、突っ返してもいない。これだけは確かだ」
 俺がそう言い切ると、桜庭はため息をついてソファの脇に置いてある鞄を手に取る。それは間違いなく今日桜庭が使っていたものだ。
「じゃあこの鞄に入っているチョコは何なんだ」
 桜庭が鞄から取り出してローテーブルに小さな箱を置く。その箱は間違いなく、ファミレスを出る瞬間まで俺の鞄に入っていたものだ。
「えっ!? なんで!?」
 驚いて自分の鞄を漁る。中で見つけたのは台本、携帯、スケジュール帳、その他諸々、そしてやっぱり机に置かれているものと同じ、小さな箱だった。
「……やっと分かった」
 すれ違いの原因はあまりに単純で、だけと確率的には奇跡に少し近い。
「お前の鞄に入ってたのは、俺がお前にあげたやつだよ」
 俺がローテーブルの箱を指差して伝えると、やはり桜庭は怪訝な顔をする。
「では僕が君にあげたやつは?」
「それは俺の鞄に入ってる」
 そっと小箱を鞄から取り出して机に置く。色も形もデザインも、まったく同じものが二つ、机の上に存在している。
「包装まで同じだったんだが」
「通販限定の包のやつだろ?」
「サイズ展開も豊富だったぞ」
「あんまり大きいと気合入ってるみたいで恥ずかしいよな」
「チョコの形も四種ほどあったが……。まあ、そこは被っても可笑しくないな」
「星だよなあ、三つ入りだし」
 バカみたいなことに、買ったチョコが偶然同じで、渡し方も偶然同じだった。そのせいで相手からもらったものを、自分が渡したものを突っ返されたと勘違いした。ただそれだけの話。
「被るか? 普通」
「被らないだろうな、普通は」
 怒り損だと分かった途端に一気に疲れが襲ってくる。こんなに疲れたバレンタインは生まれて初めてかも知れない。とりあえず目の前のチョコに手を伸ばす。疲れた時には糖分だと、目の前の男から嫌というほど聞かされたせいだ。口に含んで噛み砕いた瞬間、広がる豊かな香りと甘さ控えめの上品な味が、桜庭が選びそうなチョコではある。視界に入った壁掛時計に視線を移せば、示された時間は自分の想像していたものよりずっと遅い。
「……風呂借りていい?」
「……勝手にしろ」
 終わりよければなんとや。余りにも寂しいバレンタインは残り一時間と少しを残してその姿を消した。結局この場に残っているのは上機嫌な俺と、顔を覆った手にも隠れず赤い耳をチラつかせている桜庭だけだ。
 アイドルのバレンタイン関係の仕事なんてものは、バレンタイン当日より前にとっくに終わっている。だけど恋人のバレンタインは、あと一時間以上も残っていた。

隣にいるから

 アイドルになったのは金を稼ぐため。そう言い切っていた桜庭が金が必要な理由をぽつりと洩らした。2人掛けのソファで俺の隣へ座っている桜庭へ視線を向けると、桜庭は缶ビールを片手にぼうっと前を向いていた。専門外だから俺には医療のことは詳しくは分からない。でも生半可な気持ちだけでは成し得ない夢であることはなんとなく分かる。結成初期から俺たちにも自分自身にも厳しい桜庭という男の胸の内には、こんな物が眠っていたのか。桜庭の横顔は、決意に満ちている訳でも無く、かと言って喜びに満ちている訳でも無い。アイドルになるよりずっと前からそこにあった想いは、もう桜庭にとって当たり前のものになっているのだろう。
 恐ろしいほどに高い目標を固い決意と共に持ちながら、宣言もせず応援も求めず、でも手は抜かずにストイックにこうも目指せる奴は滅多にいないだろう。きっと今呟いたのも、俺に応援して欲しいからでは無い。多分話の流れとアルコールのせいで本当に洩れ出してしまっただけだ。
 だから俺は桜庭薫が好きなんだ。表面からはっきり見て取れるストイックさ、少し付き合うとそこから顔を出す芯の熱さと人を想う優しさ。そして更に関わると甘さと共にほんの少しだけ開かれる心の内が、人として愛おしくて仕方がない。
 だけど桜庭の好きなところがもう一つある。そして桜庭の語る夢には、それが見えてこなかった。
「お前はどうするんだよ」
 俺の言葉に首をかしげる桜庭から視線を逸らして前を見る。空き缶とつまみが乗ったローテーブルの先には、先程から楽しそうに歌って踊る俺たちが映っている。
 初めて人前で披露した公開収録の番組の録画を家で見たときの衝撃を俺は今でも忘れていない。こんなにも楽しそうな桜庭を見たのはあれが初めてだったからだ。お前はそんなに楽しそうに歌って踊るのか。この場所はお前にとってそんなにも幸せな場所なのかと、放心しながら眺めていた。
「どうするって何がだ」
「だから、費用貯めて、研究して、その病気を無くすんだろ?」
「ああ」
「それで、お前はどうするんだよ」
「……質問の意味が分からない」
「だろうな」
 その夢が叶えば、きっとこの世界から何人もの人が救われるのだろう。患者本人だけじゃない。それこそ過去の桜庭のような人たち、つまり患者の家族や友人を含めた周りの人達もだ。
だけどそこに、今の桜庭が含まれているようには俺には思えなかった。
 目の前の液晶は相変わらず楽しそうな俺たちを映し出している。どうして一緒に観ているのに、この幸せそうな桜庭薫はお前の目に映らないのだろうか。ヒーローになった先には俺の幸せがある。最高の景色の先には翼の幸せがある。なのにどうして大金を稼いで病気の無くした先に、桜庭自身の幸せを見出そうとしないのだろうか。
 315プロダクションに、DRAMATIC STARSに、ステージの上に、桜庭薫の幸せがあるという考えは俺の傲慢なのかもしれない。でも楽しそうに歌うこの表情に、倒れた翼に本気で動揺した姿に、花火を見ながらまた来ようと言ってくれたその言葉に、俺は桜庭薫の幸せを見出したかった。
「お前が見るべきなのは俺の顔じゃないだろ」
 先程から怪訝な顔をしながら何も言わない俺を見ている桜庭にそう呟くと、少し不満げな顔をしながら前へと向き直る。見るべきなのは反省点でも改善点でも無いぞと言いかけてやめた。多分今の桜庭には伝わらないのだろう。
 人生を賭けて叶えようとしている夢の先に自分の幸せが加味されていない。そんな奴は物語に出てくる復讐に燃える悪役くらいだ。だけど桜庭は悪い奴じゃない。あるのは知らない人の幸せだけだ。だけど桜庭からしたら一種の復讐なのかも知れない。この世界には病など山のように存在している。一つ治せるようになっても、病に苦しめられる人が全員居なくなる訳ではない。その中で姉を蝕んだものだけでも消し去ろうとしている。復讐に燃える奴を止めるのはそれこそヒーローの役目だろう。だけどこんなに優しくて美しい復讐を俺は知らない。そして邪魔していいものだとも思わない。ただその先に桜庭の幸せの存在だけが抜け落ちていることが、悲しくて仕方がない。
 目の前の液晶は相変わらず先日のライブを映し出している。生きてきた道も、秘めた想いも、得意なことも全部違う3人が、このDRAMATIC STARSという場所なら支え合って幸せに笑える。
 隣で真剣に改善点を探す男の代わりに、ここが桜庭にとって幸せな場所であることを願おう。
 桜庭がいつか自分自身の幸せと向き合える日まで。

紫を吐く

 コンビニで貰った試供品の煙草は俺が愛煙しているのもと同じ銘柄だ。パッケージのデザインは殆ど変わらない。ただ一目で分かる通り、色だけがガラリと変わっている。購入した赤い箱と貰った青い箱を並べて置いてみると、驚くまでもなくそっくりで、驚くまでもなく正反対な印象を残す。試供品の封を開けようかと少し悩んで、開けずにポケットへしまい込んだ。

 屋上で直射日光に焼かれながら、煙草から直接煙を吸い込む俺の横で桜庭が時折口の中で乾いた音を鳴らす。副流煙の方が身体に悪いんじゃないのか。そんな言葉が煙と共に出て来そうになるが、ぐっと堪えて溜息に変える。喫煙所は社会人の小さなオアシスでもある。そして喫煙所でシガレット型のラムネを食べてはいけない決まりはどこにも存在しない。
 桜庭は遂に煙草をやめた。女性向けの薄ピンクの箱が握られていた手には、子供向けの駄菓子が握られている。これはこれで別のベクトルにかわいらしいが、俺がアイドルになる前に見た、あの色気をまとった空気は完全に姿を消した。それでも他人同士だったあの頃より、俺について駄菓子を片手に喫煙所に来る桜庭の方が俺はずっと好きだった。
 それにしてもタイミングが悪いなと、ジャケットのポケットにしまい込んだ青い箱を思い浮かべる。パッケージの色で煙草を選ぶ奴なんていない。それでもお揃いでそれぞれのイメージカラーの煙草を吸っているってのも乙なものだろうに、今の桜庭に渡しても、きっと火はつけてくれない。同じ銘柄だから味は大きく変わらないだろうが、かといって自分で吸う気にもならない。煙を吸いながら、宙ぶらりんな煙草の行き先に思いを巡らせてみるも、こうも綺麗な青色だと桜庭が所持する以外の選択肢が見つからない。少し小ぶりな箱も、細い手に良く映えるだろう。やっぱり桜庭が持っているのが一番いい。何ならこいつの家に置いてもらえばいいんだ。桜庭の家でなら、俺も吸う気になるかもしれない。
「これやるよ」
 コンビニで貰ったからさ、と付け加えて差し出すと、桜庭は怪訝そうな顔をしながら受け取った。
「君が吸えばいいだろう」
「うん、だからお前の家に置いといて」
 手のひらで青い箱を転がしている桜庭から視線を外して空を見上げる。すると隣から不意に乾いた音が鳴る。ラムネを噛む音ではなく、銀紙を切り取り線から引き取った音だ。
「……ん」
 驚いて隣をみると、細身の煙草をくわえた桜庭がこちらに先端を向けている。やめたんじゃなかったのかと思いながらも、俺も煙草を咥えなおして先端同士をそっと押しつけてやる。俺の煙草から燃え移る火をじっと見つめていたが、数秒後には着火しそっと離れていく。
 シガーキスはやるより見てる方がずっとドキドキする。煙草一本がだいたい俺の人差指と同じ長さだ。それが二本分。実際やってみると、そんなに近くない。そのうえコントロールの難しい唇で咥えて先端同士を合わせるのは少し神経を使う。着火も早いわけではないから、ライターを使った方がよっぽど早くて便利だ。
 それでも桜庭は、偶にこうして俺から火を貰う。まあ今の場合はライターを持っていないのが一番の理由なんだろう。
 混ざり合う煙名残惜しいが、最後の一口を吐き切って携帯灰皿へ押し付ける。
「……もういい」
 すっと差し出された煙草は半分も減っていない。俺が受け取って咥えると、桜庭が持っていた青い箱はポケットの中の駄菓子の箱と入れ替わった。
 やっぱり味はあんまり変わらないな、と考えている俺の隣で、乾いた音が鳴る。
 吐いた煙は相も変わらず紫色だった。

口寂しいを口実に

 普段なら自宅で平気に吸っているが、人が来ているなら話は別だ。しかも居るのは数日前から禁煙しだした桜庭だ。風呂から上がったら部屋中に煙草の匂いが満たされていたら、とてもじゃないが気分のいいものでは無いだろう。せっかく恋人が来ているのに、わざわざ不機嫌になどさせたくない。天道は煙草と携帯灰皿を持って、既に暗いベランダへ出た。風呂の湯とドライヤーの熱風に暖められた身体に夜風が気持ち良い、とはならなかった。むしろ冷房の効いた部屋の方がよっぽど涼しい。日が落ちていても十分に蒸し暑い。季節はとっくに夏だった。
「……美味い」
 煙を吐き出したあとに思わず声が出る。禁煙しているやつの隣で吸うのはどうにも気が引けて、何時間も吸えずにいたのだ。辞められる気がしないと同時に、辞めようと我慢している桜庭に素直に感心する。
 吸えなかった分を取り返そうと、二本目に手を伸ばす。少しくどいかもしれないが、また暫く吸えないのだから丁度いいだろう。自分にそう言い聞かせて火を付ける。ベランダの床に直接座りながら、頭を空にしてだらだらと吸い続けていた。
 二本目も半分ほどの短さになった頃、唐突に背後のガラス戸が開いた。天道が音に驚いて振り返ると同時に、エアコンで冷やされた空気が流れ出てくる。戸を開けたのはもちろん桜庭で、そのままベランダへ出ると戸を閉め、肩や足が当たるほど詰めて天道の左隣りに座り込んだ。頭にはスポーツタオルを被っていて、その下の髪はどうやら濡れたままのようだ。桜庭自分から引っ付いてくるのも珍しい。
「急にどうしたんだよ」
 驚きを隠さず聞いてみると、左肩が少し重くなる。
「別に……。ただ君がいなかったから」
 天道にもたれ掛かったまま、桜庭は続けて呟く。
「そもそも何で外にいるんだ。中で吸えばいいだろう」
 拗ねた声色を心の中で噛み締めながら、左腕を回して桜庭の頭を抱え込むようにして顔を寄せる。自分と同じシャンプーの匂いがくすぐったい。
「これ吸い終わったらすぐ入るから。先に髪乾かしてろ」
「……後でいい」
 返事と同時に服の背中をぎゅっと掴まれる。天道はそれに応えて、髪を拭くようにタオル越しに頭を撫でてやる。
「横にいたら吸いたくなるだろ」
 返事の代わりに、更に天道に擦り寄ってくる。もしかしたら桜庭は、吸えない苛立ちを甘えることで解消しようとしているのではないだろうか。そう考えると禁煙されるのも悪くはないなと思いながら、天道は温もりを享受していた。
 暫く身を寄せ合ったまま頭を撫でていると、桜庭は顔を上げて天道をじっと見つめてきた。長い睫毛に縁取られた、切れ長の瞳をレンズ越しに見つめ返す。
「どうした? 吸いてーの?」
 そう問うと桜庭は少しむくれた顔をして、視線を逸らしてしまう。天道は思わず口元が緩みそうになるのをぐっとこらえる。ここでにやけてしまえば、桜庭は本格的に拗ねてしまう。逸らされてしまった眼を見つめたまま、撫でていた手を後頭部に回してそっと引き寄せると、応えるように桜庭の視線が天道へ戻ってくる。再度視線が交わったあと、なんだ? と言わんばかりに桜庭の頭が少し傾く。その子供じみた仕草が可愛くて、先ほどより強くもう一度引き寄せながら、顔を近づける。桜庭は一瞬気が抜けたようにふわりと笑った。見つめ合ったまま鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せると、ゆっくりと瞼が閉じられていく。そのまま天道も目を閉じながら、唇を重ね合わせる。風呂上がりで温かいその唇を何度か啄ばむ。薄く開いている隙間にそっと舌を伸ばすと受け入れるように広がり、その先で待っていた舌がゆるりと絡みついてくる。後頭部に添えていた天道の手に、はらりとタオルが落ちる。桜庭の気が散らないように慎重に引き抜いて床に落とした。左手は再度、濡れた髪に差し込んで引き寄せる。そのままただゆっくりと、お互いの感触を味わうために舌を柔らかく広げたまま撫であい、纏わりつかせる。桜庭の舌だけ少し堪能したところで引っ込めて、一瞬唇だけ触れ合わせてさっと離れる。おそらく同じタイミングで開いたであろう桜庭の瞳が、天道の眼をかっちりと捉えていた。それから逃げるように顔を逸らして、殆ど燃え尽きてしまった煙草を再び吸い直す。
「煙草の代わりに輝さんのチューで我慢な」
 照れ隠しも兼ねて天道は茶化すように言ってみる。桜庭は聞いているのかいないのか、じっと天道の顔を見つめたまま口を開く。
「天道」
 名前を呼ばれて天道は思わず口から煙草を離して桜庭へ向き直る。数秒見つめ合った後、桜庭は先ほどまで触れ合っていたその唇を一瞬だけ開いたが、すぐに言い淀むようにぎゅっと閉ざして顔を逸らしてしまった。天道はもう一度フィルターを咥えて吸い込み、煙草をベランダの床に押し付ける。ゆっくり吐き出しながら吸殻を携帯灰皿へ仕舞うと、やっと自由になった両手で桜庭の顔を包み込む。手に導かれるようにこちらを見返してくれる事が嬉しくもあり、少し恥ずかしくもある。付き合い始めたばかりのころは目を合わせてもすぐに逸らされて寂しかった。最近は慣れてきたのかむしろ向こうが見つめてくることが多いが、いざ綺麗な顔で見つめられるようになるとこっちが照れてしまう。悟られないように堪えているが、慣れる気は一向にしない。左手の甲にそっと桜庭の手が重なる。数秒遅れてゆっくり開かれた唇から、小さな声をそっと発する。
「……もう一回」
 慣れとは本当に恐ろしいものである。桜庭が慣れて心を開いていくたびに、こちらの心臓にどんどん負荷がかかっていく。爆発したときはまあ、桜庭に助けてもらえばいい。うるさい心臓を無視して噛みつくようにキスをする。今度は舌だけででなく、歯列をなぞり裏顎をゆっくりとなめると、先ほどの言葉通り甘えてねだるかのように舌先を吸われて甘噛みされる。そんな仕草一つ一つがかわいらしい。にやけそうな口をさらに押し付けるように、桜庭の顔をさらに引き寄せた。